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第2部 萌未の手記

二つの居場所

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 ろくなものじゃなかったあたしの人生………

 そんなあたしにも、大切な人が二人いた。

 一人は志保姉しほねえ

 でも彼女は、永遠に失われてしまった……。

 もう一人は涼平りょうへい

 彼は今、手を伸ばせば届く所にいる──。




 あたしは裏帳簿を拓也たくやに託し、その結果がどうなろうと、復讐から距離を置こうと決めた。

 そしてその胸の内を出来島できしまに伝えると、出来島は珍しく激昂し、そんなことは許さないと言う。あたしは彼に呼び出され、仕方なく店終わりに彼の待ついつものバーへと向かった。

 入り口の自動ドアの前には例によって黒スーツの男たちがSPのように待機していた。バーのカウンタには数組のカップルが寄り添うように座っていて、白い電飾で点滅するツリーと相まってクリスマス間近の雰囲気を醸し出している。出来島はホール奥のいつもの席で目を光らせて座り、手前の席には野崎のざき組の人間と覚しき輩が陣取る。この時は隆二りゅうじもいた。



「早速ですが、やはり裏帳簿は渡していただきたいのですが」

 そう切り出した出来島にあたしは首を振る。

「出来島さんに渡せば、あなたはそれを野崎組の為に使おうとするんじゃありません?」

 そう、あたしが彼に裏帳簿を渡さない理由はそこにあった。出来島はきっと裏帳簿で榎田えのきだやフジケンを脅し、彼らの利権を大力会だいりきかいから野崎組へ移そうとするはずだ。ただ不正を暴くだけでは、彼らの旨味が無いからだ。でもそれでは小山内おさないが報われない。

「ふっ、賢い女性は好きですが、賢過ぎるのも考えものですね」

 あたしが出来島の思惑を見越して睨むと、出来島はバリトンボイスで口の端を歪める。そして、あたしの手を取って強引に自分の座っているソファの方に引き寄せた。驚いて身体を固くしていると、彼の腕があたしの肩に回される。口角の上がり切った獣のような顔を近づけてくる。

「俺の女になれ。そうすればお前の仇討ちも俺が全部やってやる」

 出来島が耳元でそう囁く。

 ついに本性を出したか…

 あたしはそう思った。

 出来島は左手であたしの肩を掴んで逃げられないようにしながら、右手で胸の膨らみを包む。そしてデコルテまで手を滑らせ、ワンピースの内側から乳頭に向って指を這わせていく。あたしの全身の毛が嫌悪感で逆立ち、あたしは満身の力を込めて彼を突き放した。


「触んなや!この変態!」


 胸の奥に溜まった空気が爆発したように、思った以上にドスの利いた声があたしの喉から出て店の中に反響した。周りの男たちもびっくりしてこちらを見る。隆二が自分の席から立ち上がって、飛び退ったあたしと出来島の間に割って入った。

「カ、カシラ…俺、今のカシラ……」
「何や隆二!はっきり言え!」

 モゴモゴと口ごもる隆二に出来島が苛立ちをぶつける。

「す、すみません。でも、俺、今のカシラはあんま好きになれないっちゅうか…」

 届くか届かないかくらいの弱々しい声でしゃべっている隆二を、スキンヘッドの男が後ろから押しのける。そして出来島に手に持ったスマホを向ける。

「カシラ!そんな悠長なことしてる時間ありまへんで。虎舞羅こぶらの連中がこの近くで集結してるっちゅう連絡が今入りました!」

 ふっと、出来島から自嘲気味の息が漏れた。

「興が醒めましたね。今日のところはこれで引き上げましょう。おい!行くぞ」

 男たちが、ヘイっ、と声を揃えて次々に店から引き上げていく。

 去り際に出来島はあたしに向き、

宮本みやもと君が榎田と親戚なのはご存知ですか?まあ知らなくても調べれば分かることですが、私からこれをあなたに提供しましょう。それは宮本君が私にコピーしてくれた物でね、ここに映っているのと同じ画像が彼のパソコンに入っているはずです。これを見て、あなたは誰と組むのが一番いいか、今一度よく考えて下さい」

 と、スーツの内ポケットからコンパクトディスクの入ったケースを取り出して渡した。そして隆二に向き、

「隆二は彼女を家まで送り届けてあげなさい」

 と言って去って行った。あたしは庇ってくれようとした隆二に礼を言う。

「初めて用心棒らしいことしてくれたわね。ありがとう。でも、あんまし役に立てへんかったけどね」
「や、やかましいわ」


 それから、手にしたディスクの内容を一刻も早く観たかったあたしは、送っていくという隆二を制して近くのネットカフェへと向かった。虎舞羅の連中がウロウロしているという情報もあり、隆二も一緒に付き添ってくれた。




 そうして観たその内容に、あたしは戦慄した。そのおぞましさに全身の毛が逆立ち、怒りでおかしくなりそうだった。



 あまりにもおぞましくて、文章にするのも憚られる。隆二も絶句しながら、顔面が蒼白になったあたしを、隣りで無言で見守っていた。



 それから───

 あたしはどうやって帰ったか覚えていない。

 ディスクの中に入っていたのは、志保姉がフジケンと榎田に凌辱される映像だった。

 あんなものをなぜ拓也が持っていて、それをあたしに黙っていたのか──出来島が拓也から受け取ったというのが本当なら、そして拓也と榎田が親戚なのなら、最悪なシナリオが思い浮かぶ。

 拓也は最初から榎田とグルで、榎田たちの悪巧みに志保姉が気づきそうになったのを一緒になって潰しにかかった………

 つまり、やはり志保姉は拓也に殺されたのだ──!!




 そこまで考えたところで、冷静なあたしがその思考にストップをかける。

 あたしは拓也の志保姉への愛情を目の当たりにして、彼を信じたのではなかったか?

 ではこの情報の齟齬はどこにあるのだろう?

 おそらく、出来島が言った、拓也と榎田が親戚というのは事情なのだろう。でないと、すぐにバレるような嘘をつくメリットがない。




 取り敢えず出来島からもらった映像が拓也のパソコンに入っているのか確かめようと、拓也の家に帰って書斎のパソコンを開くがパスワードを知らない。

 仕方なく、あたしは本人に直接聞くことにした。



 あたしは夜の仕事に休みを入れ、彼の帰宅をリビングで待ち構える。そもそも映像を観たショックで働く気になどなれなかった。






「ちょっと、話出来る?」

 暗くなって帰宅した拓也を待ち構えていたあたしの真剣な表情に気圧されながら、拓也もスーツ姿のままリビングの椅子に座す。

「あんた、榎田の親戚やったのね。何で黙ってたの?」

 まずストレートにそう聞くと、拓也はピクッと眉を上げた。

「僕が正純まさずみさんの従兄弟だってこと、誰に聞いたんだい」

 正純さん…その呼び方にイラっとする。あっさりと認めたので、間髪入れずに本題に入る。

「榎田は志保姉をレイプしたのよね?あんた、そのこと知ってたのよね?相手が従兄弟やから、知ってても彼を詰めることもせずにそんな平然としてられるの?」
「知ってたというか………そりよりも、君はどうしてそのことを知ってるんだい?」

 拓也は逆に問いかけてきたが、その言葉の裏では志保姉が凌辱されたことを知っていたと認めたことになり、あたしはまた総毛立つ。

「画像があるのよ。出来島から受け取ったの。闇献金の時とおんなじよ。はっきりと映ってたわ。榎田と、フジケンが!あんた、何でそんなやつの娘と結婚できるの?あんなやつをお父さんとか呼べるの!?」

 言ってるうちに感情が爆発しそうになる。

「前にも言ったように、これはそんな単純な話じゃないんだ!分かってくれとは言わない。だけど、君はこれ以上深入りしちゃダメだ!出来島は君が思っている以上に恐ろしい男なんだ!」
「あたしのためだって言うつもり?ならもっと怒ってみせてよ!志保姉がレイプされたのよ?それやのに何であんたはそんな冷静でいられるのよ?知ってて黙認してたんでしょ!?」

 あたしが激高するのを見て、拓也は顔を歪めて深いため息をつく。あたしはさらに追い打ちをかける。

「志保姉に対する気持ちなんてもうあんたには残ってないんでしょ?違う?」
「そんなことない!」

 拓也から出た大声が、冷え切った部屋の空気を揺らす。

「だから!だから…美伽みかとの縁も切って君と一緒にやっていく覚悟でいるって言ったやないか!どうして君はそうやっていっつも僕を責め立てる?」

 その言葉には一瞬逡巡しかけたが、次の拓也の言葉があたしの行動を決定づけた。

「小山内さんは君に、裏帳簿を渡したよね?それは今どこにある?これは君の安全性のためなんだ。僕に渡してくれないか」


 やはり、拓也は榎田を庇おうとしている、あたしにはそう思えた。

 すっと、血の気が引くのを感じていた。

 もうここにはいられない、そう強く思った。


 あたしは無言で立ち上がり、リビングを出て行こうとする。

 それに追いすがるように拓也は言った。

「頼む!あれは君が持っていちゃダメなんだ!お願いだ!僕に渡して!」

 あたしはそう懇願するように言う拓也を冷ややかに見ながら言った。

「あたし、ここ出て行くね。今までありがとう」



 後ろから拓也の叫ぶ声が聞こえたが、この時は一刻も早くこの場を去りたかった。拓也と同じ部屋の空気を吸うことが耐えられなかった。


 飛び出したはいいものの、行く当てなどなかった。


 涼平のいる部屋に帰ろうか……


 そう思ったが、それには首を振って思い留まった。


 今涼平の顔を見てはいけない…


 あたしの中ではまた復讐心が湧き上がり、何としてでも志保姉のかたきを討つ、そちらの方に心が振り切っていた。



 今、涼平の顔を見ると、そんな心が揺らいでしまう………。



 拓也の家と涼平のいる部屋………二つの居場所を行き来してきたあたしの居場所は、この時、一方を切り捨て、一方から遠ざかりながら、次第に悪魔が手招きする深淵へと引き寄せられていたのだった────。




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