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第2部 萌未の手記

幸せになろうな

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 あたしはその日、拓也たくやに抱かれた───






 病院から拓也の家に戻ったあたしは、それまでにあったことを掻い摘んで報告した。

「トラが!?」

 拓也も驚いていた。

「ついに、君は危ないところに足を踏み入れた。そして、犠牲者が出てしまった。やはり僕の言う通り、君は自分で動かない方がよかったんだ!」

 優しい拓也の語調も、この時ばかりはきつく、避難めいた厳しさがあった。

 隆二りゅうじの言葉ですでに打ちのめされていたあたしは、その拓也の言葉を砲台を向けられたように受け止め、胸に大きな穴をあけて、リビングのソファにどっさりと横たわった。

 そして突っ伏し、うつ向けに臥せって大声で泣いた。

 そんな弱ったあたしの姿を初めて目の当たりにした拓也は、どうしていいか分からずに立ち尽くしていた。

 あたしが拓也の家に住むようになって以来、リビングのソファはソファベッドに買い換え、二階をあたしに明け渡した拓也は一階のリビングで寝るようになっていた。

 あたしは一頻り泣いた後、あたしの横に拓也をいざなった。

「前にさ、あたしが志保姉しほねえかたき討ちをやめるなら、一緒に遠くで暮らしてくれるって言ったよね。あたし、いいよ。あたしももう、人が死ぬところを見たくない。もしあたしが人の死を引き寄せてるなら、あたし、もう止めるよ。志保姉の敵討ちを、止める。だから、一緒に暮らそ。そうして…くれる…よね?」


 それからまた感情の波に襲われ、あたしは拓也の胸の中で泣いた。拓也はあたしの頭を優しく撫で、分かった、そうしようと言ってくれた。


 それから──


 あたしたちはお互いの体を貪るように抱き合った。

 あたしの中の澱が、穢れが、澱みが、体液から滲み出て拓也のものと合わさり、溶け合い、絡み合って融合し、あたしたちは二匹の獣となって咆哮し、暗闇の中で蠢き合い、やがて一つになって深淵の底に沈んでいった。












 翌日、ニュースでは小南彩香こなみあやかが撲殺されたこと、神崎一虎かんざきかずとらが銃で撃たれて重体になっていること、そして、半グレ集団虎舞羅こぶら神代じんだい組系暴力団野崎のざき組との抗争が勃発したこと、などが伝えられた。

 早朝には隆二から連絡が入り、トラは命は取り留めたが意識不明のままICUで寝かされているとの報告を受けていた。






 その日の午前中、トラを一目見ようと拓也の車で病院に向かった。

 ガラス越しに見たトラの口には人工呼吸器の管が繋がれていて、トラの命を繋ぎ止めるその呼吸器が一定のリズムを刻んでいた。

 生気は失われ、土色の顔が静かに横たわっていた。外傷性脳損傷、それがトラを意識不明にしている診断名だった。



 拓也の言うように、もしあたしが志保姉の復讐になんか手を染めていなかったら、トラはこんなことにならなかったのだろうか?


(お前はおもろいやっちゃ。お前の気の済むようにしたらええ)


 ねえ、あなたあたしにそう言ってくれたけど、自分がこんな目に遭うって分かってた?


 心の中で問いかけていると、

「まるで寝ているようね」

 と、いつの間に来たのか、なっちゃんが横で呟いた。

「今ね、拓也から聞いた。あなたまた危ない目に遭ったって。そんで、トラも巻き込んだんでしょ?」

 巻き込んだ……なっちゃんの言葉が胸をチクリと刺した。

「あなた、私の幼馴染みを一人ずつ消していくのね」

 背の高いなっちゃんの上からの目線が冷たく光っていた。


 あたしにはいつも温かいなっちゃんも、今回はさすがに笑顔を向けてはくれなかった。それだけ、トラの存在はなっちゃんにとって大切なものだったんだろう。

 あたしはいたたまれなくなって、なっちゃんの側から離れた。



 病院の中庭では、隆二が缶コーヒーを飲んでいた。

 きのうの隆二のあたしへの態度を思い出し、顔を合わさずに去ろうと踵を返した時、隆二はあたしに気づき、

「おい!」

 と後ろから声をかけてきた。あたしは隆二の座っているベンチに近づいた。

「トラ、早く意識が戻るといいね」
「一生戻らないかもしれんし、あのまま静かに息を引き取るかもしれへんらしいけどな…」

 夕べから一睡もしていないのであろう、殴られて痛々しく腫れ上がった隆二の目の下には、くっきりとした隈ができていた。あたしはまた冷たい言葉を浴びせられる覚悟でいると、隆二は近くの自動販売機で缶コーヒーをもう一つ買い、あたしに投げてよこした。

「ま、座れや」

 あたしはその缶コーヒーのプルタブを開け、隆二の隣に腰掛ける。

「きのうのことなんやけど、どうも腑に落ちひんねん」

思いの外静かな口調に、隆二がずっと思いに沈んでいたことが推察された。

「どう腑に落ちひんの?」
「きのうの特攻服のやつらなんやけどな、俺も族の連中とは中坊の頃からツルンでるから先輩の顔もよう知ってるんやけど、きのうのやつらの顔は一人も見たことなかった。それに兄貴が来た時、あいつらの反応はまるで反目はんめの人間が来たみたいな感じやった。あいつら、ほんまに虎舞羅の人間やったんやろかって思ってな」

 そう言ってあたしを見る隆二に、あたしは小首を傾げる。

「コブラと違うってこと?」
「ああ、虎舞羅のふりしてたんちゃうかって思えてな。ほんで、兄貴のこと撃つべくして、撃った」
「ちょっと待って。トラはあたしを庇ったんやなくて、初めから命を狙われてたって言うの?」
「あくまで可能性の話やけどな、そう考えると兄貴の言葉も腑に落ちる。誰の許可でそんな格好してるって言ってたやろ?虎舞羅の連中相手にそんなこと言うか?虎舞羅やない連中が着とったからそんなこと言うたん違うやろか?」
「じゃあ一体、あいつらは誰やったの?」
「それは分かれへん。でもきっと兄貴が死んで得する人間の差し金やったん違うかなって思えてな」

 もしそうだったなら、どういうことなのだろう………?

 ひょっとして目の前で見えていることと違うことが展開されている──?



 今回の経緯を思い起こしてみる。まず、出来島できしまの計画に乗ってあたしと彩香がトラを陥れる。そしてそのことがトラの所属する虎舞羅なる半グレ集団にバレ、彩香が拉致される。出来島の話では、彩香が口を割ったことでバックで野崎組が関与していることがバレ、隆二も拉致られた───



 一応辻褄は合っている気もするが、どこか腑に落ちない。どこが腑に落ちないのだろうと考え、そういえばなぜ拉致られるのが隆二である必要があったのだろうと疑問符が湧いた。隆二はトラの弟で、あたしと彩香が出来島と打ち合わせした時にもいなかった。



「ねえ、あんたさ、出来島さんがトラを潰そうとしてること、知ってたの?」

 その質問を向けた時、隆二は分かりやすく目を見開いた。

「カシラが……兄貴を……?」

 やはり知らなかったのだ。まあ、トラの弟だからという理由で外されていただけなのかもしれないが……

 隆二は何事かを考え込んでいるようだったが、やがて顔を上げ、こちらを向いた。

「なあ」
「ん?何?」
「お前、もう俺らに関わらん方がええ。でないと、今度はお前も無事では済まへんぞ」
「ふうん、心配してくれるのね」
「まあお前も一応昔馴染みやしな」
「あそ。考えとく。コーヒーご馳走さま」

 あたしはそう言ってベンチを立った。

 中庭のイチョウの葉には黄色みが増し、その葉を冷たい風が揺らすのを見つめながら、あたしは自分のこれからのことを考えた。

 彩香が、トラが、危険な目に遭い、彩香は命を落とし、トラは意識不明となった。

 あたしが復讐をやめさえすれば、その連鎖は断ち切れるのだろうか?

 あたしと一緒に住む拓也はどうだろうか?

 あたしは復讐を止め、拓也がフジケンを辞めれば幸せに生きられる?


 幸せ───

 そんなものはもうとっくに失われたと思ったいた。







 彩香のお葬式に赴き、あたしの復讐への緊張の糸はさらに途切れた。

 中学の頃のギャル友たちと久々に顔を合わせた。

 緑は彩香が言っていたように、太って肝っ玉母ちゃん風になっていたが、彩香の近況は一番よく知っていた。

「もうさ、トラなんかの縁切って真っ当な仕事せなあかんよって言ってたのに…」

 そう言って残念がった。

 青子あおこは大手の出版社に務めていて、これも彩香が言っていたようにスーツの似合うキャリアウーマンって感じになっていた。

桃子ももこさ、うちがちゃんとした会社で働けたこと、すごく喜んでくれたんよ…」

 そう言って泣いた。

 黄子きこも彩香が教えてくれたように、花屋でアルバイトをしながらひっそりと暮らしているという。

 人目も憚らず、彼女が一番大声で泣いていた。

 家族葬用の葬祭会館の小部屋にはたくさんの弔問客がいて、さやかの親御さんに話しかけている感じではどこかの慈善団体の人たちのようだった。ヤクザ者の凶行に倒れたということを報道で知り、彩香のことを憐れんで駆けつけたのだろうか?彩香の棺は固く閉ざされていて、中は見れないようになっていた。


 そして、お葬式の後に4人でささやかな彩香を忍ぶ会をした。

 久々に顔を合わせた昔の友の近況を聞き、あたしは彩香の最期のことを、半グレの男たちに凌辱されたことは伏せながら、トラの仕事の黒い部分を告発したばっかりに報復されたとだけ話した。

 そして彩香が語ったパン屋の夢を話すと、四人でまた泣きじゃくった。



(幸せになろな)


 最後ににっこり笑って去っていった彩香の姿が、その後しばらくあたしの心から離れなかった───。





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