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第2部 萌未の手記

第三のターゲット

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 綺羅きらママが残した『DEF』の暗号──

 あたしはそれが人の名前の頭文字ではないかと当たりをつけ、店に出勤すると待機スペースの階段と店を隔てている防火扉の前まできた。そこには綺羅ママの口座一覧が貼られているのだ。

(えーと…Dだから…あった、土居…それから…Eは…あ、江口…これがもし名前の頭文字やったらこの人たちが怪しいよね?)

 DとEに当てはまるのはそれぞれその一つだけ。Fはいろいろあるけど、やはり一番怪しいのはフジケン興業の藤原ふじわら健吾けんごだ。

 もし綺羅ママの暗号が無かったとしても、志保姉しほねえはフジケン興業について調べていたという情報があり、実際宮本みやもとからもその裏付けは取れた。まずは何とか社長の藤原とコンタクトが取れないか……と思案し、思い浮かぶのは宮本の顔だったが、彼からはこの件に首を突っ込まないようにと釘を刺されている。

 考えあぐねた末、あたしは取り敢えずホステスとしての正攻法を取ることにした。すなわち、張り出された綺羅ママの口座一覧からフジケン興業の住所を写し出し、そこに新年の挨拶状とともにちょっとした値の張るコーヒーのギフトセットを贈った。挨拶状にはあたしの携帯番号入りの名刺を添えて。お歳暮には時期が遅すぎるが、きっと他の店の口座からもお歳暮は送られているはずで、逆にその時期から外れている方が目立っていいと思った。挨拶状ではあたしが宮本の口座になったこと、そして宮本から社長のお話を聞き、その高潔なお人柄に直に触れてみたいなどと歯の浮いた言葉を書き綴った。

 宮本の名前を出したことは吉と出るか凶と出るか……藤原の目に止まったとしても宮本から横槍を入れられる可能性はあったが、あたしにはそこの伝手しか取り付く島が無かったので、後は大人しく結果を待つしかなかった。



 そして、その日は来た。

 藤原は直接あたしの携帯に連絡を入れてきた。百合子ゆりこママからの連絡で綺羅ママが亡くなったと聞いた藤原は、その詳細を聞いた際にあたしと綺羅ママの同伴勝負についての顛末も聞き、あたしの名前を覚えていたのだ。


 電話で食事に誘われ、あたしはそれを喜々として受けた。フジケンに連れて行ってもらったのは、船大工通りの東側にある高級寿司屋だった。ビルに挟まれたその一角にポツンとある和風の門をくぐると綺麗に手入れされた庭園が広がる。石畳に沿って歩くと奥に日本家屋があり、玄関で割烹着を着た女の店員さんがいらっしゃいませ、と頭を下げた。

 フジケンさんの、と言っただけでお待ちしてましたと廊下を案内してくれる。ブランケットライトに照らされた印象派風の絵画が壁に並ぶ廊下を進むと、店員さんはいくつかある襖の一つを開け、こちらです、と言った。入ってすぐに六畳くらいの和室があり、その突き当りに木製のカウンター、そしてその奥にオープンキッチンがある。

 カウンターの手前は掘りごたつのように足の部分が低くなっていて、あたしはそこに二つ敷かれた座布団の左側に座った。

「荷物は適当に置いて下さいね」

 キッチンから白衣を着た板前さんがにこやかに声をかけた。後ろの六畳の空間を振り返り、眺める。隅に盆栽が置いてある他には何もなく、畳からイグサのいい匂いがした。

 新地にもこんなゆったりとした店があるのか、と感心して待っていると、しばらくして廊下をドタバタと歩く音が聞こえ、案内されて来た福々と肥えた男があたしの右隣にどっかりと腰を下ろす。

「あんたが萌未めぐみか。なかなかべっぴんやないか」

 藤原はあたしの頭からつま先までを値踏みするように、まぶたの肉が垂れ込んで細くなった目で舐め回した。

「萌未です。本日はお誘いいただき、ありがとうございます」

 あたしはいよいよだと高鳴る鼓動を静めるように丁寧にお辞儀し、その瞬間、今まで嗅いだことのないような不快な匂いを嗅いだ。

「宮本さんからよくお話うかがってたんですよ。今日はお会いできてうれしです」

 言ってる間にあたしも藤原の輪郭を眺め回す。ぶくぶくと太ったほっぺたは今にも落ちそうなくらいに膨れてあごの横に垂れている。頭髪は白と黒のマダラで、薄くなったのを誤魔化すように横に流している。高級そうなスーツに身を包んでいるが、ジャケットのボタンは肉の膨張に張り裂けんばかりに引っ張られるのを耐えていた。


 豚だ。


 それがあたしの彼への第一印象だった。

「あんた、香里奈と同伴で勝負して負かしたんやってなあ。なかなかやるやないか」

 豚がえらそうにしゃべってる、あたしは吹き出しそうになるのを堪えた。

「いえ、口座のお姉さん方がよくしてくださったお陰です。あたしの力やありません」
「ほう、なかなか謙虚やないか。気に入った。オレの口座は今日からあんたでええわ」

 ここまではうまくいった、とあたしはほくそ笑んだ。だが焦りは禁物。今日のところはまず親睦を深めることに集中しようと、それから目の前の板前さんが出してくれるコース料理に舌鼓を打った。きんきの煮付け、鮑の蒸し焼き、鰆の刺し身など、高級食材が次々に出される中、おいしぃ~と口をついて出る言葉に嘘はなかった。そして、藤原の口から次々に発せられ自慢話にすごいですね~え、と相槌を打つ。

 いささかボキャブラリーに貧している気もしたが、藤原はそんなことは御構いないに好きに喋り、あたしはほぼその二つの言葉をワントーン高い声で繰り出すだけで事足りていた。

「あれ、用意してんか」

 ひとしきり食が進むと、藤原は板前さんに魚のヒレのような物を盛り付けた皿と小さなボンベの付いたバーナーを出してもらった。そして鉄箸でヒレの一つを持ち上げてバーナーで炙る。

「ここに来たらいっつもまずこれをやるんや」

 あたしの前でその作業をしながら、ブルドッグのような頬を震わせる。店員さんがあたしと藤原の前に蓋付きの湯呑を置くと、藤原はその蓋を開けて炙っていたヒレを放り込む。そして、バーナーで軽く中の液体に火を点け、青白い炎が上面に広がるとすぐに蓋をした。

 その瞬間、香ばしい酒精が鼻を掠める。

 再び蓋を開けて湯呑をずずっとすすると、

「これが旨いねや」

 とにんまりと笑った。

「どや、あんたもやってみ」

 手順の多さに少し戸惑いながら、あたしは藤原の見様見真似で同じことをやり、出来上がったひれ酒をいただきます、と一口含んだ。

「おいしい!」

 確かに、違う香ばしい深みが純米酒の甘味に加味されて、普通の日本酒とは違う飲み物のようだった。

「せやろ?これ飲んだらもう普通の酒は飲まれへん」

 あたしの一連の所作をじっと見ていた藤原は、満足そうに首を上下に振った。同伴勝負でいろんな経営者さんたちに食事に連れて行ってもらったが、藤原は店選びから酒の趣向まで、頭一つ抜けているように思えた。



 そろそろ料理も締めに入ろうかという頃、藤原の携帯に電話がかかる。藤原はディスプレイを見て顔をしかめたが、すぐに通話ボタンを押した。

「ああ、オレや。何やどこで見たんや。そうか、まあ後で行くがな。ああ、迎えに来たらええがな」

 電話を切って、大きなため息をつく。

「全く、これやから新地は狭うてしゃあない」
「どうしたんですか?」
「ああ、大方黒服がどっかで俺が新地に出てるんを見つけて報告しよったんやろ。どこにおんるやって電話してきよったわ」
「人気者は辛いですね」
「ふん!黒服もアホばっかりや。忖度する気構えっちゅうもんがない」

 それからしばらくフジケンはまるで浮気の見つかった男のように、自分勝手な理屈で肩を震わせていた。




 店に入っても相変わらず藤原は自慢話を繰り出し、あたしはただひたすら、すごーい、と相槌を打っていた。そして10時を回ると、他店からお迎えに来たホステスが案内されてくる。藤原の口ぶりから、同伴中に電話をかけてきたホステスだと分かった。

 彼女はあたしを向かいのスツールに移らせて藤原の隣りにどっかり座り、右手を藤原の左手に絡ませながら、自分の左手にはタバコを持った。店のマッチで火を点けてやると、ふう~っと大きく吸って紫煙を吐き出した。他店とはいえ、マナー的にはタバコを吸うなんて若名ではあり得ない。

 私はこの人とできてるから。

 まるでそんなアピールをしているようにも思えた。

「あなたが若名の新しい口座?若くてべっぴんやない」

 口では褒めているニュアンスだけど、あたしを見る目が据わっている。

「まあでもぉ?前のあのおばさんよりはいっかぁ。あなた、だいぶ揺すられたもんねぇ。ね?」

 女はそう言ってまた煙を吐き、藤原に向いて右手で弛んだ頬をつつく。

 あたしはその言葉を聞き逃さなかった。


 綺羅ママに揺すられた?


 あたしは咄嗟に、そのホステスの名前と所属している店名を聞いた。怪訝な顔をしながら口にしたその名前……


 クラブ・ドルチェのマリア───


 あたしはその名前を頭に刻んだ。






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