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第1部 高級クラブのお仕事

運命の分岐点

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 涼平りょうへいたちはいくつかの料理を注文してから、美伽みかがビールが苦手と言うので、白ワインを開けてもらって乾杯した。

「フィアンセさんとは、一緒に飲みに行ったりしないの?」
「飲みに行ったりするわよ。でもね、彼は年が少し離れているから、同じ年代の男の子とこうやってお酒飲むの、ほとんど初めてかな?」

 彼女はそう言って、白ワインを一口飲み、美味しい、と顔を綻ばせた。

「あれ?前に大学で腕組みして彼氏と歩いてるとこ見たけど、学生やなかったん?」
「あら、見られてた?彼ね、平日がお仕事休みなの。だから私のカリキュラムが終わってから会うんやけど、その日はたぶん、大学まで迎えにきてくれた日やないかな」
「そっかあ、ラブラブやんか。さっき何か黄昏たそがれてた感じやったけど、彼との間に何かあったん?」

 流れ的には完璧にさりげなく聞いたつもりだったが、その質問で、彼女の箸は止まった。

「うん…そうよね…」

 そして、彼女は一人で何かに相づちを打ってから、

椎原しいはらくんこそ、この前一緒に歩いてた女の子、誰かな?あんなに綺麗な人がいるのに、わたしに告白するやなんて、悪いんやから~」

 と、上目遣いに睨んできた。

(やっぱり見られてたんや…)

 涼平は手元のワインを慌てて飲むと、少しむせながらボトルから注ぎ足した。美伽は涼平のその慌てた様子を見て、うふふ、と笑うと、自分のグラスを空けて差し出した。彼女の頬には赤みが増し、目元が幾分潤んでいた。

「椎原くん、彼女のこと、好きなの?」

 彼女のグラスにもワインを注ぐ涼平をじっと見ながら、美伽は聞いた。涼平はしばらく言葉を探していたが、誤魔化す必要はどこにもないのだと思い至り、

「うん、好きや」

 ときっぱり言った。

「あ、でも、藤原ふじわらに振られてから好きになったんやで…」

 そして慌てて付け足し、

(今の言い訳はいらんかったよなぁ…)

 と、言ってから自分の蛇足を悔いた。

「椎原くん、人気者やったもんね」

 するとまた、美伽は涼平に取って意外なことを言う。

「はあ!?いつのこと?俺全然そんな覚えないよ」
「そう?面白くて勉強も出来て活発で…椎原くんのこと好きな女の子、結構いたのよ」

(それ、ほんまに俺のことかな?高校では最悪に暗かったけど…ひょっとして中3のときかな?あのときは確かにただのお調子もんのあほやったし…)

 美伽とは中高と同じクラスで卒業した。自分としては中学時代と高校時代ではその明暗に大きな隔たりがあるのだが、美伽にしてみれば涼平のことなど過去の話として同じように見えているのかもしれない。だとしても、わざわざ明るく思い出補正してくれる気遣いに、彼女の優しさを感じた。

「え~それは全く気付かんかったよ。モテてるときに教えてくんなきゃ。でもさぁ、高校んときは藤原の方こそモテモテやったやん。藤原のこと好きな男どもが取り巻いてて、俺なんて近づくことも出来ひんかったよ」
「え?わたしがモテモテ?それこそそんときに教えてくれなきゃ」

 そう言って二人は笑い合った。

「高校のときね、わたしたち、選択科目で美術を専攻してたでしょ?わたしね、椎原くんが描く絵、好きやったなあ…。すごく心が癒される絵、描いてたよね」

 その頃涼平はターナーに憧れ、印象派チックな風景画をよく描いていた。それを片想いの彼女が見てくれていた…涼平はその事実に胸が熱くなった。

「覚えてるかなあ?椎原くん、文化祭でわたしが劇を演じることになったとき、宣伝ポスターにわたしの絵を描いてくれたの。ほら、去っていく家を振り返って涙を流しているの。わたし、あの絵、すごく好きやった。演技なんてしたことなくて不安やったけど、あの絵に勇気づけられたのよ。実はこっそり、一枚家に持って帰っちゃったの」

 彼女はそう言ってペロッと舌を出した。

(覚えてるも何も、それが俺の高校生活の一番大切な思い出やん…)

 レイアウトをしっかりと覚えていてくれた彼女の言葉に嘘がないのが伝わり、涼平のテンションも上がっていた。



 それから二人は共通の話題や、互いの趣味などの話をした。時間はあっという間に過ぎ、気づくと7時を越していた。時計を気にしだした涼平に、もう、行かないといけない?と美伽は残念そうに聞く。

「わたし、こんなに楽しいの、久し振りかもしれないな。ね、もう行かないと、いけない?」

 上気してさらに潤みを増した目で聞いてくる彼女に、

「今日は仕事行かなくても平気」

 と、涼平も言ってしまっていた。上がりきったテンションに白ワインの酔いも手伝い、今日はもう美伽とトコトン飲もう、そう割り切るまでに気が大きくなっていた。

「嬉しい!じゃあもう少し一緒に飲んでくれる?」
「オッケー!でも、電話一本入れさしてな」

(どうせこんなに酔ったらホールの仕事できんわ)

 自分の行いを正当化する言い訳を胸に、店外へ出て電話をかける。

『はい、クラブドルチェでございます』

 電話に出たのは、声のキーの高さですぐに桂木かつらぎ部長だと分かった。

(うわ、最悪なのにぶち当たった…よりによって何でこんな時にクロークにいるんや)

 息を飲み、一呼吸置いて要件を伝える。

「お疲れさまです、椎原です。あの…用事の方がまだちょっと手が離せなくて…今日は休ませて欲しいんですが…」
『用事て何やねん…』

(うわ、そこ聞いてくるか?お前もようパチンコで遅刻してるやんけ…)

「え?え~と、家の用事です…」
『何や、怪しいのぉ。お前、ひょっとしてニャンニャンしてるんとちゃうやろなあ!?』

(ニャ、ニャンニャンて何やねん。こいつ、自分がいっつもヤマシイことしてるもんやから人のことも疑いやがって…)

 とはいえ、いい線は突かれている。涼平は一瞬言葉に詰まったが、ふと、伝えないといけないことがあったのを思い出す。

「あ、そうや。きのう、俺の連れに前嶋社長のこと聞きました。会社は破産宣告するみたいですよ」
『ん…やっぱりな…。で、何か他に教えてもらえたか?』
「いや…俺の友達は難しいんちゃうかって感じでしたけど…ひょっとしたら近々海外に飛ぶ可能性あるから、家の物だけでも今のうちに押さえといた方がいいんやないでしょうか」
『そうか。有り難うな。まあ今日はそんなに同伴も入ってへんから、こっちのことは上手くやっといたる』

 桂木部長は涼平の急な休みを受け、やっと電話を切ってくれた。

(ほんま、ゲンキンなおっさんやで)

 自分がずる休みすることは棚に上げ、涼平は胸をな撫でおろしながら店に戻った。夕飯どきの店内はかなり混雑してきていて、友人は涼平に構っている間もなく、忙しそうに動き回っていた。席では美伽が誰かと話している様子だったが、涼平が戻るのを見ると即座に電話を切った。

「大丈夫やった?」
「うん、大丈夫。藤原こそ、彼と会う予定とか、あったん違う?」
「うん、今日は大丈夫よ。それより、仕事休んでまで付き合ってもらって、本当にごめんなさい。悪いから、ここはわたしが払うわね」
「え、いいよいいよ、俺も楽しいし。せめて割り勘にしよ」
「じゃあ、わたし、ちょっとお洒落なバー知ってるから、そこで飲み直しましょ。椎原くん、そこ払って?」

 飲み直し、という言葉が大人っぽく聞こえ、酔って大胆になってきた彼女の言動に、涼平は胸を疼かせた。すでに諦めたはずの憧憬が蘇ってくるようだった。萌未に対して後ろめたい気もしたが、宮本みやもとや彼女の周りにいる他の男たちにやきもきしていた涼平に取って、丁度いい仕返しにも思えた。

 一方美伽はというとフィアンセがいるはずで、彼との間に何があったのか分からないが、昔馴染みとはいえこのまま二人でバーへ行くと、秘事の度合いが深まるように思える。それは涼平の知る美伽らしくない行動で、また、そんな彼女を放っておけない気もした。

 美伽に振られた二十歳の誕生日、学食で萌未と出会い、そのまま北新地に訪れて黒服になった。涼平に取ってあの日は一つの大きな分岐点だったわけだが、今また自分の前に、これからの運命を左右する分岐点が屹立しているのではないか、そんな思いを胸に抱きながらも、涼平は美伽の少し危なげな提案を迷うことなく受けるのだった。






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