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第1部 高級クラブのお仕事

ドルチェを去る者

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 やがて由奈ゆな中岡なかおか先生と同伴で入ってくると、彼女は涼平りょうへいに向かってピースサインをした。

(何のピースやねん。初同伴か?それとも俺にホスト奢ってもらえるからか?)

 そんなことを考えながら、涼平もグッジョブという意味を込めて、親指を立てて返す。

「へんこちゃん、よかったなあ~。先生にご飯食べに連れていってもろて」

 席に着いた貴代たかよママもご機嫌である。ママの言う「へんこ」とは、イントネーションから察するに「偏固」でなく、「変子」なのだろう。それでも、由奈は誉められて嬉しそうにしていた。



 その日のうちに明日菜あすな樹理じゅりの第2ラウンドが勃発した。

 樹理は帰り際にルイママに明日菜の愚痴を電話していたのだ。営業中、涼平はママ部屋にお茶を持って上がるように主任から指示を受けた。ドルチェのあるビルは地階がドルチェとなっており、一階には飲食店、二階から四階まではラウンジなどの小規模な店舗が軒を並べている。そして五階にドルチェの男子更衣室、女子更衣室、そしてオーナーママがくつろぐママ部屋があるのだが、ママ部屋には火元が無いらしく、オーママが所望すればお茶や軽食などをホールから運ぶ。涼平が入店してからその仕事は一番経験の浅い涼平がたいてい仰せつかっていた。

 この日も涼平はチーフに入れてもらった熱い茶の入った急須と湯呑みを三つトレンチに乗せ、エレベーターで五階まで上がって降り口すぐにあるママ部屋の扉をノックした。湯呑みが三つあるのが、普段とは違っていた。

「どうぞ」

 いつも通りママの柔らかい声が聞こえ、外扉を開けて玄関に入る。そこには旅館の部屋のように半畳ほどの靴脱場と上がりかまちがあり、内扉のふすまはたいてい開いていて、その奥の六畳の和室でママが帳簿的なものをつけているのが常だった。今日も入るとさらに奥にある和服をしまった衣装部屋から防虫剤の匂いが鼻を突いたが、手前の和室にはママだけでなく、明日菜と桂木かつらぎ部長がいた。涼平が上がり框の手前で屈むと、桂木が急須と湯呑みを取りに来た。

「そうかて、ママ、あの女が悪いんやんかあ!」

 明日菜が何やら悲痛な声でママに訴えかけている。漆塗りの座卓にママがこちらを向いて座り、その向かいに、明日菜が背中を向けて正座していた。

「あなたが何人も女の子に嫌がらせしてるのは、聞いています。イベント初日で残念ですが、あなたには今日限りでドルチェを辞めていただこうと思います」

 オーナーママの、穏やかではあるが冷たいその口調に涼平はギクッとした。

(うわっそれってクビってこと!?)

 湯呑みを受け取った桂木部長がシッシと払い手をしたので、涼平はそこで更衣室を出た。

「どんな感じやった?」

 ホールに降りると、佐々木マネージャーが興味津々といった顔で厨房に手招きし、早速上での様子を聞いてくる。

「いやあ~何か、ドルチェを辞める話をしてはりましたよ」
「おおー!ついにか。さっきな、ハデハデが悪魔のことクビにしろってクソババアに詰め寄ってたんを聞いててん。ハデハデにしたら、あのせきちんの入れたヤリマンに辞められたくないんやろうな」

 なぜか佐々木マネージャーは嬉しそうである。チーフ補助の諸橋もろはしさんに解読してもらうと、ハデハデがルイママ、悪魔は明日菜、ヤリマンが樹理、オーナーママに至ってはクソババア呼ばわりである。すなわち、樹理がルイママに明日菜のことをチクり、樹理に辞めて欲しくないルイママはその内容をオーナーママに伝えて明日菜をクビにしろとせまったらしい。それを受けての、さっきの五階でのやり取りなのだった。

「桂木さんはどうなるんですか?」

 桂木と明日菜が二個一という話を思い出して涼平がそう聞くと、

「悪魔以外に窓口のおらんエロガッパには用はないわなあ」

 と、佐々木は突き放したように言う。

「何何?桂木さん、ヤバいん?」

 と諸橋も便乗し、

「あの働きぶりでは、残させてもらわれへんやろなあ…」

 と、厨房から渡辺わたなべチーフも嘆息する。そこへ、

「涼平!いつまで厨房にいてんねん。ホールに戻れ」

 という小寺こてら次長の怒声が飛び込み、涼平はそこで厨房を出た。



 ホステスは口座、幹部クラスの黒服は窓口がないと、高い評価がもらえない、というクラブの仕事のシビアな面を垣間見た気がした。とはいえまだ入ったばかりの涼平には対岸の火事のような出来事だったが、それでもこの件は涼平に全く無関係では終わらなかった。

 しばらくしてまた、涼平が女子更衣室に呼ばているとクロークの内線でオーナーママから指示を受けたレジのお姉さんに告げられる。

(え?俺も何か仕出かしたかなあ…ひょっとして由奈もついでにクビって言われるんじゃ…)

 そんな悪い予感がし、おそるおそる更衣室の扉を開けると、そこにはまだ明日菜と桂木部長がいて、さっきよりも悄然とした姿で背中を丸めて座っていた。

 ママの横に促されて畳部屋に上がると、明日菜と桂木は奥にずれて一人分のスペースを作る。涼平もそこに正座した。

「あなたのお友達に、前嶋まえじま社長の知り合いの金融会社の人がいるわね」

 オーナーママがそう切り出した。神崎かんざきのことだ。

「はい、中学のときの同級生です」
「そう。実はこの度、明日菜さんにお店を辞めていただくことになったんですけど、前嶋社長のお代金がいただけなくて困ってます。それが入らないと、明日菜さんの退店を完全に受けられないの。で、この際どんな手がかりでもいいから当たってみようということになって…あなたも力を貸してあげて欲しいんです。そのお友達から何か社長の情報を聞かせていただけるか、頼んでみて欲しいの」

 涼平の斜め前に座っている明日菜を見ると、キツメにメイクした彼女の目からアイシャドウが崩れて落ち、墨汁が流れたような跡がくっきりと見てとれた。

 涼平は神崎の、この件には関わるな、という言葉を思い出した。

「聞いてみますが、彼も仕事柄、何かを知っていても教えてくれるかどうかは分かりません」

 涼平が重い口調で言うと、

「頼む、聞くだけでも聞いてやってくれ」

 と、意外にも桂木部長が頭を下げてきた。それに倣ったように明日菜も、

「お願いします」

 と頭を下げた。その今まで見たことない殊勝な態度に、涼平は都落ちする平安貴族のイメージを重ねた。

「分かりました」

 結果は後日、桂木部長に伝えることこしてママ部屋を出る。

(自業自得やろ…)

 今まで受けた悪行の数々を思ってそんな言葉を吐露してみたものの、打ちひしがれて項垂れる明日菜の姿を目の当たりにし、やるせない気持ちもみぞおち当たりからせり上がってきた。飲み代の件だけで言うと、悪いのは踏み倒そうとしている前嶋なのだ。


 エレベーターを降り、ホールに入る前に神崎に電話すると、今夜は空いているという返事だった。店が終わるくらいの時間にシャレードで落ち合う約束をして、電話を切った。

 ちょうど涼平がその電話を終えた頃、更衣室から荷物を持って出てきた明日菜と桂木部長にかち合った。

「ちょっと送ってくるわ」

 桂木部長はそう言うと、明日菜に付き添って店のある上通りから本通りへと抜けて行った。支えがないと倒れてしまうというように桂木の腕を取ってフラフラと歩いていく、それが、明日菜の「ドルチェの悪魔」としての最後の姿だった。

 自業自得とはいえ、500万もの借金を背負ったまま無職にならなければならない彼女に今までの勢いはなく、いつか夏美なつみが語ったこの世界の恐さをリアルに見せられ、最低な男に捕まったバカな女と一笑に付す気にはなれなかった。露わになった弱々しい姿に、同情もした。

 しかし、最低な男には最低な女が付くもので…それからしばらくの間、ドルチェに起こったいくつかの被害は明らかに明日菜の仕業だと従業員たちからささやかれた。

 ひとつは、注文していない寿司などの出前がわざわざ忙しい時間帯を狙ってドルチェに大量に届けられたこと。

 それから、ネットの匿名掲示板で樹理とルイママが必要以上に叩かれたこと。

 あと、くだらないところでは入り口に犬の糞がちょくちょく捨てられていた…などなど。

 さすがは悪魔である。




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