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第1部 高級クラブのお仕事
北新地へ
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美伽に告白することは、涼平にとっては大人になるための通過儀礼のようなものだった。美伽にフラレることによって、明日から気持ちを新たに二十代の青春を旅立たせるつもりだった。だが実際にその憂き目に遭ってみると、思ったよりダメージがデカかった。涼平は光量の失われた道をまるで砂漠を彷徨うようにフラフラと歩いて大学に戻り、オアシスを求めるように学食でビールを購入した。そして窓際の席にどっかりと座り、講義を終えて急ぎ足で行き交う学生たちをぼんやりと見つめながら、缶ビールのプルタブを引いた。
(ハッピーバースデイ…いや、全然ハッピーちゃうけどな……)
日が落ちて窓に映った青白い顔に缶を掲げ、ひと口目を口にする。ベージュからダークな赤みを帯びてきた木々の葉と、同じ旋律を幾度も練習しているトランペットの音色が、涼平の気分を一層沈鬱にさせていた。
(ごめんなさい…)
彼女の伏し目がちに謝った顔に、確かに何かが終わりを告げるのを感じた。ビールは初めてではなかったが、脳内再生された美伽の姿をかき消そうと勢いよく流し込み、その逆流からくる苦味の拡がりに、むせて咳き込んだ。
「あらあら、ひとり酒盛り?」
ふいに背中を擦さすられ、涼平は慌てて振り向いた。そして目を見開いた。肩越しに笑いかける顔が、さっきの優しい顔と重なった。
「珍しく見かけたと思ったら、講義にも出ずにこんなとこで何してるん?」
だが次に話した彼女の言葉で、涼平は現実に引き戻された。背後に立つ彼女はよく見ると清楚な美伽とは似ても似つかず、派手なメイクをした見知らぬ女学生だった。彼女は目をパチパチさせる涼平をクスッと笑う。
「なあにい?その妖怪でも見る目は」
彼女はそう言うと、涼平の向かいに腰掛け、持っていたタバコに火を点けた。ピアニシモとファッショナブルに描かれたピンクのタバコの箱が彼女の着ている同色のジャケットにマッチしていた。
「ここ、禁煙やで」
「あら、灰皿置いてあるやない」
傍らの灰皿を自分にたぐり寄せると、彼女は涼平の顔めがけて吸った紫煙を吐きかける。涼平はそれに大きくむせた。それを見た彼女は、あはは、と大きく声を上げて笑うと、涼平の持つ缶ビールをひったくってゴクゴクと飲み出した。涼平はその一連の所作に呆気にとられていたが、缶ビールの底が持ち上げられていく姿に眉を寄せた。
「おいおい、今俺は一人で飲みたい気分やねん。邪魔せんでくれよ」
彼女はプハーと満足気に声を上げ、カンッと音を立てて缶を置くと、ピアニシモをまた一吸いし、涼平の顔に吹きかけた。涼平はまたむせて顔を窓の外に向ける。
「だいたいさ、誰やねん」
「ま!」
彼女の艶のあるほっぺたが膨らむのが、窓越しに見えた。
「絹川萌未よ。き・ぬ・か・わ・め・ぐ・み!覚えてないの⁉」
涼平は入学以来数回しか大学に来ていなかったのだが、そういえばと思い当たる。確かに彼女をガイダンスで見た覚えがあった。涼平の通うこの大学は国立で、比較的地味な学生の多い中にあって、彼女の派手さは群を抜いていた。まるでファッション雑誌から飛び出してきたような高価なブランドバッグを手にし、ナチュラルでありながらも化粧慣れしているであろう頬の光沢感、そして何より、体全体から放たれる大人びたオーラが周りから浮き立ち、彼女のことを目にとめないでいる方が至難の業だった。彼女と言葉を交わしたことはなかったが、逆になぜ彼女が涼平を覚えているのか不思議だった。
「ああ、同じ学科の…」
涼平の今更ながら思い出した様子にフンと鼻を鳴らすと、彼女はおもむろに席を立ってカウンターまで行くと、ビールをもう2缶買って戻ってきた。
「学食にビール売ってるなんて知らなかったわあ」
彼女は一つを涼平に渡し、自分の分のプルタブを引くと、はい、乾杯、とにっこり微笑んで涼平に差し出した。涼平はその仕草に眉を潜める。
「何で一緒に飲むねん」
「あら、一人で飲むなんて寂しいやない。まるで失恋した人みたいな顔してるわよ」
彼女は涼平の額を人差し指でちょこんとつつくと、悪戯っぽく微笑んだ。
「え?顔に書いてある?当たりや。二十歳の誕生日に大失恋のダブル記念日や」
涼平はそう吐き捨てるように言うと、もらった缶を開けて彼女の缶にちょこんと合わせ、忌々しそうにゴクリと飲んだ。
「失恋したって、この大学の子?」
「ああ、中学んときからの同級生やねんけどな、五年越しの失恋やねん」
「ヘェ~五年越しのねぇ…てことはひょっとしてこの大学までその子のこと追っかけてきたとか?椎原くんって見かけによらずキモいのねぇ」
涼平は彼女のその言葉に吹いた。
「や、やかましいわ」
彼女は残りのピアニシモをさも美味しそうに吸うと、灰皿に消しながら、
「ね、今日はあたしがその記念日祝ってあげるよ」
と言った。
「え?絹川は予定ないの?」
「あたしは8時からバイトやからそれまでの時間潰しに付き合ってくれたらやけどね」
「時間潰しかい」
とは言うものの、涼平も特に予定はなく、何よりも彼女と話していると今日の虚しさが紛れたので、彼女のバイト先近くのバーまで一緒に行って飲むという彼女の提案を受けた。
これが涼平と萌未の出会いであり、涼平が北新地へ足を踏み入れるきっかけとなった出来事だった。萌未のバイト先とは北新地で、萌未はそこのホステスだったのだ。そして今思うと、涼平があの事件に遭遇する布石、いや、涼平自身の人生の大きな分岐点でもあった。
大学を出ると萌未は停まっていたタクシーに躊躇なく乗った。この大学は坂の途中にあるのでほとんどの学生は駅から20分ほどの道のりを歩くかバスに乗っていた。が、ヒールを履いている彼女が歩いて坂を下るわけもなく、またセレブ感丸出しの彼女がバスに揺られるのも違和感があったので、全く普段どおりといった感じでタクシーに乗り込んだのはイメージ通りの行動だった。
西陽に照らされ、坂を急ぎ足で下る学生たちを窓越しに見ながら、再びこの坂を上ることがあるのだろうか、と涼平は考えていた。
(ごめんなさい…)
美伽にそう謝られた瞬間、涼平はこの大学へ来た意味を完全に見失った。
(キモいのねぇ)
萌未にそう言われても仕方のないくらい、涼平には将来のビジョンがなく、ただ自分勝手な区切りのためだけに今日の行動を起こしたのだ。これをきっかけに何かを変えたいという気持ちはあった。だが結果的には絶望感と焦燥感だけが漂っていた。
「お前は普通の人生を歩むんやぞ」
酔った父親がよく涼平にそんなことを言っていた。涼平の祖父はそこそこ名のしれた芸術家で、盆や正月に祖父の家を訪れるとよくその波乱万丈な人生を語ってくれた。きっと父はそんな祖父に苦労させられたのだろう、父はそんな祖父のことを嫌い、息子の涼平には平凡な人生を進んで欲しいようだった。
だが、平凡とは何だろう?
祖父の生きた世界大戦の時代とは大きく隔たり、父の生きた高度経済成長期も終わりを迎えた。いい大学を出ていい会社に入る、そんな青写真も近年通用しなくなってきたと聞く。終身雇用制も破綻しつつあるのだ。そんな時代を生きる自分たちの世代は、一体何を求めて生きていけばいいのだろう?せかせかと坂を下る学生たちをぼんやりと見つめていた涼平は、いつしかそんな思考の迷路を彷徨っていた。
「着いたわよ、黄昏くん」
横から頭をつつかれ、涼平はタクシーが止まっているのに気づいた。タクシー代を払おうとすると、今日は誕生日祝いだからと萌未はそれを制止し、自分の財布から払ってくれた。タクシーを降りるとそこはJRの六甲道駅のロータリーで、ここからJRに乗り、神戸線から東西線に乗り換えて北新地駅へ向かうのだと萌未は説明してくれた。
夕方の車内は帰宅途中の学生やサラリーマンたちで混雑していて、涼平のつり革を持つ肩と萌未の細い肩との間に隙間はなく、彼女のジャケットから涼平のブルゾンへと温もりが伝わっていた。電車がガタンと揺れ、萌未はキャッと言って涼平の腕に捕まった。
「ご、ごめんなさい」
その萌未の姿を見て、涼平はふふっと鼻を鳴らす。
「な、何よ」
「いや、何かさ、電車乗ってんの似合わへんなあと思って」
萌未はそれに、そう?と返してから、
「椎原くんこそ、笑うことあるのね」
と言い返した。
「いつもはね、レディース車両に乗るのよ。痴漢がうっとうしいから」
そう言って肩を一層近づけてきた彼女の髪から、かすかな柑橘系の香りがした。涼平は少し体を反対側にずらし、二人の映る車窓に目を向けた。誰もが二度見したくなるような美人の横に、笑顔の似合いそうもない貧相な男が所在なさげに立っていた。
(ハッピーバースデイ…いや、全然ハッピーちゃうけどな……)
日が落ちて窓に映った青白い顔に缶を掲げ、ひと口目を口にする。ベージュからダークな赤みを帯びてきた木々の葉と、同じ旋律を幾度も練習しているトランペットの音色が、涼平の気分を一層沈鬱にさせていた。
(ごめんなさい…)
彼女の伏し目がちに謝った顔に、確かに何かが終わりを告げるのを感じた。ビールは初めてではなかったが、脳内再生された美伽の姿をかき消そうと勢いよく流し込み、その逆流からくる苦味の拡がりに、むせて咳き込んだ。
「あらあら、ひとり酒盛り?」
ふいに背中を擦さすられ、涼平は慌てて振り向いた。そして目を見開いた。肩越しに笑いかける顔が、さっきの優しい顔と重なった。
「珍しく見かけたと思ったら、講義にも出ずにこんなとこで何してるん?」
だが次に話した彼女の言葉で、涼平は現実に引き戻された。背後に立つ彼女はよく見ると清楚な美伽とは似ても似つかず、派手なメイクをした見知らぬ女学生だった。彼女は目をパチパチさせる涼平をクスッと笑う。
「なあにい?その妖怪でも見る目は」
彼女はそう言うと、涼平の向かいに腰掛け、持っていたタバコに火を点けた。ピアニシモとファッショナブルに描かれたピンクのタバコの箱が彼女の着ている同色のジャケットにマッチしていた。
「ここ、禁煙やで」
「あら、灰皿置いてあるやない」
傍らの灰皿を自分にたぐり寄せると、彼女は涼平の顔めがけて吸った紫煙を吐きかける。涼平はそれに大きくむせた。それを見た彼女は、あはは、と大きく声を上げて笑うと、涼平の持つ缶ビールをひったくってゴクゴクと飲み出した。涼平はその一連の所作に呆気にとられていたが、缶ビールの底が持ち上げられていく姿に眉を寄せた。
「おいおい、今俺は一人で飲みたい気分やねん。邪魔せんでくれよ」
彼女はプハーと満足気に声を上げ、カンッと音を立てて缶を置くと、ピアニシモをまた一吸いし、涼平の顔に吹きかけた。涼平はまたむせて顔を窓の外に向ける。
「だいたいさ、誰やねん」
「ま!」
彼女の艶のあるほっぺたが膨らむのが、窓越しに見えた。
「絹川萌未よ。き・ぬ・か・わ・め・ぐ・み!覚えてないの⁉」
涼平は入学以来数回しか大学に来ていなかったのだが、そういえばと思い当たる。確かに彼女をガイダンスで見た覚えがあった。涼平の通うこの大学は国立で、比較的地味な学生の多い中にあって、彼女の派手さは群を抜いていた。まるでファッション雑誌から飛び出してきたような高価なブランドバッグを手にし、ナチュラルでありながらも化粧慣れしているであろう頬の光沢感、そして何より、体全体から放たれる大人びたオーラが周りから浮き立ち、彼女のことを目にとめないでいる方が至難の業だった。彼女と言葉を交わしたことはなかったが、逆になぜ彼女が涼平を覚えているのか不思議だった。
「ああ、同じ学科の…」
涼平の今更ながら思い出した様子にフンと鼻を鳴らすと、彼女はおもむろに席を立ってカウンターまで行くと、ビールをもう2缶買って戻ってきた。
「学食にビール売ってるなんて知らなかったわあ」
彼女は一つを涼平に渡し、自分の分のプルタブを引くと、はい、乾杯、とにっこり微笑んで涼平に差し出した。涼平はその仕草に眉を潜める。
「何で一緒に飲むねん」
「あら、一人で飲むなんて寂しいやない。まるで失恋した人みたいな顔してるわよ」
彼女は涼平の額を人差し指でちょこんとつつくと、悪戯っぽく微笑んだ。
「え?顔に書いてある?当たりや。二十歳の誕生日に大失恋のダブル記念日や」
涼平はそう吐き捨てるように言うと、もらった缶を開けて彼女の缶にちょこんと合わせ、忌々しそうにゴクリと飲んだ。
「失恋したって、この大学の子?」
「ああ、中学んときからの同級生やねんけどな、五年越しの失恋やねん」
「ヘェ~五年越しのねぇ…てことはひょっとしてこの大学までその子のこと追っかけてきたとか?椎原くんって見かけによらずキモいのねぇ」
涼平は彼女のその言葉に吹いた。
「や、やかましいわ」
彼女は残りのピアニシモをさも美味しそうに吸うと、灰皿に消しながら、
「ね、今日はあたしがその記念日祝ってあげるよ」
と言った。
「え?絹川は予定ないの?」
「あたしは8時からバイトやからそれまでの時間潰しに付き合ってくれたらやけどね」
「時間潰しかい」
とは言うものの、涼平も特に予定はなく、何よりも彼女と話していると今日の虚しさが紛れたので、彼女のバイト先近くのバーまで一緒に行って飲むという彼女の提案を受けた。
これが涼平と萌未の出会いであり、涼平が北新地へ足を踏み入れるきっかけとなった出来事だった。萌未のバイト先とは北新地で、萌未はそこのホステスだったのだ。そして今思うと、涼平があの事件に遭遇する布石、いや、涼平自身の人生の大きな分岐点でもあった。
大学を出ると萌未は停まっていたタクシーに躊躇なく乗った。この大学は坂の途中にあるのでほとんどの学生は駅から20分ほどの道のりを歩くかバスに乗っていた。が、ヒールを履いている彼女が歩いて坂を下るわけもなく、またセレブ感丸出しの彼女がバスに揺られるのも違和感があったので、全く普段どおりといった感じでタクシーに乗り込んだのはイメージ通りの行動だった。
西陽に照らされ、坂を急ぎ足で下る学生たちを窓越しに見ながら、再びこの坂を上ることがあるのだろうか、と涼平は考えていた。
(ごめんなさい…)
美伽にそう謝られた瞬間、涼平はこの大学へ来た意味を完全に見失った。
(キモいのねぇ)
萌未にそう言われても仕方のないくらい、涼平には将来のビジョンがなく、ただ自分勝手な区切りのためだけに今日の行動を起こしたのだ。これをきっかけに何かを変えたいという気持ちはあった。だが結果的には絶望感と焦燥感だけが漂っていた。
「お前は普通の人生を歩むんやぞ」
酔った父親がよく涼平にそんなことを言っていた。涼平の祖父はそこそこ名のしれた芸術家で、盆や正月に祖父の家を訪れるとよくその波乱万丈な人生を語ってくれた。きっと父はそんな祖父に苦労させられたのだろう、父はそんな祖父のことを嫌い、息子の涼平には平凡な人生を進んで欲しいようだった。
だが、平凡とは何だろう?
祖父の生きた世界大戦の時代とは大きく隔たり、父の生きた高度経済成長期も終わりを迎えた。いい大学を出ていい会社に入る、そんな青写真も近年通用しなくなってきたと聞く。終身雇用制も破綻しつつあるのだ。そんな時代を生きる自分たちの世代は、一体何を求めて生きていけばいいのだろう?せかせかと坂を下る学生たちをぼんやりと見つめていた涼平は、いつしかそんな思考の迷路を彷徨っていた。
「着いたわよ、黄昏くん」
横から頭をつつかれ、涼平はタクシーが止まっているのに気づいた。タクシー代を払おうとすると、今日は誕生日祝いだからと萌未はそれを制止し、自分の財布から払ってくれた。タクシーを降りるとそこはJRの六甲道駅のロータリーで、ここからJRに乗り、神戸線から東西線に乗り換えて北新地駅へ向かうのだと萌未は説明してくれた。
夕方の車内は帰宅途中の学生やサラリーマンたちで混雑していて、涼平のつり革を持つ肩と萌未の細い肩との間に隙間はなく、彼女のジャケットから涼平のブルゾンへと温もりが伝わっていた。電車がガタンと揺れ、萌未はキャッと言って涼平の腕に捕まった。
「ご、ごめんなさい」
その萌未の姿を見て、涼平はふふっと鼻を鳴らす。
「な、何よ」
「いや、何かさ、電車乗ってんの似合わへんなあと思って」
萌未はそれに、そう?と返してから、
「椎原くんこそ、笑うことあるのね」
と言い返した。
「いつもはね、レディース車両に乗るのよ。痴漢がうっとうしいから」
そう言って肩を一層近づけてきた彼女の髪から、かすかな柑橘系の香りがした。涼平は少し体を反対側にずらし、二人の映る車窓に目を向けた。誰もが二度見したくなるような美人の横に、笑顔の似合いそうもない貧相な男が所在なさげに立っていた。
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