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第1部 高級クラブのお仕事

曽根崎心中

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 2003年12月25日

 その日の未明、椎原涼平しいはらりょうへいは薄暗い無機質な一室にいた。いや、実際に薄暗かったかどうかは分からない。後に思い起こした時、逆スポットと言えばいいだろうか、涼平の周りだけ光量が失われていた気がするのは、刑事の発した無理心中という言葉を聞いたからだった。その言葉が、クリスマスイブの夜の浮かれた心象風景から光を奪ったのだ。


 無理心中…


 その言葉に思い当たる場面がある。彼女が心中という言葉を発したのは、彼女に会った最後の夜だった。あれは12月に入って間もない日、涼平たちは北新地から御堂筋を渡った、梅田の東通り商店街へと続くアーケードの南端にある露天神社つゆのてんじんじゃ、通称お初天神はつてんじんに忍び込んでいた。




「ね、曽根崎心中って知ってる?」

 酔って足元がおぼつかない彼女を支えている涼平に、彼女は聞いた。時刻は夜中の2時を過ぎた丑三つ時、深夜営業の居酒屋で鍋をつつき、日本酒を煽った帰り道での出来事だった。

「近松門左衛門やったかな…の、戯曲やったっけ?」
 
 涼平は次第点取れるかどうかのギリギリの机上の知識を返す。

「そう、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりのね。北新地って昔は遊郭がひしめき合ってたのね。で、そのくるわの一つで働いてた遊女のお初と徳兵衛という金持ちのボンボンが叶わぬ恋に落ちて、せめてあの世で一緒になろうと心中する物語。ほら、この人たち」

 彼女が指差した先の人影に一瞬ギクッとした。そこにはお初と徳兵衛の寄り添うブロンズ像が外灯もない境内の片隅に黒い輪郭を浮き上がらせていた。



「愛するから死を選ぶって矛盾すると思わない?」

 
 さらに質問を被せる彼女の方を向くと、ぼうっと浮かび上がった青白い唇が微かに動いている。そう、あの日だ。あの日の彼女の言葉が、涼平の脳内に再生されていた。

 彼女は支えている涼平の腕を振りほどき、お初の像まで駆け寄ると、青銅色の額から顎までを指でなぞる。

「この人たちって、一緒に死ねて幸せだったのかな…?」
 
 涼平に聞くとも独り言とも取れない口調で彼女が呟くと、涼平は首を傾げる。

「どうかなぁ…」

 そしてふらつく彼女を再び支えようと彼女の腕に手をかけたとき、涼平の曖昧な答えが気に入らなかったのか、彼女は大きくかぶりを振りながら涼平の手を払い、そのまま玉砂利へと激しく頭を突っ込んだ。

「ほら!酔い過ぎやって!」

 涼平は慌てて彼女に駆け寄り、頭を起こして土を払ってやっている間、彼女は痛がるでもなく、まるで幼子おさなごのようにじっと涼平を見据えていた。そして、低い声でもう一度言ったのだ。

「愛するから死を選ぶって矛盾すると思わない?」

 今思えばそれはお初と徳兵衛になぞらえながら、彼女自身に問いかけた言葉だったのかもしれない。彼女はそのあと、涼平から目をそらすことなく、大粒の涙を流した。涼平はそんな彼女にかける言葉を思いつかず、頬を伝う涙を拭ってやると、静かにキスをした。

「ね、あたしのこと、好き?」

 涼平の離れた唇を追うように、彼女が聞く。涼平はそれに、ゆっくりと頷く。すると、彼女の瞳の中の熱がすっと引くように、抑揚のない冷めた口調で彼女は言った。


「なら、一緒に死んでよ」


 一瞬、冷水を浴びせられたように固まった涼平の首を、彼女はあたかも今言ったことを実行しようとするように締めつけてきた。その彼女の手を優しく包みながら、涼平は彼女を強く抱き寄せた。

「ほんまに酔い過ぎやって。俺たちが死ぬ理由なんてないやんか」

 彼女は涼平の胸の中で声を上げて泣きじゃくった。そのときの涼平には、酔っているとはいえ、彼女がそこまで泣き崩れる理由に見当がつかなかった。ただ、北新地の高級クラブのホステスという仕事に就いている彼女には涼平なんかに想像もつかないストレスがあるのだろう…後から思えばそれは本当に上っ面だけの考えだったが、せめて自分にできる精一杯の癒やしを与えようと彼女を腕の中に包み込んでいた。なので、やがて深夜の神社の澄んだ空気の流れる音の中に彼女の渇いた声が響いたとき、涼平はまたギョッとさせられた。


 
「じゃあ、彼を殺して」



 全身に鳥肌が走り、涼平は彼女の細い肩を掴んで引き離した。そして彼女の顔を凝視する。彼女はゆっくりと顔を上げ、その見上げた真っ暗な瞳の中に、涼平は完全に拘束された。

 涼平には「彼」に思い当たる顔がひとつあった。こんなに彼女のことを乱す原因が彼なのか…そのときの涼平の心に、はっきりと嫉妬の炎が灯って揺らめいた……


 




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






 遺体安置室に並んだ二つの遺体…。今、実際に遺体に直面し、あのときの光景がフラッシュバックする。
 彼女は本当にお初と徳兵衛のように、愛に「矛盾」する生き様を選び、「彼」を道連れに実行しまったというのか…

「こちらです」

 そう言うと刑事は並んで横たわる一方の顔を覆っていたベールをめくった。涼平は胸が張り裂けそうになりながら、白い布の下に現れた顔を見た。

 真っ白になってはいるがそのきめ細やかな肌の綺麗な顔は確かに涼平のよく知っている顔だった。

 

 だが、しかし…

 


 全く予期せぬ光景に、目を見開いた。
 そして、衝撃でその場に崩れ落ちた。
 

「そんなあああああっ!」


 涼平は、まるで月下の狼男のように、絶叫した。



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