捻くれ者

藤堂Máquina

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プロローグ

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子供の頃からであった。
一度決めたことは曲げなかった。
私の体は親からもらったものであるのかもしれないが、私の感情というものは神が私に与えた唯一のものであり、裏切ってはいけないものであると信じてやまなかったのである。
子供の頃に決めたことと言うのは、おそらくすべて私の決定ではない。
殆どは周りの人に促されたことであり、それを私の決定にすべく、曲げなかったのだろう。
大人になった今でもその性格は変わっていない。
むしろ自分の行動を自分の行動と認めたいがために他の人と違う行動を繰り返すようになった。
かなり捻くれものになってしまったのだ。
だから今日日流行りもしない文学部で日本語を勉強したのだ。
私が日本語を勉強しようと思ったきっかけというのは大した理由でもない。
高校時代に得意だったのが国語科目、古典だったというそれだけである。
理系科目はほとほと出来ず、文系科目においても暗記も苦手であり、そうかと言って外国語もできなかったのである。
いつしか私は日頃の鬱憤を文字にするようになった。
それが捻くれ者に拍車をかけた。
こうして私の人間としての根底は奇しくも出来上がってしまったのだ。
大学でもそれほど真面目に勉強した訳でもなく、単位を落とす訳でもなく、無難に卒業した。
ただ感情を文字や言葉に込めるのは好きであった。
もっともその多くはネガティブなものであったが、それでもその生活を愛して止まなかった。
私が日本語教師を志したことに大した理由などなかった。
先に述べた通り、人と話すのが好きであった。
それに加え、日本人のジメジメとした性格が好きではなかった。
たったそれだけの理由であった。
外国人が日本人と同じである可能性も否めなかったが、それでも現状が変わるならと考えてのことだった。
ここまでが全て私の決断のように書き連ねているものの、私が外国を見るようになった理由も、多分かつての恋人の血の中に日本人のそれと違うものが混ざっており、彼女の目が外の世界を覗いていたからであった。
私もその目が欲しかった。
それに惹かれたのだろう。
だからこうして過去に縛られたまま生き続けているのだろう。
経験も私を形成する一部だと割り切って運命やら縁やらを受け入れるしかない。
そう思って今日まで私は私を愛すべく、生き続けているのだ。
私がその国を選んだことにも理由はなかった。
「誰も行かないような、誰も知らないような国に憧れた」と言えば聞こえがいいかもしれないが、偶然求人があったというだけであった。
もちろん行きたいと思ったことに嘘はなく、その時は出来るだけ多くの国を見てみたいと思っていただけに、その一歩を遠くの地から始めるのも悪くないと思ったのだ。
こうして私の選んだ国とは南米の大国であり、治安も良くなってきたというコロンビアであった。
求人は現地の企業からで、日本の企業は全く関係がなかった。
日本の会社に張り出されていただけで、面倒を見てくれるわけではない。
それ故に向こうとは直接メールのやり取りをした。
メールに応じたのは日本人と現地人のハーフであった。
殆どの時期を日本で暮らしていたために日本語のやり取りをすることができ、とても楽に進めることができた。
面接に応じたのは理事長であった。
理事長は名刺に「社長」と書いてあった。
おそらく日本語に訳した時に揺れあるため、表記がバラバラなのだろう。
ここではこれから「社長」ということにしようと思う。
そしてその人は50代くらいの女性であり、人当たりはかなり良く感じた。
コロンビア人だが、カタコトの日本語を話していた。
日本語教育に関わったことのある人ならわかると思うが、日本語能力試験のN4が合格するかしないかという程度のレベルである。
話すのに慣れており、会話はすんなりできるのだが、表現はあまり多くない。
それでも面接では特に問題も無く、二回実施した後、内定をもらった。
「コロンビアへ行く」と言うと、私の家族や友人は各々良くないイメージを持ち出した。
内戦や危ない薬、マフィアなどの話が主であった。
一方でポジティブな面では言うと、当時はワールドカップでの日本の対戦相手であっただけにサッカーの強豪国であると言うイメージや、コーヒーのイメージ、その二つで占められていた。
私はと言うと、「その悪いイメージを払拭すべくコロンビアへ行くのだ」と、大義名分を方々に宣っていた。
本音で言えばかなり不安があったことにも間違えはない。
なにせ地球の裏側と言っても過言ではない距離である。
簡単に帰って来ることのできる距離ではない。
飛行機を乗るためにかかる費用だって馬鹿にはならない。
しかし偏見だけの人間になる気もない。
イメージは良くないものの、家族は私を止めなかった。
私の人生だからと細かく口を出してくるようなことはなかった。
私がコロンビアへ初めて訪れたのはその年の夏であった。
正確に言えば日本の季節で数えて夏であったのだ。
コロンビアには季節が無いため、四季が無い。
そのため私が訪れた時も、次に訪れる時も、時期は違っていたものの、気候は殆ど同じであった。
今回私が訪れた理由は数日の見学だけである。
この時の私はまだ大学生で、長期休暇中であった。
特に私の訪れたコロンビアの第一都市「ボゴタ」は標高2600メートルに位置しており、年中涼しいことで知られていた。
もちろん空気も薄いため、肺が弱い人や年配の人なんかは慣れるまで少し苦しいようだ。
私は成田からメキシコ航空の便で14時間ほどかけ、メキシコシティまで行き、そして5時間ほど待った後、再び6時間ほどのフライトでボゴタに到着した。
成田を出たのは確かお昼過ぎだったはずだが、到着した頃には現地での真夜中であった。
しかし時差があるため、日付は変わっておらず、時計だけを考えるとほんの数時間の出来事のようであった。
そうは言っても飛行機の中のなにもすることのない苦痛というのも実際に体験したことで、私の体はかなり疲弊していた。
到着した後、私を迎えたのは社長であった。
社長は車で訪れ、私のスーツケースを運んでくれた。
彼女は私のスーツケースが一つであることに驚いており、簡単にトランクに入れてしまった。
スーツケースが一つなのは、その時は2週間ほどだけ滞在する予定だったからである。
私たちは車である家に行くとインターホンを押した。
その家は日本語学校の生徒の家であった。
予め伝えられていたらしく、扉が開かれると私は歓迎された。
私は歓迎されたが、彼らの言葉は分からなかった。
その時の私はすっかり疲れ切っていたため、そんなことは大した問題ではなかった。
そうして私はベッドを借りるとすぐに眠った。
私はそれから2週間、殆ど遊んで暮らしていた。
元々今回コロンビアへ訪れたのは見学であり、コロンビアを知ることが目的であった。
私自身は学校や授業の見学がメインであると思っていたのだが、社長はそうは思っていなかったようだ。
いくら相手が日本語を話せようが、意図は伝わらなかったようだ。
その2週間、私はコロンビアの美しい自然と街並みを堪能した。
私はそれまで旅行の経験はあったものの、一人暮らしをしてこなかったために、現地の人々にホームシックを心配された。
しかし結果から、2回目の訪問を加えてもそのようなことは起こらなかった。
なんだかんだどこででも眠れるのだ。
そして幸いにして寝たら不安なんかもすべて忘れるのだ。
さて、これから話す2回目の訪問が今回の話のメインとなる。
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