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お題【ぬいぐるみ】(続)
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空が低い。
それが忘れられたくにの第一印象だった。
重くのしかかるような黒雲の天蓋はところどころに光の亀裂が走り、その向こうには現世が垣間見えた。
そして日々積み重ねられつつある大地は、心を失い固くなったたくさんのぬいぐるみたち。
ぼくもいつかこの大地の一部になってしまうのだろうかと考えてしまうと、急に寒さを覚えて生地の目が詰まる。
いや、でも。
まだ来たばかりじゃないか。
ここでくじけちゃいけない。
何をしに来たのかを思い出せ。
初恋のぴょんこちゃんを助けに来たんだろう?
足の裏が擦り切れそうになるくらい固い「亡いぐるみ」――ぬいぐるみの終焉の姿に謝りながらも踏みしめて、ぼくは塔を目指す。
忘れられたくにで唯一の希望と噂されるメリーの塔を。
ぼくとぴょんこちゃんがはじめて会ったのはおともだちの部屋。
おともだちというのは、ぼくの大好きで大切な相棒で家族なニンゲンの子供。
おともだちはもうぼくで遊ばなくなったけど、部屋の片隅にぼくをずっと置いてくれている。
ぴょんこちゃんはうさぎのぬいぐるみ。
くりくりのお目々、真っ白い生地に赤いワンピース。とっても可愛い子。
ぴょんこちゃんのおともだちは、おともだちの従妹で、週末になるとよく遊びにくる。
おやつの時間におともだちたちがリビングへ行ったとき、ぼくとぴょんこちゃんはふたりきりになる。
ぼくらはいろんな話をして仲良くなって、そのうちぼくはぴょんこちゃんに恋をした。
そんなぴょんこちゃんがある日、不安そうな声でこう言った。
「ねぇ、忘れられたくにって知ってる?」
「知っているよ」
おともだちがぼくで遊ばなくなったとき、ぼくはそれを知ったから。
そもそもぼくらは、ニンゲンと関わることで気持ちが宿る存在。
こうして考えることもできるようになったのは、おともだちに大切にしてもらえたから。
誰かの特別になったぬいぐるみは、自分の運命を感じ取ることができるようにもなる。
おともだちとのお別れのときを。
おともだちがぼくらから卒業することを。
そのとき、ぼくらの前には二つの道が現れる。
忘れられたくにへすぐに行くか、それとももうしばらく行かずにおともだちを見守るか。
忘れられたくには、魂をもたずに作られた物に後から宿った気持ちのような存在が、現世を離れたときに流れ着く死物のくに。
ぬいぐるみでなんとなく意識を持ったときのように、おともだちとのお別れが近づくと忘れられたくにのこともなんとなく認識する。
ぼくの場合、おともだちがぼくを手放さずにいつもおともだちを見守れる場所にぼくを飾ってくれたから後者を選んだけど、押入れに押し込まれたり、特定のおともだちができないような場所に送られたり、捨てられたりしたぬいぐるみは、忘れられたくにへ行く以外の道を選べない。
「あそこはおともだちがぼくらを卒業したあと、行き場のなくなったぬいぐるみがたどり着く場所だよ」
「わたし、そこに送られてしまうかもしれないの」
ぼくは驚いて、飾ってある場所から落ちそうになった。
「どうして? だってきみのおともだちはまだ小さいじゃないか。よそのお家へ遊びに行くときだって連れてきてもらえるきみは、まだまだ一緒にいられるはずさ」
「わたし、聞いちゃったの。おともだちが今度のクリスマスプレゼントに、新しいお人形がほしいって言っていたのを。お人形のおうちつきのごうかなやつよ」
「お人形を手に入れたとしても、おともだちから君への愛がなくなるわけじゃないはずだよ」
ぼくは一生懸命ぴょんこちゃんを励ましたけど、ぴょんこちゃんの表情は帰るときまで暗いままだった。
そして、それがぴょんこちゃんを見た最後だった。
「ぴょんこちゃん……」
幾重にも連なる亡いぐるみの丘を数え切れないほど超えて、ぼくはそれを見つけた。
メリーの塔。
ぬいぐるみ丘陵と人形平原との間に建つ、巨大な塔。
それは、すべて亡いぐるみと「寝ん形」――心を凍てつかせ永き眠りについた人形とで形作られた塔。
昔、メリーさんという人形がこの忘れられたくにへ流れ着いたとき、もう一度おともだちに会いたいと、周りのまだ寝ん形になっていない人形たちに呼びかけて作り始めたもの。
寝ん形になって固まって仲間の上へ登り、そこで固まってもまた別の誰かがさらにその上へと登り、皆で協力してあの現世が見える裂け目まで届こうじゃないか、と。
やがて人形だけじゃなくぬいぐるみも加わり、メリーの塔が作られていった。
ぬいぐるみも人形も、気持ちの奥に残るおともだちとの想い出を燃やして動くことができる。
たくさんの想い出をもらったぬいぐるみや人形は、よりたくさん動くことができる。
皆、最後の想い出を振り絞って、メリーの塔の高い場所へと登り、そこで固まり、次の仲間たちの礎となった。
ぼくにメリーの塔のことを教えてくれたクマスケさんも、今はもうはるか後ろで亡いぐるみになってしまった。
「オレに構わず行けよ。ぴょんこちゃんもきっとメリーの塔を、オレたちの希望を目指すはずだ」
そう言い残して。
ぼくの足が心なしか早くなる。
希望がそこに見えているから。
ぴょんこちゃんにもう一度会えるかもしれないから。
全身がボロボロになりながらも、かろうじて中身をこぼさずにぼくはたどり着く。
メリーの塔の麓に。
そして、我が目を疑った。
確かにぴょんこちゃんはそこに居た。
でも、久しぶりに再開したぴょんこちゃんは、真っ黒になっていた。
泥んことかそういう黒じゃない。
光が戻ってこれない闇の色。
見ているだけで気持ちが凍りつきそうになるくらいの恐ろしい色。
「……ぴょんこちゃん?」
ぴょんこちゃんは振り向いた。
でもその表情は虚ろで、ぼくのことを見ているのかどうかもわからない。
「バカッ! オマエも取り込まれるぞッ! こっちへ来いッ!」
突然、腕を引っ張られ、千切れそうになる肩を抑えながら亡いぐるみの丘の陰へ。
ぼくは、ここまで引っ張ってくれたペンギンのぬいぐるみに尋ねた。
「……あれはどういうことですか? ぴょんこちゃんはどうしちゃったんですか?」
「あれの名前は誰も知らない。ただ、ニンゲンの言葉を借りてオイラたちはゾンビって呼んでいる」
「ゾンビ?」
「ああ。ニンゲンに裏切られた、捨てられたって思っちゃったぬいぐるみや人形たちは、ああやって闇色に染まる。そしてその悲しい気持ちは隣に居るだけで伝染しちまうんだ」
「そんな……」
間に合わなかったのだろうか。
チャンスはあると思っていたのに。
おともだちの従妹が次に遊びに来たとき、おともだちが尋ねていたんだ。
買ってもらった新しい人形、要らないって言ったんだって、と。
おともだちのお母さんも言っていた。
前に大事にしていたぴょんこちゃんは、もっと小さな子のために保育園へあげちゃったみたいよ、と。
ぴょんこちゃんの名前はまだ忘れられていない。
だから、間に合うと思ったのに。
ぼくらが忘れられたくにへ旅立つときには、ぼくら自身がおともだちの名前を忘れないといけない。
とっても大切な、かけがえのない名前を忘れることは、自分の身を引き裂かれるほどつらいこと。
そしてそれを乗り越えたぼくらが忘れられたくにへ到着すると、現世ではぼくらの存在が消える。
まず姿が見えなくなり、どこへ行ったかわからなくなる。
そしてだんだんおともだちもぼくらの名前を、存在を忘れていく。
ぴょんこちゃんは、勘違いしたまま自分のおともだちの名前を忘れてしまったから、ぴょんこちゃんのおともだち家族はもう、ぴょんこちゃんのことを見つけられない。
でも、名前をまだ覚えていたから、まだ間に合うかもってぼくはここへ来たんだ。
ぼく自身のおともだちの名前を、泣きながら忘れることで。
ぼくのおともだちはもう、ぼくがいなくともやっていけるって。
「……でも、ぼくは行きます。だってそのために来たのだから」
「無理だ。ああなっちまったら助かる方法はない」
「そうかな……ぼくはあきらめない」
「どうしてだ? どうしてオマエはそんなに……」
「ぼくに想い出をたくさんくれたおともだちが、そういう子だったんだ。だからぼくの中には、あきらめない気持ちがたくさんつまってる」
ぼくはペンギンに笑顔でお礼を言うと、再びぴょんこちゃんのもとへと走った。
笑顔を失くした闇色のぴょんこちゃん。
虚ろな表情のぴょんこちゃんを抱きしめて、ぼくは歌った。
ぴょんこちゃんが、ぴょんこちゃんのおともだちによく歌ってもらったって自慢していたお歌を。
歌いながらも全身の力が抜けてゆくのを感じる。
でも、ぼくは伝えなきゃいけない。
ぴょんこちゃんのおともだちの言葉を。
「保育園へあげる」と勝手に決めたのは、ぴょんこちゃんのおともだちではなく、そのママだけだから。
ぴょんこちゃんのおともだちは泣いていたんだ。
『どうしてぴょんこをあげちゃったの? どんなにあたらしいこがふえても、ぴょんこはいっしょうわたしのだいじなかぞくなんだから! ママはわたしにおとうとやいもうとができてもわたしをすてないでしょ?』
ぴょんこちゃんは嘆く必要はなかったんだよ。
「うそ……信じない……だってわたしは……」
ぴょんこちゃんが声を出した。
凍りついていた気持ちが再び溶け始めたみたい。
「ぴょんこちゃん、気持ちを取り戻したんだね……良かった」
「ああっ、でも私のせいであなたが」
ぴょんこちゃんはぼくの擦り切れそうになっている生地に、優しく触れてくれる。
「いいんだ。ぼくのおともだちはもう、ぼくを卒業しているから……それより、ぼくにつかまって。ぼくが、メリーの塔のてっぺんまで連れて行ってあげるから」
「だって、わたし……もう……」
「ぴょんこちゃんのおともだちは言っていたよ。ぴょんこちゃんはいっしょうだいじなかぞくだって。信じなよ。ぴょんこちゃんの大切なおともだちでしょ?」
言葉に詰まって何度もうなずくぴょんこちゃんを背負い、ぼくはメリーの塔を登り始めた。
ぴょんこちゃんを助けたい、その一心で。
どれほどの時間が経過したかはわからない。
ぬいぐるみだから痛みや疲れはない。
今は背中のぴょんこちゃんを助けられた喜びが、ぼくの手足を動かしてくれている。
ふと、周囲の景色が変わっていることに気付いた。
夕焼け色の廊下。
ぼくはいつの間にか、登っているのではなく、歩いていた。
その廊下を。
なんだろう。この廊下は、ほんのり温もりを感じる。
もう思い出せないおともだちの、ほっぺの温もりに似た感じを。
「こちらよ」
急に女の人の声が聞こえた。
「だ、だれ?」
「わたし、メリーさん、いまあなたのうしろにいるの」
「えっ、メリーさん? ……もしかして、メリーの塔を作ったお人形の?」
「そうよ」
「じゃあここは……」
「現世よ。あなたがメリーの塔を登りきれたということは、あなたの中におともだちとの想い出がまだ燃やし尽くされずに残っているということ。すなわちあなたのおともだちの中にもまだ、あなたとの幸せな時間の余韻が残っていたということ」
予想だにしていなかった幸せな言葉に、飛び跳ねたくなる気持ちをぐっと堪えて、ぼくは尋ねた。
「あの……ぴょんこちゃんがおともだちのところへ戻る方法は……」
「あるかもしれない。誰かに背負われて来ようとも、ここにたどり着けたということは、あなたたちとおともだちだったニンゲンたちとの間に、まだ絆の赤い糸が残っているということだから」
「絆の赤い糸?」
今度はぴょんこちゃんもぼくの背中から降りて、一緒に尋ねた。
「そう。あなたたちは、その糸を使って体を直すことができる。そのとき、あなたたちがおともだちの名前をもう一度、心のなかで呼べば、あなたたちは帰ることができる」
「やったー!」
ぼくの横でぴょんこちゃんがぴょこぴょこと飛び跳ねる。
「ここからはそれぞれ、ひとりずつよ」
メリーさんは廊下の先にある夕焼け色の二つの扉を指した。
なんとなくわかった。右側がぼくので、左側のがぴょんこちゃんのだって。
ぴょんこちゃんはぼくに投げキッスをして、それから嬉しそうに走っていってぴょんこちゃんのほうの扉を開けた。
「あの……ぼくは、ぴょんこちゃんのほうを見てからでもいいですか?」
「大丈夫よ」
ぼくは扉の隙間から、そっと覗いた。
『ちょっと待って! この子っ! この子売り物ですかっ?』
夕暮れ近いフリーマーケットの店頭に、ちょこんと座っているぴょんこちゃんを高校生くらいの女のニンゲンが見つけて、しゃがみ込んでいた。
『あれ? いたっけかな、この子……』
『あの、売ってください! 小さい頃に大事にしてて、親に勝手によそにあげられちゃった子に……とっても大切にしてたぬいぐるみにそっくりなんです!』
『あー、そういうことなら、持っていっていいよ』
『あのお代は……』
『私は迷子の子を保護していただけ。迷子を迎えに来た家族からお金を取る人なんて世の中にはいないわよ。それでいいじゃない』
『ありがとうございますっ!』
抱きしめられているぴょんこちゃんはとっても嬉しそうだった。
良かった。
ぼく、頑張って本当に良かった。
「次はあなたの番よ」
視界が突然開けて、ぼくは夕焼け色に染まった部屋に居た。
そして足が震えた。
ぼくのおともだちが、部屋へと入ってきたから。
もう子供ではなくなっていたおともだちが。
名前は思い出せないけれど、絶対にぼくの大好きで大切な相棒で家族なおともだち。
あまりにも突然過ぎて、喜びよりも、勝手に居なくなってしまった申し訳なさのほうが勝って、ぼくは目の前にあったミシンの陰に隠れてしまった。
おともだちは優しい目でミシンのハンドルを回す。
ああ、懐かしいなぁ。
おともだちのおばあちゃんの家にあった空色のミシンだ。
空色だから空へ行けるはずって、おともだちはこのミシンを宇宙船って決めたんだっけ。
ぼくをこの宇宙船に乗せて、宇宙旅行に連れて行ってくれたんだよな。
いろんな星の話を、ぼくに語ってくれたおともだち。
ぼくとおともだちはいろんな冒険を一緒にした。
ああ。
思い出せた、それだけで、とっても気持ちが満たされる。
そんな幸せな時間は、長いようで、あっという間だ。
足音が遠ざかる。
その後ろ姿を眺めようとミシンの陰から少しだけ覗いたら、おともだちと目が合った。
昔と変わらず、とても温かい目をしていた。
おともだちは戻ってくる。
その指先に赤い糸が見える。
ああそうか。
もう少しだけ、力を、ください。
ぼくはその糸で自分の体の解れたところを直す。
もう、おともだちの名前は思い出せていた。
ここでぼくがその名前を呼んだら、おともだちはぼくを連れて行ってくれるのかもしれない。ぴょんこちゃんみたいに。
でも。
ぼくは名前を呼ばなかった。
心を込めてお辞儀をして、心のなかでさよならを言った。
気がついたら、再び夕焼け色の廊下にいた。
「いいの? 一生に一度の大チャンスだったのに」
「大丈夫です。傷は直しましたから」
「でもおともだちはもう居ないのよ」
「ぼく、やりたいことを見つけたんです」
「やりたいこと?」
「メリーさんが塔を、ここを作ったように、ぼくは仲間を助けたい。本当はまだ一緒に居れたのに、勘違いで忘れられたくにへ来てしまったぬいぐるみや人形たちを、ゾンビになってしまった仲間を、助けたい。ぼくが背負ってここまでまた登れたら、もう一度おともだちと再会できるかもしれない」
「そんな気持ちを抱えているなんて……あなたのおともだちはよっぽど素敵な心を持っている方なのね」
「はい。ぼくの最高の自慢です!」
忘れられたくにには今、たくさんの塔がある。
おともだちももう遠い空へ旅立ってしまい、帰る場所のなくなったぬいぐるみや人形たちが、まだ帰る場所のある仲間のために、その身を捧げて作った塔が。
今日もたくさんのぬいぐるみや人形たちがその塔を登る。
ときには誰か他のぬいぐるみや人形を背負って。
奇跡は勝手には起こらない。
惜しみなく愛情をそそがれたからこそ、ぬいぐるみや人形たちはその想い出を胸に燃やして、今日も塔を登っている。
<終>
それが忘れられたくにの第一印象だった。
重くのしかかるような黒雲の天蓋はところどころに光の亀裂が走り、その向こうには現世が垣間見えた。
そして日々積み重ねられつつある大地は、心を失い固くなったたくさんのぬいぐるみたち。
ぼくもいつかこの大地の一部になってしまうのだろうかと考えてしまうと、急に寒さを覚えて生地の目が詰まる。
いや、でも。
まだ来たばかりじゃないか。
ここでくじけちゃいけない。
何をしに来たのかを思い出せ。
初恋のぴょんこちゃんを助けに来たんだろう?
足の裏が擦り切れそうになるくらい固い「亡いぐるみ」――ぬいぐるみの終焉の姿に謝りながらも踏みしめて、ぼくは塔を目指す。
忘れられたくにで唯一の希望と噂されるメリーの塔を。
ぼくとぴょんこちゃんがはじめて会ったのはおともだちの部屋。
おともだちというのは、ぼくの大好きで大切な相棒で家族なニンゲンの子供。
おともだちはもうぼくで遊ばなくなったけど、部屋の片隅にぼくをずっと置いてくれている。
ぴょんこちゃんはうさぎのぬいぐるみ。
くりくりのお目々、真っ白い生地に赤いワンピース。とっても可愛い子。
ぴょんこちゃんのおともだちは、おともだちの従妹で、週末になるとよく遊びにくる。
おやつの時間におともだちたちがリビングへ行ったとき、ぼくとぴょんこちゃんはふたりきりになる。
ぼくらはいろんな話をして仲良くなって、そのうちぼくはぴょんこちゃんに恋をした。
そんなぴょんこちゃんがある日、不安そうな声でこう言った。
「ねぇ、忘れられたくにって知ってる?」
「知っているよ」
おともだちがぼくで遊ばなくなったとき、ぼくはそれを知ったから。
そもそもぼくらは、ニンゲンと関わることで気持ちが宿る存在。
こうして考えることもできるようになったのは、おともだちに大切にしてもらえたから。
誰かの特別になったぬいぐるみは、自分の運命を感じ取ることができるようにもなる。
おともだちとのお別れのときを。
おともだちがぼくらから卒業することを。
そのとき、ぼくらの前には二つの道が現れる。
忘れられたくにへすぐに行くか、それとももうしばらく行かずにおともだちを見守るか。
忘れられたくには、魂をもたずに作られた物に後から宿った気持ちのような存在が、現世を離れたときに流れ着く死物のくに。
ぬいぐるみでなんとなく意識を持ったときのように、おともだちとのお別れが近づくと忘れられたくにのこともなんとなく認識する。
ぼくの場合、おともだちがぼくを手放さずにいつもおともだちを見守れる場所にぼくを飾ってくれたから後者を選んだけど、押入れに押し込まれたり、特定のおともだちができないような場所に送られたり、捨てられたりしたぬいぐるみは、忘れられたくにへ行く以外の道を選べない。
「あそこはおともだちがぼくらを卒業したあと、行き場のなくなったぬいぐるみがたどり着く場所だよ」
「わたし、そこに送られてしまうかもしれないの」
ぼくは驚いて、飾ってある場所から落ちそうになった。
「どうして? だってきみのおともだちはまだ小さいじゃないか。よそのお家へ遊びに行くときだって連れてきてもらえるきみは、まだまだ一緒にいられるはずさ」
「わたし、聞いちゃったの。おともだちが今度のクリスマスプレゼントに、新しいお人形がほしいって言っていたのを。お人形のおうちつきのごうかなやつよ」
「お人形を手に入れたとしても、おともだちから君への愛がなくなるわけじゃないはずだよ」
ぼくは一生懸命ぴょんこちゃんを励ましたけど、ぴょんこちゃんの表情は帰るときまで暗いままだった。
そして、それがぴょんこちゃんを見た最後だった。
「ぴょんこちゃん……」
幾重にも連なる亡いぐるみの丘を数え切れないほど超えて、ぼくはそれを見つけた。
メリーの塔。
ぬいぐるみ丘陵と人形平原との間に建つ、巨大な塔。
それは、すべて亡いぐるみと「寝ん形」――心を凍てつかせ永き眠りについた人形とで形作られた塔。
昔、メリーさんという人形がこの忘れられたくにへ流れ着いたとき、もう一度おともだちに会いたいと、周りのまだ寝ん形になっていない人形たちに呼びかけて作り始めたもの。
寝ん形になって固まって仲間の上へ登り、そこで固まってもまた別の誰かがさらにその上へと登り、皆で協力してあの現世が見える裂け目まで届こうじゃないか、と。
やがて人形だけじゃなくぬいぐるみも加わり、メリーの塔が作られていった。
ぬいぐるみも人形も、気持ちの奥に残るおともだちとの想い出を燃やして動くことができる。
たくさんの想い出をもらったぬいぐるみや人形は、よりたくさん動くことができる。
皆、最後の想い出を振り絞って、メリーの塔の高い場所へと登り、そこで固まり、次の仲間たちの礎となった。
ぼくにメリーの塔のことを教えてくれたクマスケさんも、今はもうはるか後ろで亡いぐるみになってしまった。
「オレに構わず行けよ。ぴょんこちゃんもきっとメリーの塔を、オレたちの希望を目指すはずだ」
そう言い残して。
ぼくの足が心なしか早くなる。
希望がそこに見えているから。
ぴょんこちゃんにもう一度会えるかもしれないから。
全身がボロボロになりながらも、かろうじて中身をこぼさずにぼくはたどり着く。
メリーの塔の麓に。
そして、我が目を疑った。
確かにぴょんこちゃんはそこに居た。
でも、久しぶりに再開したぴょんこちゃんは、真っ黒になっていた。
泥んことかそういう黒じゃない。
光が戻ってこれない闇の色。
見ているだけで気持ちが凍りつきそうになるくらいの恐ろしい色。
「……ぴょんこちゃん?」
ぴょんこちゃんは振り向いた。
でもその表情は虚ろで、ぼくのことを見ているのかどうかもわからない。
「バカッ! オマエも取り込まれるぞッ! こっちへ来いッ!」
突然、腕を引っ張られ、千切れそうになる肩を抑えながら亡いぐるみの丘の陰へ。
ぼくは、ここまで引っ張ってくれたペンギンのぬいぐるみに尋ねた。
「……あれはどういうことですか? ぴょんこちゃんはどうしちゃったんですか?」
「あれの名前は誰も知らない。ただ、ニンゲンの言葉を借りてオイラたちはゾンビって呼んでいる」
「ゾンビ?」
「ああ。ニンゲンに裏切られた、捨てられたって思っちゃったぬいぐるみや人形たちは、ああやって闇色に染まる。そしてその悲しい気持ちは隣に居るだけで伝染しちまうんだ」
「そんな……」
間に合わなかったのだろうか。
チャンスはあると思っていたのに。
おともだちの従妹が次に遊びに来たとき、おともだちが尋ねていたんだ。
買ってもらった新しい人形、要らないって言ったんだって、と。
おともだちのお母さんも言っていた。
前に大事にしていたぴょんこちゃんは、もっと小さな子のために保育園へあげちゃったみたいよ、と。
ぴょんこちゃんの名前はまだ忘れられていない。
だから、間に合うと思ったのに。
ぼくらが忘れられたくにへ旅立つときには、ぼくら自身がおともだちの名前を忘れないといけない。
とっても大切な、かけがえのない名前を忘れることは、自分の身を引き裂かれるほどつらいこと。
そしてそれを乗り越えたぼくらが忘れられたくにへ到着すると、現世ではぼくらの存在が消える。
まず姿が見えなくなり、どこへ行ったかわからなくなる。
そしてだんだんおともだちもぼくらの名前を、存在を忘れていく。
ぴょんこちゃんは、勘違いしたまま自分のおともだちの名前を忘れてしまったから、ぴょんこちゃんのおともだち家族はもう、ぴょんこちゃんのことを見つけられない。
でも、名前をまだ覚えていたから、まだ間に合うかもってぼくはここへ来たんだ。
ぼく自身のおともだちの名前を、泣きながら忘れることで。
ぼくのおともだちはもう、ぼくがいなくともやっていけるって。
「……でも、ぼくは行きます。だってそのために来たのだから」
「無理だ。ああなっちまったら助かる方法はない」
「そうかな……ぼくはあきらめない」
「どうしてだ? どうしてオマエはそんなに……」
「ぼくに想い出をたくさんくれたおともだちが、そういう子だったんだ。だからぼくの中には、あきらめない気持ちがたくさんつまってる」
ぼくはペンギンに笑顔でお礼を言うと、再びぴょんこちゃんのもとへと走った。
笑顔を失くした闇色のぴょんこちゃん。
虚ろな表情のぴょんこちゃんを抱きしめて、ぼくは歌った。
ぴょんこちゃんが、ぴょんこちゃんのおともだちによく歌ってもらったって自慢していたお歌を。
歌いながらも全身の力が抜けてゆくのを感じる。
でも、ぼくは伝えなきゃいけない。
ぴょんこちゃんのおともだちの言葉を。
「保育園へあげる」と勝手に決めたのは、ぴょんこちゃんのおともだちではなく、そのママだけだから。
ぴょんこちゃんのおともだちは泣いていたんだ。
『どうしてぴょんこをあげちゃったの? どんなにあたらしいこがふえても、ぴょんこはいっしょうわたしのだいじなかぞくなんだから! ママはわたしにおとうとやいもうとができてもわたしをすてないでしょ?』
ぴょんこちゃんは嘆く必要はなかったんだよ。
「うそ……信じない……だってわたしは……」
ぴょんこちゃんが声を出した。
凍りついていた気持ちが再び溶け始めたみたい。
「ぴょんこちゃん、気持ちを取り戻したんだね……良かった」
「ああっ、でも私のせいであなたが」
ぴょんこちゃんはぼくの擦り切れそうになっている生地に、優しく触れてくれる。
「いいんだ。ぼくのおともだちはもう、ぼくを卒業しているから……それより、ぼくにつかまって。ぼくが、メリーの塔のてっぺんまで連れて行ってあげるから」
「だって、わたし……もう……」
「ぴょんこちゃんのおともだちは言っていたよ。ぴょんこちゃんはいっしょうだいじなかぞくだって。信じなよ。ぴょんこちゃんの大切なおともだちでしょ?」
言葉に詰まって何度もうなずくぴょんこちゃんを背負い、ぼくはメリーの塔を登り始めた。
ぴょんこちゃんを助けたい、その一心で。
どれほどの時間が経過したかはわからない。
ぬいぐるみだから痛みや疲れはない。
今は背中のぴょんこちゃんを助けられた喜びが、ぼくの手足を動かしてくれている。
ふと、周囲の景色が変わっていることに気付いた。
夕焼け色の廊下。
ぼくはいつの間にか、登っているのではなく、歩いていた。
その廊下を。
なんだろう。この廊下は、ほんのり温もりを感じる。
もう思い出せないおともだちの、ほっぺの温もりに似た感じを。
「こちらよ」
急に女の人の声が聞こえた。
「だ、だれ?」
「わたし、メリーさん、いまあなたのうしろにいるの」
「えっ、メリーさん? ……もしかして、メリーの塔を作ったお人形の?」
「そうよ」
「じゃあここは……」
「現世よ。あなたがメリーの塔を登りきれたということは、あなたの中におともだちとの想い出がまだ燃やし尽くされずに残っているということ。すなわちあなたのおともだちの中にもまだ、あなたとの幸せな時間の余韻が残っていたということ」
予想だにしていなかった幸せな言葉に、飛び跳ねたくなる気持ちをぐっと堪えて、ぼくは尋ねた。
「あの……ぴょんこちゃんがおともだちのところへ戻る方法は……」
「あるかもしれない。誰かに背負われて来ようとも、ここにたどり着けたということは、あなたたちとおともだちだったニンゲンたちとの間に、まだ絆の赤い糸が残っているということだから」
「絆の赤い糸?」
今度はぴょんこちゃんもぼくの背中から降りて、一緒に尋ねた。
「そう。あなたたちは、その糸を使って体を直すことができる。そのとき、あなたたちがおともだちの名前をもう一度、心のなかで呼べば、あなたたちは帰ることができる」
「やったー!」
ぼくの横でぴょんこちゃんがぴょこぴょこと飛び跳ねる。
「ここからはそれぞれ、ひとりずつよ」
メリーさんは廊下の先にある夕焼け色の二つの扉を指した。
なんとなくわかった。右側がぼくので、左側のがぴょんこちゃんのだって。
ぴょんこちゃんはぼくに投げキッスをして、それから嬉しそうに走っていってぴょんこちゃんのほうの扉を開けた。
「あの……ぼくは、ぴょんこちゃんのほうを見てからでもいいですか?」
「大丈夫よ」
ぼくは扉の隙間から、そっと覗いた。
『ちょっと待って! この子っ! この子売り物ですかっ?』
夕暮れ近いフリーマーケットの店頭に、ちょこんと座っているぴょんこちゃんを高校生くらいの女のニンゲンが見つけて、しゃがみ込んでいた。
『あれ? いたっけかな、この子……』
『あの、売ってください! 小さい頃に大事にしてて、親に勝手によそにあげられちゃった子に……とっても大切にしてたぬいぐるみにそっくりなんです!』
『あー、そういうことなら、持っていっていいよ』
『あのお代は……』
『私は迷子の子を保護していただけ。迷子を迎えに来た家族からお金を取る人なんて世の中にはいないわよ。それでいいじゃない』
『ありがとうございますっ!』
抱きしめられているぴょんこちゃんはとっても嬉しそうだった。
良かった。
ぼく、頑張って本当に良かった。
「次はあなたの番よ」
視界が突然開けて、ぼくは夕焼け色に染まった部屋に居た。
そして足が震えた。
ぼくのおともだちが、部屋へと入ってきたから。
もう子供ではなくなっていたおともだちが。
名前は思い出せないけれど、絶対にぼくの大好きで大切な相棒で家族なおともだち。
あまりにも突然過ぎて、喜びよりも、勝手に居なくなってしまった申し訳なさのほうが勝って、ぼくは目の前にあったミシンの陰に隠れてしまった。
おともだちは優しい目でミシンのハンドルを回す。
ああ、懐かしいなぁ。
おともだちのおばあちゃんの家にあった空色のミシンだ。
空色だから空へ行けるはずって、おともだちはこのミシンを宇宙船って決めたんだっけ。
ぼくをこの宇宙船に乗せて、宇宙旅行に連れて行ってくれたんだよな。
いろんな星の話を、ぼくに語ってくれたおともだち。
ぼくとおともだちはいろんな冒険を一緒にした。
ああ。
思い出せた、それだけで、とっても気持ちが満たされる。
そんな幸せな時間は、長いようで、あっという間だ。
足音が遠ざかる。
その後ろ姿を眺めようとミシンの陰から少しだけ覗いたら、おともだちと目が合った。
昔と変わらず、とても温かい目をしていた。
おともだちは戻ってくる。
その指先に赤い糸が見える。
ああそうか。
もう少しだけ、力を、ください。
ぼくはその糸で自分の体の解れたところを直す。
もう、おともだちの名前は思い出せていた。
ここでぼくがその名前を呼んだら、おともだちはぼくを連れて行ってくれるのかもしれない。ぴょんこちゃんみたいに。
でも。
ぼくは名前を呼ばなかった。
心を込めてお辞儀をして、心のなかでさよならを言った。
気がついたら、再び夕焼け色の廊下にいた。
「いいの? 一生に一度の大チャンスだったのに」
「大丈夫です。傷は直しましたから」
「でもおともだちはもう居ないのよ」
「ぼく、やりたいことを見つけたんです」
「やりたいこと?」
「メリーさんが塔を、ここを作ったように、ぼくは仲間を助けたい。本当はまだ一緒に居れたのに、勘違いで忘れられたくにへ来てしまったぬいぐるみや人形たちを、ゾンビになってしまった仲間を、助けたい。ぼくが背負ってここまでまた登れたら、もう一度おともだちと再会できるかもしれない」
「そんな気持ちを抱えているなんて……あなたのおともだちはよっぽど素敵な心を持っている方なのね」
「はい。ぼくの最高の自慢です!」
忘れられたくにには今、たくさんの塔がある。
おともだちももう遠い空へ旅立ってしまい、帰る場所のなくなったぬいぐるみや人形たちが、まだ帰る場所のある仲間のために、その身を捧げて作った塔が。
今日もたくさんのぬいぐるみや人形たちがその塔を登る。
ときには誰か他のぬいぐるみや人形を背負って。
奇跡は勝手には起こらない。
惜しみなく愛情をそそがれたからこそ、ぬいぐるみや人形たちはその想い出を胸に燃やして、今日も塔を登っている。
<終>
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奇譚、SF、ファンタジー、軽めの怪談などの風味を集めた短編集です。
ジャンルを横断しているように見えるのは、「日常にある悲喜こもごもに非日常が少し混ざる」という意味では自分の中では同じカテゴリであるからです。アルファポリスさんに「ライト文芸」というジャンルがあり、本当に嬉しいです。
念のためタイトルの前に風味ジャンルを添えますので、どうぞご自由につまみ食いしてください。
読んでくださった方の良い気分転換になれれば幸いです。
保健室の秘密...
とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。
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吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。
僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。
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「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」
それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。
後悔と快感の中で
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