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お題【障子】

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 理由がわからなかった。
 なぜ彼女が僕を置き去りにしたのか。

 僕を嫌いになったのかと問えばそうじゃないと答える。
 僕と一緒に暮らすのは嫌かと聞いてもそうじゃないと答える。
 じゃあどうしてという問いには頑なに答えてはくれない。
 新居の、引っ越しの最中に、彼女は僕と荷物を置いて、実家へ帰ってしまった。



 彼女と最初に出逢ったのは、僕がこの会社に入ってすぐの頃。
 世の中ではコンプライアンスがあれだけ叫ばれているにも関わらず、僕は最初の歓迎会でけっこう飲まされ、居酒屋のトイレでもどしてしまった。
 そんな惨めな僕の世話をしてくれたのが、一年先輩の彼女だった。

 最初は恋愛感情なんてなかった。
 美人ではあったけど、どこか近寄り難い雰囲気をまとう彼女には、ただただ、感謝と陳謝の気持ちしかなかった。
 でも、ずっと平身低頭の僕にある日、彼女はこう言った。

「本当に悪いと思ってる? 条件反射で謝っているだけなら、その謝罪は私のためじゃなく、あなた自身のため。単なる自己満足にしか感じない」

 本当に恥ずかしかった。
 情けなくて、いたたまれなくて、悔しくて、申し訳なくて、僕は思わず、彼女の前で泣いてしまった。
 そのことがまたさらに申し訳なくて、僕は泣きながら、彼女に聞いた。

「僕自身じゃなく、先輩を満足させたいです。どうしたらよいか、教えてください」

 我ながら空気の読めなさっぷりがとんでもない。
 でも、彼女にはそれがツボだったみたいで笑ってくれて……なぜか、彼女を満足させるためにデートするって話になっていて。

 僕は一生懸命、デートプランを練った。
 最初のデートは水族館。定番と思わせておいてバックヤードツアー。
 他の先輩から、彼女の故郷は山の中って聞いていたから、海とか魚とかはテンション上がるんじゃないかって狙ってみたらこれが小ヒット。
 けっこう喜んでもらえて……でも採点はギリギリ及第点。
 リベンジってことでまたデートすることになって……気がついたら月に数回デートするのが当たり前になっていた。

 いつしか僕は、彼女にベタ惚れだった。
 職場では滅多に笑わない彼女だけど、ツボに入ったときの笑顔には、何度でもハートを射抜かれる。
 普段のギャップもあって反則級の笑顔。

 デートした回数を数えるのをやめ、僕が新人を教える立場になった頃、僕は彼女に真剣に交際を申し込んだ。
 というかプロポーズした。
 彼女は、しばらく黙って考え込んだあと、僕のプロポーズを受けてくれた。
 そしてその夜、僕らは初めて結ばれた。

 僕に辞令が下ったのはそれからちょっとしてからのこと。
 地方への転勤とはいえ、一応は出世コース。
 彼女は仕事をやめ、僕と一緒に来てくれると言う。
 当初は単身者用の社宅を用意すると言っていた会社側も、新婚の僕らのために中古の一軒家を借り上げ社宅扱いにしてくれた。

 そして二人の新しい生活が始まるはずだった今日という日に、彼女は突然去っていった。



 ああ、いけない。
 彼女との出遭いから今までのことを思い返すとなんだか走馬灯みたいだ。

 頭を振り、頬を叩き、冷たい水を飲む。
 彼女は言ってくれたじゃないか。
 一緒に住めないけど愛しているのだと。
 離婚届を置いていかれたわけじゃない。
 僕は気を取り直して、引っ越し作業を無理やり続け、そして半分以上荷解きをしないままの状態で、その家に暮らすようになった。

 寂しさはなんとか紛らわせることができた。
 彼女とは毎晩、連絡を取っていたから。
 彼女の笑顔を見ながらついつい話し込み、夜更ししてしまうことも度々あった。
 それでも、突然実家へ帰ってしまった理由は決して語ってはくれなかった。
 いや、決してっていうのは大げさだな。
 実家に帰ったあとの彼女に、僕は一度しか尋ねなかったのだから。
 そこで言葉を濁した彼女に対し、僕は聞くのをやめた。
 言えない理由があるんだろうって。
 そこを問い詰めるのは、僕の自己満足でしかないよなって思ったから。

 やがて半年が過ぎた頃、彼女が、電話にしか出てくれなくなった。
 彼女の笑顔が見たいとちょっと食い下がったけれど、彼女とのやり取りは声か、言葉だけ。
 僕は無理やり有給休暇をもぎ取り、結婚式のときの送り状から彼女のご両親の住所を探し出し、彼女の実家まで逢いに行った……彼女に内緒で。



 結論から言うと、彼女の実家には入れてもらえなかった。
 彼女の実家がある村までのバスは一日に二本しかない。
 辺りは暮れ始め……そんな状況だってのに、だ。

 玄関の前にしゃがみ込み、うなだれる僕の肩を、お義父さんが軽く叩いた。
 車で、近くの大きな街まで送ってくれるという。
 他に選択肢など見つけられようもない僕は、その言葉に静かに従った。

 しばらくは無言だったお義父さんは、大きな道路に出て少し走ってから、ようやく重い口を開いてくれた。

「君が悪いわけじゃないんだ。許してほしい」

「許すも許さないもないです……今でもずっと愛してますし、僕が逢いたくて仕方がなかったってだけで……理由を教えてもらえないのは、寂しいですけれど」

「あと数ヶ月だけ待ってほしい」

「……わかりました。待っています」

 それ以上の会話はなかった。
 僕は送ってもらった街で一泊し、翌朝、帰路についた。



 それから数ヶ月後、彼女は戻ってきた。
 小さな小さな遺骨を抱えて。

 彼女の村では、古くから言い伝えがあって、身籠った女性は障子に触れてはならないのだそうだ。
 障子を口にしても目にしてもいけないという。
 実際、彼女の村の家々は、和風の家が多いにも関わらず、障子がある家は一つもないという……そう。僕らがあてがわれた一軒家には、障子があったのだ。
 障子は、「障りのある子」へとつながるから縁起が良くないと……そんなソフトな表現のあと、彼女は話を終わらせたそうだったから、僕もそこで話題を変えた。



 今では、僕は会社を辞め、今は彼女の実家の近くで洋室ばかりの小さな一軒家を借り、彼女と長男と一緒に暮らしている。
 もちろん、長女の遺骨も一緒だ。

 ただ最近、その遺骨が、遺骨じゃないような気がしてならない。
 僕の勘違いだったらいいんだけど……深夜、僕のことを呼ぶ女の子の声が聞こえる、ような。



<終>
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