66 / 128
お題【お休みなさいを言う前に】
しおりを挟む
30分前のアラームが鳴った。
もうこんな時間か。
私はいそいで準備を済ませると、その時が来るのを待つ。
時間がぴったり決まっているわけじゃない。だいたいこの時間……ああ、この待っている時間がとても心臓に悪い。
キィ……。
廊下の向こうのドアが開く音。
ガサ、ガサ。
廊下に敷いたビニルシートの上を歩いてきている音。
ガサ、ガサ。
もうそろそろか。
私は丈夫なラップを、顔を覆えるくらい引き出すと、それを自分の顔へ、仮面のように貼り付けた。その上から眼鏡を付ける。これはラップが落ちないようにするため。それから素早く使い捨てポリ手袋をはめる。
ちょうどその時、眼鏡のフレームに、彼女の姿が見えた。
上下ピンクのトレーナーを着た、5歳の少女ゾンビ。
生前は私の娘だったナオミ。
ガサ、ガサ、ガサ。
ナオミは部屋の中へと入ってくる。もちろんこの部屋の床にもビニルシートを敷いてある。
そして私のすぐ目の前まできて、立ち止まる。
こぽ、ゴポこぽ。
ゾンビはしゃべることが出来ない。でも、なんて言っているつもりなのかは、私にもわかる。
「お休みなさいを言う前に」
彼女がかつてしゃべっていた言葉を、私は口にし、そして顎のラップが剥がれないよう押さえながら、彼女の額におやすみのキスをした。
こぽポ。
「おやすみ」
私はポリ手袋をはめたまま、彼女の頭を撫でる。
彼女は土気色の顔を無表情に保ったままゆっくりと回れ右して、ゆらり、ゆらりと、今来た道を戻ってゆく。
ガサ、ガサ、ガサ、ガサ……キィ。
彼女が自室に戻ったのを耳で確認し、私は急いで床を除菌ティッシュで拭く。さっき彼女が口を開いた時、こぼれ落ちた液体、あれに素肌が触れただけでも、感染してゾンビになる恐れがあるからだ。
眼鏡も除菌ティッシュで吹き、ラップを剥がし、最後にポリ手袋を内側からめくるように脱いで、それら全てをビニール袋に二重に入れて棄てる。
世界的に大流行したあの殺人ウイルスのおかげというのも変だけど、人類はゾンビウイルスに対し、かなりの初期段階から対策することに成功した。
だからこそ……危険なゾンビではあるが、私同様、今でも一緒に暮らしている人は少なくない。
それは、ゾンビが基本、人を襲わないからだ。
ゾンビは、生前に最もよく繰り返していた行為を繰り返す。偉い学者さんは「群れから追い出されないよう群れの一員として擬態し、その群れの仲間へ感染させようとするからじゃないか」と言っていた。
生前、他人をよく攻撃するタイプの人は当然、ゾンビになってからも人を襲う。もちろん、うちのナオミはそんな外道ゾンビではない。
昼間はずっとソファに寝転がってタブレットを眺め、寝る前のこの時間におやすみのキスをせがみに来る。
それだけ。
暴れるわけでもなければ、人を襲うわけでもない。生前の彼女と同じ様に、ほぼ同じ姿で、そこに存在し続けている。
見た目はちょっとアレだけど……ゾンビになっても、私の可愛い愛娘のまま、変わらない。
時々、実はまだ生きているんじゃないかと思うこともある。
腐敗臭だって想像以上にしない。群れに混ざるため、肉体の腐敗は信じられないほど緩やかだという。
ただいつか、ナオミには外へ出たがる時が訪れるはず。
偉い学者さんが言っていた。肉体の腐敗により移動できる能力を失う前に、ゾンビは今いる場所を離れて遠くへと旅立つ、と。群れへの感染から、遠く離れた新しい場所への感染へと切り替えるらしい。
そして旅を続け、さらに腐敗が進行し、とうとう動けなくなったゾンビは、周囲を感染させるべく勢いよく弾けるのだという。そんなゾンビの自爆は、こんなビニルシートやラップや手袋程度で防げるレベルじゃないそうで、その前にゾンビ処理隊に捕獲され、ゾンビ専用施設で燃やされるという。
ゾンビの旅立ちが、いつなのかわからない。ゾンビによって個人差があるらしいから。
生きていたって、子はいずれ、親の元を離れてゆくんだ。
今はそう思うことにしている。
ナオミがゾンビになって半年。
まだ半年なのか、もう半年なのかはわからないけれど、あともう少しだけ、私の娘としてここに居てほしい。
明日もまた、お休みなさいを言う前に。
私の可愛い娘にキスできますように。
<終>
もうこんな時間か。
私はいそいで準備を済ませると、その時が来るのを待つ。
時間がぴったり決まっているわけじゃない。だいたいこの時間……ああ、この待っている時間がとても心臓に悪い。
キィ……。
廊下の向こうのドアが開く音。
ガサ、ガサ。
廊下に敷いたビニルシートの上を歩いてきている音。
ガサ、ガサ。
もうそろそろか。
私は丈夫なラップを、顔を覆えるくらい引き出すと、それを自分の顔へ、仮面のように貼り付けた。その上から眼鏡を付ける。これはラップが落ちないようにするため。それから素早く使い捨てポリ手袋をはめる。
ちょうどその時、眼鏡のフレームに、彼女の姿が見えた。
上下ピンクのトレーナーを着た、5歳の少女ゾンビ。
生前は私の娘だったナオミ。
ガサ、ガサ、ガサ。
ナオミは部屋の中へと入ってくる。もちろんこの部屋の床にもビニルシートを敷いてある。
そして私のすぐ目の前まできて、立ち止まる。
こぽ、ゴポこぽ。
ゾンビはしゃべることが出来ない。でも、なんて言っているつもりなのかは、私にもわかる。
「お休みなさいを言う前に」
彼女がかつてしゃべっていた言葉を、私は口にし、そして顎のラップが剥がれないよう押さえながら、彼女の額におやすみのキスをした。
こぽポ。
「おやすみ」
私はポリ手袋をはめたまま、彼女の頭を撫でる。
彼女は土気色の顔を無表情に保ったままゆっくりと回れ右して、ゆらり、ゆらりと、今来た道を戻ってゆく。
ガサ、ガサ、ガサ、ガサ……キィ。
彼女が自室に戻ったのを耳で確認し、私は急いで床を除菌ティッシュで拭く。さっき彼女が口を開いた時、こぼれ落ちた液体、あれに素肌が触れただけでも、感染してゾンビになる恐れがあるからだ。
眼鏡も除菌ティッシュで吹き、ラップを剥がし、最後にポリ手袋を内側からめくるように脱いで、それら全てをビニール袋に二重に入れて棄てる。
世界的に大流行したあの殺人ウイルスのおかげというのも変だけど、人類はゾンビウイルスに対し、かなりの初期段階から対策することに成功した。
だからこそ……危険なゾンビではあるが、私同様、今でも一緒に暮らしている人は少なくない。
それは、ゾンビが基本、人を襲わないからだ。
ゾンビは、生前に最もよく繰り返していた行為を繰り返す。偉い学者さんは「群れから追い出されないよう群れの一員として擬態し、その群れの仲間へ感染させようとするからじゃないか」と言っていた。
生前、他人をよく攻撃するタイプの人は当然、ゾンビになってからも人を襲う。もちろん、うちのナオミはそんな外道ゾンビではない。
昼間はずっとソファに寝転がってタブレットを眺め、寝る前のこの時間におやすみのキスをせがみに来る。
それだけ。
暴れるわけでもなければ、人を襲うわけでもない。生前の彼女と同じ様に、ほぼ同じ姿で、そこに存在し続けている。
見た目はちょっとアレだけど……ゾンビになっても、私の可愛い愛娘のまま、変わらない。
時々、実はまだ生きているんじゃないかと思うこともある。
腐敗臭だって想像以上にしない。群れに混ざるため、肉体の腐敗は信じられないほど緩やかだという。
ただいつか、ナオミには外へ出たがる時が訪れるはず。
偉い学者さんが言っていた。肉体の腐敗により移動できる能力を失う前に、ゾンビは今いる場所を離れて遠くへと旅立つ、と。群れへの感染から、遠く離れた新しい場所への感染へと切り替えるらしい。
そして旅を続け、さらに腐敗が進行し、とうとう動けなくなったゾンビは、周囲を感染させるべく勢いよく弾けるのだという。そんなゾンビの自爆は、こんなビニルシートやラップや手袋程度で防げるレベルじゃないそうで、その前にゾンビ処理隊に捕獲され、ゾンビ専用施設で燃やされるという。
ゾンビの旅立ちが、いつなのかわからない。ゾンビによって個人差があるらしいから。
生きていたって、子はいずれ、親の元を離れてゆくんだ。
今はそう思うことにしている。
ナオミがゾンビになって半年。
まだ半年なのか、もう半年なのかはわからないけれど、あともう少しだけ、私の娘としてここに居てほしい。
明日もまた、お休みなさいを言う前に。
私の可愛い娘にキスできますように。
<終>
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》
小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です
◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ
◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます!
◆クレジット表記は任意です
※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください
【ご利用にあたっての注意事項】
⭕️OK
・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用
※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可
✖️禁止事項
・二次配布
・自作発言
・大幅なセリフ改変
・こちらの台本を使用したボイスデータの販売
闇鍋【一話完結短編集】
だんぞう
ライト文芸
奇譚、SF、ファンタジー、軽めの怪談などの風味を集めた短編集です。
ジャンルを横断しているように見えるのは、「日常にある悲喜こもごもに非日常が少し混ざる」という意味では自分の中では同じカテゴリであるからです。アルファポリスさんに「ライト文芸」というジャンルがあり、本当に嬉しいです。
念のためタイトルの前に風味ジャンルを添えますので、どうぞご自由につまみ食いしてください。
読んでくださった方の良い気分転換になれれば幸いです。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる