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お題【犯罪男】

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 わき腹が痛い。膝もガクガクと震え、指先から血の気が引いている気さえする。
 思い切り吸い込んだ空気が妙にカビ臭くて、むせる。
 それでも休んでいる暇はない。
 はるか後方から聞こえてくる足音に追い立てられるように私は先へと、また走り始めた。

 どうして、私がこんな目に……ただわかっているのは、ここで逃げないと幼い頃からの誓いが無駄になるのだけは確かだということ。

 全ての始まりは小学校の五年生の春だった。
 その日の宿題は作文だった。
 自分の名前の由来を調べて作文にするというもの。それまで自分の名前についてあまり深く考えていなかった私は、父にその由来を尋ね、深い意味があるのだなと感心し、そのままクラスで発表した。

「私の名前は『つみ男』です。私たちを見守ってくださる神様のように、人の持つ罪に向き合って生きていってほしい、という願いがこめられています」

 私の実家は教会で、父は神父だった。
 父は、私に神父として跡をついでもらいたかったらしく、それゆえに私にこの名前をつけたと言っていた。
 しかしクラスメイトは違った。
 その日から私のあだ名は『罪男』になり、しばらくすると『犯罪男』になった。
 私は深く傷つき、何よりもこの酷い仕打ちを父に知られたくなくて……不登校という殻に閉じこもったのだ。
 そんな私に対し、父も母も優しく接してくれた。それが余計につらかった。

 クラスメイト達が中学校に入学したその当日、私は教会の屋根に登ったことがある。そこは思ったよりもとても高くて、ここから飛び降りればもしかしたら楽になれるかもとさえ考えもした。
 毎日綺麗に掃除されている石畳、あれは痛そうだな、なんてぼんやりと眺めていたら、急に背後から父の声がした。

「死んだらダメだ!」

 いつでも落ち着いている父の、初めて聞く慌てた声だった。
 ああ、そうか。
 登ってきた梯子をそのままにしていたからすぐにわかっちゃったんだな、とか、気付いてほしくて、ざと梯子をそのままにしていたんだな、とか、そんなことをまるで他人事のように考えている私を、父は力強く抱きしめてくれた。
 その父の愛に押し出されるようにして、私はずっと誰にも話さず自分の中にため込んでいた感情を、言葉ではなく涙にして、外に全て流せたのだった。

 私はその時誓ったのだ。
 罪に向き合って生きていこう、と。
 誰に何を言われようとも胸を張っていられるよう清廉潔白に生きていこう、と。

 私はそこから猛勉強し、難関の私立中学に一浪で入学し、そこからはストレートに東大の法学部まで進学し、そしてこの春には司法試験予備試験にも合格した。
 もちろんこのまま司法試験にも合格する自信はある……のに。
 私は今いったい何をやっているのだ。

 ふと我に返る。
 ずっと逃げてきたこの地下通路の先に灯りが見えたから。
 確かこっちから外へ出られるはずと、とっさにこちらへ逃げてきた。
 でもそれは外ではなく、次の電車のヘッドライトだった。
 あの日、教会の屋根で見た景色がふわりと脳裏に浮かぶ。あの光に向かっていけば、楽になれるかも。そう考えたときだった。

「死んだらダメだ」

 そんな声が聞こえた。
 父の声とは少し違うなと思った次の瞬間、また声が聞こえた。

「俺はお前のせいで痴漢にされたんだ。お前も生きてその苦しみを味わえ」

 その言葉に心当たりがあった。半年前、電車の中で女性と揉めていた男を取り押さえた。法に携わる者として放ってはおけないと思ったからだ。

「本当に冤罪だったんだよ」

 声はどこからともなく、でもとても近くから聞こえる。
 急に足から力が抜け、その場に立ちすくむ。
 前方に見えた電車は停まっていることに気付いたし、背後の足音はもうずいぶんと近くなっていることにも気づけた。
 少し冷静になった今、さっきまでの自分に起きたことがはっきりと思い出せる。
 私のすぐ近くに居た女性が、本を持っている私の手を急につかんだ。

「なに本なんか持ってごまかしているの? 私の後ろにいたのあんたしか居ないんだから」

 女性はすごい剣幕だった。
 いざ当事者にされてみると、すぐには状況が見えて来ず、自分がまさに痴漢冤罪の被害者になろうとしていることに気付けたのは、ちょっとして周囲に人が集まりはじめてからだった。
 どう説明しても、信じてもらえなかったし、半年前の私のように私を取り押さえようとする人たちも現れた。
 ちょうどその時ドアが開き、とにかく飛び出して、後ろから何人かが追いかけてきて、逃げだしたらホームの端に追い詰められて……そして、私は地下鉄の線路へと飛び降りたのだった。

 ここで捕まったら、まず犯罪者に仕立て上げられる。
 現在の多くの事例においては、冤罪を覆せる確率はとても低い。
 それから私のことを『犯罪男』とからかった連中の顔が浮かんだ。
 無実だからこそ、捕まるわけにはいかないのだ。
 そして走って、走って……なのに。

 私は後ろから力強い腕に抱きしめられた。
 あの時のように私の中から涙があふれてきたけれど、自分の中に溜まっている感情は、少しも外へ出て行かなかった。
 父の愛に溢れた腕ではない。
 冷たく、体温が奪われる腕。
 きっとこの世のものじゃないんだろう……でもそれこそ痴漢冤罪以上に、誰も信じてくれはしないだろう。ああ……。



<終>
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