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お題【悪魔と死神】
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高くそびえるコンクリート製の壁を見上げて、俺たちは立ち尽くしていた。
「本当にここなのか?」
トムがディックの顔を覗き込むと、ずっと黙っていたディックがようやく口を開いた。
「あの男が落としてきたトウモロコシをたどったらここに着いたんだ。ここしか考えられない」
「繰り返すようだがよ、罠じゃないのか?」
「貴重な食料を無駄にしてまで俺たちをおびき寄せるメリットなんてあると思うか?」
「俺たちの留守を狙ってシェルターを乗っ取るとか……」
「その対策として、戦力のほとんどはシェルターに残してきているじゃないか」
二人のやりとりを聞きながら、俺はまだ事態を把握しきれないでいた。
「それにトウモロコシだぞ……乾燥モノとは言え、シェルターで育てている菜っ葉以外の植物、それもカタチを残したものなんてずいぶんと長い間見ていないんだ。探索するだけの価値は十分にある」
ディックが注意深く辺りをうかがってから車へと戻り、またエンジンをかけた。
「とりあえず回りこんで入り口を探そう」
車に戻りながら考える。
確かにトウモロコシは落ちていた。ただし、たどれたのは男を見つけた場所から1キロメートルがせいぜい。そこから先は方向を予測しながら進んできたのだ。「たどった」とは言いがたい。
それに食料と同じくらい貴重な燃料を使ってまで車を出していることも懸念材料の一つだ。
燃料が無駄になったら。待ち構えられていて車を奪われたら……本当に食料が手に入るのならばありがたいのは間違いないのだが……。
「おい……そこの亀裂から中に入れそうだぞ」
ディックの声で我に返った。少し向こうの壁の下部、人が這って通り抜けられそうな亀裂が見える。しかしその手前には焼け焦げたトラックの残骸。
「車体が錆び付いている……ずいぶん前のだな。貴重なトラックを潰してまで中へ入ろうだなんて食料のある確率は高まりはしたが……」
ディックの言わんとしていることはわかる。
争わなければ手に入らないという可能性、既に持っていかれてしまっている可能性、残骸の古さから昔はあったけれど今は……というパターンも。
「おいおいディックにハリーも。あのトウモロコシ男は死んでからそう経ってないぜ。トウモロコシはまだまだあるさ」
根拠のないトムの笑顔にちょっとだけ救われる。
「よし。俺から行く」
ディックは車から降りると這いつくばり、亀裂の向こうへと消え……そしてすぐのこと。
「なんだこれはっ!」
「ディック? どうした?」
俺も急いで壁の亀裂へと身をねじ込む。
やはり敵対する誰かが居たのか……もどかしさで時間が長く感じる。だが、そうではなかった。
壁の向こうに出た俺は思わず息を呑んでしまう。それほどまでに幻想的な風景が目の前に広がっていた。
「これは……一面の緑! これ全部トウモロコシなのか? こんな規模の農園が今の時代に残っているだと?」
目の前から向こう側へ果てしなく続く何本もの通路。その通路をしきる緑色の壁は、背が高く育ったトウモロコシなのだろう。
俺たちが抜けてきたコンクリの高い壁はずっと遠くまでこの畑を囲いこんでいる。
圧倒的に広い空間の内側全てに整然と並ぶ豊かに育った鮮やかなグリーン。
自分が目にしているものが信じられなくて、しばし呆然としながら見とれていた。
「ハリーさんよ、どいてくれないと俺が中に入れな……な、なんだよこれ!」
トムがテンションの上がった声を出す。しかしそれをディックが遮った。
「おい! あの塔を見ろ!」
ディックが指差す方向にある塔のてっぺんから、周囲に向かって何か液体が放射状に放たれはじめたのだ。俺はとっさに上着のフードを深く被り、トウモロコシの陰に身をかがめる。
「おいおいハリー、農園なんだ。こんなのただの水だろ」
笑いながらその液体を浴びたトムの表情がすぐに歪む。液体が付着した部分がすぐさま赤く腫れあがった。
「なんだこりゃっ……まさか侵入者を撃退する毒の罠かっ」
俺と同じようにジャケットでなんとか液体を阻んだディックが眉間にしわを寄せながら、その場にしゃがみこもうとするトムを抱きかかえて起こす。そして液体を浴びせないようにトウモロコシの陰へと移動する。
液体の放射は数分と経たずに止んだ。
「……罠だとは考えにくいが、もしこれが農場設備だとしたら噴射再開までまだ時間はあるだろう。その間に、向こうに見える大きな倉庫のような建物まで突っ切ろう」
するとトムが首を横に振った。
「ディック、ハリー。俺はここに残るよ。というか罠のセンが捨てられなくなっちまってな。車が盗られる危険性も考えたら壁の向こうで待っている方がいいと思うんだ。お前らだけで行ってきてくれないか」
トムはそう言って自分が持っていたリュックサックをディックへと渡し、代わりに車の鍵を受け取った。
「確かにそうだな。じゃあトム、車は任せたぞ。あの建物に薬もあればいいな」
「ああ、頼んだぜ。俺だけじゃない。シェルターで待っている皆のためにも」
俺とディックはトムを残して緑の中の通路を走った。
しかしここは本当に広い。
向こうに見える大きな倉庫まですぐに着けると思ったのに、なかなか距離が縮まらない。それどころか俺たちはすぐに気付かされる……その倉庫の大きさを見誤っていたことに。
「おいおい。ここは巨人のための農園かよ」
ディックがいつものようにジョークを口にするが、ジョークにセットの笑みが今日はついていない。そしてディックの横顔から通路の前方へ視線を戻した俺は思わず立ち止まった。
「待てディック! 何か来るっ!」
まっすぐな通路の向こうから、何かがゆっくりとこちらへ向かってきているのを見つけたのだ。
「なんだアレは……機械か?」
よく見るとその機械は、植物へアームを伸ばして何かを収穫しているようにも見える。人が乗っているようには見えない。
「鉢合わせしたら、俺たちの頭まで刈り取られたりしねぇだろうな」
「ディック、緑の壁の中を抜けて機械が来ない道を探そう」
「ああ。それがいい」
俺たちは生い茂るトウモロコシの間を通り抜けて隣の通路へと出る。向こうには同じように収穫機械が見える。
「もう一つ向こうだ」
「くそ。こっちの通路にもいやがる」
そうやっていくつもの通路を抜けているうち、俺たちはコンクリ壁の一部に窓がついていることに気付いた。しかも周囲の壁に比べると手前にずいぶんとせり出している。
「なあハリー。あっちの倉庫よりはずいぶん近いし、まずはあそこを目指してみないか?」
「そうだな。シャッターのようなものがついているのも気になるし……もしかしたら壁を通り抜けられる場所なのかもしれないしな」
窓のちょうど真下あたりに大きめのシャッターが設置されているのが見える。全開になったらトラックだって通れるくらいの大きさだ。
「……人が、居ると思うか?」
「居るのだとしたら、俺たちのこと、もう気付いているんだろうなぁ」
背中に冷たいものが流れる。そんな不安を蹴散らそうとするかのように俺たちは壁のシャッターへと走った。
こんな時代なんだ。平穏無事に食料が手に入るとは思っていない。だけど……ここの妙な静けさは不気味だ。監視するだけで出てこない余裕はどこから来るんだ?
多少持っていかれても構わないと? いや、それとも俺たちをここへ引き付けておいてシェルターへ?
そうだよ。あの男だって、別の場所で殺されてあそこに置いていかれたのかもしれない。やっぱり罠だったのかな……それとも、俺たちの生け捕りを考えている?
不安がどんどん膨らんでゆく。
俺たちはトウモロコシに浮き足だって、あの男が倒れている背景についてそれほど考えていなかったようにも思う。
あの男は数日前、俺たちのシェルターの近くで倒れていた。乾燥トウモロコシが山ほど入ったリュックを背負ったまま。
既に死亡していたのだが、男の倒れていた場所から点々と乾燥トウモロコシの粒が落ちているのをディックが見つけた。本来ならば行き倒れなど構わず放っておくのだが、食料がからむとなるとそういうわけにもいかない。
食料はとても大事だ。
シェルターの備蓄も、中で生産できる食料も限られている。
たまに探索に出て、運が良ければ持ち主の居ない食料を手に入れてこられるが、燃料も貴重だからそんなことは滅多にしない。よほどの確信でもなければ……。
あの男のせいだ。
男がトウモロコシを持ち出してきた場所があるはずだという希望に賭けてしまった。
確かにあった。莫大な量のトウモロコシが……だがそれを消費するだけの人口が、それを守るだけの戦力が、そこにあるのかもしれないという可能性を、食料を抱えている男が死んだという事実もだが、あまりにも軽く考えてはいなかっただろうか。
壁が近づくにつれ、シャッターが開いているのも見えるようになる。
俺たちは走って、走って、走って、そしてとうとう、壁へとたどり着いた。
「ハリー! 誰かが倒れているぞっ!」
誰かが?
ここの人間か? もしかして俺たちのようにここへ来た奴なのか?
シャッターは下半分が開いていて、中に入ってすぐのあたりにディックの言う通り、誰かがうつぶせのまま倒れていた。
農園側から射し込む光が、その誰かの上半身に当たっている。光の中に浮かび上がるそいつの手が異様に細く……ミイラ化しているようにも見える。
「ダメだ。死んでいる」
「随分と前に死んだ感じだが……もしかしてあのトラックの持ち主だったりしてな」
死体を放置するというのはどういう理由だろう。
これだけ管理されたトウモロコシ農園が無人ということもないだろうに。
周囲を見回してみる。
シャッターの大きさの割りには奥行きはそれほど広くない。天井からはクレーンがいくつか下りていて、壁には工具の類が並んでいる。
「さっき通路の向こうに見えた作業機械とかのメンテナンス施設ってところか? おい、これ、燃料じゃないのか?」
壁際にいくつかあったポリタンクのフタを開け、ニオイを嗅いでいると、ディックが俺を呼んだ。
「ハリー、奥に扉が見えるぜ……というかもしかしてエレベーターじゃないのか?」
「行ってみるか?」
「ここまで来たら、行くしかないだろう」
ドキドキしながら「△」のボタンを押す。
低い振動音が聞こえたあと、扉が開いた。
思っていたよりもエレベーター内は狭い。作業機械を他のフロアに持っていくほどの空間はないということだ。
「中のボタンは1と2の二つだけ……あの窓のあったフロアへ行けるってことか?」
ディックが「2」と書かれたボタンを押すと、エレベーターの扉がスッと閉まった。
日常ではなかなか味わうことのない加速感。
シェルター内にもエレベーターがあるにはあるが、節電のために使用は禁止されている。
だからすぐには気付かなかったのだが……このエレベーター、さっき扉が開くまでに時間がかかったってことは……上のフロアに停まっていたとか?
その考えを検証し直す前に扉は開いた。
正面には予想通り窓が見える。
その両脇には大きなモニターが縦に4つずつついていて、農場内の様子が映し出されている。
窓にもモニターにも、映し出されているのは一面の緑。
モニターの手前にはコントロール用と思われる機器のたくさん積まれた大き目のデスク。その手前に背を向けた椅子が一つ……そこに後頭部が見えた。
「……あの、すみません」
最初に声を発したのはディックだった。
返事はない。
ディックの表情をうかがうと、あごで『前へ出よう』という仕草を見せる。
俺が前へ踏み出すとディックもそれに続き、俺たちを見送るように背後でエレベーターの扉が閉じた音がした。
「すみません」
今度は俺が声をかける。だが返事はないままだ。ディックは慎重に椅子の所まで歩み寄り、そして覗き込んだ。
「……ハリー」
俺も急いで椅子を覗き込みに走る。
ディックの表情から推測してはいたが……ミイラ化した死体がそこには座っていた。白衣を着た男で、メガネをかけている。
「どういうことだ? まさかウイルス兵器とかか? ……おい、これ」
ディックが遺体が抱えている本のようなものに気付き、半ば強引に取り上げた。
「何が書いてある?」
「これは……日付が入っているから日記のようなものか? この事態の手がかりになるようなことは何か書いてないかな……」
日記の内容を読んだ俺たちは急いで車へと戻った。
「トム! ……だめか……死んでいる」
「これが死神とやらの威力か……だが悲しんでいる暇はない。急がないと」
「ああ。もしもこの内容が本当だとしたらシェルターが悪魔に……」
出来る限りのスピードで車を飛ばす。あいつら、ポップコーンを作るんだなんて言っていた。滅多に食べられない食べ物……子ども達なぞは初めて食べる食べ物……作ってしまいさえすればシェルターの全員が口にしかねない。
「俺が甘かった。探しに行こうだなんて言っちまったから」
ディックの悲壮な表情を見ていられなくて、俺はまた日記を読み返す。だが読み返したところで内容が変わったりはしない。気持ちが重くなるだけだった。
「こんなことって……」
日記に書かれていたのはあの施設で働いていた研究員の記録だった。
彼が働いている食品会社は遺伝子組換された様々な作物を開発し、中でも特に力を入れていたトウモロコシの研究に彼は携わっていた。
彼らが品種改良を進めた方向性は、繁殖力、収穫力、そして世話がしやすいようにと雑草を壊滅させるような強い農薬に対する抵抗力の主に三つ。
研究のかなり早い段階で、かつてベトナム戦争で使われた猛烈な毒薬でもある枯れ葉剤すらものともしない品種が完成されていたようだ。
作物の抵抗力が増えると、それに比例するように除草剤も強力さを増していった。
やがて、どんな植物をも枯らすという「死神」と呼ばれた除草剤と、その「死神」に唯一負けない「悪魔」と呼ばれるトウモロコシとが完成した。
食品会社はまず「悪魔」の種を売り出した。もちろん「悪魔」は「死神」と抱き合わせだ。「悪魔」は周囲の植物の繁殖に悪影響を及ぼした。繁殖力の強い花粉は他の植物を……彼の表現をそのまま使うと「レイプ」し……他の植物はその種を残せず世代更新できず「悪魔」にどんどん滅ぼされてゆく。
「死神」も猛威を振るい、雑草ばかりか植物につく様々な病気の原因、虫や菌、もちろん「悪魔」以外の普通の作物までもを死滅させていった。
「悪魔」と「死神」以外は全て息絶えてゆく世界は当然のように植物や虫や菌のみならず、小動物、そして他の大型の動物や人間までにも影響を及ぼすようになる。その当時はまだ原因が特定されていなかったものの、ある病気が徐々に蔓延しはじめた。
「あの、世界規模の飢饉の引き金が……この会社の仕業だったなんて……」
しかも、この会社だけは秘密裏に病気の原因を特定していた。
しかしその事実は伏せられ、それどころか彼らは医療機関を新設しその手当てへと乗り出した……「研究材料」を得るために。その後も「悪魔」と「死神」は進化を続ける。「死神」が使われる土地は荒れ果ててしまうため「悪魔」は「死神」から栄養を得られるようにと両者に改良が加えられた。
やがて「悪魔」は「死神」なくしては生育しなくなる。農園の外では全く育っていないのはそのような理由だ。また「死神」は危険だからと、人間の変わりに成育を行う機械も開発された。
人間は「悪魔」とも「死神」とも距離を置いて開発を行い、それがまた、安全性の置いてきぼりにもつながった。
そこまで危険な状態になった作物から収穫したものが、まともな食物足りえるわけもなく、そのトウモロコシを摂取した人間を次々と病に堕としていったのだ。
トウモロコシは毎日の食卓に上るものではないが、粉に加工されてスナック菓子の原料になったり、調味料として用いられたり、もちろん多くの家畜の飼料としても用いられ、ありとあらゆる食品の中に「悪魔」は忍び込んでゆく。
相方である「死神」から貯め込んだ毒をあまねく生き物へと贈り……。
この日記を残した研究員はある時、気付いた。
仲間の研究員に出た症状が、世界中で起きているあの病に酷似していると。
世界規模の災害を起こした会社は自分達研究員の口封じにかかったのだと直感した彼は行動を起こそうとした。セキュリティの規約により外部と通信できる手段を禁止されていた彼は、物理的な脱出を試みた。
遠隔操作できるトラックを使って脱出口を作ろうとしたのだ。
機会をうかがい、周到に準備を重ね、壁になんとかぶつけるのに成功した時にはもう、彼の体は蝕まれきり、動かなかった。
もしも外部からここへ進入し、この日記を見つけた者が居たら、この農園の全てを焼却して欲しいと。最後のページにはそう書き残されていた。
「頼む……皆、まだ食べないでいてくれ……」
ようやくシェルターへ到着し、隠してあった出入り口へ急ぐ。
しかし、そのドアを開けたとき、妙に香ばしい香りがなかからただよってきた。
その少し甘さの混じった香りを嗅いだディックが一言「悪魔の吐息だな」と吐き捨てるように言う。
俺たちは唇を噛みながらシェルターへと降りていく。いくつものうめき声が、奥の方から聞こえてきた。
<終>
「本当にここなのか?」
トムがディックの顔を覗き込むと、ずっと黙っていたディックがようやく口を開いた。
「あの男が落としてきたトウモロコシをたどったらここに着いたんだ。ここしか考えられない」
「繰り返すようだがよ、罠じゃないのか?」
「貴重な食料を無駄にしてまで俺たちをおびき寄せるメリットなんてあると思うか?」
「俺たちの留守を狙ってシェルターを乗っ取るとか……」
「その対策として、戦力のほとんどはシェルターに残してきているじゃないか」
二人のやりとりを聞きながら、俺はまだ事態を把握しきれないでいた。
「それにトウモロコシだぞ……乾燥モノとは言え、シェルターで育てている菜っ葉以外の植物、それもカタチを残したものなんてずいぶんと長い間見ていないんだ。探索するだけの価値は十分にある」
ディックが注意深く辺りをうかがってから車へと戻り、またエンジンをかけた。
「とりあえず回りこんで入り口を探そう」
車に戻りながら考える。
確かにトウモロコシは落ちていた。ただし、たどれたのは男を見つけた場所から1キロメートルがせいぜい。そこから先は方向を予測しながら進んできたのだ。「たどった」とは言いがたい。
それに食料と同じくらい貴重な燃料を使ってまで車を出していることも懸念材料の一つだ。
燃料が無駄になったら。待ち構えられていて車を奪われたら……本当に食料が手に入るのならばありがたいのは間違いないのだが……。
「おい……そこの亀裂から中に入れそうだぞ」
ディックの声で我に返った。少し向こうの壁の下部、人が這って通り抜けられそうな亀裂が見える。しかしその手前には焼け焦げたトラックの残骸。
「車体が錆び付いている……ずいぶん前のだな。貴重なトラックを潰してまで中へ入ろうだなんて食料のある確率は高まりはしたが……」
ディックの言わんとしていることはわかる。
争わなければ手に入らないという可能性、既に持っていかれてしまっている可能性、残骸の古さから昔はあったけれど今は……というパターンも。
「おいおいディックにハリーも。あのトウモロコシ男は死んでからそう経ってないぜ。トウモロコシはまだまだあるさ」
根拠のないトムの笑顔にちょっとだけ救われる。
「よし。俺から行く」
ディックは車から降りると這いつくばり、亀裂の向こうへと消え……そしてすぐのこと。
「なんだこれはっ!」
「ディック? どうした?」
俺も急いで壁の亀裂へと身をねじ込む。
やはり敵対する誰かが居たのか……もどかしさで時間が長く感じる。だが、そうではなかった。
壁の向こうに出た俺は思わず息を呑んでしまう。それほどまでに幻想的な風景が目の前に広がっていた。
「これは……一面の緑! これ全部トウモロコシなのか? こんな規模の農園が今の時代に残っているだと?」
目の前から向こう側へ果てしなく続く何本もの通路。その通路をしきる緑色の壁は、背が高く育ったトウモロコシなのだろう。
俺たちが抜けてきたコンクリの高い壁はずっと遠くまでこの畑を囲いこんでいる。
圧倒的に広い空間の内側全てに整然と並ぶ豊かに育った鮮やかなグリーン。
自分が目にしているものが信じられなくて、しばし呆然としながら見とれていた。
「ハリーさんよ、どいてくれないと俺が中に入れな……な、なんだよこれ!」
トムがテンションの上がった声を出す。しかしそれをディックが遮った。
「おい! あの塔を見ろ!」
ディックが指差す方向にある塔のてっぺんから、周囲に向かって何か液体が放射状に放たれはじめたのだ。俺はとっさに上着のフードを深く被り、トウモロコシの陰に身をかがめる。
「おいおいハリー、農園なんだ。こんなのただの水だろ」
笑いながらその液体を浴びたトムの表情がすぐに歪む。液体が付着した部分がすぐさま赤く腫れあがった。
「なんだこりゃっ……まさか侵入者を撃退する毒の罠かっ」
俺と同じようにジャケットでなんとか液体を阻んだディックが眉間にしわを寄せながら、その場にしゃがみこもうとするトムを抱きかかえて起こす。そして液体を浴びせないようにトウモロコシの陰へと移動する。
液体の放射は数分と経たずに止んだ。
「……罠だとは考えにくいが、もしこれが農場設備だとしたら噴射再開までまだ時間はあるだろう。その間に、向こうに見える大きな倉庫のような建物まで突っ切ろう」
するとトムが首を横に振った。
「ディック、ハリー。俺はここに残るよ。というか罠のセンが捨てられなくなっちまってな。車が盗られる危険性も考えたら壁の向こうで待っている方がいいと思うんだ。お前らだけで行ってきてくれないか」
トムはそう言って自分が持っていたリュックサックをディックへと渡し、代わりに車の鍵を受け取った。
「確かにそうだな。じゃあトム、車は任せたぞ。あの建物に薬もあればいいな」
「ああ、頼んだぜ。俺だけじゃない。シェルターで待っている皆のためにも」
俺とディックはトムを残して緑の中の通路を走った。
しかしここは本当に広い。
向こうに見える大きな倉庫まですぐに着けると思ったのに、なかなか距離が縮まらない。それどころか俺たちはすぐに気付かされる……その倉庫の大きさを見誤っていたことに。
「おいおい。ここは巨人のための農園かよ」
ディックがいつものようにジョークを口にするが、ジョークにセットの笑みが今日はついていない。そしてディックの横顔から通路の前方へ視線を戻した俺は思わず立ち止まった。
「待てディック! 何か来るっ!」
まっすぐな通路の向こうから、何かがゆっくりとこちらへ向かってきているのを見つけたのだ。
「なんだアレは……機械か?」
よく見るとその機械は、植物へアームを伸ばして何かを収穫しているようにも見える。人が乗っているようには見えない。
「鉢合わせしたら、俺たちの頭まで刈り取られたりしねぇだろうな」
「ディック、緑の壁の中を抜けて機械が来ない道を探そう」
「ああ。それがいい」
俺たちは生い茂るトウモロコシの間を通り抜けて隣の通路へと出る。向こうには同じように収穫機械が見える。
「もう一つ向こうだ」
「くそ。こっちの通路にもいやがる」
そうやっていくつもの通路を抜けているうち、俺たちはコンクリ壁の一部に窓がついていることに気付いた。しかも周囲の壁に比べると手前にずいぶんとせり出している。
「なあハリー。あっちの倉庫よりはずいぶん近いし、まずはあそこを目指してみないか?」
「そうだな。シャッターのようなものがついているのも気になるし……もしかしたら壁を通り抜けられる場所なのかもしれないしな」
窓のちょうど真下あたりに大きめのシャッターが設置されているのが見える。全開になったらトラックだって通れるくらいの大きさだ。
「……人が、居ると思うか?」
「居るのだとしたら、俺たちのこと、もう気付いているんだろうなぁ」
背中に冷たいものが流れる。そんな不安を蹴散らそうとするかのように俺たちは壁のシャッターへと走った。
こんな時代なんだ。平穏無事に食料が手に入るとは思っていない。だけど……ここの妙な静けさは不気味だ。監視するだけで出てこない余裕はどこから来るんだ?
多少持っていかれても構わないと? いや、それとも俺たちをここへ引き付けておいてシェルターへ?
そうだよ。あの男だって、別の場所で殺されてあそこに置いていかれたのかもしれない。やっぱり罠だったのかな……それとも、俺たちの生け捕りを考えている?
不安がどんどん膨らんでゆく。
俺たちはトウモロコシに浮き足だって、あの男が倒れている背景についてそれほど考えていなかったようにも思う。
あの男は数日前、俺たちのシェルターの近くで倒れていた。乾燥トウモロコシが山ほど入ったリュックを背負ったまま。
既に死亡していたのだが、男の倒れていた場所から点々と乾燥トウモロコシの粒が落ちているのをディックが見つけた。本来ならば行き倒れなど構わず放っておくのだが、食料がからむとなるとそういうわけにもいかない。
食料はとても大事だ。
シェルターの備蓄も、中で生産できる食料も限られている。
たまに探索に出て、運が良ければ持ち主の居ない食料を手に入れてこられるが、燃料も貴重だからそんなことは滅多にしない。よほどの確信でもなければ……。
あの男のせいだ。
男がトウモロコシを持ち出してきた場所があるはずだという希望に賭けてしまった。
確かにあった。莫大な量のトウモロコシが……だがそれを消費するだけの人口が、それを守るだけの戦力が、そこにあるのかもしれないという可能性を、食料を抱えている男が死んだという事実もだが、あまりにも軽く考えてはいなかっただろうか。
壁が近づくにつれ、シャッターが開いているのも見えるようになる。
俺たちは走って、走って、走って、そしてとうとう、壁へとたどり着いた。
「ハリー! 誰かが倒れているぞっ!」
誰かが?
ここの人間か? もしかして俺たちのようにここへ来た奴なのか?
シャッターは下半分が開いていて、中に入ってすぐのあたりにディックの言う通り、誰かがうつぶせのまま倒れていた。
農園側から射し込む光が、その誰かの上半身に当たっている。光の中に浮かび上がるそいつの手が異様に細く……ミイラ化しているようにも見える。
「ダメだ。死んでいる」
「随分と前に死んだ感じだが……もしかしてあのトラックの持ち主だったりしてな」
死体を放置するというのはどういう理由だろう。
これだけ管理されたトウモロコシ農園が無人ということもないだろうに。
周囲を見回してみる。
シャッターの大きさの割りには奥行きはそれほど広くない。天井からはクレーンがいくつか下りていて、壁には工具の類が並んでいる。
「さっき通路の向こうに見えた作業機械とかのメンテナンス施設ってところか? おい、これ、燃料じゃないのか?」
壁際にいくつかあったポリタンクのフタを開け、ニオイを嗅いでいると、ディックが俺を呼んだ。
「ハリー、奥に扉が見えるぜ……というかもしかしてエレベーターじゃないのか?」
「行ってみるか?」
「ここまで来たら、行くしかないだろう」
ドキドキしながら「△」のボタンを押す。
低い振動音が聞こえたあと、扉が開いた。
思っていたよりもエレベーター内は狭い。作業機械を他のフロアに持っていくほどの空間はないということだ。
「中のボタンは1と2の二つだけ……あの窓のあったフロアへ行けるってことか?」
ディックが「2」と書かれたボタンを押すと、エレベーターの扉がスッと閉まった。
日常ではなかなか味わうことのない加速感。
シェルター内にもエレベーターがあるにはあるが、節電のために使用は禁止されている。
だからすぐには気付かなかったのだが……このエレベーター、さっき扉が開くまでに時間がかかったってことは……上のフロアに停まっていたとか?
その考えを検証し直す前に扉は開いた。
正面には予想通り窓が見える。
その両脇には大きなモニターが縦に4つずつついていて、農場内の様子が映し出されている。
窓にもモニターにも、映し出されているのは一面の緑。
モニターの手前にはコントロール用と思われる機器のたくさん積まれた大き目のデスク。その手前に背を向けた椅子が一つ……そこに後頭部が見えた。
「……あの、すみません」
最初に声を発したのはディックだった。
返事はない。
ディックの表情をうかがうと、あごで『前へ出よう』という仕草を見せる。
俺が前へ踏み出すとディックもそれに続き、俺たちを見送るように背後でエレベーターの扉が閉じた音がした。
「すみません」
今度は俺が声をかける。だが返事はないままだ。ディックは慎重に椅子の所まで歩み寄り、そして覗き込んだ。
「……ハリー」
俺も急いで椅子を覗き込みに走る。
ディックの表情から推測してはいたが……ミイラ化した死体がそこには座っていた。白衣を着た男で、メガネをかけている。
「どういうことだ? まさかウイルス兵器とかか? ……おい、これ」
ディックが遺体が抱えている本のようなものに気付き、半ば強引に取り上げた。
「何が書いてある?」
「これは……日付が入っているから日記のようなものか? この事態の手がかりになるようなことは何か書いてないかな……」
日記の内容を読んだ俺たちは急いで車へと戻った。
「トム! ……だめか……死んでいる」
「これが死神とやらの威力か……だが悲しんでいる暇はない。急がないと」
「ああ。もしもこの内容が本当だとしたらシェルターが悪魔に……」
出来る限りのスピードで車を飛ばす。あいつら、ポップコーンを作るんだなんて言っていた。滅多に食べられない食べ物……子ども達なぞは初めて食べる食べ物……作ってしまいさえすればシェルターの全員が口にしかねない。
「俺が甘かった。探しに行こうだなんて言っちまったから」
ディックの悲壮な表情を見ていられなくて、俺はまた日記を読み返す。だが読み返したところで内容が変わったりはしない。気持ちが重くなるだけだった。
「こんなことって……」
日記に書かれていたのはあの施設で働いていた研究員の記録だった。
彼が働いている食品会社は遺伝子組換された様々な作物を開発し、中でも特に力を入れていたトウモロコシの研究に彼は携わっていた。
彼らが品種改良を進めた方向性は、繁殖力、収穫力、そして世話がしやすいようにと雑草を壊滅させるような強い農薬に対する抵抗力の主に三つ。
研究のかなり早い段階で、かつてベトナム戦争で使われた猛烈な毒薬でもある枯れ葉剤すらものともしない品種が完成されていたようだ。
作物の抵抗力が増えると、それに比例するように除草剤も強力さを増していった。
やがて、どんな植物をも枯らすという「死神」と呼ばれた除草剤と、その「死神」に唯一負けない「悪魔」と呼ばれるトウモロコシとが完成した。
食品会社はまず「悪魔」の種を売り出した。もちろん「悪魔」は「死神」と抱き合わせだ。「悪魔」は周囲の植物の繁殖に悪影響を及ぼした。繁殖力の強い花粉は他の植物を……彼の表現をそのまま使うと「レイプ」し……他の植物はその種を残せず世代更新できず「悪魔」にどんどん滅ぼされてゆく。
「死神」も猛威を振るい、雑草ばかりか植物につく様々な病気の原因、虫や菌、もちろん「悪魔」以外の普通の作物までもを死滅させていった。
「悪魔」と「死神」以外は全て息絶えてゆく世界は当然のように植物や虫や菌のみならず、小動物、そして他の大型の動物や人間までにも影響を及ぼすようになる。その当時はまだ原因が特定されていなかったものの、ある病気が徐々に蔓延しはじめた。
「あの、世界規模の飢饉の引き金が……この会社の仕業だったなんて……」
しかも、この会社だけは秘密裏に病気の原因を特定していた。
しかしその事実は伏せられ、それどころか彼らは医療機関を新設しその手当てへと乗り出した……「研究材料」を得るために。その後も「悪魔」と「死神」は進化を続ける。「死神」が使われる土地は荒れ果ててしまうため「悪魔」は「死神」から栄養を得られるようにと両者に改良が加えられた。
やがて「悪魔」は「死神」なくしては生育しなくなる。農園の外では全く育っていないのはそのような理由だ。また「死神」は危険だからと、人間の変わりに成育を行う機械も開発された。
人間は「悪魔」とも「死神」とも距離を置いて開発を行い、それがまた、安全性の置いてきぼりにもつながった。
そこまで危険な状態になった作物から収穫したものが、まともな食物足りえるわけもなく、そのトウモロコシを摂取した人間を次々と病に堕としていったのだ。
トウモロコシは毎日の食卓に上るものではないが、粉に加工されてスナック菓子の原料になったり、調味料として用いられたり、もちろん多くの家畜の飼料としても用いられ、ありとあらゆる食品の中に「悪魔」は忍び込んでゆく。
相方である「死神」から貯め込んだ毒をあまねく生き物へと贈り……。
この日記を残した研究員はある時、気付いた。
仲間の研究員に出た症状が、世界中で起きているあの病に酷似していると。
世界規模の災害を起こした会社は自分達研究員の口封じにかかったのだと直感した彼は行動を起こそうとした。セキュリティの規約により外部と通信できる手段を禁止されていた彼は、物理的な脱出を試みた。
遠隔操作できるトラックを使って脱出口を作ろうとしたのだ。
機会をうかがい、周到に準備を重ね、壁になんとかぶつけるのに成功した時にはもう、彼の体は蝕まれきり、動かなかった。
もしも外部からここへ進入し、この日記を見つけた者が居たら、この農園の全てを焼却して欲しいと。最後のページにはそう書き残されていた。
「頼む……皆、まだ食べないでいてくれ……」
ようやくシェルターへ到着し、隠してあった出入り口へ急ぐ。
しかし、そのドアを開けたとき、妙に香ばしい香りがなかからただよってきた。
その少し甘さの混じった香りを嗅いだディックが一言「悪魔の吐息だな」と吐き捨てるように言う。
俺たちは唇を噛みながらシェルターへと降りていく。いくつものうめき声が、奥の方から聞こえてきた。
<終>
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