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#102 決着
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偽装消費命で『鹿』を発動する。
ルブルムから教えてもらった魔法だからってわけじゃないけれど、この魔法を使うときはなんだかすぐそばにルブルムを感じる。
ディナ先輩を助けることは、ルブルムやカエルレウム師匠を守ることにも繋がる。
だから俺は処刑人を取り逃すわけにも、負けるわけにもいかない。
速度を上げる――この明るさは逆に罠を隠すための油断を誘うものかもしれないが、自分の周囲に対してだけは『魔力感知』の感度を上げて「壁」を感じながら、できる限り早く。
地下通路を走りながら、崩れている壁を見つけた。
念のため立ち止まる。
通路は明るいとはいえ、光っているのは天井部分だけなので、壁の凹凸は影がくっきりと際立つ。
罠の発動跡だとしたら他にもあるかもしれない。
注意してよく観察すると、拳を叩きつけた跡にも見える。
おまけにその辺りだけ床に子豚が垂らしたと思われる血の量が多い。
矢とか石とか刃とかの攻撃的な罠の部品も探したが、そういった痕跡は特にない。
そういやさっき子豚が通路で雄叫びを上げていたのって、この辺りじゃなかったか?
だとしたら、理由は?
魚に刺されていた傷がここで開いた?
そして怒りで壁を殴りつけた?
俺は『ロボトミー』という魔法名を聞いて、完全に従わせる洗脳系のイメージをしていたけれど、実際には特定の声による行動制限を課せられるタイプの呪縛的な効果なのかもしれない。
だから「殴れ」という命令しかしていないのに、服を剥ぎ取り、さらに襲おうとしたのか?
対象に対する命令は、何であっても上書きが可能で、最後の一つしか有効にならないとか――そんなことを思ったのは、プログラミングを学ぶパソコンのゲームで、指示を打ち込んでキャラを操作してミッションを遂行するってやつをやったことがあるから。
モノを「つかめ」、そして「回れ右しろ」って命令をしたら、モノをつかみ始めたと同時に動いて、結果的にちゃんとつかめなかったんだよな。
正解は「つかむ」という動作が完了するまでにかかるタイムラグを考慮して、つかみ終えるまでの待ち時間を「つかめ」と「回れ右しろ」との間に設定してやらなきゃいけなかったんだ。
そもそもは「つかめ」も、「指を開け」・「手を前に出せ」・「指を閉じろ」という三つの命令をワンセットにして一プロセス化したものだったから、「つかむ」命令のうちの「指を開け」が終わったタイミングで、「手を前に出せ」と「回れ右しろ」を同時に実行しちゃったのが原因だった。
例えば子豚に元々、「襲うな」と「命令を聞け」が指示されていたとしたら――って、たらればに時間を取られ過ぎるのも良くないな、と移動を再開する。
もちろん警戒は一切緩めずに。
少し時間を取られたが、あの崩れた箇所からわかったことは他にもある。
この地下道は、地面の中を四角く掘り貫いた壁面にカエメンを塗って補強した感じだろうか。
木の根のようなものは途中で切れているし、小石が外れたと思われる隙間も残っている。
しかも恐らくこのカエメンも魔法で施工したに違いない。なぜならば、一アブス毎に、継ぎ目があるから。
一アブスずつ穴を掘ってカエメンで塞いで、ってそれ、地球でいうシールド工法に似ている気がする。
ただアレを魔術で再現するのであればそこそこコストがかかりそうなものだけど。
恐らくカエメンの乾燥にはまた別の魔法を――さっきくらった突風みたいなアレで、とか。
しかしこの地下道、真四角で区切りがあって、本当にマッピングし易そう――そんなことを考えているうちに通路が終わり、地下室へと出た。
ディナ先輩のとこと同じ様な地下室。
ここいらのお屋敷はアメリカの個人宅みたいに皆さん地下室完備なのだろうか。
子豚ともう一つの寿命の渦は二階から感じる――しかも子豚の寿命の渦の方はかなり弱っている。
急がなければ――とはいえ、罠には気をつけないと。
特にあそこにこれみよがしに見える、壁に埋め込まれた魔石。
この地下通路の終わり、向こうの地下室への開口部よりほんの十センチ程度内側の場所。
処刑人が地球人として思考するならば、あの魔石にセンサー的な魔法を仕掛けている可能性があるかもしれないし。
触れないように近づき、『魔石調査』を「単体モード」で発動する。
ベイグルさんに「他の人には教えないように」という条件で教えていただいた、魔石を感知したり、触れずに魔石の中身を確認できる便利魔法――ふむ。内容はわかった。
消費命を流し込むと、それをどこかへ送る、という魔法。
その魔法代償がえげつない量なのだが、魔法名が『照明スイッチ』というネーミングだったので、用途はなんとなく予想できた。
そりゃこれだけの長さの地下通路の天井部分からそこそこの光量を発するってんだから、並大抵の魔法代償ではない。
それを考えたら、安易に発動しようとすれば想像以上の消費命を奪われてしまうこれは、充分に罠としての役目を果たしているかもしれない。
他に魔法は封じられてはいないようだな――先へと進むべく地下室へと踏み込む。
ディナ先輩のとこの地下室よりもちょっと狭い。
しかも壁に手錠みたいなのも設置されていないし、地下室の扉も開いている。
扉の向こうはさほど長くない通路。
その途中、左右に扉を経て、突き当りが一階へと至るであろう階段。
階段を登った先にも扉があるのだが、そこは開け放たれている。
地下室とこの地下一階廊下に灯りはないが、地下通路から漏れる光と、一階の扉が開いた場所から漏れてきている光とで、色々と見えなくなくはない。
敵に近づいたので、ここではもう『偽装魔力微感知』へと切り替えておく。
経験則からだが、戦いに夢中になると注意力が散漫になる。
まだ気付かれていないといいのだけれど。
両側の扉を無視して慎重に階段を上がる。
歩きやすい普通の石階段。
すぐに上りきり、周囲の雰囲気から安全と判断して一階の廊下へと出た。
この廊下、ディナ先輩のお屋敷よりはちょっと装飾が派手――だが、あちこちに拭いきれていない血の跡。
しかも中には明らかに乾いている血の跡まで残っている。
子豚のではないとしたら――まさか処刑人はここの正当な所有者ではないとか?
処刑人という名前もアレだし、その部下である魚が迷いもなくディナ先輩の目を抉ったことからも、その攻撃性の高さはうかがえる。
それならこの家を襲撃して――ディナ先輩を襲撃する準備のために?
雄叫びが聞こえ、思考を切り替える。
破壊音が幾度となく聞こえる方向へ、慎重に、だが急ぎ足で進む。
俺が通ってきた地下道の入口みたいに完全に塞がれている場所に隠れているのでもない限り、今、この屋敷で生存している人間サイズの生命体は、俺と子豚と、あとは恐らく処刑人の三人だけ。
音のする方向と、血痕が続く方向とは一致している。
角を曲がり、窓のない狭めの通路を確認する。
通路の端にはアーチが設置されており、その向こうは広そうだ。大広間だろうか。
気をつけながら近づこうとして、足が止まる。
一階に人の気配はないが、二階部分まで吹き抜けになっている大広間の向こう側はけっこう見通せそうだから。
例えばあのアーチを見張るような何かを仕掛けられている可能性はないだろうか。
処刑人が地球人転生者と仮定するならば、監視カメラのようなものを設置していてもおかしくはない。
あの地下室で使われていたのだって、テレビ電話みたいな効果の魔法だったし。
双方向が可能ならば一方向はもっと少ない魔法代償で用意できるんじゃないだろうか。
もしかしたら既に、地下室へ降りる階段のとかに仕掛けられている可能性だってあったはずだ――もし見つかっているのであれば、なおのこと急がなければ。
今なら注意力が目の前の相手に割かれているかもだから――素早く、だが静かにアーチの陰まで移動する。
電車のドア横よりは幅が広いから、しゃがんだとしても大広間からはすぐには見えないだろう。
子豚のものと思われる唸り声や鈍い殴打音はまだ続いている。
一瞬だけ大広間を覗く。
大広間は二階までの吹き抜けで、玄関や二階への大階段なんかの位置関係は、ディナ先輩のお屋敷と同じっぽい。
大きく異なる点は、二階部分にぐるりと張り出し回廊が付いていること。
正面の壁の一階に、ここと同じ様なアーチが設置されていることから、この建物自体がほぼ左右対称に作られている可能性は高そうだ。
向かい側二階の張り出し回廊に幾つか見えるドアの間隔からすると、子豚たちが争っているのはこのアーチのナナメ上にある部屋あたりか。
さて――と悩む間もなく、大広間に何かが落ちた。
少し遅れてからもう一つ。いや、こちらについては、一つというか、張り出し回廊の手すりと思われる彫刻のなされた木材もバラバラと。
何が落ちたかはすぐに分かった。
アーチの陰に隠れたままでも、感じられたから――子豚の寿命の渦が真っ二つになりながら、その片方が最初に落ちたほう。二番目のが残り半分。
そしてその惨事の直前、処刑人の声が聞こえた。
「マケン、ムラマサンダー」という日本語っぽい発音で。
マケンは魔剣だろうか。
中二病の臭いがプンプンするのはどうでもいい。
問題なのは、凄まじい魔法代償量だったこと。
というか消費命の集め方が不自然だった。
詳細は実際に集中している最中に触れないとわからないものの、それでも何か「違う」というのは離れていても感じたほど。
あと気をつけるべきことは、それだけ大きな消費命を集中できている、ということ。
寿命の渦の制御技術もそれなりにあると想定した方がいい。
となると、もしかして俺の『偽装魔力微感知』もバレているのか?
そうだとしたら、俺が本当は魔法を使えることも見破られているのか?
手の内がバレているのなら速攻で畳み掛ける方がいい気もするが、あれだけ用心深い奴だと罠を準備している可能性はとても高いはず。
特にここまで何も罠っぽいものがなかったのが逆に怪しさを増す。
「蛙ッ! 魚ッ! 応答しろッ! クソッ! 真っ暗で何も見えやしねぇ。照明が落ちやがったか。燃費悪いな魔法ってやつは! クソッ!」
けっこう大きな声での独り言も罠なのだろうか。
だが、処刑人が今居る部屋に、あのテレビ電話魔法の中継先があると見て間違いなさそうだ。
「蛙ッ! 魚ッ! 聞こえているかッ? お前の計画は万全だったんじゃないのかッ? なんで楽するための作戦でピンチにならなきゃいけねぇんだよッ!」
このインテリジェンス低そうな独り言も俺を油断させるための罠で、こちらの位置を把握していてわざと聞かせているのか?
消費命の集中は現時点では感じない。
まさか天井や壁をぶち抜いて攻撃してくるとか?
というかいつまでここで待機するんだ、俺。
距離が微妙なんだよな。
さっき子豚が殺られたときに部屋の入口近くまで接近できていれば、その直後に奇襲って方法だってあったが。
俺の方が慎重になり過ぎて機会を失っているんだろうか。
「あー、もう、全部見捨てて他の町に行こうかなぁ……」
その独り言がきっかけだった。
こいつは野放しにできない。逃げられる前に仕掛けるしかない。
『新たなる生』で魚の幻影をすぐ横に作る。
服はビリビリに破かれた状態で――集中して、試しに歩かせてみる。
よろよろと――これで行けるかな?
幻影だから足音はたたないが、魚は音を消して歩いていたし。
さらにもっと目を引くよう、ほぼ全裸まで剥かれた蛙を抱きかかえているような幻影デザインにしてある――装備は俺の記憶をもとに再現するから、他の人間を荷物のように持つのであればいけるかも、と試してみたが、かなり良い出来なんじゃないか?
この魔法の問題は一つの幻影について一つの寿命の渦しか配置できない点なのだが、蛙の方は死体という設定だと整合は取れる。
ちなみに魚の寿命の渦もかなり弱々しく設定してある。
「なんだ? 誰か来たのか?」
一瞬、『魔力感知』の粗めのに触れられた間隔。
処刑人は『魔力感知』を常時発動しているわけじゃないのか?
偽装の渦が気取られてないといいけど――気を散らすために、幻影を歩かせる。
魚の幻影はアーチを抜け、大広間まで出る。
そこでうつむいたまま、振り返る。
「ピ、魚? お、おい、蛙ッ!」
魚の幻影にそこで膝をつかせ、ゆっくりと蛙を床へ下ろさせ、しゃがみ込ませる――うつむいたままで。
そしてこちらは別の魔法を準備する。初っ端からデカいのを行くぜ。
カラン、と手すりの欠片らしき木片が落ちる――今、処刑人は張り出し回廊に居るのか?
だとすると、こちらの屋敷では『魔力感知』で感知できている位置と本当の位置とは恐らく乖離していない。
「待ってろ! 今行くッ!」
という声と共に処刑人は張り出し回廊を――大階段の方へと走り出す。
飛び降りてくれたなら位置関係的に背後が取れたんだけど。
だが時間があるということはこちらもそれだけ準備を重ねられるということ。
幻影をしゃがみ込ませた後、全く動かないのも怪しかろうと、魚に両手で自分の顔を覆わせる。
「魚ッ! 蛙ッ! 返事しろッ!」
階段を駆け下りる足音。
『同じ皮膚・改』を床に向かって発動する。
正確には床を埋め尽くす石畳の、石と石との隙間の目地に――やはりいける。
振動を感じる。処刑人の走る一歩、一歩の。
そして幻影に近づく直前でぶっ放す――今の俺が偽装消費命でかけられる最大ダメージ『倍ぶっ飛ばす』を。
即座に鈍い音が続く。声にならない声っぽいのも。
振動を感じた位置へ畳み掛けるようにもう一発、偽装消費命で『倍ぶっ飛ばす』。
「ごッ!」
さらに鈍い音。
「まさか、ディナの奴……こっちに来ているのか? お前らッ、まさか俺を裏切ったのかッ?」
目視できないせいで無力化できるほどのダメージは与えられていなさげ――って消費命の集中?
しかも膨大な量。
俺の集中できる量を超えてやがる――いや、でもなんか変だ。
集中している密度が濃くはあるのだが、もし密度が通常の消費命ならば、せいぜい五ディエスといった感じ。
やつの独り言には惑わされないように冷静さを保ててはいるものの、どういう技術なのかは気になってしまう俺の性よ。
「パーフェクトヒールッ! どうだッ! 俺の怪我は全快したぞッ! 卑怯者のディナよッ!」
怪我を一瞬で全快なんて――いや実際に奴の寿命の渦だって凄まじい量の――ん?
ちょっと気になることを発見したが――それは今この場においてはどう使えるかもわからない。
それよりも消費命の密度を変えるなんて考えもつかなかった。
後で研究させてもらおう。
だが今は実験している暇もない。もう一度――そのときまたあの濃い寿命の渦の集中を感じた。
「地下から攻撃しているなッ?」
そこで感じた。
『同じ皮膚・改』ごしに、処刑人へと触れたのを。
おそらく奴の怪我を全快させた魔法とやらは、流血した血液自体を体内に戻す効果はない――としか思えない。奴は靴を履いているだろうから、この状況で触れているということは、奴の流血が奴と目地までとを繋げているということ。
だからか。
処刑人の消費命集中自体までもを感じられる――それは今まで見たことのない集中方法だった。
例えるならそれは饅頭。
普段、俺達が消費命を集中するときは寿命の渦から一部を取り出して成形する。云うならば餅。
だが、処刑人の集中は、寿命の渦で転生者特有のもう一つの魂――俺でいうところの「リテルの魂」を、餡のように包んで千切り取り、それを核とした消費命を成形する。
同じ大きさなのに、そこから感じる存在感がまるで違う。
圧縮したように感じる理由はこれか――だが、この方法は、同じ体に宿る「もう一人」を犠牲にして使う魔法。
最初に湧いた感情は怒り。
その真っ赤な感情に呑まれそうになったことに気づき、抑え込む。
こいつを逃さずに倒すには感情よりも思考の方が必要だし――俺は魔術師なのだから。
「貫いてやるッ! マケンッ! ムラマサンダーッ! ダブルストラ」
俺が次の手を打つよりも前にそれは発動した。
保険のためにかけておいた罠魔法『深淵』。
ニーチェが著書「善悪の彼岸」に書いた名言「お前が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す」というアレをもとにデザインした魔法。
誰かが俺を対象に魔法をかけようとしたとき、俺もまたその誰かに対して魔法をかけることができる、という魔法。
その誰かが俺に対して魔法をかけようとした道筋をそのまま逆に利用するという思考で、『深淵』起動時にセットしておいた魔法を、『深淵』効果時間内なら一度だけ自動でカウンター発動するのだ。
今回セットしておいた魔法は『隠しベクトル』。
タールの『魔動人形』コンウォルを動揺させ、勝利のための糸口となった魔法だ。
あのとき俺はこの『隠しベクトル』を、『虫の牙』に元々格納されていた魔法のように見せかける『偽ボタン』という魔法と共にセットしておいた。
『隠しベクトル』の効果は、消費命の集中を補助するというもの。
術者が消費命を集中するのを集めやすくするというものなので、その効果自体が「ひとつまみの祝福」となり、抵抗されにくい。
だがそれで終わりではない。
集中を助けるとは言ってもその集中する方向ベクトルは、「術者が集中しようとしている」方向とは若干異なる。高速で動くものに横からほんの少し衝撃を与えるだけで、その動くものの終着点は大きく反れる。それを狙ったもの。
結果的に集中は失敗する。寿命の渦のコントロールが甘い術者であれば、想定以上の消費命を流出させてしまい、暴発する。
気づけてそれを停止させようとしても、まずベクトルの方向を見極め、それを中和するための逆方向の集中を行わなければならないが、実はそうして新たに発生させた「逆方向の集中」に対しても『隠しベクトル』は効果を発揮する。
自分でも試してみたのだが、『隠しベクトル』の存在と方向があらかじめわかっていても、対処はとてつもなく難しかった。
しかも試したのはわずか一ディエスの『発火』。それでも十ディエス以上の消費命が霧散しそうになったのだから、元々集めようとした消費命ディエス量が多かったならば、その被害たるやどれほどになるだろうか。
運の良いことに、処刑人は対処しきれなかった。
大量の消費命は霧散というよりはむしろ花火のように激しく散った。
『同じ皮膚・改』で繋がった先まで「自分」という認識をしていたがために、奴の足元の地面が『深淵』の対象に含まれた――想定外の誤算が、今回は俺の味方をしてくれた。
そうやって偶然手に入ったチャンスを無駄にはしない。
半ば放心状態のような処刑人に、俺は追い打ちをかける。
一撃必殺といったらもうこれしかない――もう隠さない。偽装消費命なしならぶっ放せる最大ダメージ魔法を――『ぶん殴る』の十進換算で十五倍威力の『超ぶっ飛ばす』を、奴の頭部に近い場所へ思いっきりぶち込んだ。
触れていた処刑人が離れるのを感じる。
少しだけ間を置いて、鈍い音がした。
水の詰まった革袋を裂いたみたいに、処刑人の体から急激に寿命の渦が流れ出て消えるのを感じる。
それでもまだ消費命を集めようという動きを感じだが、それは、ポーが散らしてくれた。
ウンセーレー・ウィヒトから盗んだ例の技術で。
消えかける処刑人の寿命の渦が、消える直前の一瞬だけ、絶望の色に染まった。
さらに偽装消費命の『倍ぶっ飛ばす』を何発かぶち込む。
奴の反応はない。これが「ただの屍のようだ」ってやつか。
処刑人の寿命の渦が完全に感じられなくなるのを待ってから、アーチの陰より姿を現す。
念のため、処刑人が身につけている魔石を含んだアイテムを全て引き剥がす。
ディナ先輩のことが心配ではあったが、万が一の可能性を潰すため、先に処刑人と子豚が争っていた部屋へと行き、そこでも魔石のついたアイテムを幾つか拾う。
激しい争いの跡で部屋の中は滅茶苦茶だったが、『魔石調査』を「範囲モード」で発動したら魔石は取りこぼさずに発見できた。
その部屋には上等なベッドもあり、シーツの端を適度に切り裂き、風呂敷代わりにして、それらの見つけた魔石付きアイテムをくるんだ。
部屋の端に置かれた大きな姿見にも魔石が取り付けられていて、その魔石に『座標指定』と『幻影通信』という二つの魔法が設定されていたこともわかった。
座標を指定する魔法と、指定済座標に幻影を発生させ視覚と聴覚だけ共有する魔法。後者の『幻影通信』の方はとんでもない魔法代償。
あんな消費命の集め方をしていたからこそ発動できていたのだろうな。
過ぎた願いには身を破滅させるほどの代償が伴う――これは、カエルレウム師匠が魔術師の心得として俺に教えてくださった言葉。
処刑人のあの、自身の寿命の渦で繋がるもう一つの魂を消費して消費命を集中するやり方は、きっと俺が何もしなくとも身を滅ぼしていたに違いない。
今俺が借りているこの体がリテルのものであるように、処刑人が使っていた体も奴ではない誰かのものだろうし、その魂がなくなってしまったならば、その体との結びつきを失くしてしまうような気がする。
姿見から魔石を取り外すと、それらの品を持って俺は再び地下道へと急ぐ。
あの手の悪党は自分が死んだらその場所を破壊する仕掛けとか用意している印象があるのだが、結果的に俺はディナ先輩たちの居る地下道まで何の妨害もなく戻ることができた。
最初にディナ先輩の手錠の鍵を探し、手錠を外す。
ディナ先輩、かなりの高熱。
ウェスさんが例の金属製の筒について、中身は毒ではなくディナ先輩を覚醒させる毒消しだと言うので、それを信じて蓋を開けた。
途端にガスが吹き出し、一瞬焦ったものの、ディナ先輩はちゃんと目を覚まされた。
そのディナ先輩へ『テレパシー』で状況を共有し、見つけて拾い上げた眼球について、消毒した後で目に戻してもいいかどうかを確認する。
「『生命回復』で視力が戻った話は聞かない。無駄な寿命の渦を消費するな」
「で、でも、処刑人から大量の魔石を手に入れましたし、試すだけ試させてもらえないでしょうか?」
『再生回復』ならいけるんじゃないかという想いで食い下がり、なんとか了承してもらった。
その間にウェスさんは、様々な後片付けをしてくれる。
実はディナ先輩に『テレパシー』で状況をお伝えしたとき、俺の中にあったウェスさんへの不信をディナ先輩は見抜かれ、ウェスさんの秘密を教えてくださった。
ウェスさんは一度死んでいて、それをディナ先輩がウェスさんの魂をウェスさんの肉体へとまるでゾンビーのように定着させたのだという。
だからディナ先輩が亡くなるようなことがあれば、ウェスさんの魂も再び肉体を離れてしまうのだとか。
魂を、本来の肉体とは異なる肉体へ結びつけるのがこの世界のゾンビーだから、一応自分の肉体と結びついているウェスさんは厳密にはゾンビーではないのかもだけど。
カエルレウム師匠が若さを留めている魔法をちょっと応用した魔法を用いて腐敗を留めているのだとも教えてくださった。
ウェスさんの肌の冷たさはそういう理由だったのか――言われる前にその可能性に欠片も気付けなかった俺は、まだまだ思考が縮こまっているんだな。
その後、一ホーラほどかけて『再生回復』を試してみた。
焦らず丁寧に、視神経を回復したつもりだった。
だがディナ先輩はおっしゃった。
「やはり見えないな」
それも優しい笑顔で、というのが余計に堪える。
何がいけなかったのか。
足首みたいな場所ならば繋げられても、目のような繊細な場所だとダメなのか?
いろんな苦難をたまたま乗り越えられたおかげで俺は調子に乗ってはいなかったか?
「いや、もしかしたら、ボクが自分でやればいけたのかもしれない」
「……どういうことですか?」
「通常の視力は回復した。だが、こちらの目では精霊が見えなくなったのだ」
「精霊……というとアールヴには見えるという」
「ああ。アールヴの血を引かねば見られぬ、というものらしい。だが嘆くな。この結果は精霊との関わり方における大切な知識となる」
「それでも、申し訳ないです。あれだけ治せると豪語しておいてこれだから」
「トシテル。思い上がるな。許可をしたのはボクだ。何でもかんでも背負い込めるなどと自惚れるな。お前はまだ魔術師にすらなれていない半人前なのだから」
「……ありがとうございます」
「実際、気づいてないだろう?」
「えっと……何に、でしょうか」
「お前が望んでいたことを、可能にするための足がかりを、さっきお前はボクに伝えたぞ?」
「えっ、さっき、ですか?」
「ああ」
ディナ先輩はやけに楽しげに笑った。
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ魔術師見習い。レムールのポーとも契約。
傭兵部隊を勇気除隊し、ウォルラースとタールを倒した。地球の家族へ最初で最後のメッセージを送ったが、その記憶はない。
・プティ
ロービンからもらったドラコの卵を、リテルが孵して生まれてきた。リテルに懐いている。しらばくは消費命が主食。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きくリテルとは両想い。
フォーリーから合流したがリテルたちの足を引っ張りたくないと引き返した。ウォルラースの牙をディナへ届けた。
・ラビツ
イケメンではないが大人の色気があり強者感を出している鼠種の兎亜種。
高名な傭兵集団「ヴォールパール自警団」に所属する傭兵。二つ名は「胸漁り」。現在は謝罪行脚中。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人。取り戻した犬種の体は最近は丈夫に。
地球で飼っていたコーギーのハッタに似ている。ゴブリン魔法を使える。傭兵部隊を勇気除隊。現在はプティを預かっている。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
魔法も戦闘もレベルが高く、知的好奇心も旺盛。親しい人を傷つけてしまっていると自分を責めがち。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去があった。アールヴを母に持ち、猿種を父に持つ。精霊と契約している。負傷した片目は『再生回復』したが精霊が見えなくなった。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
一度死んでおり、自身の肉体と魂とを「ゾンビー」のように結びつけた存在。術者たるディナが死亡すると共に死ぬ。
・タール
元ギルフォド第一傭兵大隊隊長。『虫の牙』でディナに呪詛の傷を付け、フラマとオストレアの父の仇でもある。
地界出身の魔人。種族はナベリウス。『魔動人形』化したネスタエアイン内に居たタールはようやく処理された。
・メリアン
ディナ先輩が手配した護衛。ラビツとは傭兵仲間で婚約者。ものすごい筋肉と角と副乳とを持つ牛種の半返りの女傭兵。知識も豊富で頼れる。二つ名は「噛み千切る壁」。現在はギルフォド第一傭兵大隊隊長代理。
・レム
爬虫種。胸が大きい。バータフラ世代の五人目の生き残り。不本意ながら盗賊団に加担していた。
同じく仕方なく加担していたミンを殺したウォルラースを憎んでいる。トシテルの心の妹。砦の兵士を除隊したらしい。
・ウォルラース
キカイーがディナたちに興味を示すよう唆した張本人。金のためならば平気で人を殺すが、とうとう死亡した。
ダイクの作った盗賊団に一枚噛んでいた。海象種の半返り。クラーリンともファウンとも旧知の仲であった。
・ナイト
初老の馬種。地球では親の工場で働いていた日本人、喜多山馬吉。
2016年、四十五歳の誕生日にこちらへ転生してきた。今は発明家として過ごしているが、ナイト商会のトップである。
・エルーシ
ディナが管理する娼婦街の元締め、ロズの弟である羊種。娼館で働くのが嫌で飛び出した。
共に盗賊団に入団した仲間を失い逃走中だった。使い魔にしたカッツァリーダや『発火』で夜襲をかけてきたが、死亡。
・ロズ
羊種の綺麗なお姉さん。娼館街にてディナが管理する複数の娼館を管理している。エルーシの姉。ディナの屋敷の地下牢に囚われていた。
・レムール
レムールは単数形で、複数形はレムルースとなる。地界に生息する、肉体を持たず精神だけの種族。
自身の能力を提供することにより肉体を持つ生命体と共生する。『虫の牙』による呪詛傷は、強制召喚されたレムールだった。
・ショゴウキ号
ナイト(キタヤマ)がリテルに貸し出した特別な馬車。「ショゴちゃん」と呼ばれる。現在はルブルムが使用。
板バネのサスペンション、藁クッション付き椅子、つり革、床下隠し収納等々便利機能の他、魔法的機能まで搭載。
・ドラコ
古い表現ではドラコーン。魔術師や王侯貴族に大人気の、いわゆるドラゴン。リテルはその卵をロービンよりもらった。
卵は手のひらよりちょっと大きいくらいで、孵化に必要な魔法代償を与えられるまで、石のような状態を維持する。
・処刑人
恐らく転生者。ディナが管理する寄らずの森の魔女への物資供給や娼館経営等を狙う用心深い人物。
寿命の渦に加えて自身が宿っているホルトゥス人の魂を消費して強力な魔法を使っていた。死亡。
・蛙
ディナ邸に居た謎のメイド服な眼鏡美人。緑色の髪の毛はクセっ毛の長髪。処刑人の手下。麻痺拘束中。
・子豚
ディナ邸に居た謎の大男。メリアンをしのぐ巨大だが、だらしない肥満。性のケダモノ。処刑人の手下だが、本来は抑圧された欲望を抱いていた様子。処刑人と戦い死亡。
・魚
ディナ邸に居た謎のメイド服スレンダー美少女。褐色肌に黒いストレートの短髪。情け容赦ない。処刑人の手下。麻痺拘束中。
・ウンセーレー・ウィヒト
特定の種族名ではなく現象としての名前。異門近くで寿命によらない大量死がある稀に発生する。
死者たちの姿で燐光を帯びて現れ、火に弱いが、触れられた生者は寿命の渦を失う。
■ はみ出しコラム【水音】
まだそう深くもなっていない夜に、鈍い音が響いた。
長谷川渓が自販機を殴りつけたのだ。
八つ当たりだというのは彼自身もわかっていた。
誰が悪いわけじゃない。
強いて言うならば、一番悪いのは自分だ。
だが、どこかへ散らさなければ、その怒りに溺れてしまいそうで。
それでも収まらず走り出す。
ふと鳴ったスマホの通知音。
彼が見つめる画面には「水音」という表示。
水音は彼の恋人だ。
水泳部の連中もこぞって美人だとほめ称えた。
そのときは嬉しかった。
「ガワちんにはもったいねぇよ」というその言葉にも、悪意がないことなんてわかっている。
それでも皆と別れて一人になった帰路で、突然に自身に絶望した。
素晴らしいのは水音。自分ではない。
自分にはいったい何があるのだろうか、と。
彼は高校時代、水泳部のキャプテンだった。
とはいってもエースではない。
水泳部のエースは、オリンピック強化選手として見い出され、学校の部活へは滅多に顔を出さなくなり、エースは幼馴染である彼を「自分の代わりに」部長へと推薦した。
それでもその頃は、そこまで引け目には感じていなかった。
エースは良い奴だったし、他の部員とも仲は良かったし、わちゃわちゃとした雰囲気のなか、楽しい高校生活だった。
何かが変わったとしたら、それは大学受験のとき。
担任が何気なく漏らした一言。
「お前、いつから真面目に練習しなくなったんだ? あのまま頑張っていたら、今頃スポーツ推薦くらい取れてたのにな」
それまで楽しかったはずの高校生活に、そのとき初めて大きな後悔を感じた。
おまけに受験シーズンに風邪をこじらせた。
水泳部の仲間うちで、浪人したのは彼だけだった。
仲間だと思っていた友人たちは、それぞれの新しい生活のなかで新しい仲間を作り、彼への気遣いもあったのだが、結果的に彼は仲間の誰とも合わずに孤独な一年を過ごした。
合格祝いをしてくれるというかつての仲間たちの誘いを自ら断った彼は、大学に入ってからも水泳部の仲間とも、プールそのものからも離れ続けた。
一浪して入った大学には水泳部はなかったのだが、あったとしても、もはや入ることもなかっただろう。
水の音が、楽しく、同時に後悔にまみれた高校生活を思い出させてしまったから。
そんな大学生活は楽しくなかった。
彼は「仲間」を作ることにもうすっかり臆病になってしまっていたから。
人生の目標も見失い、大学へはただ呼吸をしにだけ通うような日々。
そんななか、偶然に水音に出会った。
一目惚れだった。
何もかもなかった彼にとって、唯一の生きがい。人生の光と言っても過言ではなかった。
そして何度めかのアタックののち、水音は彼の恋人となった。
過去の嫌なことを全て忘れるほどの浮かれたクリスマスを過ごし、迎えた成人式。
彼はそこでかつての水泳部の仲間たちと再会した。
幼馴染であるエースも居た。
「なあ、呑みに行こうぜ」
彼は、悪意のかけらもないかつての仲間たちの笑顔に眩しさを感じないほどには心が回復していた。
だから、成人式のあと、彼はプチ同窓会へ顔を出した。
和やかに時間は過ぎ、会計の時間になったとき、一人が言った。
「俺さ、ボーナス出たからここはおごるよ。ガワちんの合格祝いと初彼女祝いも兼ねてさ」
大学に行かずに公務員になっていたその「友人」のその行為が、彼には「施し」に映った。
立派に社会人をしている奴、自分よりも良い大学へ現役で合格した奴ら、中には起業した奴も居た。そして相変わらず頑張り続けるエースである幼馴染。
彼だけ取り残された気分だった。
大学に入ってもなお――いや、それどころかこの差は永遠に埋まらないのではないかと不安になった。
いや俺には水音が居る――そう考えたとき、自分の中に「果たしてそうか?」という疑問が湧いた。
水音が素敵なのは水音自身の才能だ。
自分にはそれがない。
捨てられたら終わり。
気づいたら自販機を殴りつけていた。
警報が鳴り響き、慌ててその場を逃げ出した。
走り出してすぐ、脇腹が痛くなる。
運動不足だ。
かつて真剣に水泳に取り組んで居た頃は、こんな情けないことはなかった。
彼はいつの間にか泣いていた。
自分が惨めで、腹立たしく、そして何よりも悔しくて。
最高の恋人からの連絡も無視して帰宅する。
自分の部屋のベッドへと身を投げ出し、天井を眺める。
やけにクラクラする。
自身の粗くなる呼吸を耳にしながら、呑み過ぎたかな、と目を閉じた。
目覚めたらホルトゥスに居た。
大きな商家の、当主の弟に転生していた――と彼は理解した。
ただその彼にとっては受け入れ難い現実に、馴染むまでけっこうな時間がかかった。
それは異世界であるということだけではなく、ホルトゥスでの彼の体が、その手が、血に塗れていたから。
ホルトゥスでの彼は、表向きは兄の商家を支える良き弟でありながら、裏ではフォーリーの娼館街の半分を統べる暗黒街のボスのような存在だった。
さらに悪いことに、兄の妻が、水音に似ていた。
ホルトゥスの彼が元々懸想していたこともあり、彼自身の何ともいえない寂しさを兄嫁へとぶつけ、拒絶されたとき、彼の中の何かが壊れた。
彼は兄を亡き者にし、その後釜に座ろうと企んだ。
ホルトゥスの彼の記憶を覗くうちに倫理観は麻痺していた。
それに彼にとっては、彼の人生の唯一の光から無理やり引き剥がされたという恨みが、この世界そのものへの恨みと変わっていた。
ホルトゥスの彼の兄が死んだ後、商家を引き継いだ彼のもとから最初に離れたのが兄嫁だった。
実家へ帰るという兄嫁を引き留めようとして、もめて、気づいたら、兄嫁も甥も姪たちも死んでいた。
また失くした――そのことが、彼の中の何かを狂わせた。
彼は娼館街の残る半分を手に入れることにやっきになり始めた。
そんな中で、孤独に耐えられなくなった彼が手を出したのが、彼の「代理」として暗黒街のボスの座に就かせていた男――子豚の娘たちだった。
とは言っても本当の娘ではない。
娼館街で生まれた子どもたちのうち、生き残った者たちを子豚が手駒として育てたのだ。
ホルトゥスにおける「戸籍のない者」たち。
彼はその中で、唯一魔法を使える蛙に目をつけた。
「もしも異世界に行ったらさ、魔法で無双とかしたいよな」
地球に居た頃にかつての仲間たちとした馬鹿話――ああ、そうだ。魔法を覚えたら、僕はようやく自分に自信が持てる。
彼は蛙から魔法の手ほどきを受け、一緒に過ごすうちに情が移り、やがてそういう仲になった。
蛙は彼に、彼女の妹分である魚も一緒にすくい上げてほしいと懇願した。
子豚は、自身の手駒をまるで道具のように扱っていた。子豚が望む時、彼女らは股を、もしくは尻を差し出さなければならなかったから。
彼は蛙と魚を自分の専属とし、魔法を学び、娼館街の残り半分を手中に収めるべく準備を重ねた。
そしてようやく開発した『ロボトミー』で、子豚を完全な支配下に置いた。
ディナが長い旅に出たと聞き、魚をディナの配下へと近づけたとき、そのウェスという女は意外にも彼の提案に興味を持った。
ならばとディナの隣家の屋敷を子豚に襲わせ、最終的な準備を重ねた。
水音に似た兄嫁を失って以来、初めての順風満帆だった――はずだった。
なのになぜ、今、自分は死にかけているのか。
彼はもはや見えなくなった目を閉じ、水音の顔を思い出そうとした。
耳元で水の音がした。
ああ、プールで泳ぎたいな。
幼馴染に触発されて自分も記録を目指した時期があったけど、もともとは水に浮いて空を眺めるのが好きだった。
水の音。
水音は顔も性格も好きだったけど、あの名前もすごく好きだったんだよな。
死んだら、また会えるかな。
地球に戻れるかな。
ああでも、僕、もう人殺しなんだっけ。
絶対ダメじゃん――それが、彼の、最期の、意識だった。
ルブルムから教えてもらった魔法だからってわけじゃないけれど、この魔法を使うときはなんだかすぐそばにルブルムを感じる。
ディナ先輩を助けることは、ルブルムやカエルレウム師匠を守ることにも繋がる。
だから俺は処刑人を取り逃すわけにも、負けるわけにもいかない。
速度を上げる――この明るさは逆に罠を隠すための油断を誘うものかもしれないが、自分の周囲に対してだけは『魔力感知』の感度を上げて「壁」を感じながら、できる限り早く。
地下通路を走りながら、崩れている壁を見つけた。
念のため立ち止まる。
通路は明るいとはいえ、光っているのは天井部分だけなので、壁の凹凸は影がくっきりと際立つ。
罠の発動跡だとしたら他にもあるかもしれない。
注意してよく観察すると、拳を叩きつけた跡にも見える。
おまけにその辺りだけ床に子豚が垂らしたと思われる血の量が多い。
矢とか石とか刃とかの攻撃的な罠の部品も探したが、そういった痕跡は特にない。
そういやさっき子豚が通路で雄叫びを上げていたのって、この辺りじゃなかったか?
だとしたら、理由は?
魚に刺されていた傷がここで開いた?
そして怒りで壁を殴りつけた?
俺は『ロボトミー』という魔法名を聞いて、完全に従わせる洗脳系のイメージをしていたけれど、実際には特定の声による行動制限を課せられるタイプの呪縛的な効果なのかもしれない。
だから「殴れ」という命令しかしていないのに、服を剥ぎ取り、さらに襲おうとしたのか?
対象に対する命令は、何であっても上書きが可能で、最後の一つしか有効にならないとか――そんなことを思ったのは、プログラミングを学ぶパソコンのゲームで、指示を打ち込んでキャラを操作してミッションを遂行するってやつをやったことがあるから。
モノを「つかめ」、そして「回れ右しろ」って命令をしたら、モノをつかみ始めたと同時に動いて、結果的にちゃんとつかめなかったんだよな。
正解は「つかむ」という動作が完了するまでにかかるタイムラグを考慮して、つかみ終えるまでの待ち時間を「つかめ」と「回れ右しろ」との間に設定してやらなきゃいけなかったんだ。
そもそもは「つかめ」も、「指を開け」・「手を前に出せ」・「指を閉じろ」という三つの命令をワンセットにして一プロセス化したものだったから、「つかむ」命令のうちの「指を開け」が終わったタイミングで、「手を前に出せ」と「回れ右しろ」を同時に実行しちゃったのが原因だった。
例えば子豚に元々、「襲うな」と「命令を聞け」が指示されていたとしたら――って、たらればに時間を取られ過ぎるのも良くないな、と移動を再開する。
もちろん警戒は一切緩めずに。
少し時間を取られたが、あの崩れた箇所からわかったことは他にもある。
この地下道は、地面の中を四角く掘り貫いた壁面にカエメンを塗って補強した感じだろうか。
木の根のようなものは途中で切れているし、小石が外れたと思われる隙間も残っている。
しかも恐らくこのカエメンも魔法で施工したに違いない。なぜならば、一アブス毎に、継ぎ目があるから。
一アブスずつ穴を掘ってカエメンで塞いで、ってそれ、地球でいうシールド工法に似ている気がする。
ただアレを魔術で再現するのであればそこそこコストがかかりそうなものだけど。
恐らくカエメンの乾燥にはまた別の魔法を――さっきくらった突風みたいなアレで、とか。
しかしこの地下道、真四角で区切りがあって、本当にマッピングし易そう――そんなことを考えているうちに通路が終わり、地下室へと出た。
ディナ先輩のとこと同じ様な地下室。
ここいらのお屋敷はアメリカの個人宅みたいに皆さん地下室完備なのだろうか。
子豚ともう一つの寿命の渦は二階から感じる――しかも子豚の寿命の渦の方はかなり弱っている。
急がなければ――とはいえ、罠には気をつけないと。
特にあそこにこれみよがしに見える、壁に埋め込まれた魔石。
この地下通路の終わり、向こうの地下室への開口部よりほんの十センチ程度内側の場所。
処刑人が地球人として思考するならば、あの魔石にセンサー的な魔法を仕掛けている可能性があるかもしれないし。
触れないように近づき、『魔石調査』を「単体モード」で発動する。
ベイグルさんに「他の人には教えないように」という条件で教えていただいた、魔石を感知したり、触れずに魔石の中身を確認できる便利魔法――ふむ。内容はわかった。
消費命を流し込むと、それをどこかへ送る、という魔法。
その魔法代償がえげつない量なのだが、魔法名が『照明スイッチ』というネーミングだったので、用途はなんとなく予想できた。
そりゃこれだけの長さの地下通路の天井部分からそこそこの光量を発するってんだから、並大抵の魔法代償ではない。
それを考えたら、安易に発動しようとすれば想像以上の消費命を奪われてしまうこれは、充分に罠としての役目を果たしているかもしれない。
他に魔法は封じられてはいないようだな――先へと進むべく地下室へと踏み込む。
ディナ先輩のとこの地下室よりもちょっと狭い。
しかも壁に手錠みたいなのも設置されていないし、地下室の扉も開いている。
扉の向こうはさほど長くない通路。
その途中、左右に扉を経て、突き当りが一階へと至るであろう階段。
階段を登った先にも扉があるのだが、そこは開け放たれている。
地下室とこの地下一階廊下に灯りはないが、地下通路から漏れる光と、一階の扉が開いた場所から漏れてきている光とで、色々と見えなくなくはない。
敵に近づいたので、ここではもう『偽装魔力微感知』へと切り替えておく。
経験則からだが、戦いに夢中になると注意力が散漫になる。
まだ気付かれていないといいのだけれど。
両側の扉を無視して慎重に階段を上がる。
歩きやすい普通の石階段。
すぐに上りきり、周囲の雰囲気から安全と判断して一階の廊下へと出た。
この廊下、ディナ先輩のお屋敷よりはちょっと装飾が派手――だが、あちこちに拭いきれていない血の跡。
しかも中には明らかに乾いている血の跡まで残っている。
子豚のではないとしたら――まさか処刑人はここの正当な所有者ではないとか?
処刑人という名前もアレだし、その部下である魚が迷いもなくディナ先輩の目を抉ったことからも、その攻撃性の高さはうかがえる。
それならこの家を襲撃して――ディナ先輩を襲撃する準備のために?
雄叫びが聞こえ、思考を切り替える。
破壊音が幾度となく聞こえる方向へ、慎重に、だが急ぎ足で進む。
俺が通ってきた地下道の入口みたいに完全に塞がれている場所に隠れているのでもない限り、今、この屋敷で生存している人間サイズの生命体は、俺と子豚と、あとは恐らく処刑人の三人だけ。
音のする方向と、血痕が続く方向とは一致している。
角を曲がり、窓のない狭めの通路を確認する。
通路の端にはアーチが設置されており、その向こうは広そうだ。大広間だろうか。
気をつけながら近づこうとして、足が止まる。
一階に人の気配はないが、二階部分まで吹き抜けになっている大広間の向こう側はけっこう見通せそうだから。
例えばあのアーチを見張るような何かを仕掛けられている可能性はないだろうか。
処刑人が地球人転生者と仮定するならば、監視カメラのようなものを設置していてもおかしくはない。
あの地下室で使われていたのだって、テレビ電話みたいな効果の魔法だったし。
双方向が可能ならば一方向はもっと少ない魔法代償で用意できるんじゃないだろうか。
もしかしたら既に、地下室へ降りる階段のとかに仕掛けられている可能性だってあったはずだ――もし見つかっているのであれば、なおのこと急がなければ。
今なら注意力が目の前の相手に割かれているかもだから――素早く、だが静かにアーチの陰まで移動する。
電車のドア横よりは幅が広いから、しゃがんだとしても大広間からはすぐには見えないだろう。
子豚のものと思われる唸り声や鈍い殴打音はまだ続いている。
一瞬だけ大広間を覗く。
大広間は二階までの吹き抜けで、玄関や二階への大階段なんかの位置関係は、ディナ先輩のお屋敷と同じっぽい。
大きく異なる点は、二階部分にぐるりと張り出し回廊が付いていること。
正面の壁の一階に、ここと同じ様なアーチが設置されていることから、この建物自体がほぼ左右対称に作られている可能性は高そうだ。
向かい側二階の張り出し回廊に幾つか見えるドアの間隔からすると、子豚たちが争っているのはこのアーチのナナメ上にある部屋あたりか。
さて――と悩む間もなく、大広間に何かが落ちた。
少し遅れてからもう一つ。いや、こちらについては、一つというか、張り出し回廊の手すりと思われる彫刻のなされた木材もバラバラと。
何が落ちたかはすぐに分かった。
アーチの陰に隠れたままでも、感じられたから――子豚の寿命の渦が真っ二つになりながら、その片方が最初に落ちたほう。二番目のが残り半分。
そしてその惨事の直前、処刑人の声が聞こえた。
「マケン、ムラマサンダー」という日本語っぽい発音で。
マケンは魔剣だろうか。
中二病の臭いがプンプンするのはどうでもいい。
問題なのは、凄まじい魔法代償量だったこと。
というか消費命の集め方が不自然だった。
詳細は実際に集中している最中に触れないとわからないものの、それでも何か「違う」というのは離れていても感じたほど。
あと気をつけるべきことは、それだけ大きな消費命を集中できている、ということ。
寿命の渦の制御技術もそれなりにあると想定した方がいい。
となると、もしかして俺の『偽装魔力微感知』もバレているのか?
そうだとしたら、俺が本当は魔法を使えることも見破られているのか?
手の内がバレているのなら速攻で畳み掛ける方がいい気もするが、あれだけ用心深い奴だと罠を準備している可能性はとても高いはず。
特にここまで何も罠っぽいものがなかったのが逆に怪しさを増す。
「蛙ッ! 魚ッ! 応答しろッ! クソッ! 真っ暗で何も見えやしねぇ。照明が落ちやがったか。燃費悪いな魔法ってやつは! クソッ!」
けっこう大きな声での独り言も罠なのだろうか。
だが、処刑人が今居る部屋に、あのテレビ電話魔法の中継先があると見て間違いなさそうだ。
「蛙ッ! 魚ッ! 聞こえているかッ? お前の計画は万全だったんじゃないのかッ? なんで楽するための作戦でピンチにならなきゃいけねぇんだよッ!」
このインテリジェンス低そうな独り言も俺を油断させるための罠で、こちらの位置を把握していてわざと聞かせているのか?
消費命の集中は現時点では感じない。
まさか天井や壁をぶち抜いて攻撃してくるとか?
というかいつまでここで待機するんだ、俺。
距離が微妙なんだよな。
さっき子豚が殺られたときに部屋の入口近くまで接近できていれば、その直後に奇襲って方法だってあったが。
俺の方が慎重になり過ぎて機会を失っているんだろうか。
「あー、もう、全部見捨てて他の町に行こうかなぁ……」
その独り言がきっかけだった。
こいつは野放しにできない。逃げられる前に仕掛けるしかない。
『新たなる生』で魚の幻影をすぐ横に作る。
服はビリビリに破かれた状態で――集中して、試しに歩かせてみる。
よろよろと――これで行けるかな?
幻影だから足音はたたないが、魚は音を消して歩いていたし。
さらにもっと目を引くよう、ほぼ全裸まで剥かれた蛙を抱きかかえているような幻影デザインにしてある――装備は俺の記憶をもとに再現するから、他の人間を荷物のように持つのであればいけるかも、と試してみたが、かなり良い出来なんじゃないか?
この魔法の問題は一つの幻影について一つの寿命の渦しか配置できない点なのだが、蛙の方は死体という設定だと整合は取れる。
ちなみに魚の寿命の渦もかなり弱々しく設定してある。
「なんだ? 誰か来たのか?」
一瞬、『魔力感知』の粗めのに触れられた間隔。
処刑人は『魔力感知』を常時発動しているわけじゃないのか?
偽装の渦が気取られてないといいけど――気を散らすために、幻影を歩かせる。
魚の幻影はアーチを抜け、大広間まで出る。
そこでうつむいたまま、振り返る。
「ピ、魚? お、おい、蛙ッ!」
魚の幻影にそこで膝をつかせ、ゆっくりと蛙を床へ下ろさせ、しゃがみ込ませる――うつむいたままで。
そしてこちらは別の魔法を準備する。初っ端からデカいのを行くぜ。
カラン、と手すりの欠片らしき木片が落ちる――今、処刑人は張り出し回廊に居るのか?
だとすると、こちらの屋敷では『魔力感知』で感知できている位置と本当の位置とは恐らく乖離していない。
「待ってろ! 今行くッ!」
という声と共に処刑人は張り出し回廊を――大階段の方へと走り出す。
飛び降りてくれたなら位置関係的に背後が取れたんだけど。
だが時間があるということはこちらもそれだけ準備を重ねられるということ。
幻影をしゃがみ込ませた後、全く動かないのも怪しかろうと、魚に両手で自分の顔を覆わせる。
「魚ッ! 蛙ッ! 返事しろッ!」
階段を駆け下りる足音。
『同じ皮膚・改』を床に向かって発動する。
正確には床を埋め尽くす石畳の、石と石との隙間の目地に――やはりいける。
振動を感じる。処刑人の走る一歩、一歩の。
そして幻影に近づく直前でぶっ放す――今の俺が偽装消費命でかけられる最大ダメージ『倍ぶっ飛ばす』を。
即座に鈍い音が続く。声にならない声っぽいのも。
振動を感じた位置へ畳み掛けるようにもう一発、偽装消費命で『倍ぶっ飛ばす』。
「ごッ!」
さらに鈍い音。
「まさか、ディナの奴……こっちに来ているのか? お前らッ、まさか俺を裏切ったのかッ?」
目視できないせいで無力化できるほどのダメージは与えられていなさげ――って消費命の集中?
しかも膨大な量。
俺の集中できる量を超えてやがる――いや、でもなんか変だ。
集中している密度が濃くはあるのだが、もし密度が通常の消費命ならば、せいぜい五ディエスといった感じ。
やつの独り言には惑わされないように冷静さを保ててはいるものの、どういう技術なのかは気になってしまう俺の性よ。
「パーフェクトヒールッ! どうだッ! 俺の怪我は全快したぞッ! 卑怯者のディナよッ!」
怪我を一瞬で全快なんて――いや実際に奴の寿命の渦だって凄まじい量の――ん?
ちょっと気になることを発見したが――それは今この場においてはどう使えるかもわからない。
それよりも消費命の密度を変えるなんて考えもつかなかった。
後で研究させてもらおう。
だが今は実験している暇もない。もう一度――そのときまたあの濃い寿命の渦の集中を感じた。
「地下から攻撃しているなッ?」
そこで感じた。
『同じ皮膚・改』ごしに、処刑人へと触れたのを。
おそらく奴の怪我を全快させた魔法とやらは、流血した血液自体を体内に戻す効果はない――としか思えない。奴は靴を履いているだろうから、この状況で触れているということは、奴の流血が奴と目地までとを繋げているということ。
だからか。
処刑人の消費命集中自体までもを感じられる――それは今まで見たことのない集中方法だった。
例えるならそれは饅頭。
普段、俺達が消費命を集中するときは寿命の渦から一部を取り出して成形する。云うならば餅。
だが、処刑人の集中は、寿命の渦で転生者特有のもう一つの魂――俺でいうところの「リテルの魂」を、餡のように包んで千切り取り、それを核とした消費命を成形する。
同じ大きさなのに、そこから感じる存在感がまるで違う。
圧縮したように感じる理由はこれか――だが、この方法は、同じ体に宿る「もう一人」を犠牲にして使う魔法。
最初に湧いた感情は怒り。
その真っ赤な感情に呑まれそうになったことに気づき、抑え込む。
こいつを逃さずに倒すには感情よりも思考の方が必要だし――俺は魔術師なのだから。
「貫いてやるッ! マケンッ! ムラマサンダーッ! ダブルストラ」
俺が次の手を打つよりも前にそれは発動した。
保険のためにかけておいた罠魔法『深淵』。
ニーチェが著書「善悪の彼岸」に書いた名言「お前が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す」というアレをもとにデザインした魔法。
誰かが俺を対象に魔法をかけようとしたとき、俺もまたその誰かに対して魔法をかけることができる、という魔法。
その誰かが俺に対して魔法をかけようとした道筋をそのまま逆に利用するという思考で、『深淵』起動時にセットしておいた魔法を、『深淵』効果時間内なら一度だけ自動でカウンター発動するのだ。
今回セットしておいた魔法は『隠しベクトル』。
タールの『魔動人形』コンウォルを動揺させ、勝利のための糸口となった魔法だ。
あのとき俺はこの『隠しベクトル』を、『虫の牙』に元々格納されていた魔法のように見せかける『偽ボタン』という魔法と共にセットしておいた。
『隠しベクトル』の効果は、消費命の集中を補助するというもの。
術者が消費命を集中するのを集めやすくするというものなので、その効果自体が「ひとつまみの祝福」となり、抵抗されにくい。
だがそれで終わりではない。
集中を助けるとは言ってもその集中する方向ベクトルは、「術者が集中しようとしている」方向とは若干異なる。高速で動くものに横からほんの少し衝撃を与えるだけで、その動くものの終着点は大きく反れる。それを狙ったもの。
結果的に集中は失敗する。寿命の渦のコントロールが甘い術者であれば、想定以上の消費命を流出させてしまい、暴発する。
気づけてそれを停止させようとしても、まずベクトルの方向を見極め、それを中和するための逆方向の集中を行わなければならないが、実はそうして新たに発生させた「逆方向の集中」に対しても『隠しベクトル』は効果を発揮する。
自分でも試してみたのだが、『隠しベクトル』の存在と方向があらかじめわかっていても、対処はとてつもなく難しかった。
しかも試したのはわずか一ディエスの『発火』。それでも十ディエス以上の消費命が霧散しそうになったのだから、元々集めようとした消費命ディエス量が多かったならば、その被害たるやどれほどになるだろうか。
運の良いことに、処刑人は対処しきれなかった。
大量の消費命は霧散というよりはむしろ花火のように激しく散った。
『同じ皮膚・改』で繋がった先まで「自分」という認識をしていたがために、奴の足元の地面が『深淵』の対象に含まれた――想定外の誤算が、今回は俺の味方をしてくれた。
そうやって偶然手に入ったチャンスを無駄にはしない。
半ば放心状態のような処刑人に、俺は追い打ちをかける。
一撃必殺といったらもうこれしかない――もう隠さない。偽装消費命なしならぶっ放せる最大ダメージ魔法を――『ぶん殴る』の十進換算で十五倍威力の『超ぶっ飛ばす』を、奴の頭部に近い場所へ思いっきりぶち込んだ。
触れていた処刑人が離れるのを感じる。
少しだけ間を置いて、鈍い音がした。
水の詰まった革袋を裂いたみたいに、処刑人の体から急激に寿命の渦が流れ出て消えるのを感じる。
それでもまだ消費命を集めようという動きを感じだが、それは、ポーが散らしてくれた。
ウンセーレー・ウィヒトから盗んだ例の技術で。
消えかける処刑人の寿命の渦が、消える直前の一瞬だけ、絶望の色に染まった。
さらに偽装消費命の『倍ぶっ飛ばす』を何発かぶち込む。
奴の反応はない。これが「ただの屍のようだ」ってやつか。
処刑人の寿命の渦が完全に感じられなくなるのを待ってから、アーチの陰より姿を現す。
念のため、処刑人が身につけている魔石を含んだアイテムを全て引き剥がす。
ディナ先輩のことが心配ではあったが、万が一の可能性を潰すため、先に処刑人と子豚が争っていた部屋へと行き、そこでも魔石のついたアイテムを幾つか拾う。
激しい争いの跡で部屋の中は滅茶苦茶だったが、『魔石調査』を「範囲モード」で発動したら魔石は取りこぼさずに発見できた。
その部屋には上等なベッドもあり、シーツの端を適度に切り裂き、風呂敷代わりにして、それらの見つけた魔石付きアイテムをくるんだ。
部屋の端に置かれた大きな姿見にも魔石が取り付けられていて、その魔石に『座標指定』と『幻影通信』という二つの魔法が設定されていたこともわかった。
座標を指定する魔法と、指定済座標に幻影を発生させ視覚と聴覚だけ共有する魔法。後者の『幻影通信』の方はとんでもない魔法代償。
あんな消費命の集め方をしていたからこそ発動できていたのだろうな。
過ぎた願いには身を破滅させるほどの代償が伴う――これは、カエルレウム師匠が魔術師の心得として俺に教えてくださった言葉。
処刑人のあの、自身の寿命の渦で繋がるもう一つの魂を消費して消費命を集中するやり方は、きっと俺が何もしなくとも身を滅ぼしていたに違いない。
今俺が借りているこの体がリテルのものであるように、処刑人が使っていた体も奴ではない誰かのものだろうし、その魂がなくなってしまったならば、その体との結びつきを失くしてしまうような気がする。
姿見から魔石を取り外すと、それらの品を持って俺は再び地下道へと急ぐ。
あの手の悪党は自分が死んだらその場所を破壊する仕掛けとか用意している印象があるのだが、結果的に俺はディナ先輩たちの居る地下道まで何の妨害もなく戻ることができた。
最初にディナ先輩の手錠の鍵を探し、手錠を外す。
ディナ先輩、かなりの高熱。
ウェスさんが例の金属製の筒について、中身は毒ではなくディナ先輩を覚醒させる毒消しだと言うので、それを信じて蓋を開けた。
途端にガスが吹き出し、一瞬焦ったものの、ディナ先輩はちゃんと目を覚まされた。
そのディナ先輩へ『テレパシー』で状況を共有し、見つけて拾い上げた眼球について、消毒した後で目に戻してもいいかどうかを確認する。
「『生命回復』で視力が戻った話は聞かない。無駄な寿命の渦を消費するな」
「で、でも、処刑人から大量の魔石を手に入れましたし、試すだけ試させてもらえないでしょうか?」
『再生回復』ならいけるんじゃないかという想いで食い下がり、なんとか了承してもらった。
その間にウェスさんは、様々な後片付けをしてくれる。
実はディナ先輩に『テレパシー』で状況をお伝えしたとき、俺の中にあったウェスさんへの不信をディナ先輩は見抜かれ、ウェスさんの秘密を教えてくださった。
ウェスさんは一度死んでいて、それをディナ先輩がウェスさんの魂をウェスさんの肉体へとまるでゾンビーのように定着させたのだという。
だからディナ先輩が亡くなるようなことがあれば、ウェスさんの魂も再び肉体を離れてしまうのだとか。
魂を、本来の肉体とは異なる肉体へ結びつけるのがこの世界のゾンビーだから、一応自分の肉体と結びついているウェスさんは厳密にはゾンビーではないのかもだけど。
カエルレウム師匠が若さを留めている魔法をちょっと応用した魔法を用いて腐敗を留めているのだとも教えてくださった。
ウェスさんの肌の冷たさはそういう理由だったのか――言われる前にその可能性に欠片も気付けなかった俺は、まだまだ思考が縮こまっているんだな。
その後、一ホーラほどかけて『再生回復』を試してみた。
焦らず丁寧に、視神経を回復したつもりだった。
だがディナ先輩はおっしゃった。
「やはり見えないな」
それも優しい笑顔で、というのが余計に堪える。
何がいけなかったのか。
足首みたいな場所ならば繋げられても、目のような繊細な場所だとダメなのか?
いろんな苦難をたまたま乗り越えられたおかげで俺は調子に乗ってはいなかったか?
「いや、もしかしたら、ボクが自分でやればいけたのかもしれない」
「……どういうことですか?」
「通常の視力は回復した。だが、こちらの目では精霊が見えなくなったのだ」
「精霊……というとアールヴには見えるという」
「ああ。アールヴの血を引かねば見られぬ、というものらしい。だが嘆くな。この結果は精霊との関わり方における大切な知識となる」
「それでも、申し訳ないです。あれだけ治せると豪語しておいてこれだから」
「トシテル。思い上がるな。許可をしたのはボクだ。何でもかんでも背負い込めるなどと自惚れるな。お前はまだ魔術師にすらなれていない半人前なのだから」
「……ありがとうございます」
「実際、気づいてないだろう?」
「えっと……何に、でしょうか」
「お前が望んでいたことを、可能にするための足がかりを、さっきお前はボクに伝えたぞ?」
「えっ、さっき、ですか?」
「ああ」
ディナ先輩はやけに楽しげに笑った。
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ魔術師見習い。レムールのポーとも契約。
傭兵部隊を勇気除隊し、ウォルラースとタールを倒した。地球の家族へ最初で最後のメッセージを送ったが、その記憶はない。
・プティ
ロービンからもらったドラコの卵を、リテルが孵して生まれてきた。リテルに懐いている。しらばくは消費命が主食。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きくリテルとは両想い。
フォーリーから合流したがリテルたちの足を引っ張りたくないと引き返した。ウォルラースの牙をディナへ届けた。
・ラビツ
イケメンではないが大人の色気があり強者感を出している鼠種の兎亜種。
高名な傭兵集団「ヴォールパール自警団」に所属する傭兵。二つ名は「胸漁り」。現在は謝罪行脚中。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人。取り戻した犬種の体は最近は丈夫に。
地球で飼っていたコーギーのハッタに似ている。ゴブリン魔法を使える。傭兵部隊を勇気除隊。現在はプティを預かっている。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
魔法も戦闘もレベルが高く、知的好奇心も旺盛。親しい人を傷つけてしまっていると自分を責めがち。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去があった。アールヴを母に持ち、猿種を父に持つ。精霊と契約している。負傷した片目は『再生回復』したが精霊が見えなくなった。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
一度死んでおり、自身の肉体と魂とを「ゾンビー」のように結びつけた存在。術者たるディナが死亡すると共に死ぬ。
・タール
元ギルフォド第一傭兵大隊隊長。『虫の牙』でディナに呪詛の傷を付け、フラマとオストレアの父の仇でもある。
地界出身の魔人。種族はナベリウス。『魔動人形』化したネスタエアイン内に居たタールはようやく処理された。
・メリアン
ディナ先輩が手配した護衛。ラビツとは傭兵仲間で婚約者。ものすごい筋肉と角と副乳とを持つ牛種の半返りの女傭兵。知識も豊富で頼れる。二つ名は「噛み千切る壁」。現在はギルフォド第一傭兵大隊隊長代理。
・レム
爬虫種。胸が大きい。バータフラ世代の五人目の生き残り。不本意ながら盗賊団に加担していた。
同じく仕方なく加担していたミンを殺したウォルラースを憎んでいる。トシテルの心の妹。砦の兵士を除隊したらしい。
・ウォルラース
キカイーがディナたちに興味を示すよう唆した張本人。金のためならば平気で人を殺すが、とうとう死亡した。
ダイクの作った盗賊団に一枚噛んでいた。海象種の半返り。クラーリンともファウンとも旧知の仲であった。
・ナイト
初老の馬種。地球では親の工場で働いていた日本人、喜多山馬吉。
2016年、四十五歳の誕生日にこちらへ転生してきた。今は発明家として過ごしているが、ナイト商会のトップである。
・エルーシ
ディナが管理する娼婦街の元締め、ロズの弟である羊種。娼館で働くのが嫌で飛び出した。
共に盗賊団に入団した仲間を失い逃走中だった。使い魔にしたカッツァリーダや『発火』で夜襲をかけてきたが、死亡。
・ロズ
羊種の綺麗なお姉さん。娼館街にてディナが管理する複数の娼館を管理している。エルーシの姉。ディナの屋敷の地下牢に囚われていた。
・レムール
レムールは単数形で、複数形はレムルースとなる。地界に生息する、肉体を持たず精神だけの種族。
自身の能力を提供することにより肉体を持つ生命体と共生する。『虫の牙』による呪詛傷は、強制召喚されたレムールだった。
・ショゴウキ号
ナイト(キタヤマ)がリテルに貸し出した特別な馬車。「ショゴちゃん」と呼ばれる。現在はルブルムが使用。
板バネのサスペンション、藁クッション付き椅子、つり革、床下隠し収納等々便利機能の他、魔法的機能まで搭載。
・ドラコ
古い表現ではドラコーン。魔術師や王侯貴族に大人気の、いわゆるドラゴン。リテルはその卵をロービンよりもらった。
卵は手のひらよりちょっと大きいくらいで、孵化に必要な魔法代償を与えられるまで、石のような状態を維持する。
・処刑人
恐らく転生者。ディナが管理する寄らずの森の魔女への物資供給や娼館経営等を狙う用心深い人物。
寿命の渦に加えて自身が宿っているホルトゥス人の魂を消費して強力な魔法を使っていた。死亡。
・蛙
ディナ邸に居た謎のメイド服な眼鏡美人。緑色の髪の毛はクセっ毛の長髪。処刑人の手下。麻痺拘束中。
・子豚
ディナ邸に居た謎の大男。メリアンをしのぐ巨大だが、だらしない肥満。性のケダモノ。処刑人の手下だが、本来は抑圧された欲望を抱いていた様子。処刑人と戦い死亡。
・魚
ディナ邸に居た謎のメイド服スレンダー美少女。褐色肌に黒いストレートの短髪。情け容赦ない。処刑人の手下。麻痺拘束中。
・ウンセーレー・ウィヒト
特定の種族名ではなく現象としての名前。異門近くで寿命によらない大量死がある稀に発生する。
死者たちの姿で燐光を帯びて現れ、火に弱いが、触れられた生者は寿命の渦を失う。
■ はみ出しコラム【水音】
まだそう深くもなっていない夜に、鈍い音が響いた。
長谷川渓が自販機を殴りつけたのだ。
八つ当たりだというのは彼自身もわかっていた。
誰が悪いわけじゃない。
強いて言うならば、一番悪いのは自分だ。
だが、どこかへ散らさなければ、その怒りに溺れてしまいそうで。
それでも収まらず走り出す。
ふと鳴ったスマホの通知音。
彼が見つめる画面には「水音」という表示。
水音は彼の恋人だ。
水泳部の連中もこぞって美人だとほめ称えた。
そのときは嬉しかった。
「ガワちんにはもったいねぇよ」というその言葉にも、悪意がないことなんてわかっている。
それでも皆と別れて一人になった帰路で、突然に自身に絶望した。
素晴らしいのは水音。自分ではない。
自分にはいったい何があるのだろうか、と。
彼は高校時代、水泳部のキャプテンだった。
とはいってもエースではない。
水泳部のエースは、オリンピック強化選手として見い出され、学校の部活へは滅多に顔を出さなくなり、エースは幼馴染である彼を「自分の代わりに」部長へと推薦した。
それでもその頃は、そこまで引け目には感じていなかった。
エースは良い奴だったし、他の部員とも仲は良かったし、わちゃわちゃとした雰囲気のなか、楽しい高校生活だった。
何かが変わったとしたら、それは大学受験のとき。
担任が何気なく漏らした一言。
「お前、いつから真面目に練習しなくなったんだ? あのまま頑張っていたら、今頃スポーツ推薦くらい取れてたのにな」
それまで楽しかったはずの高校生活に、そのとき初めて大きな後悔を感じた。
おまけに受験シーズンに風邪をこじらせた。
水泳部の仲間うちで、浪人したのは彼だけだった。
仲間だと思っていた友人たちは、それぞれの新しい生活のなかで新しい仲間を作り、彼への気遣いもあったのだが、結果的に彼は仲間の誰とも合わずに孤独な一年を過ごした。
合格祝いをしてくれるというかつての仲間たちの誘いを自ら断った彼は、大学に入ってからも水泳部の仲間とも、プールそのものからも離れ続けた。
一浪して入った大学には水泳部はなかったのだが、あったとしても、もはや入ることもなかっただろう。
水の音が、楽しく、同時に後悔にまみれた高校生活を思い出させてしまったから。
そんな大学生活は楽しくなかった。
彼は「仲間」を作ることにもうすっかり臆病になってしまっていたから。
人生の目標も見失い、大学へはただ呼吸をしにだけ通うような日々。
そんななか、偶然に水音に出会った。
一目惚れだった。
何もかもなかった彼にとって、唯一の生きがい。人生の光と言っても過言ではなかった。
そして何度めかのアタックののち、水音は彼の恋人となった。
過去の嫌なことを全て忘れるほどの浮かれたクリスマスを過ごし、迎えた成人式。
彼はそこでかつての水泳部の仲間たちと再会した。
幼馴染であるエースも居た。
「なあ、呑みに行こうぜ」
彼は、悪意のかけらもないかつての仲間たちの笑顔に眩しさを感じないほどには心が回復していた。
だから、成人式のあと、彼はプチ同窓会へ顔を出した。
和やかに時間は過ぎ、会計の時間になったとき、一人が言った。
「俺さ、ボーナス出たからここはおごるよ。ガワちんの合格祝いと初彼女祝いも兼ねてさ」
大学に行かずに公務員になっていたその「友人」のその行為が、彼には「施し」に映った。
立派に社会人をしている奴、自分よりも良い大学へ現役で合格した奴ら、中には起業した奴も居た。そして相変わらず頑張り続けるエースである幼馴染。
彼だけ取り残された気分だった。
大学に入ってもなお――いや、それどころかこの差は永遠に埋まらないのではないかと不安になった。
いや俺には水音が居る――そう考えたとき、自分の中に「果たしてそうか?」という疑問が湧いた。
水音が素敵なのは水音自身の才能だ。
自分にはそれがない。
捨てられたら終わり。
気づいたら自販機を殴りつけていた。
警報が鳴り響き、慌ててその場を逃げ出した。
走り出してすぐ、脇腹が痛くなる。
運動不足だ。
かつて真剣に水泳に取り組んで居た頃は、こんな情けないことはなかった。
彼はいつの間にか泣いていた。
自分が惨めで、腹立たしく、そして何よりも悔しくて。
最高の恋人からの連絡も無視して帰宅する。
自分の部屋のベッドへと身を投げ出し、天井を眺める。
やけにクラクラする。
自身の粗くなる呼吸を耳にしながら、呑み過ぎたかな、と目を閉じた。
目覚めたらホルトゥスに居た。
大きな商家の、当主の弟に転生していた――と彼は理解した。
ただその彼にとっては受け入れ難い現実に、馴染むまでけっこうな時間がかかった。
それは異世界であるということだけではなく、ホルトゥスでの彼の体が、その手が、血に塗れていたから。
ホルトゥスでの彼は、表向きは兄の商家を支える良き弟でありながら、裏ではフォーリーの娼館街の半分を統べる暗黒街のボスのような存在だった。
さらに悪いことに、兄の妻が、水音に似ていた。
ホルトゥスの彼が元々懸想していたこともあり、彼自身の何ともいえない寂しさを兄嫁へとぶつけ、拒絶されたとき、彼の中の何かが壊れた。
彼は兄を亡き者にし、その後釜に座ろうと企んだ。
ホルトゥスの彼の記憶を覗くうちに倫理観は麻痺していた。
それに彼にとっては、彼の人生の唯一の光から無理やり引き剥がされたという恨みが、この世界そのものへの恨みと変わっていた。
ホルトゥスの彼の兄が死んだ後、商家を引き継いだ彼のもとから最初に離れたのが兄嫁だった。
実家へ帰るという兄嫁を引き留めようとして、もめて、気づいたら、兄嫁も甥も姪たちも死んでいた。
また失くした――そのことが、彼の中の何かを狂わせた。
彼は娼館街の残る半分を手に入れることにやっきになり始めた。
そんな中で、孤独に耐えられなくなった彼が手を出したのが、彼の「代理」として暗黒街のボスの座に就かせていた男――子豚の娘たちだった。
とは言っても本当の娘ではない。
娼館街で生まれた子どもたちのうち、生き残った者たちを子豚が手駒として育てたのだ。
ホルトゥスにおける「戸籍のない者」たち。
彼はその中で、唯一魔法を使える蛙に目をつけた。
「もしも異世界に行ったらさ、魔法で無双とかしたいよな」
地球に居た頃にかつての仲間たちとした馬鹿話――ああ、そうだ。魔法を覚えたら、僕はようやく自分に自信が持てる。
彼は蛙から魔法の手ほどきを受け、一緒に過ごすうちに情が移り、やがてそういう仲になった。
蛙は彼に、彼女の妹分である魚も一緒にすくい上げてほしいと懇願した。
子豚は、自身の手駒をまるで道具のように扱っていた。子豚が望む時、彼女らは股を、もしくは尻を差し出さなければならなかったから。
彼は蛙と魚を自分の専属とし、魔法を学び、娼館街の残り半分を手中に収めるべく準備を重ねた。
そしてようやく開発した『ロボトミー』で、子豚を完全な支配下に置いた。
ディナが長い旅に出たと聞き、魚をディナの配下へと近づけたとき、そのウェスという女は意外にも彼の提案に興味を持った。
ならばとディナの隣家の屋敷を子豚に襲わせ、最終的な準備を重ねた。
水音に似た兄嫁を失って以来、初めての順風満帆だった――はずだった。
なのになぜ、今、自分は死にかけているのか。
彼はもはや見えなくなった目を閉じ、水音の顔を思い出そうとした。
耳元で水の音がした。
ああ、プールで泳ぎたいな。
幼馴染に触発されて自分も記録を目指した時期があったけど、もともとは水に浮いて空を眺めるのが好きだった。
水の音。
水音は顔も性格も好きだったけど、あの名前もすごく好きだったんだよな。
死んだら、また会えるかな。
地球に戻れるかな。
ああでも、僕、もう人殺しなんだっけ。
絶対ダメじゃん――それが、彼の、最期の、意識だった。
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