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#69 死刑宣告

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 宵闇通りの入り口ではエクシが待っていた。
 チェッシャーには途中で帰ってもらっておいた俺、グッジョブ。

「明日、フラマに会えるよう連絡してくれるって」

 しかしエクシは思い詰めた表情で返事もない――というか帰りの道中も、宿に戻ってからも、ずっと黙ったまま。

 メリアン達ももう帰っていた。
 宿の隣にある酒場がまだ混んでいたので、先に女性陣だけ食事し、男性陣はその間に公衆浴場で汗を流すことに。
 ここでもエクシだけ別行動だったのがちょっと気になったが、ロッキンさんには行きつけの食堂があるのでそこに行くと伝えていたようで、俺たちが酒場へと戻り、夕食を取っている最中には戻ってきた。

「部屋に戻ってる」

 さっきまでに比べるといくらか雰囲気がマシになったエクシは早々に部屋へ。
 とりあえずは俺たちも食事を終わらせてしまおう。

 湖畔の町であるアイシスの特産、スピナと呼ばれる藻のスープ。
 香草で香りをつけた魚の蒸し焼きと黒パン。
 スープは青のりっぽい爽やかな香りの中にわずかに酸味があって、クセはあるけどちょっとハマりそうな味ではある。
 ただ、現代日本という食のバラエティ豊かな場所から来た俺には、この世界ホルトゥスの食事には全体的に物足りなさを感じている。
 かといって俺は料理はさっぱりだから何の改善方法も思いつかないんだけど。
 丈侍じょうじは料理も趣味にしていたな――ホルトゥスへ来たのが丈侍だったなら、俺よりももっといろんなことに気づけて、俺よりももっとうまく立ち回れているのかな。
 ネットにあるいろんな情報だって俺だったらブックマークして終わりなところを、丈侍はカテゴリ別にメモテキストを作ってマメに管理してたもんな。
 そこには時々、図書館で調べたのとか、人から聞いた話とか、ネットには上がってこない情報も書き足していて――俺はそんな丈侍と一緒に居れば大丈夫だな、なんてぼんやりと考えていた。
 まさか離れ離れになるなんてな。

「お兄ちゃん、おかえりっ」

 食事がちょうど終わった頃、レムが酒場まで迎えに来た。
 男部屋に待機していたエクシにもいったん声をかけ、全員で女部屋の方へと集まる。
 俺たちが借りた部屋は二部屋とも本来は四人部屋だが、女部屋の方からベッド一つ分の寝藁を男部屋の方へ運んできたこともあり、全員が一部屋に集まるとなると男部屋が手狭になるためだ。

「うちは収穫なしだよ。ここは街の半分以上そういう所だからね、広くって。言っても仕方ないことだけど、名無し森砦で足止め食らわなければねぇ」

 メリアンが両手を上向きに広げて肩をすくめる。
 ルブルムは眉をしかめている。
 こういう仕草は地球とホルトゥスとで意味も共通だ。

「で、そっちは手がかり見つけたって聞いたけど?」

「こっちは……メリアンから教えてもらった通りの聞き込みをしたら、宵闇通りのフラマという娼婦の名が多くあがって、宵闇通りまで探しに行った」

 メリアンが口笛を吹く。
 エクシの表情には変化がない。
 レムやロッキン、クッサンドラはホッとした表情を見せ、マドハトはそんな周囲の様子を見て嬉しそうにしている。
 ルブルムだけが浮かない顔。
 というのも、ラビツと呪詛の話を知っているのは俺とルブルムとディナ先輩、そしてマウルタシュ虹爵イーリス・クラティア様だけだからだ。
 マドハトにさえも、マドハト自身が呪詛にかかっている話こそしたものの、その背景については知らせていない。
 他の人たちは「とある手違いでラビツに渡してしまった不良品の魔法品を交換しに魔術師組合の若手が追いかけている」と思っている。
 名無し森での盗賊団の一件も真実は封印するように約束したし、ずっとつき続けなければいけない嘘が増えてゆくことには心苦しさも一緒に増えた。

 さらには俺たちは国側の対応にも注意しなければならないっぽい。
 寄らずの森はクスフォード虹爵イーリス・クラティア領内にあるため、カエルレウム師匠はクスフォード虹爵様と契約関係にある。
 ということはその弟子である俺たちはクスフォード虹爵様の利のために動かなければならない。
 ダイクの後任として赴任なされたチャルズ紫爵モヴ・クラティア様は、俺たちにやたらとウォルラースのことを尋ねてきた。
 俺たちは事前に『遠話』でディナ先輩に許可された範囲内のことだけを伝えるように努力した。
 珍しいアルバスの子供を見つけたのでさらおうとしたようだ、と。
 ディナ先輩曰く、貴重な魔石クリスタロを採取できるノウハウを伝えるスノドロッフはクスフォード領内にあるため、ウォルラースの狙いがアルバスではなく魔石クリスタロそのものにあるのではと疑っている可能性がある、とのこと。
 もしかしたら国側はウォルラースを使ってスノドロッフの直轄領化を目論んでいるまである、とディナ先輩はおっしゃった。
 ウォルラースを「他国から調査に来た者」かもしれないとチャルズ紫爵様はおっしゃっていたが、実際に事情聴取された雰囲気からすると、ウォルラース自身への興味が強いという印象を受けた。
 だからその国側の兵士であるロッキンには油断できないし、気が休まる暇もない。
 ルブルムがあんな表情になるのも無理はない。

「フラマには会えたのかい?」

「今は客を取っているから無理って話だった。ただ明日の朝、フラマを知っているという娼婦がフラマに連絡つけられるかもしれないとのことで、朝から告知広場で会う約束をしている」

「告知広場ってことは、一日税の発表がされるところか。確か三日先のまで告知されるんだよな」

 ロッキンさんは到着時に宿の主人に確認した明日、明後日の一日税の予定を復唱する。

「ね、お兄ちゃん。その娼婦は信用できる人?」

「ああ、うん。フォーリーから名無し森砦へ向かう途中に盗賊団に襲撃された定期便に遭遇して、周囲を探索したときに隠れていたのがその娼婦なんだ。フォーリーの方へ向かうように伝えたら感謝されて……協力してくれるのはそのときの恩返しだみたいなことを言われたよ」

 エクシが小さくフッと笑った。宵闇通りへ行って以降、初めての笑顔。
 メリアンにいたっては堂々とニヤニヤしている。
 この気まずい感じから意識をそらすために、俺は自身の動揺から来る寿命の渦コスモスの乱れを観察しつつ偽装の渦イルージオに集中した。

 その後、作戦会議は早々に終わり、明日の朝早いからと早速寝ようという流れに。
 寝藁ベッドに横たわったものの、チェッシャーへの返事のことを考えてしまってすぐには寝付けない。
 仕方なくトイレへと起きた。
 部屋がさほど大きくはないのと人数が居るのとでトイレ壺は借りていない。
 一階まで降りてから共同トイレへと向かい、用を足して出た時、手洗い場の前でルブルムが待っていた。

「私が終わるの、待ってて」

「うん」

 手洗い場で手を洗い終わったあと、必然的に聞こえる音。
 共同トイレ前は臭いも音も筒抜けだから。
 紳士として音から意識を外そうと、新しい魔法へ思考を巡らせる。
 鼻をつまんだときみたいに臭いだけ感じないようにできないか、とか。
 ただそれだと呼吸の妨げにはなるし、口からは臭いが入ってくるってのも生理的にちょっと嫌だし。
 ロービンに教えてもらった『森の平穏』を応用して、臭いだけ遮断できたらいいんだよな。
 ガスマスクでも作ろうかな。
 呼吸できる穴に単一素材で縁取りすれば機能的には問題ないんじゃないか?
 ただそれだと見た目が怪しすぎるよなぁ。

「終わった」

 戻ってきたルブルムは手を洗った直後、俺にしがみつく。
 突然のことにドキドキしている俺の耳元で、小さな声で囁いてきた。

「部屋に来て」

 何らかの作戦会議だろうとは思うが、それでも無駄にドキドキする。
 俺はルブルムのあとに続いて女部屋へと足を踏み入れた。
 同じ宿屋の隣室だというのに、明らかに男部屋とは部屋の匂いが違う。
 そういや女性陣は食後に公衆浴場へ行ったんだっけか。

「じゃあ、魔法の練習しよう!」

 待ち構えていたかのように起きていたレムが俺の左手をぎゅっと握り、彼女の藁敷きベッドへと腰掛ける。
 ルブルムも俺の右側に座り、俺の右手をぎゅっと握る。
 メリアンは一瞬だけ寝返りを打ってそんな俺たちをニヤつきながら眺め、それからまた壁の方を向いた。

 気を取り直して『テレパシー』で二人に接続する。
 『テレパシー』はルブルムとレムには教えてあるのだが、複数人に同時アクセスできるのは俺だけなのだ。
 魔法の構造を理解してもらうために、背景となる地球の知識をある程度送ってはあるのだが、知識の中には実体験が伴わないと理解が完全にはできないものも少なくないようで、二人が使うときは魔法代償プレチウムも増えてしまうし、効果も限定的となってしまう。

(お兄ちゃん、今日あったとこ教えて。宵闇通りでのこと)

 意識に直接アクセスした直後の第一声がそれだった。
 魔法の練習ということに思考の舵を切っていた俺は少なからず動揺した。
 悪いことをしたわけじゃないし、エクシみたいに遊んできたわけでもない――けど、チェッシャーのまっすぐな気持ちを、勝手に晒すのは気が引ける。
 なので、チェッシャーの家に連れて行かれて、グリニーさんやクラーリンさんに出会ったときのこと、それからクラーリンさんから学んだ魔術師としての心構えみたいなことを中心に伝えることにした。

 伝えた直後、二人ともクラーリンさんの理論や思考について質問してきて、俺はそれに対し俺なりの解釈を回答していたのだが、幾つかの質問のあと、二人は突然、黙ってしまった。

(どうした?)
(さっきね、お兄ちゃんたちが公衆浴場から戻ってくる直前ね、エクシが言ってたの。リテルは娼婦とよろしくやってたぜって)

 二人の様子がおかしかったのはクソエクシのせいか!

(ずるい、利照。私も興味あるのに一人でなんて)
(ね、どんなことしたの?)
(私も知りたい)
(お兄ちゃんがしたかったなら、私はいつでもいいんだよ?)
(私だって……利照になら)
(ちょ、ちょっと待って! 何も変なことしてないから! 助けたお礼にって魔法を教えてもらって、それから明日の案内もお願いしただけだから!)

 レムには呪詛のことを内緒にしているから「俺ができるわけないだろ」とは言えないのだが、どうして事情がわかっているルブルムまでレムと一緒になってこんなに詰めてくるのだろうか。
 つーか、二人、いつの間にか仲良くなってんな。
 ありがたいことだけど。

(本当に何もなかったの?)

 レムがやけにしつこいな。

(俺は何もしていないって)

 嘘をつかないように答える。

(……嫌だよ……お兄ちゃんは居なくならないで。したいなら、していいから。もう一人ぼっちになりたくないの)

 レムの感情がどっとなだれ込んでくる。
 それは恋愛というよりは、孤独への純粋な恐怖。
 レムの故郷の村で、名無し森砦の兵士となってからも、盗賊団に傾倒してゆくバータフラの仲間の中で、レムはずっと自身に対する孤独感を抱えていた。
 母が異世界からの転生者であり、その知識や思考をレムだけが打ち明けられていた。
 レムの価値観はホルトゥスと地球との価値観が部分的につながったような歪なものとなり、そのことがまたレム自身を彼女の周囲から切り離した。
 俺がこの世界に来て覚えた異物感と似た感情。
 俺とレムは境遇こそ若干違うものの、共有できる部分は圧倒的に多く、レムにとっての俺は今や、彼女の意識を支える構成要素の一つであると言えるくらいに大きな存在となっているっぽい。
 だからこそ俺はレムをこれだけ信用できているというのもある。
 それでも呪詛のことを黙っているのは事実だし、それと相まって物凄い罪悪感を覚えるのも確か。

 そうだよな。
 俺は俺自身の問題としてばかりチェッシャーとの関係を考えていたけれど、俺が他の誰かとどうかなるってことについてはルブルムやレムにも大きな影響を及ぼすんだよな。
 そもそもこのリテルの体であるうちはリテルとケティとの仲に影響するようなことはしないつもりだけど、そういうことはちゃんとレムに伝えていない気がする。
 少なくとも、レムにはそこで神経をすり減らさないでほしいとは思っている。
 もっと安心してほしい。

(レム)
(はい)
(俺はこの仕事が終わったら、この体をリテルへと返す方法を探そうと思っている。そのとき、ルブルムには手伝ってもらう約束をしているけれど、もしよければレムも手伝ってくれるか?)
(手伝う! 約束する!)



 その後、ちょっと落ち着いた二人と消費命パーを消費前の段階で維持する訓練をして、それでもあまり夜更かしせずに睡眠時間を確保しようということになった。
 女部屋を出る前に二人をぎゅっと抱きしめてから、俺は男部屋の自分のベッドへと戻った。
 今夜はクッサンドラが寝ずの番をしてくれるとのことで、俺は安心して眠ることができた。



 夜明け前、女部屋の扉をノックすると、レムとメリアンが出てきた。
 今日の護衛はレムで、メリアンはラビツの好みを知っているため付き添いで確認に来るという。
 ルブルムは宿に残ってマドハトに『魔力感知』の練習をさせることに。
 クッサンドラは仮眠を取り、ロッキンとエクシは交代で護衛と買い出しとを――もちろんこれには紅爵様のお屋敷前で三銅貨エクスで売り出されるという「盗まれたタルト」を人数分買うことも含まれる。
 この「盗まれたタルト」というのはよくよく聞くとちゃんとした食べ物ではなく、「盗まれているから存在しない」ので代わりに領収棒というのをくれるらしく、旅人の場合はそれを宿屋の主人に渡しておくと、あとで徴収人が来て回収されてそれでおしまい、というやつらしい。
 トンチかよ。

 この人選には、エクシがあることないことルブルムに吹き込むんじゃないかと不安だったが、そこは何を言われても俺を信じてくれると言ってくれたルブルムを信じて今日は別行動。
 まだ薄暗い告知広場へと向かうと、そこには思った以上にたくさんの人が居た。
 一日税は一定の間隔で同じのを繰り返しているとのことだが、たまに突然イレギュラーなのが混ざることがあるっぽい――というのが周囲の人たちの雑談の中からうかがい知れる。

「リテル、早いねぇ!」

 駆け寄ってきた勢いで俺に飛びつこうとするチェッシャーの前にレムが立ち塞がる。
 レムの後ろから俺とメリアンとが手を振る。

「久しぶりだな」

 メリアンに対してチェッシャーは膝をつくお辞儀。
 その後ろから真っ直ぐにこちらへ歩いてくる女性が目についた。
 というのもその女性の両側の人々がまるで開いたジッパーみたいに綺麗に広がって道を空けたから。
 決して、その女性の胸の大きさや美しさが際立つ痴女かよってくらい大胆な服装に目を奪われたわけではなく。

 俺の視線の先に気付いたのか、チェッシャーが立ち上がって紹介してくれる。

「あ、あの子がフラマ。昨日のお客が早く片付いたとかで一緒に来てくれたよ」

「初めまして。フラマです」

 片膝をつくお辞儀をしてくれるフラマさん。
 年齢的には俺たちより若干、年上だろうか。
 ミニスカートだが剥き出しの脚の付け根が見えぬよう、決して下品にならないお辞儀。
 靴を履かない足先には水鳥特有の水掻きが見え、彼女が半返りであることが分かる。
 鳥の足の関節は人とは折れる向きが逆だが、ふくらはぎくらいまでは人の脚と変わらないため関節の曲がる向きも人と同じ。
 しかもあれだけ胸が大きいのにとにかくその動きは上品で、胸の揺れも自然に目を引きつけ――待て、俺。
 今の視線はきっと紳士じゃない。
 そもそも俺は巨乳好きというわけでもないし。
 ただ、なんというかフラマさんは美しい。
 淡いピンク色の長い髪の毛はなめらかにウェーブして風に揺れ、肌もほんのり薄い健康的なピンク色。そんな中、口元のホクロと瞳だけは黒く、存在感を発揮している。
 デカいがデカ過ぎないあの絶妙の巨乳がではなく、身体的なバランス、その所作の全てに、芸術的とも思えるほどの完璧さを感じてしまう。
 プロのダンサーやアスリートのような、しなやかな肉体美と無駄のない動きとを。
 しかもフラマさんの寿命の渦コスモス――これって。

「あー、ありゃあ、ラビツの奴が買わないわきゃないな」

 メリアンがボソッと呟いたのを聞き、俺は見物人の一人に成り下がっていたことに気付く。
 これじゃダメだ。

「初めまして。リテルです。こちらの二人は護衛です」

 俺も同じようにお辞儀を返すと、メリアンとレムとが俺の両側で静かにお辞儀をする。

「チェッシャーから聞いてます」

 おお!
 チェッシャー、グッジョブありがとー!

「では、フラマさんのお仕事前にちょっとお話するお時間をいただけたらありがたいのですが」

 俺の言葉に反応するように周囲の群衆がどよめく――いや、俺に、ではないか。
 にわかに騒がしくなったのは、俺の周囲というよりは背後の方。
 そろそろ一日税の発表なのかなと、何気なく振り返ったとき、腕をつかまれた。

「リテル様、本日、私をお買いあげ、ありがとうございます!」

 え、な、何が?
 俺が? フラマさんを?
 動揺して視線をフラマさんへと戻したときには既に、俺の右腕はフラマさんの谷間へと挟まれていた。

「フラマ! リテルは私のお客よっ!」

 チェッシャーが俺の左腕をぎゅっと抱え込――もうとしたのをレムが慌てて振り払い、代わりに自分の胸と体とで俺の左腕をガードする。

「あら、リテル様は情報が欲しいのでしょう? ねやでのことは秘め事。外で明かされることは決してありませんわよ?」

 フラマさんが悪戯っぽい笑顔を見せる。
 落ち着け俺。
 外で絶対に明かさないってことは、中でなら――つまりフラマさんを買ったら教えてもらえるってこと?
 いや、だとしてもフラマさんって高級娼婦って聞いているけど。
 そんなご予算、持ってないし。
 話をちょっと聞きたいだけなのに、なんでこんな事態に。

「待て待て待てーっ!」

 うん、待ってほしい――え?

 告知広場を東西南北に貫く目抜き通りの一つ、西側から二頭の馬がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
 馬の間というか背後に大きな人影が見える――あれは二頭立ての戦車クールルスか。
 二頭の馬にかせたリヤカーのような乗り物。
 フラマさんのときと同様に、人の波がみるみる左右へと開く。

「待つんだフラマっ!」

 大声を張り上げているのはそいつは、やけにフリルの多い服に身を包んだ太めの河馬種タウエレトッ
 そいつが二頭の手綱を引きながら傍らのレバーを握ると、金属に革が擦れる音がして減速し――うわ、あんまりスピード落ちてないじゃないか。
 フラマさんとレムが俺の腕をつかんだまま走り始める。

「待って! 待ってよフラマっ!」

 情けない呼びかけを繰り返しながら、戦車クールルスはようやく停まった。
 ふぅ、ふぅ、と息をきらしながら河馬種タウエレトッが降りてくると、周囲の人々は皆、片膝をつくお辞儀。
 チェッシャーとフラマさんもそうするもんだから、俺とメリアンとレムもそれに倣う。

「お辞儀はもうよい。フラマの可愛い顔が見えぬではないか」

 フリルを着た河馬種タウエレトッの声を合図に皆々が顔を上げ、さっきまでのざわついた雰囲気へと戻る。
 街の人たちの対応を見ていると、なんというかお約束とでもいった気配も感じる。

「フラマ。今日こそはお前を買う客が居ないのは調査済だ! さあ、大人しくこのジャック・ボートーに買われるがよい!」

 そのタイミングで、河馬種タウエレトッの背後、目抜き通りの向こうに聳える高い城壁から昇る太陽が俺たちの目を細めさせた。
 後光さすそのシルエットは、恰幅の良さも相まってまるで大黒様か布袋様のような印象を受ける。
 ちょっと待て。
 ボートーってまさか、ボートー紅爵ポイニクス・クラティア様?
 眼の前のフリルだらけで太めの河馬種タウエレトッを改めて見つめる。
 頭頂部がハゲているのか剃っているのか特に眩しく太陽を反射しているが、顔だけを見ると二十代の前半くらいに見える。
 本当に若いのか、若く見えるだけなのかはわからない。

「ジャック様、大変申し上げにくいのですが……本日は既にこちらのリテル様に買われた身でございます」

 え、ちょ、ちょっとそれ、いつの間に確定したの?
 情報収集はしたいけれど、娼婦を買うとかそんな無駄使いできるお金はないし。
 助けを求めるつもりで目を合わせたレムもチェッシャーも微妙に険しい目つきなんですけど。
 メリアンが笑っているのがせめてもの救い。

「なんとっ! なんとなんとなんとっ!」

 ジャック様は大げさな身振りで自分の眉間を右手でつまみ、天を仰ぐ。
 なんだこの芝居がかったアクションは。

「ああ、母様……こんな酷い仕打ちがあってよいのでしょうか! 小癪な恋泥棒どもを排除するのにどれだけ苦労してきたか。ようやくフラマにワタクシを受け入れる空きができた……はずなのにっ! まだこんな所に一人……ああ! ああっ!」

 声量豊かでよく通る声。
 オペラ歌手のようだな。

「ジャックー! ジャックの嘆く声が聞こえるわッ!」

 遠くから今度は女の声、そしてまたもや二頭立ての戦車クールルス
 体型的にはジャック様と同じ――いや、二周りくらいは大きい女性の河馬種タウエレトッ
 しかも服についたフリルの数が凄まじい。
 袖やズボンもフリルまみれで、しかも極彩色。
 オシャレというよりは滑稽なピエロとでも形容したくなる感じ。

「ジャック! ああッ! ワタクシの可愛いジャック!」

 戦車クールルスから降り、つばの広い帽子からはみ出ている金色のくせっ毛を手でファサッとなびかせたその女性に対し、ジャック様は片膝をつきつつしがみつく。

「お母様、酷いんだよぅ。フラマのやつ、またワタクシ以外の客を……」

 周囲の民衆が再び丁寧なお辞儀をするのに合わせ、俺たちも皆でお辞儀をする。

「まあッ! まあッ!」

 あからさまな嘘泣きでメソメソ泣いているジャック様と、その頭を優しく撫でる――お母様ということは、ジャック様はもしかしてボートー紅爵様御本人ではなく息子とか?
 それにしても何見せられているのこれ。

「伝令ッ! 伝令ッ!」

 そのお母様が突然叫んだ。

「はっ! ここに!」

 背の高い鳥種ホルスッが、ジャック様のお母様へと駆け寄り、その前で丁寧なお辞儀をした。

「皆に伝えよッ! 本日の日替わり法は内容を変更ッ! 本日、フラマを抱いた男は死刑ッ! 以上とするッ!」





● 主な登場者

有主ありす利照としてる/リテル
 猿種マンッ、十五歳。リテルの体と記憶、利照としてるの自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
 ゴブリン用呪詛と『虫の牙』の呪詛と二つの呪詛に感染。自分以外の地球人の痕跡を発見し、レムールのポーとも契約した。

・ケティ
 リテルの幼馴染の女子。猿種マンッ、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
 リテルとは両想い。フォーリーから合流したがリテルたちの足を引っ張りたくないと引き返した。ディナ先輩への荷物を託してある。

・ラビツ
 久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
 フォーリーではやはり娼館街を訪れていたっぽい。

・マドハト
 ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、今は犬種アヌビスッの体を取り戻している。
 元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。変な歌とゴブリン語とゴブリン魔法を知っている。地味に魔法勉強中。

・ルブルム
 魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種マンッ
 魔法も戦闘もレベルが高く、知的好奇心も旺盛。親しい人を傷つけてしまっていると自分を責めがち。

・アルブム
 魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種ラタトスクッの兎亜種。
 外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。

・カエルレウム
 寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種マンッ
 ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。

・ディナ
 カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去がある。
 アールヴを母に持ち、猿種マンッを父に持つ。精霊と契約している。トシテルをようやく信用してくれた。

・ウェス
 ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種カマソッソッ
 魔法を使えないときのためにと麻痺毒の入った金属製の筒をくれた。

・『虫の牙』所持者
 キカイー白爵レウコン・クラティアの館に居た警備兵と思われる人物。
 『虫の牙』と呼ばれる呪詛の傷を与えるの魔法の武器を所持し、ディナに呪詛の傷を付けた。

・メリアン
 ディナ先輩が手配した護衛。リテルたちを鍛える依頼も同時に受けている。ラビツとは傭兵仲間。
 ものすごい筋肉と角と副乳とを持つ牛種モレクッの半返りの女傭兵。知識も豊富で頼れる。

・エクシあんちゃん
 絶倫ハグリーズの次男でビンスンと同い年。ビンスン、ケティ、リテルの四人でよく遊んでいた。犬種アヌビスッ
 現在はクスフォード領兵に就く筋肉自慢。ちょいちょい差別発言を吐き、マウントを取ってくる。ルブルムたちの護衛となった。

・クッサンドラ
 ゴド村で中身がゴブリンなマドハトの面倒をよく見てくれた犬種アヌビスッの先祖返り。ポメラニアン顔。
 クスフォード領兵であり、偵察兵。若干だが魔法を使える。エクシ同様、護衛となった。

・レム
 爬虫種セベクッ。胸が大きい。バータフラ世代の五人目の生き残り。不本意ながら盗賊団に加担していた。
 同じく仕方なく加担していたミンを殺したウォルラースを憎んでいる。トシテルの心の妹。現在、護衛として同行。

・ウォルラース
 キカイーの死によって封鎖されたスリナの街から、ディナと商人とを脱出させたなんでも屋。金のためならば平気で人を殺す。
 キカイーがディナたちに興味を示すよう唆した張本人。ダイクの作った盗賊団に一枚噛んだが、逃走。

・ロッキン
 名無し森砦の守備隊第二隊副隊長であり勲爵エクウェス。フライ濁爵メイグマ・クラティアの三男。
 現在はルブルムたちの護衛として同行している。婚約者が居て、その婚約者のためにヴィルジナリスの誓いを立てている。

・チェッシャー
 姉の薬を買うための寿命売りでフォーリーへ向かう途中、野盗に襲われ街道脇に逃げ込んでいたのをリテルに救われた。
 猫種バステトッの半返りの女子。宵闇通りで娼婦をしているが魔法を使い貞操は守り抜いている。リテルに告白した。

・グリニー
 チェッシャーの姉。猫種バステトッ。美人だが病気でやつれている。

・クラーリン
 グリニーに惚れている魔術師。猫種バステトッ。目がギョロついているおじさん。
 チェッシャーに魔法を教えた人。リテルにも魔術師としての心構えや魔法を教えてくれた。

・フラマ
 おっぱいで有名な娼婦。鳥種ホルスッの半返り。淡いピンク色の長髪はなめらかにウェーブ。瞳は黒で口元にホクロ。
 胸の大きさや美しさが際立つ痴女っぽい服装だが、所作は綺麗。ラビツへの手がかりとなりそう。

・タレ目の不幸そうな美人娼婦
 犬種アヌビスッの半返りの女性。エクシを何度も客として取っていたっぽい雰囲気。

・ジャック・ボートー
 ボートー紅爵ポイニクス・クラティアの近親者と思われる河馬種タウエレトッ。フラマを買いたい。
 頭は禿げ上がっているが二十代の前半くらいに見える。太っていて、フリルが多めの服を着ている。

・お母様
 ジャック・ボートーがお母様と呼ぶ河馬種タウエレトッ。ジャックよりも二回りは大きい体躯。
 袖やズボンが極彩色のフリルまみれ。息子のために一日税の内容を変更した。

・レムール
 レムールは単数形で、複数形はレムルースとなる。地界クリープタに生息する、肉体を持たず精神だけの種族。
 自身の能力を提供することにより肉体を持つ生命体と共生する。『虫の牙』による呪詛傷は、強制召喚されたレムールだった。



■ はみ出しコラム【衛生観念】
 ホルトゥスにおける衛生観念について説明する。

 ホルトゥスには過去・現在においてもペストの流行がなかったため、地球における中世ヨーロッパのような水に対する恐怖というものがなく、裸に対する宗教的な禁忌も存在しないため、ローマ時代同様に公衆浴場が発達している。
 また、トイレの後と食事の前には手指を洗う習慣が一般的に根付いている。
 都市部においては、トイレ横や食堂脇に手洗い場が設置されており、それらの設備がある施設の利用料にこの手洗い場の利用料も含まれている。

 病原菌やウイルスといったものについての知識は、庶民にまでは浸透していないものの、魔術師や貴族レベルにおいては局地的に理解されている。
 これは一部の転生者による啓蒙のおかげであると言えよう。
 都市部に手洗い場が定着したのは、これらの啓蒙を受けた為政者が実験的に設置したところ、病気の発生率が実際に下がる結果が得られたため、国内で知識が共有されたという経緯がある。

・予備洗い
 都市部の水洗(下水が流れている上でそのまま用を足すタイプの)トイレでは、用を足したあと局部を手で洗う者も少なくない。
 裕福な者は尻拭き用の葉やスポンゴスで拭く場合があることは、#13 のはみ出しコラム【トイレ事情】にて説明済だが、とにかくトイレを出た後、手洗い場の一回の手洗いだけで事足りるよう、用を足すついでに下水でそこそこ手を洗っておくのが一般的となっている。
 ズボンを留める腰紐は片手では結べないことが多いため、トイレから手洗い場までの間は、ズボンがずり落ちないよう片手で歩く者も少なくない。

・手洗い場
 手洗い場の上部に設置された瓶に水が入れられており、その横から下がっている紐を引っ張ると、手洗い一回分の水が流れるという仕組みである。
 ちなみにこの紐は手洗い前の手で触れるため汚く、定期的に交換されている。

・屋外での手洗い
 屋外では水が貴重となるため「手洗い砂」というものがある。
 手洗い用のきめの細かい砂で、これで手を洗うことである程度の大きな汚れを落とすことができ、手も乾燥する。その後で少量の水を含んだ布で手を拭くというもの。
 ただ実際には、手洗い砂による手洗いの後、布で拭いただけで手洗い完了にしてしまっている旅人は少なくない。
 また、手洗い砂よりは軽く高価なものとして、手洗い砂におが屑を混ぜたものも存在する。
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