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#34 アールヴ
しおりを挟む 瞼の裏側の画像は消えてしまったが、ディナ先輩のお母様のお姿は、表情は、俺の中に印象深く残った。
「アールヴはとても長命な種族なんだ。平均寿命だって千年は超える。頻繁に発情する獣種と違って性欲だってほとんどない。アールヴが子を作るというのは、それだけ貴重なことなんだ」
長命で細身で美しい種族ってイメージ的にはエルフだけど……アールヴ……エルフ……アールヴ……似てなくもないのか。
「寿命の短い種族は命の尊さに気付きにくい。男は戦争に駆り出され、簡単に命を落とした……いや、殺されたのだ」
殺された?
ディナ先輩のお父様が?
「同じ戦場へ行った他の村人が、男が自軍の者に後ろから刺されたのを目撃していて後でこっそり教えてくれた。領主直属の兵士の仕業だと……それなのに、せっかく教えてくれたのに、愚かなアールヴの女は逃げなかった。男の母親が病に臥せっていたから、置いていけないと留まったのだ」
魔法が終わってもまだ俺の額に触れているディナ先輩の指がわずかに震えだす。
「仕事も持たないよそ者と、幼いボク、それから病人。どうやって暮らしていけると思う? すぐに生活に困窮したよ。女は慣れない農作業を頑張ったようだが所詮は素人だ。村人は誰も助けてくれなかった……というより、助けることができなかったんだ。領主が差し伸べた手以外はつかめないように……その領主が、モトレージ白爵キカイーだ」
領主様がそんな人でなしだなんて。
モトレージ領というのはリテルの記憶にないので、少なくともラトウィヂ王国内ではない。どこの国なんだろう。
ストウ村を擁するクスフォード領の領主であるクスフォード虹爵マウルタシュ様はとても民に理解のある御方で、収穫祭に出す料理のための狩りのときは、獲れ高にかかる税金を半額にしてくれたりもする。
それにこの世界には魔法があるから、あまりにも理不尽な政治を行う為政者は民衆の手により排除されることもあるらしいし。
そういやストウ村では「誰でも魔法を使う素地があること」を子供たちに全く教えていないことについて、カエルレウム師匠にお聞きしたとき、「子供が魔法を覚えると無闇に使って寿命を減らしたり他者を傷つけたりしてしまう。成人しない子供の前では魔法の存在を伏せるようにとかつて指導したことがある」とおっしゃっていた。
そのモトレージ領でも魔法の使用を禁止する方向の施策でも行っていたのだろうか。
「キカイーの奴には娘が居た。ボクと同じくらいのね。女はその娘の世話係、ボクはその娘の遊び相手としてキカイーの屋敷に住まわされた。男の母親の世話を看てもらえるという条件を信じて、愚かな女はそれを引き受けたんだ」
ディナ先輩が「愚かな女」という表現を使うときの表情には、憎しみや悲しみだけではなく……なんというか慈しみのような感情も感じる。
今見たばかりのディナ先輩のお母様の表情と同じような。
「キカイーの屋敷では贅沢な暮らしが待っていた。女もボクも装飾がついた服を与えられ、奴のわがままな娘に対しボクらは精一杯尽くしたんだ。その頃のボクは何も知らなくて、男が戦争中に殺された話も実は村人のたちの悪い冗談で、キカイーの奴も実は貧乏人を救済する良い領主で……なんて信じ込みかけていた。でもね、ボクが十歳になったとき、世界のすべてが裏返った」
俺の額から、ディナ先輩の手が離れた。
「モトレージ領ではキカイーの悪政のせいで治安が悪化していてね、奴の二人の夫人と子供たちの疎開が決まったんだ。ボクらは他の何人もの侍女同様に従者としてついて行くのだとばっかり思っていたが、違った。ボクには新しい仕事が与えられるという。当時のボクは何も疑わず、その仕事部屋へと向かったんだ」
ディナ先輩の、全く見えない状態へと偽装されているはずの偽装の渦から、強い感情の圧のようなものを感じる。
「ボクはそこでキカイーの慰みモノにされた。逃げようとはした。でもボクが我慢さえすれば愚かな女を守ることができるという甘言を当時のボクは信じたんだ。領主の娘の遊び相手だったボクの次の仕事がそんな酷いモノだったというのに、領主の娘の世話係だった女が次にどんな仕事に就かざるを得なかったかなんて、ちょっと考えれば判りそうなものだが、当時のボクは愚かな女の取り繕った嘘まで信じた」
え、ちょっと待って十歳って……元の世界での十二歳……だとしても……。
歴史の授業で幼い年齢で政略結婚って話は聞いたことあるけれど、それはあくまでも家同士の結びつきのための結婚であって、実際に何かするわけでは……。
パイアに襲われたときのことを思い出して、胸が詰まる。
「しばらくはそんな毒沼を泳ぐような生活が続いた。でもいくら愚かでも、やはり母親なのだな。ボクの様子がおかしいことに気付いた。キカイーに口止めされてはいたけれどボクは話した。ボクは頑張って母さまを守るよと伝えた。愚かな女は泣き崩れ、ボクに謝った。自分が身を捧げ続けている間はボクは守られているはずだったのに、と。その言葉を聞いて、ああこの女は本当に愚かなのだなと思った」
いつも力強くしゃべるディナ先輩の声はやけに静かで、落ち着いていた。
「その愚かな女は、そこからさらに愚かな行動へと出た。ボクを連れて厳重な警備のキカイーの屋敷から逃げ出そうとしたんだ……できると思うかい? 警備兵の中には魔術師だって居るんだ。警備兵たちもボクらを追い込みながら半笑いだった。同じところをぐるぐると走らされた。ボクは女の愚かさに泣きたくなった……そのとき急に女はボクを抱きしめた。ボクらはここで警備兵の持つあの槍に貫かれて死ぬのかなと思ったよ。でも貫かれるのが一回だけで解放されるのならば、それでもいいとボクは目を閉じた」
黙って聞けと言われたけれど、内容が壮絶過ぎて、相槌を差し挟めるような話じゃない。
「突然、浮遊感を覚えて、ボクは目を開いた。その時に見たのがあの光景だ」
ディナ先輩のお母様のあの表情を思いだす。
その表情の裏にあった物語と感情とを想うと胸が締め付けられる。
「ボクは浮いていた。母さまが魔法を使ったところなんて見たことがない。だから素人の……凄まじい量の寿命を消費して使った魔法なんだろう。ボクはすごい速度で天へと昇っていった。雲を突き破り、星々が輝く夜空をあまりにも近くに感じながら、自分の身に起きていることを理解しようとした。だが思考が動き出すよりも早く、ボクの体が動き出した。今度は雲の上を滑るように、知らない方向へ……しばらく雲の上を飛び続け、再び雲を突き抜け、やがてボクは見知らぬ大樹のそばへと静かに着地した。そこは愚かな女の故郷、アールヴの隠れ里への入り口だった」
俺は言葉もなくディナ先輩の声を受け止め続けた。
「アールヴの里は、ボクにとって救いの場所ではなかったよ。事情を話したボクは、自分たちの仲間が死ぬ原因になった浅ましい獣種の血が混ざっていると罵られ、虐げられたんだ。味方はたった一人だけ……愚かな女の母親だ。おばあさまは、ボクにアールヴの魔法をいくつか教えてくれた。アールヴの魔法はね、獣種の魔法のように作り上げるものじゃないんだ。精霊を見つけ出して契約するだけ。精霊は実際に使うときには契約精霊にお願いするだけ。契約精霊が願いを聞き入れた場合、魔法代償を毟るように持っていく」
精霊と契約?
こんな話を聞いている途中だというのに、新しい魔法めいたものの話を聞くと興味が湧いてしまう。
ごめんなさい、ディナ先輩。
「ボクは力をつけたくて、とにかくたくさんの精霊と契約した。精霊は誰でも契約できるというわけじゃない。アールヴじゃないとダメみたいでね、半分しかアールヴじゃないボクとは契約してくれない精霊もいた。それに魔法効果をお願いしないときでも定期的に自らの血を捧げないといけなくてね、精霊と契約していないアールヴも少なくない」
なるほど。種族限定なのか。
「とにかくボクは独り隠れて魔法の技を磨いたよ。すべては復讐のために……そしてボクは隠れ里を出た。もう二度と戻らないと決めて」
膝に妙な温かさを感じて目を開く。
ディナ先輩の握りしめた拳から血が滴っていた。
俺はその手を取り、恐る恐る指を開くと……ディナ先輩はあまりにも強く拳を握り込み過ぎて、爪が手のひらへ食い込んでいた。
怒られるかもしれないと思いつつも、『生命回復』を使って傷を癒やす。
ディナ先輩は黙って治療を受け入れてくれた。
「……ボクは精霊たちの力を借りて、キカイーの屋敷へと忍び込むことに成功した。欲に溺れた脂肪の塊から醜く汚れた魂を切り離すのは驚くほどあっけなかった。今思えば、ボクが使った魔法がアールヴの魔法だったのが幸いしたんだ。屋敷で雇われていた獣種の魔術師達が施していた魔法封印なり感知なりの防備は、あくまでも獣種の使う魔法に対するものばかりだったから。精霊の発する魔法的効果に対しては全くの無防備だった」
さっき受けた対魔術師戦の講義を思い出す。
漠然とした効果は魔法代償が嵩み過ぎる。かといって効果範囲を絞り込めば、似て非なる効果への対応ができなくなる。
「とにかく簡単過ぎたんだ。だからボクは動揺した。白爵ともあろう者が、こんな簡単に侵入者の手にかかるものなのだろうかと。もしかしたらこれは影武者で、本物は別の場所に居るのかもしれないと。だからボクはすぐには逃げ出さず、屋敷の中を探索し始めたんだ」
ディナ先輩の手を治療したあと、ずっと握ったままだった俺の手が、今度はディナ先輩に握り返される……痛い……けどこれは我慢だ。
「そこで見つけたんだ……母さまの、死に人形を」
死に人形?
手の痛みが飛ぶほどのインパクト。
話の流れから想像すると反吐が出そうな響き。
絶対にろくでもないものだという予測がつく。
具体的にどんなものなのかは内容的にも状況的にも、とてもじゃないけど聞けないし聞きたくもない。
「そんなものを目の当たりにして冷静でいられると思うか? 隙を突かれたボクは背中に大きな傷を負った。キカイーの骸やあいつの趣味の部屋に火を付けていなかったら、屋敷から逃げ出すことも出来ずそのままあそこで力尽きていただろう」
ディナ先輩が俺の手を放す――そしてこちらに背中を向けると、突然シャツを脱いだ。
薄暗さの中に真っ白い背中がぼんやりと浮かび上がる――そこには、黒っぽい大きなムカデが這いずっていた。
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
呪詛に感染中の身で、呪詛の原因たるラビツ一行をルブルム、マドハトと共に追いかけている。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
リテルとは両想い。熱を出したリテルを一晩中看病してくれていた。リテルが腰紐を失くしたのを目ざとく見つけた。
・ラビツ
久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
フォーリーではやはり娼館街を訪れていたっぽい。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、とうとう犬種の体を取り戻した。
リテルに恩を感じついてきている。元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。街中で魔法を使い捕まった。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
槍を使った戦闘も得意で、知的好奇心も旺盛。リテルと互いの生殖器を見せ合う約束をしたと思っていた。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去を持つ。
母親はアールヴという天界出身でホルトゥスに居着いた種族。精霊と契約している。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
リテルに対して貧民街での最低限の知識やマナーを教えてくれた。
・アールヴの女性
本来ならば保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う種族。自分の命を救ってくれた猿種の男と恋に落ちた。
駆け落ちの末、男の故郷でディナを産んだ。男を戦争で失くした後、キカイーに仕えることになった。
・キカイー
モトレージ領を治める白爵。
ディナ先輩とその母を欲望のままに追い込んだ。ディナに復讐され、殺された。
・マウルタシュ
フォーリーやストウ村を有するクスフォード領を治める虹爵。
領民からも慕われている。
■ はみ出しコラム【奴隷と拘束手段】
ホルトゥスにおいて、奴隷という存在は極めて少ない。
誰でも魔法が使えることと、その境遇に甘んじるよりは逆襲なり脱出なりを企て、失敗してもそのまま寿命を消費し尽くして死亡が可能なこと、そして奴隷を魔法で拘束しようにも魔法の発動に寿命を消費することから、奴隷を使役するメリットよりも拘束にかかるデメリットの方が大きいためである。
拘束系の魔法にて必要とされる魔法代償が、その奴隷を奴隷たらしめておく状況を維持する費用としては見合わないのである。
犯罪者の場合、奴隷にして扱いに困るよりは、魔法代償徴収刑ですぐに解放する方が収監側としても楽であるし、奴隷を入手する側にとっても犯罪を行うような者を近辺に囲い込むことへの不安もあり、犯罪者奴隷は存在しない。
借金を返せない場合でも、寿命売りによって簡単にお金を手にすることができるため、借金奴隷も存在しない。
戦争捕虜にしても、魔法という武器の武装解除は困難であるため、魔法代償を徴収してから即刻解放することが多い。
中には、好感度を得るために魔法代償の徴収を行わずに解放する場合もある。実際に民衆自体が、自分たちを治める王や貴族を自軍ではなく敵軍から選択する、という歴史的判断が過去に何度もあった。
魔法の発動には寿命が必要となる状況では、人の数は力であり、それはまた統治者と民衆という構図においても同様である。
統治者側が民衆側より人数が多いことはないのだ。
愚かな戦争を継続することは為政者の無能をさらけ出し、民衆の反乱につながることも少なくない。
その一方で、民衆が統治者を排除した都市において混乱が発生し、結果的に滅んだという記録も残されている。
王族や貴族においては、国民、領民の生命や生活を守るという特殊な知識や技能を継承する職能集団という感覚も、民衆の間では少なくないし、街を覆う壁や街を守る兵の維持のため、税金の必要性は民衆も理解している。
・拘束手段
拘束された相手に魔法使用という選択肢があるホルトゥスにおいては、拘束の際、魔法以外の、魔法の使用を自発的に控えさせるような手段がよく取られる。
ただしこれは怨みを募らせてしまうため、恒常的な手段として用いられることはあまりない。
→ 人質
「人質には優しくしろ。さもなくば即座に殺せ」とは、ホルトゥスの裏社会における一般的な格言である。
→ 薬
意識や正気を失わせる麻薬や毒の類は数多く発見・研究されており、それに比例して解毒や、毒検出のための魔法も数多く存在する。
→ 洗脳
魔法によるものではなく精神的・技術的な洗脳のことである。薬との併用も多い。
時間はかかるが最終的には自発的に従うようにもできるため、なくならない手段。
→ 魔法封印
魔法発動を阻害する魔法品の使用である。
ただし、そのような魔法品は様々な種類があるが、どれも非常に希少で高価であり、効果を発揮し続けさせるためには常に魔法代償を消費するため、薬や洗脳にて本格的に支配するための一時的な拘束手段に留められる場合がほとんどである。
この類の魔法品が希少で高価になる理由の一つとして、そこに設定する魔術がどうしても複雑になってしまうこともある。
例えば、主人に歯向かった場合に特定の魔法効果を与えるという効果を魔法品へ付与する場合、「歯向かう」という判断はその魔法を付与した魔術師自身の価値判断によるし、複数の条件を付与する場合、それぞれが別の魔法として魔法代償を要求するため、汎用的で万能な条件設定は困難を極めるのである。
様々な種類があるのは、魔法封印における魔法具においてベストな構成というものがいまだに確立していないことと、魔法封印を構成する思考が理解されてしまうと魔法封印を回避する方法にもつながってしまうからである。
ちなみに魔法封印には、「触れた状態で発動された魔法を解析」されることを防ぐため、解析妨害の魔法も併用されているのが常である。
※ 魔封具
魔法封印に特化した魔法品をあえて「魔封具」と呼ぶ。
魔封具は消費命の集中に反応して阻害するものが最も一般的である。
しかし前出の通り何度も触れるということが解析妨害を突破して魔法を理解される恐れがあることと、魔封具の機能維持のため魔法封印効果を持つ魔法を常駐させるための魔力を常にチャージしておかなければならないのとで、長期的な拘束力は望めない。
→ 異界の魔物の利用
異界の魔物の中には、人を惑わしたり、魅了する魔物も居る。
そのような魔物を利用して他者を隷属しようと企んだ者が居たが、事件解決に動いた領主配下の領兵や魔術師たちの調査により、結局その企んだ本人自体も利用していたいはずの魔物に魅了されていたことが発覚し、ホルトゥスの裏社会においても禁じ手とされている。
「アールヴはとても長命な種族なんだ。平均寿命だって千年は超える。頻繁に発情する獣種と違って性欲だってほとんどない。アールヴが子を作るというのは、それだけ貴重なことなんだ」
長命で細身で美しい種族ってイメージ的にはエルフだけど……アールヴ……エルフ……アールヴ……似てなくもないのか。
「寿命の短い種族は命の尊さに気付きにくい。男は戦争に駆り出され、簡単に命を落とした……いや、殺されたのだ」
殺された?
ディナ先輩のお父様が?
「同じ戦場へ行った他の村人が、男が自軍の者に後ろから刺されたのを目撃していて後でこっそり教えてくれた。領主直属の兵士の仕業だと……それなのに、せっかく教えてくれたのに、愚かなアールヴの女は逃げなかった。男の母親が病に臥せっていたから、置いていけないと留まったのだ」
魔法が終わってもまだ俺の額に触れているディナ先輩の指がわずかに震えだす。
「仕事も持たないよそ者と、幼いボク、それから病人。どうやって暮らしていけると思う? すぐに生活に困窮したよ。女は慣れない農作業を頑張ったようだが所詮は素人だ。村人は誰も助けてくれなかった……というより、助けることができなかったんだ。領主が差し伸べた手以外はつかめないように……その領主が、モトレージ白爵キカイーだ」
領主様がそんな人でなしだなんて。
モトレージ領というのはリテルの記憶にないので、少なくともラトウィヂ王国内ではない。どこの国なんだろう。
ストウ村を擁するクスフォード領の領主であるクスフォード虹爵マウルタシュ様はとても民に理解のある御方で、収穫祭に出す料理のための狩りのときは、獲れ高にかかる税金を半額にしてくれたりもする。
それにこの世界には魔法があるから、あまりにも理不尽な政治を行う為政者は民衆の手により排除されることもあるらしいし。
そういやストウ村では「誰でも魔法を使う素地があること」を子供たちに全く教えていないことについて、カエルレウム師匠にお聞きしたとき、「子供が魔法を覚えると無闇に使って寿命を減らしたり他者を傷つけたりしてしまう。成人しない子供の前では魔法の存在を伏せるようにとかつて指導したことがある」とおっしゃっていた。
そのモトレージ領でも魔法の使用を禁止する方向の施策でも行っていたのだろうか。
「キカイーの奴には娘が居た。ボクと同じくらいのね。女はその娘の世話係、ボクはその娘の遊び相手としてキカイーの屋敷に住まわされた。男の母親の世話を看てもらえるという条件を信じて、愚かな女はそれを引き受けたんだ」
ディナ先輩が「愚かな女」という表現を使うときの表情には、憎しみや悲しみだけではなく……なんというか慈しみのような感情も感じる。
今見たばかりのディナ先輩のお母様の表情と同じような。
「キカイーの屋敷では贅沢な暮らしが待っていた。女もボクも装飾がついた服を与えられ、奴のわがままな娘に対しボクらは精一杯尽くしたんだ。その頃のボクは何も知らなくて、男が戦争中に殺された話も実は村人のたちの悪い冗談で、キカイーの奴も実は貧乏人を救済する良い領主で……なんて信じ込みかけていた。でもね、ボクが十歳になったとき、世界のすべてが裏返った」
俺の額から、ディナ先輩の手が離れた。
「モトレージ領ではキカイーの悪政のせいで治安が悪化していてね、奴の二人の夫人と子供たちの疎開が決まったんだ。ボクらは他の何人もの侍女同様に従者としてついて行くのだとばっかり思っていたが、違った。ボクには新しい仕事が与えられるという。当時のボクは何も疑わず、その仕事部屋へと向かったんだ」
ディナ先輩の、全く見えない状態へと偽装されているはずの偽装の渦から、強い感情の圧のようなものを感じる。
「ボクはそこでキカイーの慰みモノにされた。逃げようとはした。でもボクが我慢さえすれば愚かな女を守ることができるという甘言を当時のボクは信じたんだ。領主の娘の遊び相手だったボクの次の仕事がそんな酷いモノだったというのに、領主の娘の世話係だった女が次にどんな仕事に就かざるを得なかったかなんて、ちょっと考えれば判りそうなものだが、当時のボクは愚かな女の取り繕った嘘まで信じた」
え、ちょっと待って十歳って……元の世界での十二歳……だとしても……。
歴史の授業で幼い年齢で政略結婚って話は聞いたことあるけれど、それはあくまでも家同士の結びつきのための結婚であって、実際に何かするわけでは……。
パイアに襲われたときのことを思い出して、胸が詰まる。
「しばらくはそんな毒沼を泳ぐような生活が続いた。でもいくら愚かでも、やはり母親なのだな。ボクの様子がおかしいことに気付いた。キカイーに口止めされてはいたけれどボクは話した。ボクは頑張って母さまを守るよと伝えた。愚かな女は泣き崩れ、ボクに謝った。自分が身を捧げ続けている間はボクは守られているはずだったのに、と。その言葉を聞いて、ああこの女は本当に愚かなのだなと思った」
いつも力強くしゃべるディナ先輩の声はやけに静かで、落ち着いていた。
「その愚かな女は、そこからさらに愚かな行動へと出た。ボクを連れて厳重な警備のキカイーの屋敷から逃げ出そうとしたんだ……できると思うかい? 警備兵の中には魔術師だって居るんだ。警備兵たちもボクらを追い込みながら半笑いだった。同じところをぐるぐると走らされた。ボクは女の愚かさに泣きたくなった……そのとき急に女はボクを抱きしめた。ボクらはここで警備兵の持つあの槍に貫かれて死ぬのかなと思ったよ。でも貫かれるのが一回だけで解放されるのならば、それでもいいとボクは目を閉じた」
黙って聞けと言われたけれど、内容が壮絶過ぎて、相槌を差し挟めるような話じゃない。
「突然、浮遊感を覚えて、ボクは目を開いた。その時に見たのがあの光景だ」
ディナ先輩のお母様のあの表情を思いだす。
その表情の裏にあった物語と感情とを想うと胸が締め付けられる。
「ボクは浮いていた。母さまが魔法を使ったところなんて見たことがない。だから素人の……凄まじい量の寿命を消費して使った魔法なんだろう。ボクはすごい速度で天へと昇っていった。雲を突き破り、星々が輝く夜空をあまりにも近くに感じながら、自分の身に起きていることを理解しようとした。だが思考が動き出すよりも早く、ボクの体が動き出した。今度は雲の上を滑るように、知らない方向へ……しばらく雲の上を飛び続け、再び雲を突き抜け、やがてボクは見知らぬ大樹のそばへと静かに着地した。そこは愚かな女の故郷、アールヴの隠れ里への入り口だった」
俺は言葉もなくディナ先輩の声を受け止め続けた。
「アールヴの里は、ボクにとって救いの場所ではなかったよ。事情を話したボクは、自分たちの仲間が死ぬ原因になった浅ましい獣種の血が混ざっていると罵られ、虐げられたんだ。味方はたった一人だけ……愚かな女の母親だ。おばあさまは、ボクにアールヴの魔法をいくつか教えてくれた。アールヴの魔法はね、獣種の魔法のように作り上げるものじゃないんだ。精霊を見つけ出して契約するだけ。精霊は実際に使うときには契約精霊にお願いするだけ。契約精霊が願いを聞き入れた場合、魔法代償を毟るように持っていく」
精霊と契約?
こんな話を聞いている途中だというのに、新しい魔法めいたものの話を聞くと興味が湧いてしまう。
ごめんなさい、ディナ先輩。
「ボクは力をつけたくて、とにかくたくさんの精霊と契約した。精霊は誰でも契約できるというわけじゃない。アールヴじゃないとダメみたいでね、半分しかアールヴじゃないボクとは契約してくれない精霊もいた。それに魔法効果をお願いしないときでも定期的に自らの血を捧げないといけなくてね、精霊と契約していないアールヴも少なくない」
なるほど。種族限定なのか。
「とにかくボクは独り隠れて魔法の技を磨いたよ。すべては復讐のために……そしてボクは隠れ里を出た。もう二度と戻らないと決めて」
膝に妙な温かさを感じて目を開く。
ディナ先輩の握りしめた拳から血が滴っていた。
俺はその手を取り、恐る恐る指を開くと……ディナ先輩はあまりにも強く拳を握り込み過ぎて、爪が手のひらへ食い込んでいた。
怒られるかもしれないと思いつつも、『生命回復』を使って傷を癒やす。
ディナ先輩は黙って治療を受け入れてくれた。
「……ボクは精霊たちの力を借りて、キカイーの屋敷へと忍び込むことに成功した。欲に溺れた脂肪の塊から醜く汚れた魂を切り離すのは驚くほどあっけなかった。今思えば、ボクが使った魔法がアールヴの魔法だったのが幸いしたんだ。屋敷で雇われていた獣種の魔術師達が施していた魔法封印なり感知なりの防備は、あくまでも獣種の使う魔法に対するものばかりだったから。精霊の発する魔法的効果に対しては全くの無防備だった」
さっき受けた対魔術師戦の講義を思い出す。
漠然とした効果は魔法代償が嵩み過ぎる。かといって効果範囲を絞り込めば、似て非なる効果への対応ができなくなる。
「とにかく簡単過ぎたんだ。だからボクは動揺した。白爵ともあろう者が、こんな簡単に侵入者の手にかかるものなのだろうかと。もしかしたらこれは影武者で、本物は別の場所に居るのかもしれないと。だからボクはすぐには逃げ出さず、屋敷の中を探索し始めたんだ」
ディナ先輩の手を治療したあと、ずっと握ったままだった俺の手が、今度はディナ先輩に握り返される……痛い……けどこれは我慢だ。
「そこで見つけたんだ……母さまの、死に人形を」
死に人形?
手の痛みが飛ぶほどのインパクト。
話の流れから想像すると反吐が出そうな響き。
絶対にろくでもないものだという予測がつく。
具体的にどんなものなのかは内容的にも状況的にも、とてもじゃないけど聞けないし聞きたくもない。
「そんなものを目の当たりにして冷静でいられると思うか? 隙を突かれたボクは背中に大きな傷を負った。キカイーの骸やあいつの趣味の部屋に火を付けていなかったら、屋敷から逃げ出すことも出来ずそのままあそこで力尽きていただろう」
ディナ先輩が俺の手を放す――そしてこちらに背中を向けると、突然シャツを脱いだ。
薄暗さの中に真っ白い背中がぼんやりと浮かび上がる――そこには、黒っぽい大きなムカデが這いずっていた。
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
呪詛に感染中の身で、呪詛の原因たるラビツ一行をルブルム、マドハトと共に追いかけている。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
リテルとは両想い。熱を出したリテルを一晩中看病してくれていた。リテルが腰紐を失くしたのを目ざとく見つけた。
・ラビツ
久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
フォーリーではやはり娼館街を訪れていたっぽい。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、とうとう犬種の体を取り戻した。
リテルに恩を感じついてきている。元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。街中で魔法を使い捕まった。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
槍を使った戦闘も得意で、知的好奇心も旺盛。リテルと互いの生殖器を見せ合う約束をしたと思っていた。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌い。壮絶な過去を持つ。
母親はアールヴという天界出身でホルトゥスに居着いた種族。精霊と契約している。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
リテルに対して貧民街での最低限の知識やマナーを教えてくれた。
・アールヴの女性
本来ならば保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う種族。自分の命を救ってくれた猿種の男と恋に落ちた。
駆け落ちの末、男の故郷でディナを産んだ。男を戦争で失くした後、キカイーに仕えることになった。
・キカイー
モトレージ領を治める白爵。
ディナ先輩とその母を欲望のままに追い込んだ。ディナに復讐され、殺された。
・マウルタシュ
フォーリーやストウ村を有するクスフォード領を治める虹爵。
領民からも慕われている。
■ はみ出しコラム【奴隷と拘束手段】
ホルトゥスにおいて、奴隷という存在は極めて少ない。
誰でも魔法が使えることと、その境遇に甘んじるよりは逆襲なり脱出なりを企て、失敗してもそのまま寿命を消費し尽くして死亡が可能なこと、そして奴隷を魔法で拘束しようにも魔法の発動に寿命を消費することから、奴隷を使役するメリットよりも拘束にかかるデメリットの方が大きいためである。
拘束系の魔法にて必要とされる魔法代償が、その奴隷を奴隷たらしめておく状況を維持する費用としては見合わないのである。
犯罪者の場合、奴隷にして扱いに困るよりは、魔法代償徴収刑ですぐに解放する方が収監側としても楽であるし、奴隷を入手する側にとっても犯罪を行うような者を近辺に囲い込むことへの不安もあり、犯罪者奴隷は存在しない。
借金を返せない場合でも、寿命売りによって簡単にお金を手にすることができるため、借金奴隷も存在しない。
戦争捕虜にしても、魔法という武器の武装解除は困難であるため、魔法代償を徴収してから即刻解放することが多い。
中には、好感度を得るために魔法代償の徴収を行わずに解放する場合もある。実際に民衆自体が、自分たちを治める王や貴族を自軍ではなく敵軍から選択する、という歴史的判断が過去に何度もあった。
魔法の発動には寿命が必要となる状況では、人の数は力であり、それはまた統治者と民衆という構図においても同様である。
統治者側が民衆側より人数が多いことはないのだ。
愚かな戦争を継続することは為政者の無能をさらけ出し、民衆の反乱につながることも少なくない。
その一方で、民衆が統治者を排除した都市において混乱が発生し、結果的に滅んだという記録も残されている。
王族や貴族においては、国民、領民の生命や生活を守るという特殊な知識や技能を継承する職能集団という感覚も、民衆の間では少なくないし、街を覆う壁や街を守る兵の維持のため、税金の必要性は民衆も理解している。
・拘束手段
拘束された相手に魔法使用という選択肢があるホルトゥスにおいては、拘束の際、魔法以外の、魔法の使用を自発的に控えさせるような手段がよく取られる。
ただしこれは怨みを募らせてしまうため、恒常的な手段として用いられることはあまりない。
→ 人質
「人質には優しくしろ。さもなくば即座に殺せ」とは、ホルトゥスの裏社会における一般的な格言である。
→ 薬
意識や正気を失わせる麻薬や毒の類は数多く発見・研究されており、それに比例して解毒や、毒検出のための魔法も数多く存在する。
→ 洗脳
魔法によるものではなく精神的・技術的な洗脳のことである。薬との併用も多い。
時間はかかるが最終的には自発的に従うようにもできるため、なくならない手段。
→ 魔法封印
魔法発動を阻害する魔法品の使用である。
ただし、そのような魔法品は様々な種類があるが、どれも非常に希少で高価であり、効果を発揮し続けさせるためには常に魔法代償を消費するため、薬や洗脳にて本格的に支配するための一時的な拘束手段に留められる場合がほとんどである。
この類の魔法品が希少で高価になる理由の一つとして、そこに設定する魔術がどうしても複雑になってしまうこともある。
例えば、主人に歯向かった場合に特定の魔法効果を与えるという効果を魔法品へ付与する場合、「歯向かう」という判断はその魔法を付与した魔術師自身の価値判断によるし、複数の条件を付与する場合、それぞれが別の魔法として魔法代償を要求するため、汎用的で万能な条件設定は困難を極めるのである。
様々な種類があるのは、魔法封印における魔法具においてベストな構成というものがいまだに確立していないことと、魔法封印を構成する思考が理解されてしまうと魔法封印を回避する方法にもつながってしまうからである。
ちなみに魔法封印には、「触れた状態で発動された魔法を解析」されることを防ぐため、解析妨害の魔法も併用されているのが常である。
※ 魔封具
魔法封印に特化した魔法品をあえて「魔封具」と呼ぶ。
魔封具は消費命の集中に反応して阻害するものが最も一般的である。
しかし前出の通り何度も触れるということが解析妨害を突破して魔法を理解される恐れがあることと、魔封具の機能維持のため魔法封印効果を持つ魔法を常駐させるための魔力を常にチャージしておかなければならないのとで、長期的な拘束力は望めない。
→ 異界の魔物の利用
異界の魔物の中には、人を惑わしたり、魅了する魔物も居る。
そのような魔物を利用して他者を隷属しようと企んだ者が居たが、事件解決に動いた領主配下の領兵や魔術師たちの調査により、結局その企んだ本人自体も利用していたいはずの魔物に魅了されていたことが発覚し、ホルトゥスの裏社会においても禁じ手とされている。
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