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#33 訪れし者
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案内してくれたウェスさんが扉を閉め、寿命の渦が遠ざかる。
ふぅ、と自然にため息が漏れる。
今日は色々とあった。あり過ぎた。
部屋の奥、ちょうど窓の曇りガラスから射し込む月明かりが小さなテーブルと椅子とを照らす。
その奥には縦に細長いドア。開けるとそこはちょっとしたウォークインクローゼットになっている。
部屋の中央には天蓋付きの大きめのベッド。
ダブルベッドサイズ。しかもこの感触、寝藁じゃない。綿とかそういうふわふわのものが使われている。
ベッドの縁に腰掛けると尻が深く沈む。
もう一度ため息をついてブーツを脱ぐ。
入り口近くには、小さな灯り箱が置かれているが、灯ってはいない。
火付け具はウェスさんが腰に下げた革のポーチの中に入っているの以外、屋敷内では見ていない。
防火対策かな。『発火』を使えば火を灯すことはできるが、昨日が満月でホルトゥスでは月が二つあるから、光量的には点けなくとも十分だ。
室内はそれ以外に調度品の類はなく、壁と床や天井との境にちょっとお洒落な装飾が施されている以外はシンプルな作りの部屋。
家族旅行でフランスのシャトーホテルに泊まったときは絵とか彫刻とかが部屋の中にもあったけど、このお屋敷ではそういったアート系のものは一切見ないし、壁紙も無地だ。
家族旅行か。
俺が実家でぼっち誕生日を迎えたあの日、父親は仕事でロンドン、母さんと姉さんと英志はウィーンに演奏旅行。
あちらの家族で最後に揃ったのはいつだったかな。
一度思い出し始めると、日本での記憶が次々と溢れてくる。
いやでもほら、俺は今、女の子と旅行してるしさ――なんて考えて虚しくなる。
誰に対する何の言い訳だよと。
でも、ルブルムは良い子だよな。あの無垢さは心配でもあるけれど、癒やしさえ感じる。
元の世界での身近な女性ってろくなの居なかったから。
自己中な母さん、苛烈な正論DV姉さん、そしてあのクッソ女――沢地怜慈奈。
沢地は俺の人生初の――「女友達」という表現さえ使いたくもない、俺の人生の汚点。
あの女が居なかったら、家族の中でそれまで唯一距離感がまともだった英志とあんなに疎遠になることもなかったように思える。
中二から同じクラスになった沢地が最初に俺に絡んできたのは秋の学園祭。
それまで挨拶もろくにしたことなかった割に突然馴れ馴れしくしてきたことに当初驚きはしたが、つられて会話しているうちに、思ったより話しやすい奴なんだなと認識するようになっていた。
隙を見つけては貪欲に話しかけてくるコミュ能力の化け物。
最初は引いていた丈侍も終いには「混ざってくること」を受け入れてしまったくらいだし、とにかくガッツのある奴ではあった。
あと沢地はとにかく優しかったし、俺のことを色々と気にかけてくれた。
あんな母さんや姉さんとしか接してなかった俺は、沢地の演出する「居心地の良さ」にまんまとやられていった。
今でこそアレを恋愛にカウントする気になんて全くならないが、当時の俺は初恋かもと錯覚していた。
そのうち俺は姉さんからの口撃に傷ついた心を、沢地に愚痴ることで癒やすようになった。
毎日丈侍の家に入り浸っていた俺が、毎週月曜だけは沢地と帰るようになっていた。
沢地の家の近くの公園でとりとめもなく会話して、傍目からはもう付き合っているみたいなもんだった。
クリスマスにはお洒落なケーキ屋でデートしたし、初詣だってそれまでずっと丈侍んとこの家族と一緒に行っていたのが、人生初の女子と二人きりでの年越しデートだったし。
いやデートじゃなかったんだけどな。
そしてバレンタインを直前に控えたあの月曜、沢地は家に来た。
両親は仕事で家に居ないし、姉さんや英志もお稽古ごとで家に居なかった。
そのときの俺は浮かれていた。
家に来た沢地ははしゃいで、いろんなとこを探検したがってドアも勝手に開けようとして。
姉さんは俺が部屋に入るのすら嫌がっていたから、俺は「やーめーろーよー」なんて言いながら、沢地の手首をつかんで――始めて握る女子の手首の華奢さに驚いたりして。
あのときはドッキドキで気づかなかったけど、今思えば沢地は冷静に英志の部屋を探っていたんだろうな。
その後、二人でリビングへと戻って母さんの出したCDを聞いて、俺が紅茶を淹れている間、トイレを借りるねって沢地はリビングを出ていって。
沢地は長いこと戻ってこなかった。心配になってトイレまで見に行こうと思いもしたが「絶対にトイレに近づかないでね」なんて言われていたから、バカ正直にその約束を守って俺は待った。
ようやく戻ってきた沢地は「お腹痛くなっちゃったから帰るね」と言った。
戸惑いはしたが、姉さんが生理のとき特に攻撃的になる人だったから、俺は察したつもりで笑顔で見送った。
玄関で沢地がついでみたいに渡してきた市販の安いチョコ。
それは本当についでだったんだ。その時点ではまだ気付けていなかったけど。
その夜、英志がものすごい剣幕で俺の部屋に怒鳴り込んできた。
「もう絶対にするなよ、っつーかさせるなよな!」
英志が俺の部屋の床に叩きつけた大きめの箱とピンクの便箋。
それは俺のもらったのとは比べ物にならないほど丁寧にラッピングされた手作りチョコと、沢地から英志へと宛てたラブレターだった。
学園祭のときに見初めて、ずっと想いが募っていて、俺の協力を経てようやく今日、バレンタインの想いを届けることができました、みたいなこと。
何が起きたのかを理解するのに時間がかかったのは、英志が姉さんにも愚痴ったせいで、姉さんからも小言が小一時間いや二時間はあって、その間は思考停止していたから。
俺は人の気持がわからなくって、すぐ調子に乗るような馬鹿で、頭も悪くイケてもなく何も得意なことがない平凡な男なのに、身の程をわきまえない傲慢さと慢心とで目先の甘い言葉にホイホイと乗っかって、家族を売るような下劣さで、セキュリティ意識が低くて、性欲にまみれた下等人間で……心を無にしていたはずなのに、あの罵詈雑言はいまだに耳に残っている。
その日以来、俺はリアルな女の持つ怖さに萎縮して、女子とは極力関わらずに生きてきた。
こっちに来てリテルの記憶を、ケティへの想いを共有するまでは、ずっと。
ぼんやりと思考だけしていた俺の視界で何か動くものがあった。
入り口のドア。音もなく、少しずつ開き始めている。
『魔力感知』では寿命の渦は感じないし、他の三人の寿命の渦はそれぞれの部屋と思われる場所に残ったまま。
武器になりそうなものは――ああ、テニール兄貴のすね当て、隠しナイフ付きのアレくらいは残しておけば良かったか――即座に魔法の準備に入る。
『発火』を『魔法転移』でその入り口付近に、いつでも撃てるようにして。
「反応がいいな。及第点だ」
ディナ先輩の声?
俺は慌てて集中した消費命を解放する。
でもどうして――ディナ先輩の寿命の渦はあっちの方に残ったまま――いや、消えた?
寿命の渦の見えない方のディナ先輩は、部屋の中に入ってきて後ろ手にドアを閉じた。
窓からの月明かりは部屋の中を淡く照らす。
そこに浮かぶディナ先輩の姿はネグリジェのような姿だけど腰に革のベルト――帯剣している!
これ、気付けていなかったらヤバかったパターン?
というか、ルブルムやウェスさんが止めに入れないこの時間をあえて狙ってきたのなら――背中に冷たいものが走る。
「『寿命の渦の残像』という魔法だ。本当の自分の動きに少し遅れて寿命の渦がその動きをなぞる」
「……消えたということは、寿命の渦を限りなく小さく偽装の渦してから動いたということですね?」
「そうだ。後で教えてやる。だから」
ディナ先輩は近づいてくる。
「お前に今から魔法をかける。受け入れろ」
えっ――いやもう恐怖しかないんですけれど――受け入れろとおっしゃられたからには俺の選択肢は一つだけ。
「はい」
俺がそう答えると、ディナ先輩はベッドの縁、すぐ左隣へと座る。
ケティのときとシチュエーションは似ているけれど緊張の度合いがまるで違う。
もちろん緊張は色っぽいのとは全く別の意味で。
剣の鞘は向こう側。ディナ先輩は右手で剣を使っていたから、これ居合抜きみたいなのやられたら俺はバッサリ真っ二つ?
鼓動が早くなる。
ディナ先輩はおもむろに右手を伸ばしてきた――手袋はしていない。
その右手は、左腰の剣の鞘ではなく俺の額へと向かう。
俺は黙って触れられた。
「目を閉じろ」
おとなしく従うと、目を閉じているにも関わらず瞼の裏側に映像が浮かぶ。
暗闇の中に浮かび上がったのは、とても美しい女の人。
長い銀色の髪、細身で、顔立ちは大人で、どことなくディナ先輩に似ている気がするけど、ディナ先輩の髪の毛は俺と同じ黒だしな。
そして特徴的なのは猿種に似ているけれど一回り大きな耳。しかもほんのり先端が尖っている。
それにしても悲しそうな、でもそれだけじゃない、見ているだけで胸を締め付けられるほど必死さが伝わってくる表情。
こちらへ手を伸ばしていて――え、でも、この角度――上から見下ろしている? 視点は空中?
カエルレウム師匠みたいに露出多めのキャミソールみたいな服はあちこち破れている。これ以上の描写に言葉を費やすのが申し訳ないほど。
「……女の人が見えます。綺麗な人ですけれど、とてもつらそうな表情です」
「黙って聞いていろ。その女はアールヴという種族だ。アールヴは天界から来てこの世界に棲み着いた種族の一つでな」
アールヴ……初耳な種族。美貌と耳からするとエルフっぽい印象だけど。
でもこちらの世界に来てからゴブリン以外は魔物の名前だって耳馴染みのない名前の方が多いか。
「アールヴは保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う。例え身内の命を救ってくれた良心的な……見た目がそっくりの猿種であってもだ。普通なら話はそれで終わりだ。だけどその女は愚かだったから周囲の反対を押し切って、自分の命を救ってくれた猿種の男と駆け落ちしてしまったんだ」
見えていた映像が消える。
魔法の効果時間は元の世界の十秒くらいかな。
「その女は男の故郷の村で一緒に暮らし始めた。その男のことがよっぽど好きだったんだろう。そしてボクを産んだんだ」
ん?
ディナ先輩の……お母様?
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
呪詛に感染中の身で、呪詛の原因たるラビツ一行をルブルム、マドハトと共に追いかけている。
・英志
有主利照の一つ違いの弟。音楽の才能があり要領も良くイケメンで学業もスポーツも万能。
幼い頃は仲良かったが、ハッタを拾ってきたあたりから当たりが強くなり、沢地の一件で完全に仲が悪化した。
・(有主利照の)姉さん
才能がない人は努力していない人として厳しくあたる。自分に対しても厳しいが、利照に対する正論DVは苛烈を極める。
・(有主利照の)母さん
音楽以外の全てを音楽に全振りしちゃったような人。子供を音楽の才能でしか測らない。
利照に音楽の才能がないとわかってからは興味を失った。
・(有主利照の)父さん
仕事大好きで海外出張も多く家庭にあまり興味がなさげだが、妻とは仲が良いようである。
・沢地怜慈奈
元の世界において、英志狙いで利照に近づいた女。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
リテルとは両想い。熱を出したリテルを一晩中看病してくれていた。リテルが腰紐を失くしたのを目ざとく見つけた。
・ラビツ
久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
フォーリーではやはり娼館街を訪れていたっぽい。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、とうとう犬種の体を取り戻した。
リテルに恩を感じついてきている。元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。街中で魔法を使い捕まった。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
槍を使った戦闘も得意で、知的好奇心も旺盛。リテルと互いの生殖器を見せ合う約束をしたと思っていた。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌いっぽいが、感情にまかせて動いているわけではなさげ。
カエルレウムより連絡を受けた直後から娼館街へラビツたちを探すよう依頼していた。ルブルムをとても大事にしている。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
リテルに対して貧民街での最低限の知識やマナーを教えてくれた。
・アールヴの女性
本来ならば保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う種族。自分の命を救ってくれた猿種の男と恋に落ちた。
駆け落ちの末、男の故郷でディナを産んだ。
■ はみ出しコラム【宗教】
ホルトゥスには宗教が存在しない。教会も存在せず、「宗教」という言葉さえも存在しない。
人々は神に頼るよりも前に自らの手に、仲間の手に、そして魔法に頼る。
ただ「神」という表現は残っている。
・神の日々
「安息週」と呼ばれる、毎年の終わりに存在する五~六日の期間。
この期間はずっと満月状態が続く。そのため、月の満ち欠けと毎月の日にちはぴったりリンクする。
この安息週の別名が「神の日々」である。
この神が指すものが「創造神様」である。
・創造神様
「神」という表現が唯一使用される単語である。
創造神様はホルトゥスを作り、世界の責任を獣種へ手渡した存在として語られる。
ホルトゥスの人々にとって神とは、救いを求めるものではなく、感謝を伝えるものである。
安息週には「この世界を拓いてくださったこと」へお礼の気持ちを込め、静かに過ごす。
一般に安息週には、人々は生命を殺さないよう、心がけるという。
時折、転生者が宗教めいた思考を持ち込もうとするが、魔法と「神の日々」との前に、地球の宗教観をホルトゥスへ持ち込むことを断念する。
ふぅ、と自然にため息が漏れる。
今日は色々とあった。あり過ぎた。
部屋の奥、ちょうど窓の曇りガラスから射し込む月明かりが小さなテーブルと椅子とを照らす。
その奥には縦に細長いドア。開けるとそこはちょっとしたウォークインクローゼットになっている。
部屋の中央には天蓋付きの大きめのベッド。
ダブルベッドサイズ。しかもこの感触、寝藁じゃない。綿とかそういうふわふわのものが使われている。
ベッドの縁に腰掛けると尻が深く沈む。
もう一度ため息をついてブーツを脱ぐ。
入り口近くには、小さな灯り箱が置かれているが、灯ってはいない。
火付け具はウェスさんが腰に下げた革のポーチの中に入っているの以外、屋敷内では見ていない。
防火対策かな。『発火』を使えば火を灯すことはできるが、昨日が満月でホルトゥスでは月が二つあるから、光量的には点けなくとも十分だ。
室内はそれ以外に調度品の類はなく、壁と床や天井との境にちょっとお洒落な装飾が施されている以外はシンプルな作りの部屋。
家族旅行でフランスのシャトーホテルに泊まったときは絵とか彫刻とかが部屋の中にもあったけど、このお屋敷ではそういったアート系のものは一切見ないし、壁紙も無地だ。
家族旅行か。
俺が実家でぼっち誕生日を迎えたあの日、父親は仕事でロンドン、母さんと姉さんと英志はウィーンに演奏旅行。
あちらの家族で最後に揃ったのはいつだったかな。
一度思い出し始めると、日本での記憶が次々と溢れてくる。
いやでもほら、俺は今、女の子と旅行してるしさ――なんて考えて虚しくなる。
誰に対する何の言い訳だよと。
でも、ルブルムは良い子だよな。あの無垢さは心配でもあるけれど、癒やしさえ感じる。
元の世界での身近な女性ってろくなの居なかったから。
自己中な母さん、苛烈な正論DV姉さん、そしてあのクッソ女――沢地怜慈奈。
沢地は俺の人生初の――「女友達」という表現さえ使いたくもない、俺の人生の汚点。
あの女が居なかったら、家族の中でそれまで唯一距離感がまともだった英志とあんなに疎遠になることもなかったように思える。
中二から同じクラスになった沢地が最初に俺に絡んできたのは秋の学園祭。
それまで挨拶もろくにしたことなかった割に突然馴れ馴れしくしてきたことに当初驚きはしたが、つられて会話しているうちに、思ったより話しやすい奴なんだなと認識するようになっていた。
隙を見つけては貪欲に話しかけてくるコミュ能力の化け物。
最初は引いていた丈侍も終いには「混ざってくること」を受け入れてしまったくらいだし、とにかくガッツのある奴ではあった。
あと沢地はとにかく優しかったし、俺のことを色々と気にかけてくれた。
あんな母さんや姉さんとしか接してなかった俺は、沢地の演出する「居心地の良さ」にまんまとやられていった。
今でこそアレを恋愛にカウントする気になんて全くならないが、当時の俺は初恋かもと錯覚していた。
そのうち俺は姉さんからの口撃に傷ついた心を、沢地に愚痴ることで癒やすようになった。
毎日丈侍の家に入り浸っていた俺が、毎週月曜だけは沢地と帰るようになっていた。
沢地の家の近くの公園でとりとめもなく会話して、傍目からはもう付き合っているみたいなもんだった。
クリスマスにはお洒落なケーキ屋でデートしたし、初詣だってそれまでずっと丈侍んとこの家族と一緒に行っていたのが、人生初の女子と二人きりでの年越しデートだったし。
いやデートじゃなかったんだけどな。
そしてバレンタインを直前に控えたあの月曜、沢地は家に来た。
両親は仕事で家に居ないし、姉さんや英志もお稽古ごとで家に居なかった。
そのときの俺は浮かれていた。
家に来た沢地ははしゃいで、いろんなとこを探検したがってドアも勝手に開けようとして。
姉さんは俺が部屋に入るのすら嫌がっていたから、俺は「やーめーろーよー」なんて言いながら、沢地の手首をつかんで――始めて握る女子の手首の華奢さに驚いたりして。
あのときはドッキドキで気づかなかったけど、今思えば沢地は冷静に英志の部屋を探っていたんだろうな。
その後、二人でリビングへと戻って母さんの出したCDを聞いて、俺が紅茶を淹れている間、トイレを借りるねって沢地はリビングを出ていって。
沢地は長いこと戻ってこなかった。心配になってトイレまで見に行こうと思いもしたが「絶対にトイレに近づかないでね」なんて言われていたから、バカ正直にその約束を守って俺は待った。
ようやく戻ってきた沢地は「お腹痛くなっちゃったから帰るね」と言った。
戸惑いはしたが、姉さんが生理のとき特に攻撃的になる人だったから、俺は察したつもりで笑顔で見送った。
玄関で沢地がついでみたいに渡してきた市販の安いチョコ。
それは本当についでだったんだ。その時点ではまだ気付けていなかったけど。
その夜、英志がものすごい剣幕で俺の部屋に怒鳴り込んできた。
「もう絶対にするなよ、っつーかさせるなよな!」
英志が俺の部屋の床に叩きつけた大きめの箱とピンクの便箋。
それは俺のもらったのとは比べ物にならないほど丁寧にラッピングされた手作りチョコと、沢地から英志へと宛てたラブレターだった。
学園祭のときに見初めて、ずっと想いが募っていて、俺の協力を経てようやく今日、バレンタインの想いを届けることができました、みたいなこと。
何が起きたのかを理解するのに時間がかかったのは、英志が姉さんにも愚痴ったせいで、姉さんからも小言が小一時間いや二時間はあって、その間は思考停止していたから。
俺は人の気持がわからなくって、すぐ調子に乗るような馬鹿で、頭も悪くイケてもなく何も得意なことがない平凡な男なのに、身の程をわきまえない傲慢さと慢心とで目先の甘い言葉にホイホイと乗っかって、家族を売るような下劣さで、セキュリティ意識が低くて、性欲にまみれた下等人間で……心を無にしていたはずなのに、あの罵詈雑言はいまだに耳に残っている。
その日以来、俺はリアルな女の持つ怖さに萎縮して、女子とは極力関わらずに生きてきた。
こっちに来てリテルの記憶を、ケティへの想いを共有するまでは、ずっと。
ぼんやりと思考だけしていた俺の視界で何か動くものがあった。
入り口のドア。音もなく、少しずつ開き始めている。
『魔力感知』では寿命の渦は感じないし、他の三人の寿命の渦はそれぞれの部屋と思われる場所に残ったまま。
武器になりそうなものは――ああ、テニール兄貴のすね当て、隠しナイフ付きのアレくらいは残しておけば良かったか――即座に魔法の準備に入る。
『発火』を『魔法転移』でその入り口付近に、いつでも撃てるようにして。
「反応がいいな。及第点だ」
ディナ先輩の声?
俺は慌てて集中した消費命を解放する。
でもどうして――ディナ先輩の寿命の渦はあっちの方に残ったまま――いや、消えた?
寿命の渦の見えない方のディナ先輩は、部屋の中に入ってきて後ろ手にドアを閉じた。
窓からの月明かりは部屋の中を淡く照らす。
そこに浮かぶディナ先輩の姿はネグリジェのような姿だけど腰に革のベルト――帯剣している!
これ、気付けていなかったらヤバかったパターン?
というか、ルブルムやウェスさんが止めに入れないこの時間をあえて狙ってきたのなら――背中に冷たいものが走る。
「『寿命の渦の残像』という魔法だ。本当の自分の動きに少し遅れて寿命の渦がその動きをなぞる」
「……消えたということは、寿命の渦を限りなく小さく偽装の渦してから動いたということですね?」
「そうだ。後で教えてやる。だから」
ディナ先輩は近づいてくる。
「お前に今から魔法をかける。受け入れろ」
えっ――いやもう恐怖しかないんですけれど――受け入れろとおっしゃられたからには俺の選択肢は一つだけ。
「はい」
俺がそう答えると、ディナ先輩はベッドの縁、すぐ左隣へと座る。
ケティのときとシチュエーションは似ているけれど緊張の度合いがまるで違う。
もちろん緊張は色っぽいのとは全く別の意味で。
剣の鞘は向こう側。ディナ先輩は右手で剣を使っていたから、これ居合抜きみたいなのやられたら俺はバッサリ真っ二つ?
鼓動が早くなる。
ディナ先輩はおもむろに右手を伸ばしてきた――手袋はしていない。
その右手は、左腰の剣の鞘ではなく俺の額へと向かう。
俺は黙って触れられた。
「目を閉じろ」
おとなしく従うと、目を閉じているにも関わらず瞼の裏側に映像が浮かぶ。
暗闇の中に浮かび上がったのは、とても美しい女の人。
長い銀色の髪、細身で、顔立ちは大人で、どことなくディナ先輩に似ている気がするけど、ディナ先輩の髪の毛は俺と同じ黒だしな。
そして特徴的なのは猿種に似ているけれど一回り大きな耳。しかもほんのり先端が尖っている。
それにしても悲しそうな、でもそれだけじゃない、見ているだけで胸を締め付けられるほど必死さが伝わってくる表情。
こちらへ手を伸ばしていて――え、でも、この角度――上から見下ろしている? 視点は空中?
カエルレウム師匠みたいに露出多めのキャミソールみたいな服はあちこち破れている。これ以上の描写に言葉を費やすのが申し訳ないほど。
「……女の人が見えます。綺麗な人ですけれど、とてもつらそうな表情です」
「黙って聞いていろ。その女はアールヴという種族だ。アールヴは天界から来てこの世界に棲み着いた種族の一つでな」
アールヴ……初耳な種族。美貌と耳からするとエルフっぽい印象だけど。
でもこちらの世界に来てからゴブリン以外は魔物の名前だって耳馴染みのない名前の方が多いか。
「アールヴは保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う。例え身内の命を救ってくれた良心的な……見た目がそっくりの猿種であってもだ。普通なら話はそれで終わりだ。だけどその女は愚かだったから周囲の反対を押し切って、自分の命を救ってくれた猿種の男と駆け落ちしてしまったんだ」
見えていた映像が消える。
魔法の効果時間は元の世界の十秒くらいかな。
「その女は男の故郷の村で一緒に暮らし始めた。その男のことがよっぽど好きだったんだろう。そしてボクを産んだんだ」
ん?
ディナ先輩の……お母様?
● 主な登場者
・有主利照/リテル
猿種、十五歳。リテルの体と記憶、利照の自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
呪詛に感染中の身で、呪詛の原因たるラビツ一行をルブルム、マドハトと共に追いかけている。
・英志
有主利照の一つ違いの弟。音楽の才能があり要領も良くイケメンで学業もスポーツも万能。
幼い頃は仲良かったが、ハッタを拾ってきたあたりから当たりが強くなり、沢地の一件で完全に仲が悪化した。
・(有主利照の)姉さん
才能がない人は努力していない人として厳しくあたる。自分に対しても厳しいが、利照に対する正論DVは苛烈を極める。
・(有主利照の)母さん
音楽以外の全てを音楽に全振りしちゃったような人。子供を音楽の才能でしか測らない。
利照に音楽の才能がないとわかってからは興味を失った。
・(有主利照の)父さん
仕事大好きで海外出張も多く家庭にあまり興味がなさげだが、妻とは仲が良いようである。
・沢地怜慈奈
元の世界において、英志狙いで利照に近づいた女。
・ケティ
リテルの幼馴染の女子。猿種、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
リテルとは両想い。熱を出したリテルを一晩中看病してくれていた。リテルが腰紐を失くしたのを目ざとく見つけた。
・ラビツ
久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
フォーリーではやはり娼館街を訪れていたっぽい。
・マドハト
ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、とうとう犬種の体を取り戻した。
リテルに恩を感じついてきている。元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。街中で魔法を使い捕まった。
・ルブルム
魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種。
槍を使った戦闘も得意で、知的好奇心も旺盛。リテルと互いの生殖器を見せ合う約束をしたと思っていた。
・アルブム
魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種の兎亜種。
外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。
・カエルレウム
寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種。
ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。
・ディナ
カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌いっぽいが、感情にまかせて動いているわけではなさげ。
カエルレウムより連絡を受けた直後から娼館街へラビツたちを探すよう依頼していた。ルブルムをとても大事にしている。
・ウェス
ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種。
リテルに対して貧民街での最低限の知識やマナーを教えてくれた。
・アールヴの女性
本来ならば保守的で閉鎖的でよそ者を嫌う種族。自分の命を救ってくれた猿種の男と恋に落ちた。
駆け落ちの末、男の故郷でディナを産んだ。
■ はみ出しコラム【宗教】
ホルトゥスには宗教が存在しない。教会も存在せず、「宗教」という言葉さえも存在しない。
人々は神に頼るよりも前に自らの手に、仲間の手に、そして魔法に頼る。
ただ「神」という表現は残っている。
・神の日々
「安息週」と呼ばれる、毎年の終わりに存在する五~六日の期間。
この期間はずっと満月状態が続く。そのため、月の満ち欠けと毎月の日にちはぴったりリンクする。
この安息週の別名が「神の日々」である。
この神が指すものが「創造神様」である。
・創造神様
「神」という表現が唯一使用される単語である。
創造神様はホルトゥスを作り、世界の責任を獣種へ手渡した存在として語られる。
ホルトゥスの人々にとって神とは、救いを求めるものではなく、感謝を伝えるものである。
安息週には「この世界を拓いてくださったこと」へお礼の気持ちを込め、静かに過ごす。
一般に安息週には、人々は生命を殺さないよう、心がけるという。
時折、転生者が宗教めいた思考を持ち込もうとするが、魔法と「神の日々」との前に、地球の宗教観をホルトゥスへ持ち込むことを断念する。
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そして、少年は流刑地より、王政が当たり前の国家の中で、民主主義国家を樹立することとなる。
少年は英雄への道を歩き始めるのだった。
※第4章に入る前に、各話の改定作業に入りますので、ご了承ください。
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