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#29 俺はトシテルです

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 ルブルムの柔らかさと温かさと、そしてほんのり甘いけれど不快ではない匂いとが、俺を包んだ。
 そう。不快感がないと感じたんだ。でもそれも一瞬だけ――息ができない。
 ルブルムがあまりにもしっかりと俺の頭部を抱きかかえているがために、俺はルブルムの胸の谷間で窒息しかけている――こういうのってマンガの中だけの表現かと思っていたけど、本当に呼吸ができない。
 俺は両手でルブルムの肩を持ち、無理やり頭を引き抜いた。
 自然とこぼれるため息。
 このままではいけない。
 ルブルムとリテルが仲良くなり過ぎては、リテルとケティのためにはよくないし、ディナ先輩からの殺意も決して消えないだろう。
 俺はルブルムの肩を遠ざけてから、ディナ先輩の方へと向き直った。

「ルブルムが、アルブムとの仲のことで不安を抱えていたから、ルブルムとアルブムは家族だよと伝えました」

「それならディナ先輩もリテルも家族だ」

 俺の言葉を継いだルブルムの気持ちはわかった。でも。

「俺は――」

 俺はいつかリテルの体を離れる。リテルの体を使って勝手にあちこちで家族とか作るわけにはいかない――いや違う。それは言い訳だってこと、本当は自分でもわかっている。
 異物、という単語がまた頭に浮かぶ。
 俺は誰かと家族でいられる自信がない。リテルや丈侍じょうじの家族を見ているから家族そのものを否定する気はない。ただ俺が育った家族は、あの自己中な両親に、弟でストレス発散する姉、そして俺より出来がいいせいか兄を見下す弟、そんな場所だったから、俺自身が家族という関係性を構築も維持もできる自信がない。
 娼館街からの帰り道でウェスさんに伝えたように、俺は怖いんだ。

「俺は、魔法を学ぶことを受け入れていただけただけでもう十分過ぎるほど十分です」

 そう言った途端、俺は右手を引かれた。
 その勢いで右手の方へ振り向くと、ルブルムの瞳から涙がこぼれていた。

「リテルが私を拒むのは、私がリテルのことも傷つけたからか?」

「いやそんなことはない……ないけれど……」

 ルブルムは精神的に未熟なのだろう。このくらいの見た目の女子が本来持っているであろう警戒心とかしたたかさがない。それは悪い奴に簡単に騙される恐れがあるということ。実際、俺が止めなければ、あのときもエルーシたちにどこかへ連れて行かれていたかもしれない。
 カエルレウム師匠はルブルムやアルブムをホムンクルスとして作ったとき、肉体の成熟を早めたようなことを言っていた。

「ルブルム、いいかい。人には距離感というものがある。家族ならばなんでも許されるというわけでもないし、家族であっても一定の距離があってもいい。それは傷つけたとか、嫌いとかそういうことではなく……そう、自立につながることなんだ。小さな子供であれば、家族とべたべたしていてもおかしくない。ただ半成人となったあたりから自立するべく距離感というものを覚え始めていく。半成人からは税金も発生するし、見習いとして職業に就けるようにもなる。そこからさらに六年経って準成人となれば結婚だって可能になる。結婚したら結婚相手以外の、特に異性とは、普通はべたべたしなくなる。そのための、というわけじゃないけれど、今から距離感を学んでいくんだ」

「距離感を……学ぶ」

 ルブルムがものを考える顔になった。

「距離感を学んでいると、眼の前の距離感が他の人の距離感と違うかどうかに気づけるようになる。違うということにはだいたい理由があったりする。相手を避けたいと思っている人、相手に近付きたいと思っている人、そういうものが距離感を通して見えるときがある。特に距離を積極的に詰めてくる人は、何かを企んでいる可能性が大いにある。それに対しては当然、警戒が必要だ。今も、俺がルブルムと出会って間もないのに、これだけ仲が良いことを、ディナ先……ディナ様は不自然に感じている。ルブルムのことを心配しているんだ」

「リテルとは出会ってから間もなくはない。マクミラさんが荷物を運んでくれたとき、リテルも何度かいたことがある」

「でもそのときは本当に挨拶程度だっただろ? ちゃんと話をするようになってからはまだ一日半くらいだ。このくらいの年頃でその時間経過でこの親密さは、必要以上に近い。となると俺の方が近づいたとか、下心があるとか、何か企んでいるとか、勘繰られるのはおかしいことじゃないんだ」

 まあ、それで殺されかけるというのはホルトゥスならではなのか、それともディナ先輩が地球でいうマフィア的な存在なのかはわからないけれど。

「ご覧の通りです、ディナ様」

 ずっと沈黙を守っていたウェスさんが口を開くと、ディナ先輩の雰囲気が変わった。

「ああ。話を聞けば聞くほど疑いは深くなる」

 深くなる? こんなに紳士的なのに?

「お前は確かにストウ村のリテルだ。それは間違いない。しかしその思考の特異性は、ストウ村のリテルでは不自然極まりないのだ。貴族並みに教育を受けているようにすら思える――というより、その年齢でそこまでの思考ができること自体が異様なのだ。この街の大人でもそのような思考ができない者の方が圧倒的に多い。まるで人生経験豊富な老人が中に入っているようにも感じる」

 中に入っているって、こっちホルトゥスでも言うんだな――でも「大人びている」という表現はそういえば地球でもよく言われていたっけ。
 丈侍のお父さんにも言われたことがあった。今どきの子供は、SNSとかで大人と会話することも少なくないから、思考の経験値が自分たちの若かった頃に比べて格段に多いと。
 確かに俺がSNSでフォローしていた人は、丈侍以外に同年代っぽい人がいなかった。
 別に年齢で区別していたわけじゃなく、すぐ感情的になる人や悪口しか言わない人、短絡的な判断しかしない人を避けていったら、思慮深い人ばかりが残った感じ。
 そういう人たちの思考や論理に日々触れているうちに、自分の中の価値観や論理パターン、言葉の裏側を探ったり多面的なものの見方をしたり、そういったスタンスが自然と蓄積されていったのかもしれない。
 あとは姉さんの正義を振りかざした精神的な暴力に耐えていたのも今思えば何かの訓練になったのかも。

「老人ではないです。十五歳です。ただ人生経験は、他の同年代の人たちよりも多いと思います」

 三人は俺の言葉の続きを待っている。
 しゃべり出そうとして、喉がやけに乾いていることに気づく。緊張しているんだ。
 まだ心のどこかで、自分が異世界から来たことを話すことにためらいがある。
 異世界の魂だとわかっただけで殺されたり、幽閉されて実験に使われたり、他にも酷い目に遭わせられるんじゃないかって。
 でもとしてるよ、紳士たれ。
 恐らくとしてるが、リテルの体から出られる一番の近道は、カエルレウム師匠たちの理解と協力を得ることなはず。
 それにもしもディナ先輩やカエルレウム師匠が人の心を見通す魔法みたいなのを使っていたとしたら、嘘をつくことは信頼を遠ざける。
 話す覚悟はさっきしたじゃないか。
 大丈夫だ、としてる。信じなければ信じてもらえない、そのことを信じて。

「魔術特異症の、俺の様な寿命の渦コスモスについて、俺の予想を伝えます。一つの肉体に二つの魂がつながっている状態です。そして俺の場合、片方がリテルで、もう片方が俺です。俺の名前を仮にトシテルとすると、トシテルの意識は昨日の朝まで眠っていてリテルはずっとリテルとして生きていて、一昨日の夜、リテルが熱を出して寝込んで、昨日の朝、熱が引いたときにはもう、意識や思考が俺――トシテルになっていました。そしてトシテルの方ですが前の人生の記憶があります。その人生というのはホルトゥスとは違う世界の記憶です。トシテルはそこで十五歳――そちらの世界ではこちらの世界と異なり、クエインとミンクーが存在せずネルテーの次がラスタになる計算方法なので、ホルトゥスの年齢に換算すると十三歳となります」

 しばらく間を置いてから、ディナ先輩がため息をつく。

「その説には納得感はある。お前――トシテルが居た世界の名前は?」

「名前はないです。というのも、ホルトゥスには隣接する天界カエルム地界クリープタがありますが、そこでは世界は一つしかないという認識でした。なので自分たちの世界にあえて呼び名をつけて区別する必要がありませんでした。しいて言うならば自分たちの住んでいる土地というか星そのものをチキュウと呼んでいました。トシテルの住んでいる国の名前はニホンです」

「チキュウの、ニホンの十三歳は皆、トシテルのように思考するのか?」

「いえ、トシテルは他の同年代の者に比べて思考が大人びていると言われていましたので平均ではないと思います。ですがトシテルの思考を育んだ下地はチキュウでは一般的です。ガッコウという教育のための場がチキュウにはたくさん存在し、ニホンにおいては六歳からそのような学びが義務として用意され、人によってはこちらの二十歳くらいまでずっと学び続けることもあります」

「どのようなことを学ぶのだ? トシテルのように皆が魔法を学んでいるのか?」

「魔法はカエルレウム様に教えていただいたのが本当に初めてです。俺がずっとこのような特殊な形状の寿命の渦コスモスをしていたせいで他の人よりも寿命の渦コスモスを意識することに長けたのではないかとカエルレウム様はおっしゃっていました。トシテルがガッコウで習ったのは、言葉、数字や計算の扱い方、歴史、政治、自然についての法則や知識、地理、空の星々、運動、音楽、美術、良い生き方などです。それ以外にチキュウには、こちらでいう『遠話』に相当する……ですが魔法ではない技術が存在していまして、誰もがその技術を利用でき、その技術を介して世界中の人と会話することができました。そのおかげで、自らの住む地域にとらわれず多くの価値観や思考を学ぶことができました」

 道徳という言葉は「良い生き方」に変換された。数学とか理科とかいう言葉もリテルは知らないようなので、こんな表現をしてみたが、伝わっているだろうか。

「その利用していた技術を説明してみろ」

 これは難しい。インターネットの原理なんて、ちゃんときっちり調べたわけじゃない。
 地球ではわからないことは簡単に検索できたし、簡単に記録も取れたし、本質を理解していなくとも情報のリンクさえ押さえておけば情報を所持しているも同然だった。だからふわっとしか覚えてないことのなんて多いことか。
 とりあえず電気の説明からかな。

「デンキ……雷……雷の小さな毛」

 雷という単語はあるようだ。そして静電気の詩的表現よ。





● 主な登場者

有主ありす利照としてる/リテル
 猿種マンッ、十五歳。リテルの体と記憶、利照としてるの自意識と記憶とを持つ。魔術師見習い。
 呪詛に感染中の身で、呪詛の原因たるラビツ一行をルブルム、マドハトと共に追いかけている。

・ケティ
 リテルの幼馴染の女子。猿種マンッ、十六歳。黒い瞳に黒髪、肌は日焼けで薄い褐色の美人。胸も大きい。
 リテルとは両想い。熱を出したリテルを一晩中看病してくれていた。リテルが腰紐を失くしたのを目ざとく見つけた。

・ラビツ
 久々に南の山を越えてストウ村を訪れた傭兵四人組の一人。ケティの唇を奪った。
 フォーリーではやはり娼館街を訪れていたっぽい。

・マドハト
 ゴブリン魔法『取り替え子』の被害者。ゴド村の住人で、とうとう犬種アヌビスッの体を取り戻した。
 リテルに恩を感じついてきている。元の世界で飼っていたコーギーのハッタに似ている。街中で魔法を使い捕まった。

・ルブルム
 魔女様の弟子である赤髪の少女。整った顔立ちのクールビューティー。華奢な猿種マンッ
 槍を使った戦闘も得意で、知的好奇心も旺盛。リテルと互いの生殖器を見せ合う約束をしたと思っていた。

・アルブム
 魔女様の弟子である白髪に銀の瞳の少女。鼠種ラタトスクッの兎亜種。
 外見はリテルよりも二、三歳若い。知的好奇心が旺盛。

・カエルレウム
 寄らずの森の魔女様。深い青のストレートロングの髪が膝くらいまである猿種マンッ
 ルブルムとアルブムをホムンクルスとして生み出し、リテルの魔法の師匠となった。『解呪の呪詛』を作成中。

・ディナ
 カエルレウムの弟子。ルブルムの先輩にあたる。重度で極度の男嫌いっぽいが、感情にまかせて動いているわけではなさげ。
 カエルレウムより連絡を受けた直後から娼館街へラビツたちを探すよう依頼していた。ルブルムをとても大事にしている。

・ウェス
 ディナに仕えており、御者の他、幅広く仕事をこなす。肌は浅黒く、ショートカットのお姉さん。蝙蝠種カマソッソッ
 リテルに対して貧民街シャンティ・オッピドゥムでの最低限の知識やマナーを教えてくれた。

幕道まくどう丈侍じょうじ
 小三から高一までずっと同じクラスの、元の世界で唯一仲が良かった友達。交換ノベルゲームをしていた。
 彼の弟、昏陽くれひと、彼の父とともにTRPGに興じることもあった。利照は丈侍のお父さんとも仲が良かった。




■ はみ出しコラム【調味料】
 ホルトゥスにて一般的に使用されている調味料について説明する。

・塩
 湾岸地域では海塩が、一部の山岳地帯では山塩が採れる。
 「山塩」は地球における岩塩のことだが、ホルトゥスにおいては山塩と呼ばれる。
 クスフォード領の東部に良質な山塩が採れる地域があり、クスフォード領の財源の一つでもある。

・オレア
 ラトウィヂ王国でも栽培されてはいるが、最も品質の高いものは、ラトウィヂ王国から海を挟んだ西に位置するガトールド王国で栽培されているもの。
 地球におけるオリーブに似た植物で、果実を搾って得られるオレア油はホルトゥスで最も一般的な食用油である。

海の雫ローズマリナス
 ラトウィヂ王国西部に位置し、港湾都市モンドーを有するリチ領の特産品。
 地球におけるローズマリーに似たハーブ。
 新鮮な葉や乾燥させた葉は肉料理の臭み消しとして重宝されるほか、オレア油に漬け込んで油に風味を加えたりもする。
 また海の雫ローズマリナスの花は食用としてサラダにも用いられる。

・サルビア
 地球でいうセージ(ヤクヨウサルビア)に似た植物。
 肉の臭い消しとして用いられるほか、薬効成分を含み長生きに良いともされる。

・クミヌム
 地球でいうクミンに似た植物。
 香り高いスパイスとして好まれ、実に様々な料理に用いられる。

・サツレヤ
 地球でいう木立薄荷セイボリーに似た植物。ホルトゥスにて栽培されているのはサマーセイボリーにより近い。
 肉料理に用いられることもあるが、主に豆料理のスパイスとして使われる。

・メンタ
 地球でいうスペアミントに似た植物。
 肉料理、とくに内臓料理の臭み消しとして用いられるほか、その清涼感を菓子にも用いたりする。

・フィーニークロウン
 地球でいうウイキョウフェンネルに似た植物。
 肉だけではなく魚や菓子にまで合う香辛料として使われるほか、薬効のある野菜としても食される。
 またホルトゥスには「フィーニークロウンの種を噛む」という表現があるが、これは「空腹を紛らわす」という意味である。

・ロコト
 地球でいうトウガラシに似た植物。
 熟すと黄色や赤色になる小型のピーマンのような、ずんぐりとした形状で、果肉は辛く、種はもっと辛い。
 一般に流通しているのはこの品種となるが、これをもとに品種改良を重ね地球の様々なトウガラシに似せたものも流通はごく少ないが存在している。

・ペッパー
 地球でいう胡椒に似た植物。
 マンティコラの歯山脈を挟んだ隣国、現在はシルヴィルーノ王国の南部でのみ大々的に栽培されているが、各地域の薬草園で小規模の栽培も行われている。

・薬草園
 国王や領主は薬草園というものを所有していることが多く、上記の調味料以外にもハーブ類は多くの種類があるが、一般に流通していないもののそういった薬草園で密かに栽培されているものは多く存在する。
 地域の特産品とされているものの場合、乾燥粉末等製品化されたものだけが流通し、元の植物自体は薬草園からの持ち出しさえ厳禁という場合も少なくない。

・作物の品種改良
 流通していなかった原種の発見や、品種改良の方向性、名付け等の結果から推測すると、多くの部分において転生者と思われる者たちの手や意思が関与していると思われる。
 胡椒を表す単語「ペッパー」についても、もともとはホルトゥスになかった言葉である。
 また、品種改良においては単なる農業的なアプローチのみならず、魔法による種子の変化も実験されているようで、品種によっては地球における同種のものと比べ、収穫量や味、丈夫さなどがより優れているものも少なくない。

※ 酢や酒については、次回コラムにて詳しく説明する。

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