夏草の露

だんぞう

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 灯りを持っていたトワさんが居なくなると、結果的にここは暗闇へと戻る。
 僕はリュックの中に手を入れて、手鏡とスマホとを手触りで確認しようとする。
 光源となるスマホを探すのならば動きとして自然だろう。
 すると辺りに光が広がった。
 エナガが、どこから取り出したのか小さなLEDランタンを掲げている。
「おいおい。人の荷物を勝手に漁るのか?」
 口の方は相変わらずだけど、エナガの表情からは先ほどまでの激しい怒りは消えているように感じる。
「これはもともと僕のリュックなんだ。たまたま彼女に預けてあっただけで」
 そう言いながら指先に触れたスマホを取り出し、電源を入れてライトを灯した。
 リュックの中には、トワさんが彼女自身のバッグも入れたのか、僕の荷物以外にもいろいろと入っていて、この一瞬では手鏡までは確認しきれなかった。
 ただ怪しまれるのもアレだし、そのままジッパーを閉じてリュックは背負う。
「電気は貴重だ。二人とも点ける必要はない」
 さっきまでの剣幕がなんだったんだってくらい、エナガはおとなしくなった。
 言っていることも感情的ではなく合理的だ。
 僕はスマホの電源を切り、ジーンズの後ろポケットへとしまう。
「なぁ……もしもあの女と……お前の探している女とが、さっきみたいな状況になって、どちらかしか助けられないとしたら、どっちを助けるんだ?」
 エナガが僕を見つめながらそんなことを言い出した。
 トワさんとトリーってことか?
 どっちって――そりゃトワさんには申し訳ないが心の中では即答でトリーだ。
 だがさっきあんなこと言った手前、そう返すわけにはいかない。
「僕は……どちらも助けたい。最後の最後まで、助けられる方法を模索したい」
 実際、トリーは気にしそうなんだよな。トワさんを見捨てたりなんてしたら。
「いい子ちゃんの回答だな。どっちもなんて先延ばしにしているうちに両方を失うこともあると、俺は思うけれどね」
 エナガもトリーのそういう性格を分かっているのだろうか、言い方がソフトになった。
 そして今のセリフはけっこう堪えた。
 今の僕がまさにそうだから。トリーの友達というか家族みたいな距離感を失いたいたくない僕と、トリーを恋愛対象にしたい僕と。
「ああ、それは分かっている。僕だって理想ばかり追い求めているわけじゃない。ただ、はじめから諦めたくはないだけなんだ」
「それが甘いって言ってるんだよ」
 エナガの声に少しキツさが戻って来る。
 彼もきっと何かわけありなんだとは思うし、今の自分の中途半端さは叱られて当然なのも自覚しているから、彼のキツさは素直に受け入れられる。
「甘いのは、わかっている」
「お前はそういう目にあったことがないから!」
 ああ、そうか。
 エナガのこの怒りは、きっと心に余裕がないからなんだ。
 彼にもきっとこれだけ必死に助けたい誰かがいるのだろう――それがトリーなのかまでは分からないけれど。
「……すまない。君の事情も知らずに。ただ、僕は」
「いいさ。変な話を振ったのはこっちの方だ……ただ、この先そういう選択をするかもしれない。そんときに慌てても遅いんだ。今のうちからどっちって決めておかないと一瞬の迷いが永遠の距離になってしまうことだってあるから」
「ご忠告、ありがたく受け取っておく」
「なになに? 何を受け取ったの?」
 トワさんがいつの間にか戻ってきていた。
「行くぞ」
 エナガはランタンの灯りを消して先に進もうとする。
「待って。外の二人は?」
 そういえば……。建物の外はいつの間にか静かになっている。
「裏口、開くかな?」
 やはり厨房にあった裏口には、針金みたいなものがぐるぐるに巻き付けられていて、すぐには開けなさそう。
「もしかしてさっきバンバン叩いてたヤツか? 俺はあの音を聞いてゾンビロードを上って来たんだ」
 厨房を出て回転扉は見ると、相変わらず凄まじく回っている。
 瑛祐君の声も、あの女のうなり声も、回転扉の向こうからは聞こえない。
 トワさんがゾンビロードの方を照らすと、エナガは自分のランタンを消す。
「先へ進もう」
 三人でミシミシ床を通りぬける。
 エナガ曰く、端を歩けば音はほとんどしないとのこと。
 一休さんかよ。
「ところでその暴力的な二人と遭遇したらどうする気だ? さっきのエレベーターにでも突き落とすのか?」
 ゾンビロードの手前でエナガがそんなことを言い出した。
 この発言は、エナガはまだ手鏡のことを知らないとみていいのか?
 いや手鏡はさっきリュックの中に見つけられてはいないのだ。
 トワさんが手鏡を持ち出した可能性や、トワさんとエナガがグルという可能性もまだ捨てていけない。
 もしもトワさんがあの手鏡を急に僕へ向けてきたときのために、自分の視線は常に動かし続けるよう気をつけてみる。
「さっきは光を目に当て隙を作ってなんとか逃げ出せたんだ。次も同じ手が通用するとは思えないし、遭遇したくないってのが本音だ。気にしていたのはすぐ近くに居ないことを確認したかっただけだ。ゾンビロードで別のヤツラまで来て挟み撃ちにされたら困るから」
「この建物から離れたのだとしたら、仲間を呼びにいったのかもしれないな。アクアツアーも通れるんだろ?」
「嫌。それ嫌。早く移動しましょうよ」
 エナガはアクアツアーを通っていないけど、通れることを知っているという口ぶり。
 油断ならないな。
 僕らは再び灯りを消し、ゾンビロードの入り口まで足早に移動する。
 先頭がエナガ、真ん中がトワさんで、しんがりが僕。
 一番後ろを歩いているせいか、気持ちも後ろ側になんとなく引っ張られたまま。
 瑛祐君、どうしたんだろうか。
 あの女、姿は母親でも中身は違うんだ。
 状況を把握できないでいる瑛祐君を一方的に攻撃したりしていないだろうか。
「あっ」
 急に立ち止まったトワさんに思わずぶつかりそうになる――というかぶつかった。
 トワさんのお尻が僕の膝にぽふっと乗っかる。
 なんでそんな状況かと言うと、中腰で歩いているから。
 こちらから入り口前広場が見えるということは、向こうからも見えるということ。
 たまたま覗いたところを照らされでもしたら、それこと本当に挟み撃ちされかねない。
 またイチャイチャしているとか嫌味を言われるかとエナガを見たが、エナガは姿勢を低くしたまま先へと進んでいる。
「ごめん……で、何が?」
 小さな声でトワさんに聞き返す。
 トワさんは僕を見つめ――その表情が、窓から入る月の光でやけに物悲しそうに見えて。
 それから目を閉じて、ヒソリとつぶやいた。
「向こうから絶対に気付かれないように、窓の外を見て」
 トワさんの言い方。まさか。
 細心の注意を払い、一瞬だけ向こう側を覗く。
 すぐにしゃがむ。
 今の――見間違えじゃないよな?
 広場に居たのだ。
 瑛祐君の体と、ネイデさん。それからトリーが。
 エナガは知っていたのだろうか?
 それともエナガの大切な人はトリーとは関係ない誰かなのだろうか。
 一瞬だから正確な人数までは把握しきれていない。
 もう一度覗こうとしたら僕の肩を、いつの間にか戻ってきていたエナガがぐっと押さえた。
「馬鹿が。気付かれたら元も子もないんだぞ」
 確かにエナガの言う通りだ。
 ツアー参加者が十三人で、さっき遭った瑛祐君のご両親の体は時間的に戻って合流ってのはまだだろうし、トワさんとエナガまで差し引くと残りは九人。
 トリーたち以外に六人?
 多分そのくらいだったような。
 それなら捕まった三人を解放できれば六対六で対等になるし、エナガは細マッチョだし、僕には手鏡があるしでけっこうなんとかならないか?
「ミラーハウスに連れて行かれる前に解放できれば、今急げば人数的になんとかなるんじゃないのか?」
「勝算はあるのか? チャンスはその一度を逃したらもう二度と訪れない時だってあるんだぞ? それとも何か良いモノでも持っているっていうのか?」
 エナガがするっと口にした「良いモノ」――まさか、手鏡の存在に気付いて?
「あるよ。だから急ごっ!」
 僕が答える前にトワさんが答える。
 なんともいえない不安感。
 それでも身を屈めながら移動を再開する。

 足音にも気をつけつつゾンビロードを下り続ける。
 エナガに言われたからではないが、様々な可能性を考えながら。
 トワさんがもしも敵じゃないとしたら、ネイデさんは解放しても大丈夫。
 ただ、それならどうして今「あるよ」なんて告げたのか。
 トワさんとエナガとの間では既に情報共有されているのか?
 この二人が組んでいたら、しんどいなぁ。
 それに引き換えあの瑛祐君の体なら、中身は本物ではないにせよ協力的な気がしなくもない。少なくとも敵ではないと思える。
 ただ、肉体は小学生だからなぁ。

 立ち並ぶアメリカのミュージシャンや女優や俳優、セレブや政治家やスポーツ選手たちのゾンビに見守られながら、僕らはどんどん下ってゆく。
 とうとう入り口のすぐ手前、当時はチケットもぎりが詰めていたであろう場所まで到着したところで僕らはようやく立ち止まった。
 早鐘のように打つ心臓の音を手のひらで押さえながら息を整える。
 トリー達が集まっている場所までここからまだ何十メートルかある。
 走ったとしても確実に向こうに発見される距離。
 どうやって近づこう。
 口論しているっぽいトリーの声がが聞こえる。
 何を話しているのだろうか。
「おい。ここまで付き合ったんだ。良いモノとやらをとっとと出せよ」
「風悟さん、あたしのバッグ、リュックの中から出して」
 トワさんの小声に、無言で彼女のバッグを取り出して返す。
 持ってみた感じ、トワさんのバッグの中に手鏡はなさげ――代わりに感じたこの固いものは、例のポータブルハードディスクとやらか?
「これ」
 トワさんはバッグを受け取ってすぐ中から何かを取り出した――スタンガン?
「良いでしょ? 一人二人ならこれで無力化できるから」
 本物は初めて見る。
 これって映画とかドラマとかだと簡単に人を気絶させているけれど、本当にあんなに効くもんなんだろうか。
 僕がそのスタンガンとやらをじっと見ていると、横からぬっと手が出てきて、それを奪い取った。
「なるほど。奥の手ね」
 エナガがそれを奪ってすぐ、驚いた表情のトワさんの首筋に、当てた。
「ちょ」
 バチバチッという音と共に眩しい何かが目の前で弾けた。
 何もできないほどあっという間のことだった。
「この女と引き換えに返してもらう」
 エナガはおもむろにトワさんを肩に担ぐ。
 ぐったりとしたトワさんと目が合う。意識は失ってはいないのか?
 とにかく――エナガの肩から無理やりトワさんを引き剥がそうとした僕へ、エナガはスタンガンを向ける。
「いざって時のためにとっておきたい。無駄撃ちさせるなよ」
 ためらいのない目。
「なんで、トワさんを」
「言ったろ。俺にとって大切なのはたった一人。その一人を助けるためなら、どんなことでもする。どんなことでも、だ」
「助けるってことは人質を取られているのか? でもこっちの三人と、あそこで捕まっている三人とが力を合わせれば」
「お前の探している女が、この女と引き換えならば戻って来ると、そう言われてもお前は俺を止めるか?」
 トリーが?
 でもトリーはあそこで――いや。
「約束を守るような相手なのか?」
「力尽くでどうにかなる相手と、そうじゃない相手とが居る。今の俺には、従う他に方法がないんだ」
「だからと言って仲間を」
「それが甘いって言ってんだよ!」
 エナガの声に怒りが戻って来る。
「両方助けるなんてのができないことだってあるんだよ! お前はいったい誰を助けたいんだ? 今助けたいたった一人を諦めて、残りの人生この女と一緒に生きていくのか? この女を助けるために、本当に助けたいとかいう相手がどこでどうなろうと平気だってのか?」
 言葉に詰まる。
 何も言い返せなかった。
「俺はさっき言った通りだよ。その一人を助けるためならなんでもする……だからもし、その一人を取り戻す過程で俺がどうにかなったら……その時は不本意だけどお前に頼るしかないんだ」
 僕に、頼る?
 一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。
 その隙にエナガはもう飛び出していた。ゾンビロードの入り口から広場へと。
 追いかけようとした僕は、すんでの所で立ち止まる。
 今のエナガとのやり取りを、頭の中で反芻しながら。
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