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#3 緑の壁
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少年はじっと僕を見つめている。
ああ、質問に答えなきゃ――僕はトリーの「人が変わった」とき、ちゃんと見抜けるのだろうか。
今までの人生でトリーと交わした会話が無数に脳裏を流れてゆく。
そして気付く。
僕とトリーが今までどれだけの時間を一緒に過ごしてきたかってことに。
「多分、わかると思う。そしてもしも違う誰かがその人のフリをしたとしても、文章を書いてもらえば120%わかると思う。その人の文章はね、他の人のとは違うんだ。僕はその人の文章のファンなんだ」
少年は急に顔を伏せた。
少し肩が震えているようにも見える。
ぽた、という音が足元から聞こえて、僕は彼が泣いていることに気付いた。
何か泣かせてしまうことでも言っただろうか。
「……オレも……わかっちゃったんです。父ちゃんと母ちゃんが、ミラーハウスから出てきたあと、なんか変で。ミラーハウスの二階から見える景色が綺麗だからって……無理やりオレを引っ張って連れてこうとしたんです。父ちゃんも母ちゃんもそんなことする人じゃないのに。でも、それを姉ちゃんが止めてくれて。そしたら父ちゃんたち、今度は姉ちゃんを引っ張り始めて……姉ちゃんはオレに逃げろって……オレは……オレだけ逃げて……」
少年の足元に、ぽたぽたと音が増えてゆく。
僕は甘かった。
このホラーランドの噂は、情報の少なさゆえ検証できる人が現れないがゆえに噂が噂を呼び、好奇心と悪戯心が固まって肥大化した都市伝説みたいなものだと、どこかで高を括っていたような気がする。
でも本当は、そんな場所へ行くことになってしまった自分自身の不安を「都市伝説だから」とごまかそうとしていたんだ。
それが今、目の前にリアルな被害者が現れて、僕はちゃんと向き合わなきゃいけなくなった。
少年のためにも、僕のためにも、そしてきっとトリーのためにも。
「僕はここへ来る前、ここについてちょっと調べたんだ。ミラーハウスの噂の中に、元に戻った人も居たってのがあったんだよ。だから……方法はまだわからないけれど、君のご家族を助ける方法も見つけられるかもしれないって僕は思うんだ」
僕の言葉が彼をどれだけ力づけることができたかはわからない。
でも少年の足元に落ちる音は次第に数を減らし、やがて彼は再び顔をあげた。
さらに僕の手を取ると、ぶんぶんと振った。
「そうだ! おにいさん、覚えておいて。ミラーハウスから出てきた父ちゃんと母ちゃん、なんか無表情だった。目と口は動いているのに、それ以外はまるで動いてなくって……むちゃくちゃ気持ち悪かった」
「それ、重要なヒント」
だね、と言いきるつもりだったけど、少年が僕の手をつかんだまま急にしゃがみ、僕は思わず前のめりに倒れそうになった。
とっさに伸ばした手は生い茂る下草の中に柔らかく埋没する。
なんとか少年にはぶつからずに済んだようだが、こんもり茂った草が口の中に入ってしまった。
なにがあったのか聞こうと草をぺっと吐き出したとき、僕の唇に何かが触れた。
「しっ」
それは少年の指だった。
静かにってことは――まさか、ヤツラ?
あの門を見張っていた誰かが僕らに気付いて追いかけてきた?
草と土の匂いの中、地面近くに伏せ、視界は草で遮られている僕にできることはただ耳を澄ますことくらい。
息を潜めて意識を遠くへと伸ばすと、離れた場所の音までもがよく聞こえてくる――ような気がする。
だけど草を踏みしめる音も、下草を足で薙ぐ音も、落ちた枝を踏んづけて折る音も今は聞こえない。
あれ?
聞こえないことに気付いたのは、その時だった。
さっきまで辺りをあんなに力強く支配していた蝉の声が、いつの間にかまったく聞こえなくなっている。
ただの一匹すらも鳴いていない。
音が聞こえないということがこんなにも不安に感じるなんて。
まるで着ていた服を全部剥ぎ取られたかのような心細さ。
それだけじゃなかった。
こめかみあたりがジンジンと痛み出す。
頭を激しく回しているような感覚――体はまったく動かしていないというのに。
これは目眩?
地面が次第に回りはじめてくる――ぐわんぐわーんと。
なんだ? 何かが近くに居る?
音が近づいてくるのとは違う。
ラジオのチューニングを合わせているみたいに、そこにもともとあった音が聞こえるようになったというか。
フッ、フッ、フッという息使い。
低い唸り声のような音も混ざっている。
それもすぐ近くに。
音に続いて臭いも次第にはっきりと感じるようになる。
獣の臭い。
それがあまりにも近くて、思わす上半身を起こしてしまった。
灯りを点けて確認したいところだが、状況的にそれはまずいだろう。
マグライトを棍棒のように構えて辺りを警戒する。
不意に二の腕をがばっとつかまれた。
情けない声が出そうになるのを必死に喉の奥で抑える。
鳥肌が広がる腕に体温を感じ、恐る恐る横目で見ると、少年がしがみついていた。
ガタガタと震えているのが伝わってくる。
そうだよな。大人の僕がしっかりしないでどうするんだ。
誰かに頼られると不思議と冷静になれる。
まず、さっき感じた獣臭さが草の匂いの中に消えてしまったことに気付いた。
そして目眩が治っていることにも気付く。
もうあのフッ、フッ、フッという息使いは聞こえない。
どこかへ去って行ったのか、それとも最初から何も居なかったのか。
どちらにしてもこんな場所には長居は無用だ。
なので小声で提案してみることにした。
「ここから移動しない?」
ヤツラにせよ、得体のしれない獣にせよ、遭遇しないで済むならそれに越したことはない。
すると少年は震える小声で返事を絞り出してきた。
「フェンスの、向こう側に……光が、二つ、見えたんです……それで、とっさに……隠れた……んです」
彼の言う灯りには、僕もすぐに気が付いた。
フェンスの上部を時折、光がすっと通り過ぎている。
これだけもっさりと茂ったフェンス越しに見つかってしまう確率は低いとは思うけれど、用心するに越したことはない。
「照らし方からすると、僕らが居ることがバレている感じじゃなさそうだね」
「みんな無事かな……」
「皆? 他にも逃げている人が居るの?」
その中にトリーも居るのか?
「ツアーに参加した人は全部で十三人です。さっき話したミラーハウスで姉ちゃんがさらわれるとき、オレ、叫んでたんです。そしたら何人か集まってきて……その中にツアーを企画したコヌマって人も居て、オレ、言ったんです。父ちゃんと母ちゃんがおかしくなって、姉ちゃんをミラーハウスに連れてこうとするんです、って。そしたらコヌマ、無表情でオレの手を急につかんだんです。オレ、とっさにコヌマの股間蹴ったんです。そしたら手を放したからすぐに逃げ出したんです。『こいつらおかしい!』って叫びながら。コヌマは股間抑えてんだけど、顔は無表情のままでむちゃくちゃ怖かったです」
おいおいおい。
ツアー主催者さえもおかしくなっちゃってるのかよ。
「走って逃げている途中、緑の壁の近くで急に『こっち』って声が聞こえたんです。それでその壁から黒い手が出てきて手招きしてて」
調べた噂の中には確か白い手がどうこうってのはあったような気がしたな。今度は緑の壁の黒い手だって?
まったく次から次へと。
「オレ、その手、見覚えあったから、近づいたんです。そしたら緑の壁の中に引っ張られて」
見覚え?
「緑の壁の中に? だ、大丈夫……だったんだよね。今ここでしゃべっているってことは」
「フェンスの向こうに大きな緑の壁があるじゃないですか」
「あ、もしかして、フェンスの向こうのって、あの黒い大きな壁?」
「はい。今は暗いけど昼間見ると緑の壁なんです。あれ、猿の電車の線路を支えてるところで、植物が巻き付いて壁みたいに見えるんだけど、中は空洞で人が歩けるようになってて、駅と駅の間は移動できるんです」
猿の電車ってのはホラーランドの敷地をほぼ外周に沿って一周しているアトラクションのことだろう。
正式名称はクレイジー・モンキー・トレインなんだけど、長いからかな、ネットでも皆「猿の電車」って言っていたな。
「じゃあ、そこに先に隠れていた人が、黒い手だったってこと?」
「はい。ゴスロリっていうファッションなんだって。綺麗なお姉さんで、黒い長い手袋してたんです。あと、目を片方隠している人も黒い服着てました」
黒い手が怪異ではないことにひとまずホッとする。
ミラーハウスに見えない獣にと立て続けだったから、その手の話題にはちょっと過敏になり過ぎていたかも。
そして新たな登場人物が二人。
特徴を聞く限りどちらも濃い人っぽいが、トリーではない。
トリーは無事なんだろうか。
もしも出張の延期が前日のうちに分かっていたら、僕は今頃トリーと一緒に逃げられていたのだろうか。
いや、今は無事で居る人たちと力を合わせる方が先だな。
超常現象的なものか、それともSFちっくなものか、はたまた現実的に催眠術みたいなものか、ヤツラってのが何かはわからないけれど、味方は多いに越したことはない。
「無事を祈ろうよ」
そう口にはしつつも、見回りしているヤツラが二人という人数なことに、胸がざわついてしまう。
ああ、質問に答えなきゃ――僕はトリーの「人が変わった」とき、ちゃんと見抜けるのだろうか。
今までの人生でトリーと交わした会話が無数に脳裏を流れてゆく。
そして気付く。
僕とトリーが今までどれだけの時間を一緒に過ごしてきたかってことに。
「多分、わかると思う。そしてもしも違う誰かがその人のフリをしたとしても、文章を書いてもらえば120%わかると思う。その人の文章はね、他の人のとは違うんだ。僕はその人の文章のファンなんだ」
少年は急に顔を伏せた。
少し肩が震えているようにも見える。
ぽた、という音が足元から聞こえて、僕は彼が泣いていることに気付いた。
何か泣かせてしまうことでも言っただろうか。
「……オレも……わかっちゃったんです。父ちゃんと母ちゃんが、ミラーハウスから出てきたあと、なんか変で。ミラーハウスの二階から見える景色が綺麗だからって……無理やりオレを引っ張って連れてこうとしたんです。父ちゃんも母ちゃんもそんなことする人じゃないのに。でも、それを姉ちゃんが止めてくれて。そしたら父ちゃんたち、今度は姉ちゃんを引っ張り始めて……姉ちゃんはオレに逃げろって……オレは……オレだけ逃げて……」
少年の足元に、ぽたぽたと音が増えてゆく。
僕は甘かった。
このホラーランドの噂は、情報の少なさゆえ検証できる人が現れないがゆえに噂が噂を呼び、好奇心と悪戯心が固まって肥大化した都市伝説みたいなものだと、どこかで高を括っていたような気がする。
でも本当は、そんな場所へ行くことになってしまった自分自身の不安を「都市伝説だから」とごまかそうとしていたんだ。
それが今、目の前にリアルな被害者が現れて、僕はちゃんと向き合わなきゃいけなくなった。
少年のためにも、僕のためにも、そしてきっとトリーのためにも。
「僕はここへ来る前、ここについてちょっと調べたんだ。ミラーハウスの噂の中に、元に戻った人も居たってのがあったんだよ。だから……方法はまだわからないけれど、君のご家族を助ける方法も見つけられるかもしれないって僕は思うんだ」
僕の言葉が彼をどれだけ力づけることができたかはわからない。
でも少年の足元に落ちる音は次第に数を減らし、やがて彼は再び顔をあげた。
さらに僕の手を取ると、ぶんぶんと振った。
「そうだ! おにいさん、覚えておいて。ミラーハウスから出てきた父ちゃんと母ちゃん、なんか無表情だった。目と口は動いているのに、それ以外はまるで動いてなくって……むちゃくちゃ気持ち悪かった」
「それ、重要なヒント」
だね、と言いきるつもりだったけど、少年が僕の手をつかんだまま急にしゃがみ、僕は思わず前のめりに倒れそうになった。
とっさに伸ばした手は生い茂る下草の中に柔らかく埋没する。
なんとか少年にはぶつからずに済んだようだが、こんもり茂った草が口の中に入ってしまった。
なにがあったのか聞こうと草をぺっと吐き出したとき、僕の唇に何かが触れた。
「しっ」
それは少年の指だった。
静かにってことは――まさか、ヤツラ?
あの門を見張っていた誰かが僕らに気付いて追いかけてきた?
草と土の匂いの中、地面近くに伏せ、視界は草で遮られている僕にできることはただ耳を澄ますことくらい。
息を潜めて意識を遠くへと伸ばすと、離れた場所の音までもがよく聞こえてくる――ような気がする。
だけど草を踏みしめる音も、下草を足で薙ぐ音も、落ちた枝を踏んづけて折る音も今は聞こえない。
あれ?
聞こえないことに気付いたのは、その時だった。
さっきまで辺りをあんなに力強く支配していた蝉の声が、いつの間にかまったく聞こえなくなっている。
ただの一匹すらも鳴いていない。
音が聞こえないということがこんなにも不安に感じるなんて。
まるで着ていた服を全部剥ぎ取られたかのような心細さ。
それだけじゃなかった。
こめかみあたりがジンジンと痛み出す。
頭を激しく回しているような感覚――体はまったく動かしていないというのに。
これは目眩?
地面が次第に回りはじめてくる――ぐわんぐわーんと。
なんだ? 何かが近くに居る?
音が近づいてくるのとは違う。
ラジオのチューニングを合わせているみたいに、そこにもともとあった音が聞こえるようになったというか。
フッ、フッ、フッという息使い。
低い唸り声のような音も混ざっている。
それもすぐ近くに。
音に続いて臭いも次第にはっきりと感じるようになる。
獣の臭い。
それがあまりにも近くて、思わす上半身を起こしてしまった。
灯りを点けて確認したいところだが、状況的にそれはまずいだろう。
マグライトを棍棒のように構えて辺りを警戒する。
不意に二の腕をがばっとつかまれた。
情けない声が出そうになるのを必死に喉の奥で抑える。
鳥肌が広がる腕に体温を感じ、恐る恐る横目で見ると、少年がしがみついていた。
ガタガタと震えているのが伝わってくる。
そうだよな。大人の僕がしっかりしないでどうするんだ。
誰かに頼られると不思議と冷静になれる。
まず、さっき感じた獣臭さが草の匂いの中に消えてしまったことに気付いた。
そして目眩が治っていることにも気付く。
もうあのフッ、フッ、フッという息使いは聞こえない。
どこかへ去って行ったのか、それとも最初から何も居なかったのか。
どちらにしてもこんな場所には長居は無用だ。
なので小声で提案してみることにした。
「ここから移動しない?」
ヤツラにせよ、得体のしれない獣にせよ、遭遇しないで済むならそれに越したことはない。
すると少年は震える小声で返事を絞り出してきた。
「フェンスの、向こう側に……光が、二つ、見えたんです……それで、とっさに……隠れた……んです」
彼の言う灯りには、僕もすぐに気が付いた。
フェンスの上部を時折、光がすっと通り過ぎている。
これだけもっさりと茂ったフェンス越しに見つかってしまう確率は低いとは思うけれど、用心するに越したことはない。
「照らし方からすると、僕らが居ることがバレている感じじゃなさそうだね」
「みんな無事かな……」
「皆? 他にも逃げている人が居るの?」
その中にトリーも居るのか?
「ツアーに参加した人は全部で十三人です。さっき話したミラーハウスで姉ちゃんがさらわれるとき、オレ、叫んでたんです。そしたら何人か集まってきて……その中にツアーを企画したコヌマって人も居て、オレ、言ったんです。父ちゃんと母ちゃんがおかしくなって、姉ちゃんをミラーハウスに連れてこうとするんです、って。そしたらコヌマ、無表情でオレの手を急につかんだんです。オレ、とっさにコヌマの股間蹴ったんです。そしたら手を放したからすぐに逃げ出したんです。『こいつらおかしい!』って叫びながら。コヌマは股間抑えてんだけど、顔は無表情のままでむちゃくちゃ怖かったです」
おいおいおい。
ツアー主催者さえもおかしくなっちゃってるのかよ。
「走って逃げている途中、緑の壁の近くで急に『こっち』って声が聞こえたんです。それでその壁から黒い手が出てきて手招きしてて」
調べた噂の中には確か白い手がどうこうってのはあったような気がしたな。今度は緑の壁の黒い手だって?
まったく次から次へと。
「オレ、その手、見覚えあったから、近づいたんです。そしたら緑の壁の中に引っ張られて」
見覚え?
「緑の壁の中に? だ、大丈夫……だったんだよね。今ここでしゃべっているってことは」
「フェンスの向こうに大きな緑の壁があるじゃないですか」
「あ、もしかして、フェンスの向こうのって、あの黒い大きな壁?」
「はい。今は暗いけど昼間見ると緑の壁なんです。あれ、猿の電車の線路を支えてるところで、植物が巻き付いて壁みたいに見えるんだけど、中は空洞で人が歩けるようになってて、駅と駅の間は移動できるんです」
猿の電車ってのはホラーランドの敷地をほぼ外周に沿って一周しているアトラクションのことだろう。
正式名称はクレイジー・モンキー・トレインなんだけど、長いからかな、ネットでも皆「猿の電車」って言っていたな。
「じゃあ、そこに先に隠れていた人が、黒い手だったってこと?」
「はい。ゴスロリっていうファッションなんだって。綺麗なお姉さんで、黒い長い手袋してたんです。あと、目を片方隠している人も黒い服着てました」
黒い手が怪異ではないことにひとまずホッとする。
ミラーハウスに見えない獣にと立て続けだったから、その手の話題にはちょっと過敏になり過ぎていたかも。
そして新たな登場人物が二人。
特徴を聞く限りどちらも濃い人っぽいが、トリーではない。
トリーは無事なんだろうか。
もしも出張の延期が前日のうちに分かっていたら、僕は今頃トリーと一緒に逃げられていたのだろうか。
いや、今は無事で居る人たちと力を合わせる方が先だな。
超常現象的なものか、それともSFちっくなものか、はたまた現実的に催眠術みたいなものか、ヤツラってのが何かはわからないけれど、味方は多いに越したことはない。
「無事を祈ろうよ」
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