闇鍋【一話完結短編集】

だんぞう

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【怪談】ハロウィンのオジサン

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 その視線に気づいたのは、上司への報告をメールで済ませた直後のことだった。
 俺は普段、電車では座らない主義なのだが、メールに添付しなきゃいけない資料がノートパソコンの中に入っているのと空いているのとで、珍しく座っていた。
 その真正面に座っている男が、さっきからずっと俺の顔をチラチラと見ていたようなのだ。
 年齢は四十代後半くらいか。ただ、うちのお客様にはあんなくたびれた格好をしている方はいらっしゃらないとは思うが……目が合った途端、男は軽く頭を下げる。やっぱりお客様なのかな……いや、でも見覚えが……あ!
 思い出してしまった勢いで、俺は思わず会釈を返してしまう。男は途端にホッとした表情を浮かべ、俺の隣へと移動してきた。俺はノートパソコンを鞄にしまいながら、男の顔を見つめる。肌の白さの中、ヒゲの剃り残しが妙に目立つ。

「あの、覚えていらっしゃるでしょうか」

 声を聞いて完全に思い出した。間違いない。去年のハロウィンに渋谷で出遭ったオジサンだ。

「去年のハロウィンで遭った……」

「そうです。僕です」

 あの日、オジサンが俺に話してくれたことは、嘘にせよ本当にせよ、インパクトがあり過ぎて、一言一句とまでは言わないけれど、けっこうしっかりと覚えている。特に印象的だったのは、別れ際の言葉だ。

『僕の顔、仮面というか、その逆というか、とにかくこの顔は僕の顔なのに、僕の顔じゃないんです』

 この言葉のせいで、名前も知らないこのオジサンのことを、あれからも時々考えていた。
 ふと、俺へ向けられている視線が増えているのを感じ、さりげなく車内の様子を伺う。
 他の客も半分以上こちらをチラ見しているようだ。
 世の中どうして野次馬がこうも多いのか。タイミングよく次の駅に着いたのを幸いと、俺はオジサンと一緒に電車を降り、駅近くのカラオケへと移動した。

 そういえば、ハロウィンの日に男と遭った時も、こうやって人の目を避け、カラオケへと入ったんだっけ。

 あの日、客先にどうしても行かなくてはならない用事なんてのがなければ、ハロウィン当日の渋谷になんて足を踏み入れたくはなかった。
 駅前はもう既にテンションの上がった仮装者達で賑わっていて、混雑した道をなかなか前に進めない俺は少しイラついていた。そんな時だった。このオジサンとぶつかったのは。
 あんな人混みで誰かとぶつかることなんて珍しいことではなかったし、「すみません」と謝ってすぐに先へ進もうとしたのだが、俺はつい立ち止まってしまっていた。オジサンが泣いていたからだ。仮装なんてしていない、四十代後半くらいのくたびれたオジサン。もしかして有名人でこういう恰好で泣いていた人が居て、そのコスプレでもしているのかと一瞬思いはしたが、どうやらそういうわけでもないようだった。

「どうしたんですか」

 なぜか、気になってしまったんだよな。オジサンなのに、捨てられた犬みたいな目をしてるんだよ。しかも声こそ抑えているものの、ガチ泣きしている。やがて俺たちの周りにギャラリーが増えだし、携帯カメラを向けようとする輩まで現れた。
 俺はオジサンを連れて人が出来るだけ少ない路地へと移動し、目についたカラオケへと避難した。これ、見る人が見たらゲイのカップルの痴話ゲンカだよなぁ、なんて考えながら。

「どうしたんですか」

 俺はもう一度、オジサンに問いかけた。オジサンは泣くのを必死にこらえようとしているようだ。時計を見ると、約束の時間まではまだ一時間はある。渋谷の混雑を見越してちょっと早めに出てきてよかったというか、しかし何してんだ俺は……何でこのオジサンのことがそんなに気になるのか、その時の俺にはまだわからなかった。

「……空が、好きだったんです」

 唐突にオジサンは話し始めた。俺は、相槌を打ちながら、オジサンの話を静かに聞くことにした。

「僕は、あの廊下から見る空が好きだったんです。中学校のですね、自分の教室前の廊下から見る空なんですけれど。その頃の僕は背がそんなに高くなかったから、窓に背を向けて、窓枠に肩でよりかかるようにして、こう……のけぞるようにして、窓を開けた隙間へ後頭部を出して……そうすると、視界が空だけになるんですよ。正確には廊下の天井や窓枠なんかも見えているんですけれど、それ以外は本当に空だけです。何もない広い外で空を見るのとは違って、なんかその、微妙に切り取られた空が不思議と好きだったんです。それで、休み時間のたびにその場所で空を見ていたんですけれど……クラスメイト達にとってはそんな僕は恰好のオモチャだったみたいで、空を見ている僕をつついたり、くすぐったり、消しゴムを投げてきたリ、まったく落ち着ていて見られなかったんです」

 男の目じりにうっすらとシワが寄る。思い出し笑いってほどではない。思い出し微笑みと言ったところだろうか。語呂は悪いけれど。

「だから休み時間じゃなく放課後、皆が下校したり部活に行ってしまってから、空を見るようにしたんです。誰にも邪魔されない時間はすごく良かったと思いました。でも、放課後にも、そのうち邪魔が入るようになったんです」

 クラスメイトの次は教師かな、と思った俺の予想は外れた。

「声がね、したんです。僕は周りを見渡しました。でも誰もいません。空耳かなと思って、その時はあんまり気にしませんでした。でも、翌日からも、声は聞こえたんです」

 姿が見えない声だけの存在……。俺はオジサンの話にますます耳を傾けた。

「日が経つにつれ、声は次第にはっきりと聞こえるようになりました。もちろん誰もいないし、そんな耳元に音が聞こえるような何かを、クラスメイトが持っているとも思えないし。でも不思議と怖くはなかったんです。その声が『この空』って言っていたからです」

 注文していた烏龍茶が届く。オジサンは俺に頭を下げると烏龍茶をストローですすり、そしてまた話を再開する。

「僕は声が『この空』って言うたび『僕はこの空が好きなんだ』って心の中で答えてました。もしかしたら、空の妖精みたいなのが居て、僕の好意に気付いたのかもなんて思いもしました」

 中学生当時の話だったとしても、ちょっと痛いかもな、このオジサン。

「そのうち声のしゃべることが増えたんです。『この空』の他に『特別』って言い出して、僕はますますその声に親近感を持ったんです。僕のお気に入りの場所を、空を、共有している仲間というか、そんな気持ちでいたんです」

 このあたりではもう、俺はどうしてこんなオジサンのために時間を使おうと思ってしまったのか、自分を責め始めていた。

「その仲間意識にすっかり慣れ始めた頃なんですけれど……僕はぼーっとしていることが多くなったみたいで、両親や先生なんかによく怒られるようになりました。あの日も、そうやってぼーっとしてて、先生に怒られて……廊下に立たされたんです。本当はちゃんと立っていなきゃいけないのに、あの空が見たくなって、いつもの方法で空を見上げたんです。そうしたら空が……昼間なのに変に赤くって……それを見た僕は、あの声の『特別』っていう声をなぜか思い出したんです。そしたら『そうだ』って声が聞こえて……あの声です。それから聞こえたのは声だけじゃなく、飛行機が飛ぶ音でした。それから花火の音がたくさん聞こえ始めて、それからすぐです。赤い空の中に飛行機の形が見えて、そこから小さい点がたくさん落ちてきたんです。僕がもしかしてと思ったら、声が答えてくれたんです。『爆弾だ』って。逃げなきゃって思ったんだけど、なぜか体が動かなくて。金縛りってやつなのかもしれません。とにかく僕は、必死に体を動かそうとしていて、でも爆弾はどんどん近づいてきて、それからものすごい勢いで体を揺さぶられました」

「それで、どうなったんですか?」

 思わず尋ねてしまった。オジサンの語る迫力に、俺はいつの間にか、聞き入っていたんだ。

「……実は、よくわかりません。覚えていないんです。ぼーっとすることが多いって言ったじゃないですか。僕はもう本当に長いこと、ぼーっとするようになっていて、授業を受けているはずなのに気が付いたら下校していたり、朝ごはんを食べていたはずなのに気が付いたら風呂に入っていたり……いつの間にか季節が過ぎるのも早くなって……そしてあの日。忘れもしない十五歳の誕生日のことです。僕の目の前にはバースデーケーキがあって、両親が居て、ろうそくの火を吹き消したんです……でも、火が消えてなくってケーキも違うケーキになっていて、両親の代わりに僕の妻と子どもが居たんです。もちろん、妻だとか子どもだとか、そんなことがわかったのはちょっとしてからです。僕はパニック状態でした。その家を飛び出すと、そこは見知らぬ家だったし、そもそも知らない町だったし、僕は人の多い方へ多い方へと歩いて行って、そして交番にかけこみました。自宅の電話番号を伝えると、お巡りさんは自宅にかけてくれて……そして父が迎えにきてくれました。でも、その父も、とても歳を取っていて……冗談だと思っているでしょう? でも、考えてみてください。三十年ですよ? 三十年、僕じゃない僕が、僕の体を三十年も使っていたんですよ?」

 大きい、腹の底から絞り出したような声だった。
 オジサンの大きく見開かれた目からは、さっき以上にぽろぽろと涙がとめどなくあふれている。
 俺はかけられる言葉を見つけられず、そんなオジサンをただただ見つめているだけ。もしも俺をからかっているのだとしたら、このオジサンは相当な役者とか芸人とかなんだろう。

「ごめんなさい。老いた両親も、僕が知らない間に妻になっていた人も、息子も、全然信じてくれなくて……かつてはクラスメイトだったヤツも何人かは会えたんだけど、みんな、僕がぼーっとしている間に僕に成り代わっていた誰かと仲良くなっていて……だから、見ず知らずのお兄さんの方がずっとずっと安心してしゃべれるっていうか……ごめんなさい」

 俺はオジサンよりどう見ても年下なんだが、オジサンにとっては俺の方が年上に見えるのか。もしも演技だとしたら、相当芸が細かいな。
 そしてそのすぐあとだった。あのセリフを言ったのは。

「だから僕の顔、仮面というか、その逆というか、とにかくこの顔は僕の顔なのに、僕の顔じゃないんです。三十年も誰かに奪われていて、その間にすっかり僕のじゃない顔にされちゃって……ごめんなさい。変な話をして。話したらスッキリしました。実は途方にくれていたんです。自分なのに自分じゃないっていう違和感に悩んでいたから、テレビで仮装している人が居るっていうのを聞いて、少しは気が紛れるかもって渋谷まで来てみたけれど、周りの人は楽しそうで。僕は楽しくないどころか、自分の顔が自分じゃないのに、この人たちはメイクを落としたら自分に戻れるんだよなって考えたら、ものすごく悲しくなっちゃって……お兄さん、烏龍茶、ごちそうさまでした」

 オジサンはそう言ってフラフラと出て行き、俺は慌てて客先へと走った……それがあの日の記憶。
 何の因果か、あの時と同じようにカラオケに、俺とオジサンは向かい合わせで座っている。

「あれから、どうしたんですか?」

 妻や子どもがどうなったのか、俺は気になっていた。するとオジサンはまた目じりにシワを寄せる。憂いとも自嘲ともとれるような、暗い笑顔。

「僕の実の両親と妻とは、この僕を悪霊か何かだと思ったみたいで、霊を祓う力がある人の所に連れて行かれたんですよ。そしたらその人は本当に力のある人だったみたいで、祓ってくれたんですよね……僕の三十年を奪ったあいつを……あいつが離れる瞬間にわかったんです。あの声の人でした。あの声の人は当時の僕と同い年で、学校があったあの場所で、戦争中に空襲で落とされた爆弾で死んだんだってことが、わかったんです。僕があの日に見た赤い空のあのシーンです。でも、わかったのはそれだけです。あの声の人が僕の体でどうやって生きてきたのかは何もわからないんです。どうやって卒業して、どうやって就職して、どうやってあの妻の人と知り合い、どうやって結婚し、どうやって息子が生まれ、どうやって暮らしてきたのか。全くわからないんです」

 オジサンの目にはまた涙が浮かんでいた。俺の心も強く痛む。

「仕事もまったくわからなくてクビになりました。妻や息子とは何度か話し合ったけれど、結局理解してもらえず離婚しました。僕の知らない僕の話しかしない老いた両親と一緒に住むのは苦痛でしかないけれど、僕はまだ一人では暮らしていけないですし……でもなんとか今は、こんな僕にも出来る仕事を見つけて、古本屋で買った高校の教科書を見ながら一人で勉強しています。僕は高校を出た記憶がないのに、記録としては地元の公立高校を出ているみたいで、夜間高校にすら入れてもらえないみたいなんです。取り戻そうとすることすら、許されないんですよね」

 オジサンは涙を拭って、吐き出すように言った。

「あの声の人じゃなく、僕の方が祓われれば良かったのかもしれない。本当に、今は、あの声の人に戻ってきてほしいと思っています。僕の家族だと言う人を、僕は幸せにできない。僕は見ず知らずの他人だから」

 俺は無言でオジサンを見つめている。

「ありがとう。お兄さんにまた助けられました。誰かに話すって薬みたいです。心が楽になります。出来ればまた、会って話を聞いてもらいたいです」

 そんなことを言ってくれたオジサンだったけれど、俺たちは連絡先を交換せずに駅前で別れた。
 別れたあと、俺は一人でカラオケへと戻る。
 しんどくて、長椅子に横たわる。
 オジサンの顔が浮かぶ。
 三十年か……長いよな。自分の時間が奪われるということがどれほどのことか、眠れなくなるくらい、何度も考えた。それでも俺は、今、無難に過ごしてこれたこの十年を手放せないでいる。あと何年、こんな生活が続くのかわからない。出て行く方法がわからないからと、自分を誤魔化し続けていたけれど、そうか、祓われるってことがあるのか。いやいっそ、その方が楽なのかもしれない。
 でも、俺には……愛する妻と、産まれたばかりの娘が、もう居るんだ。



<終>
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