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【ファンタジー】usagi
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「あんた! 遅刻するよ!」
掃除機の音が耳元に迫り、私は慌てて飛び起きた。
妻が、吸引力が売りの強力な掃除機を引きずりながら私の書斎の入り口で仁王立ちになっている。いや、書斎というよりはもはや物置。納戸。ちょっと広い押し入れと言っても過言ではない。そのごったごたの空間の中で、私の持ち物なんて一割にも満たない。布団ごとここに押し込まれた「荷物」のひとつである私自身を含めても、だ。
いつから、こうなってしまったんだろうか。
妻と二人で使っていた寝室はいつの間にか妻が独占し、そもそも私を「夫婦の寝室」から追い出した理由でもあった「よく使う」ハズの健康器具の数々も当然のようにここにある。
ああ、布団をまっすぐに敷きたいというのは過ぎたる願いなのだろうか。たまには四隅をぴんとのばした布団で。
「あんたっ! 聞こえているのかいっ!」
「は、はぃぃぃ」
急いで出勤の準備をする。布団の下から寝押ししたスーツを出し、ぶさらがり棒にかけてある5つのハンガーからワイシャツを一着選んで着る。こんな環境であっても私は幸せだ。それは昨日、娘が久しぶりに私に笑顔を向けてくれたから。普段はめったに口もきいてくれないのに、なんと向こうから話しかけてもくれたのだ。
『オヤジさぁ、なんかその布団くしゃくしゃでレタスみてぇ。オヤジは頭のてっぺんつるんとしてるからフランクでさ。ほらぁ、ホットドッグみたいじゃん。超ウケるんですけど』
娘の笑顔を噛み締める。
「何度言わせんのっ! ああん? 起きてるならちゃっちゃと出てきなさいよっ」
「はいぃっ。すみませんっ!」
妻が掃除機の轟音を再び響かせる中、私はカバンを持って書斎から走り出た。カバンの中に手をつっこみ、シェーバーの電池残量を確認する。
「ちょっと! 今、家の中で電源入れた? ヒゲが飛ぶんだから外でしなさいって言ったわよね?」
「ごめんなさい。あの、その、電池残量をですね」
「あんたの顔なんて誰も見てないわよ。ほら、さっさと行かないと駅のトイレでヒゲ剃る時間なくなるよっ」
「すみません。行ってきます」
妻に口答えしようものなら、あの悪魔のような吸い込み口で私の繊細な頭髪を根こそぎ奪おうとするのだ。私の貴重なアイデンティティを。自分を偽らない、というのが矜持の私にとって、カツラは決して選ばない選択肢。だからこそ、どんなに劣勢な状況に追い込まれようと、私は最後の一兵卒まで毛根を見捨てない。
階下に下りて行くと、息子が洗面所を使っている。そこに私の歯ブラシはない。家族にのけ者にされたわけじゃない。私は職場で歯を磨く主義なのだ。なぜなら私は接客業。口臭を出来る限り押さえるため、職場で日に五回は歯を磨く。少しでもお客様のために。それが私の、いや私が勤めるスーパーのモットーなのだ。
私が勤めているのは、さほど大きくないスーパー。私はそこの食品売り場主任兼企画係チーフ。この不況の中、次々と目玉企画を打ち出し集客をうながさないといけない。私に与えられた任務は重要だ。とは言え、なかなか売り上げが伸びない現状。ボーナスの額も同様に低迷している……だが私はずっとその任をまかされ続けている。それだけ期待されているということなのだ。
だからこそ、昨日も徹夜までして考えていた。新しい「目玉」を。
「親父さぁ、そこウロチョロされっと髪型に集中できねぇんだ」
息子は、毎朝髪型をキメるのに時間をかける。今は男性も身だしなみに気を使う時代だと実感する。自慢するわけじゃないが息子はお洒落で、私とは違い女友達も多いらしい。
可愛らしい娘、かっこいい息子、そして家のことを全て任せられる頼もしい妻。この家族たちを、私が、守るのだ。多少の小言や愚痴は受け止める。それが一家の大黒柱たる私の役目。
駅までの道を早歩きしながらネクタイを締める。コツをつかめば鏡などいらないものだ。最後の位置の調整だけ駅のトイレですればいい。こうやって複数の作業を同時にすることは脳に良いのだ。その上、ともすれば流しそうめんのように流れてゆく朝のあわただしい時間を、有効利用していることにもなる。工夫。そう、工夫は大事。目玉企画も工夫で乗り切らなくては。
考え事をしていたせいか、すぐ近くまで自転車が接近していることに気づかなかった私は危うく轢かれそうになる。転んだ私を見下ろす女子学生が、スカートをサドルへ慌てて押さえつけながら走り去る。なんなんだアレは。自分が原因作って人を倒しておいて痴漢扱いか! 嘆かわしい!
「謝る」という、とてもシンプルで簡単なことを、どうして出来ないんだ?
その時、背後からクスクスと笑い声が聞こえる。振り返ると小学生の男の子が何人か……。
「すげっ! もろバーコードっ!」
「ちげーよ。あれ、地面に転がっているから横断歩道だって」
失礼なっ! しかもそれで上手いこと言ったつもりか? 君らだっていずれこうなるのだ。君らが貶めているのは未来の自分だぞ……まったく。
想像力を失った人々にため息をつく。いつから、こんな寒い時代になってしまったというのか。
いや、それでも私は行かねばならぬ。スーツについた汚れをはらい、カバンをつかんで立ち上がり、また歩き出す。
怒っちゃダメだ。きっと、あの子たちは、会話のない家庭で、コミュニケーション能力を磨かないまま育ったんだ。可哀想な子達なんだ。いけない。そんなんじゃ、いけない。今の日本を変えなきゃいけない。それも食卓から! ……そうだっ。コミュニケーションのある食卓! うーむ。これは何かいけそうだ。
不意に、脳裏に自分の家族の姿が浮かぶ。いや、うちには団欒がある。妻も娘も息子も皆、楽しそうに食卓を囲んでいる……ただ、私が仕事で遅くなってその団欒に間に合わないだけ、なのだ。頭の中に浮かんだもやもやを、振り落とそうと、意識を食卓に集中する。コミュニケーション……そう、コミュニケーション……ああっ、あれはっ!
私は改札にたどり着いたとき、いつも乗る電車がホームに着いていることに気づいた。最後の階段を猛ダッシュする。くっ、も、もう少しだ……待ってぇぇぇ。
ホームに着いたとき、見えたのは電車が行ってしまった姿……コミュニケーション失敗か。いや違う。そういうことじゃないっ。
私の最寄り駅は、各駅停車しか止まらない駅。そのせいか朝の通勤時間帯と言えども一本逃すと次の電車が来るのは十一分後だ。わき腹が痛い。ちょっと走っただけだというのに……大田原吾郎、四十九歳。ずいぶんと体にガタが来たものだ。
なんでだろうか、急に視界がぼやける…………涙? 私は、泣いているのか? いい歳して。 こんな公衆の面前で……急いでハンケチで顔をぬぐう。そして、その場から逃げ出すように、目の前に開いたドアに飛び乗った。
ん?
車内の混雑状況が、全く違う……というかさっきから十一分も経っているのか? ハンケチをポケットに押し込み、周囲を見渡すと……車窓の景色が、いつもとは違う……反対方向の電車に乗ってしまったようだ。
どどど、どうしよう。
いや、そりゃ、出社したくない気持ちもあった。でもそんなことしちゃ社会人として失格だろう。次の駅で降りなきゃ……だけど、次の駅までは座ろうかな。一駅分だけ……これはきっと、頑張る私に神様が与えたもうたごほうびなのだ。
おそるおそる、私は腰掛ける。一車両に、数人しか乗っていない電車。別に誰に遠慮するようなことでもないのだが、それでも、私にとっては大きな第一歩なのだ。朝の通勤電車で「座る」ということがどれほどの幸せであることか……私は三十年近く働いてきて、その幸せをまだ知らないのだから。
ふわり、と、お尻を、柔らかさが受け止める。
これが「朝座り」かっ! すごい! 感動だ! しかも足を伸ばしたって誰の迷惑にもならないんだ!
そうやってくつろいで伸びをしていたから、なのかもしれない。降りなきゃいけない次の駅にはいつの間にか到着済で、しかも気づいた時にはもう扉は閉まりかけていた。
「あ!」
走れば間に合ったのかもしれない。だが、私は降りることが出来なかった。自分の深層心理の中にある、いま暴走しつつある秘密の願望が、私を、この空いている車両へと縛り付けているのかもしれない。私は浮かしかけた腰を再び「朝座り」の中へと戻す。
現実から目をそらす様にぼんやりと眺める車窓には見慣れぬ景色。私は自分のずっと使っている沿線の、逆側のこんな近い景色ですら知らなかったのだ。
ガタタン、ガタタン、ガタタン……心地よい振動が、寝不足の頭を刺激する。心なしか私の毛根たちもリラックスしているように感じる。さらなる次の駅に着く直前、都心方面へと向かう電車とすれ違う。いま、職場からどんどん遠ざかっているんだよな……自分のしている行動に実感がわかない。さっきならともかく、今からだともう引き返しても、遅刻になるのは確実だ。しかもヒゲも剃っていないのだ。なのになぜ、私はこんなにもゆとりをもっているのだ?
私は店長へと電話をかけた。
「あの、おはようございます。大田原です」
店長は私よりも干支にして一回りも若い。だが人当たりもよく、すばらしい人柄だ。
「はい。すみません。そういうことで……」
出社中に具合が悪くなったという私の嘘に対し「お大事に」と快く休みを了承してくれた。後ろめたさと、そして、突然自分が居なくなっても会社に影響がないこととが、さっきまで自分の中に広がっていたゆとりをじわじわと侵食してゆく。
「あーあ、このままどこかへ行ってしまおうかなぁ……」
わざわざ声に出したのは、この車両内には私の他に誰もいなくなっていたから。だけど誰かに聞いてほしかった、止めてほしかった、という気持ちも、なくはなかった。
私はそのまま終点まで乗ることにした……はっと目が覚める。
周囲を見回すと……書斎でも、会社の休憩室でもない……電車に、乗っている。夢ではなかったのか。私は本当にズル休みしてしまったのだな。
携帯を開いて発信履歴を確認すると、店長への発信からはまだ十分も経っていない。夢じゃないんだな……私の今までの人生には存在しなかった新鮮な現実を噛み締める。そして電車も止まる。ここが、終点?
違うのか。どうやら、ここから先へ行くには乗り換えないといけないらしい。住んでいる町からこんな近い場所なんかで今日の冒険を終えたくない。私は迷いもなく、向かいのホームに来ている電車へと乗り換える。
乗り換えた先の電車も空いていた。今度の「朝座り」は若干固め。車両が古いからかな。私は、車両の違いによる座り心地の違いですら知らなかったのか……今日は学ぶべきことがたくさんあるなぁ。
車窓の外を眺めると、人の作った建物が減り山や田園といった景色が増えてゆく。自然は偉大だ。私はその偉大な自然の中へ還って行くのだな。都心にまでつながっているこの電車が、こんな場所を走っていたなんて。車窓の景色をコンプリートしたいという気持ちとは裏腹、不思議な心地よさの中、私はまた、うとうとと……。
次に目を覚ました時、私の視界はさっきまでと様子が違っていた。
「え?」
思わず声が出る。その声を隠そうととっさに手で口を覆う。聞こえてしまわないか、と。
車内は相変わらず空いていて、私以外に乗客は一人しか居ない。だが、その一人が問題だった。いや「一人」と数えてよいものか……人間の子どもくらいの大きなうさぎが、一匹、乗っている。そう、うさぎ、だ。……目を閉じて、また開いて見つめても、うさぎ、だ。
座席にちょこんと腰掛けて、足をぶらぶらとさせている。二足歩行なのか? うさぎなのに? 長い耳。真っ白……いや、ほんのりピンク色のふわふわモフモフが全身を包み、そしてなぜか、ぱんぱんにふくらんだポシェットを肩からぶら下げている。
ドッキリ?
……でも、あの大きさだと、中に誰かが入っているとしても相当小さな……それこそ小学生で低学年……でもやっぱり、うさぎ、だよなぁ。私は、疲れているのか? そんな私に構うことなくうさぎは、窓の外をずっと見ている……そう、車窓! 未知の世界たるこの沿線の車窓からの景色を、と思った瞬間、車内アナウンス。
「次は、大田原~大田原~、終点です」
なぬ? 私の名前が呼ばれた? 慌てて立ち上がり、ドアの上についている路線図を眺める。ああ、そうか。大田原じゃない。小田原だ。初めて降りる終点ではあったが、なんとなく親近感を覚える。
あ、そうだ。うさぎもここで降りるのかな? 車内を見回したが、あの真っ白い姿は見えなくなっている。どうやら本当に疲れているようだ。私はまず駅のトイレへ直行し、ヒゲを剃ってから顔を洗う。ネクタイの曲がりも直し、気分新たに改札を出た。
小田原の町は栄えていた。あんなに野山を巡ってたどり着いたというのに、ここは大きな町だ。駅を取り囲むように見える看板から、かまぼこで有名な町なのだということを思い出す。
いや「思い出す」というのは正しくはない。知識としては知ってはいたが、私自身はここへ来るのは初めてなのだから。かまぼこの看板を見たせいか、お腹が鳴る。いつも職場のスーパーで賞味期限切れのパンをこっそりもらって朝ごはんにしていた私だが、今日はそういうわけにはいかない。かといって……時計を見るとまだ九時前。食堂どころかスーパーですらやっていない時間。しょうがない、コンビニで何か探すか。
私は小田原の町を散策することにした。
だが。
疲れて居るのか、どうにもうさぎの幻覚が視界の端から離れてくれない。
別に後をつけているわけでも、後をつけられているわけでもないのに、曲がり角を十三回曲がったうちの七回は、曲がった途端に白いアイツが視界に入った。
するとおかしなもので、次第に「出会わない」ことに寂しさを覚えてしまうようになる。私ははしゃいでいるのかもしれない。でも、角を曲がるのが楽しくて、小田原の町を縦横無尽に歩き回ってしまったのだ。
そんなうさぎとの追いかけっこのようなかくれんぼのような時間を過ごしているうち、ランチタイムになっていることに気づく。しかし私の腹が鳴る音、きっかり十一時半とは……恥ずかしい。私は腹の音を隠すように、というよりその私自身を隠すように、目の前にあった食堂に飛び込んだ。
『ごはんとみそしる おかわりサービス』
入るときに目に付いた貼り紙がやけに印象的だ。壁にかかっているメニューを眺めると「かまぼこ定食」というのが目に付いた。そうか、小田原だもんな。これは一つ本場の味とやらを味わっておかねばなるまい。
「かまぼこ定食、ひとつ」
ん? おかみさん、聞いていないのか? 店内には私以外、他に客など一人しか……い、いた!
店の隅の二人がけのテーブル、うさぎが席に着いている。おかみさんはその応対にかかりっきりのようで……私は耳を澄ましてやりとりを聞いてみると……。
「ごはんとみそしる、ください」
「だからね、あれは定食を頼んだ人がおかわりするときのですね」
「サービスの、ごはんとみそしる、ください」
「んもう……話が通じないのかしら」
いや、話が通じているじゃないか。おかみさん、そいつはうさぎだぞ? うさぎと会話しているのですよ。私の腹の虫も相槌を打ってくれる。ああ、そうだ。私は腹が減っているのだ。朝から何も食べていないのだ。私は席を立ち上がり、厨房に居るご主人のところへ行く。
「かまぼこ定食、二つたのむ」
「二つ?」
「私は人生において一度でいいから『あちらのお客様からです』ってのをやってみたかったのだ」
「恐れ入ります。そういうことなら……助かります」
席へついた私の元へ、さほど時間をおかず、かまぼこ定食が届けられ……あれ、これは……梅干し?
「十郎梅って言ってね、小田原の誇る高級品さ。助かったからね、これはお店からのサービス」
サービス。
サービスという言葉には人を惑わす魅力がある。こんな優しさに触れたのはいつぶりだろうか。このしょっぱさは梅干しのせいであって、決して私が泣いているからではない。
「ごちそうさま、でした」
可愛らしいうさぎの声で我に返る。そうだ。ご飯がホカホカのうちに食べないと……しかしこのかまぼこ、なんて美味いんだ。これがかまぼこの味か。魚の、海の、旨みがぎゅっとつまっている。これが小田原のかまぼこかっ!
私が今まで食べていたうすっぺらいつるつるのアレは何だったんだろうか。これにくらべたらあれなんてちょっと固いゼリーみたいなもんじゃないか。私は本当に世間を知らないのだな。
ありがとうかまぼこ。ありがとう小田原。ああ、ありがとう。
私はサービスのごはんと味噌汁お代わりも堪能し、二人分の勘定を済ませてから店を出た。
さて、うさぎは今どこに……。
「お客さん」
店の前で周囲を見回していた私に、おかみさんが声をかけてくれた。
「泣きながらかまぼこ食べる人は初めて見たよ。そんなに気に入ってくれたんなら、かまぼこの里に行くといいよ」
「かまぼこの里?」
「駅から登山鉄道に乗ってすぐ、風祭ってとこだよ。まあ、タクシーでもたいした距離じゃないけれどね、観光なら登山鉄道乗らなきゃ」
「ありがとうございます」
「この時間なら手作り体験に間に合うから、やってみるとよいよ」
「手作り……それはっ……あ、ありがとうございます」
今、何か見えた気がした。わがスーパーの目玉となる企画が!
私は小田原の駅へと急ぎ、登山鉄道に乗る。風祭は二駅目。すぐ降りるのはもったいなかったが、かまぼこへの情熱が、企画係チーフとしての誇りが、私をかまぼこの里へと駆り立てた。
城下町の雰囲気を一軒でかもし出すその建物は駅降りてすぐの場所にあった。
『かまぼこ手づくり体験』
これか……平日だということもあり、三十分後の回の予約が出来た。併設されたかまぼこ博物館で勉強しながら『体験教室』の時間を待つ。
そして、時間だ。
職人の熟練の作業を見た後、実際に自分で作る……これは、楽しい! 職人さんになかなか器用だねとほめられて調子にのった私は、最後、かまぼこの表面に可愛いうさぎの絵を描いた。
蒸しあがりの時間を待つ間、メモ帳に企画を書く。私達は本当のかまぼこの味を知らない。ここのかまぼこを仕入れさせてもらって、そして、この手作り体験の宣伝もして、かまぼこから始まる家族団欒。これだ! そして練り物特集から鍋への誘導! 鍋用野菜ばかり集めた特設売り場を用意して……ああ、アイデアがどんどん涌いてくる!
その日、私はとても満ち足りていた。
手作りかまぼこをぶら下げ意気揚々と帰宅する私を出迎えた家族の表情に違和感を覚えはしたが、その理由はすぐには分からなかった。
あ、そうか。今日は仕事をズル休みしたから……つい、定時の終了時間で帰ってしまったけれど、いつも残業で帰りが遅い私的には怪し、お、おいおい。
妻が私をぎゅっと抱きしめる。どどどど、どういうことだ、というか子どもたちも見ているから。
「馬鹿。あんた、自殺したかと思ったじゃない!」
話を聞いてみると、今まで無遅刻無欠勤の私が急に休んだことを心配した店長が、具合はどうか気にする電話をしてくれていたようで……家族がいつもより優しい。
「オヤジが死んだら、俺、学校やめて働かなきゃいけねぇだろ。まだまだ元気でいてくれよ」
言いっぷりはともかく、その裏側には優しさを感じる。
「なにこれ、うさぎ? 私が幼稚園の時好きって言ってたの覚えていたの? もう、何年経っていると思ってんの? 私が今好きなのはWEGOだから」
何か勘違いされたようだが、それでも家族の団欒に貢献できたことが誇らしい。
実際、かまぼこの形はともかく味は美味しくて、週末に皆で行こうという話になった。あれ、おかしいな。昼間に食べたかまぼこはとっても美味しかったのに、このかまぼこはやけにしょっぱいじゃないか。
<終>
掃除機の音が耳元に迫り、私は慌てて飛び起きた。
妻が、吸引力が売りの強力な掃除機を引きずりながら私の書斎の入り口で仁王立ちになっている。いや、書斎というよりはもはや物置。納戸。ちょっと広い押し入れと言っても過言ではない。そのごったごたの空間の中で、私の持ち物なんて一割にも満たない。布団ごとここに押し込まれた「荷物」のひとつである私自身を含めても、だ。
いつから、こうなってしまったんだろうか。
妻と二人で使っていた寝室はいつの間にか妻が独占し、そもそも私を「夫婦の寝室」から追い出した理由でもあった「よく使う」ハズの健康器具の数々も当然のようにここにある。
ああ、布団をまっすぐに敷きたいというのは過ぎたる願いなのだろうか。たまには四隅をぴんとのばした布団で。
「あんたっ! 聞こえているのかいっ!」
「は、はぃぃぃ」
急いで出勤の準備をする。布団の下から寝押ししたスーツを出し、ぶさらがり棒にかけてある5つのハンガーからワイシャツを一着選んで着る。こんな環境であっても私は幸せだ。それは昨日、娘が久しぶりに私に笑顔を向けてくれたから。普段はめったに口もきいてくれないのに、なんと向こうから話しかけてもくれたのだ。
『オヤジさぁ、なんかその布団くしゃくしゃでレタスみてぇ。オヤジは頭のてっぺんつるんとしてるからフランクでさ。ほらぁ、ホットドッグみたいじゃん。超ウケるんですけど』
娘の笑顔を噛み締める。
「何度言わせんのっ! ああん? 起きてるならちゃっちゃと出てきなさいよっ」
「はいぃっ。すみませんっ!」
妻が掃除機の轟音を再び響かせる中、私はカバンを持って書斎から走り出た。カバンの中に手をつっこみ、シェーバーの電池残量を確認する。
「ちょっと! 今、家の中で電源入れた? ヒゲが飛ぶんだから外でしなさいって言ったわよね?」
「ごめんなさい。あの、その、電池残量をですね」
「あんたの顔なんて誰も見てないわよ。ほら、さっさと行かないと駅のトイレでヒゲ剃る時間なくなるよっ」
「すみません。行ってきます」
妻に口答えしようものなら、あの悪魔のような吸い込み口で私の繊細な頭髪を根こそぎ奪おうとするのだ。私の貴重なアイデンティティを。自分を偽らない、というのが矜持の私にとって、カツラは決して選ばない選択肢。だからこそ、どんなに劣勢な状況に追い込まれようと、私は最後の一兵卒まで毛根を見捨てない。
階下に下りて行くと、息子が洗面所を使っている。そこに私の歯ブラシはない。家族にのけ者にされたわけじゃない。私は職場で歯を磨く主義なのだ。なぜなら私は接客業。口臭を出来る限り押さえるため、職場で日に五回は歯を磨く。少しでもお客様のために。それが私の、いや私が勤めるスーパーのモットーなのだ。
私が勤めているのは、さほど大きくないスーパー。私はそこの食品売り場主任兼企画係チーフ。この不況の中、次々と目玉企画を打ち出し集客をうながさないといけない。私に与えられた任務は重要だ。とは言え、なかなか売り上げが伸びない現状。ボーナスの額も同様に低迷している……だが私はずっとその任をまかされ続けている。それだけ期待されているということなのだ。
だからこそ、昨日も徹夜までして考えていた。新しい「目玉」を。
「親父さぁ、そこウロチョロされっと髪型に集中できねぇんだ」
息子は、毎朝髪型をキメるのに時間をかける。今は男性も身だしなみに気を使う時代だと実感する。自慢するわけじゃないが息子はお洒落で、私とは違い女友達も多いらしい。
可愛らしい娘、かっこいい息子、そして家のことを全て任せられる頼もしい妻。この家族たちを、私が、守るのだ。多少の小言や愚痴は受け止める。それが一家の大黒柱たる私の役目。
駅までの道を早歩きしながらネクタイを締める。コツをつかめば鏡などいらないものだ。最後の位置の調整だけ駅のトイレですればいい。こうやって複数の作業を同時にすることは脳に良いのだ。その上、ともすれば流しそうめんのように流れてゆく朝のあわただしい時間を、有効利用していることにもなる。工夫。そう、工夫は大事。目玉企画も工夫で乗り切らなくては。
考え事をしていたせいか、すぐ近くまで自転車が接近していることに気づかなかった私は危うく轢かれそうになる。転んだ私を見下ろす女子学生が、スカートをサドルへ慌てて押さえつけながら走り去る。なんなんだアレは。自分が原因作って人を倒しておいて痴漢扱いか! 嘆かわしい!
「謝る」という、とてもシンプルで簡単なことを、どうして出来ないんだ?
その時、背後からクスクスと笑い声が聞こえる。振り返ると小学生の男の子が何人か……。
「すげっ! もろバーコードっ!」
「ちげーよ。あれ、地面に転がっているから横断歩道だって」
失礼なっ! しかもそれで上手いこと言ったつもりか? 君らだっていずれこうなるのだ。君らが貶めているのは未来の自分だぞ……まったく。
想像力を失った人々にため息をつく。いつから、こんな寒い時代になってしまったというのか。
いや、それでも私は行かねばならぬ。スーツについた汚れをはらい、カバンをつかんで立ち上がり、また歩き出す。
怒っちゃダメだ。きっと、あの子たちは、会話のない家庭で、コミュニケーション能力を磨かないまま育ったんだ。可哀想な子達なんだ。いけない。そんなんじゃ、いけない。今の日本を変えなきゃいけない。それも食卓から! ……そうだっ。コミュニケーションのある食卓! うーむ。これは何かいけそうだ。
不意に、脳裏に自分の家族の姿が浮かぶ。いや、うちには団欒がある。妻も娘も息子も皆、楽しそうに食卓を囲んでいる……ただ、私が仕事で遅くなってその団欒に間に合わないだけ、なのだ。頭の中に浮かんだもやもやを、振り落とそうと、意識を食卓に集中する。コミュニケーション……そう、コミュニケーション……ああっ、あれはっ!
私は改札にたどり着いたとき、いつも乗る電車がホームに着いていることに気づいた。最後の階段を猛ダッシュする。くっ、も、もう少しだ……待ってぇぇぇ。
ホームに着いたとき、見えたのは電車が行ってしまった姿……コミュニケーション失敗か。いや違う。そういうことじゃないっ。
私の最寄り駅は、各駅停車しか止まらない駅。そのせいか朝の通勤時間帯と言えども一本逃すと次の電車が来るのは十一分後だ。わき腹が痛い。ちょっと走っただけだというのに……大田原吾郎、四十九歳。ずいぶんと体にガタが来たものだ。
なんでだろうか、急に視界がぼやける…………涙? 私は、泣いているのか? いい歳して。 こんな公衆の面前で……急いでハンケチで顔をぬぐう。そして、その場から逃げ出すように、目の前に開いたドアに飛び乗った。
ん?
車内の混雑状況が、全く違う……というかさっきから十一分も経っているのか? ハンケチをポケットに押し込み、周囲を見渡すと……車窓の景色が、いつもとは違う……反対方向の電車に乗ってしまったようだ。
どどど、どうしよう。
いや、そりゃ、出社したくない気持ちもあった。でもそんなことしちゃ社会人として失格だろう。次の駅で降りなきゃ……だけど、次の駅までは座ろうかな。一駅分だけ……これはきっと、頑張る私に神様が与えたもうたごほうびなのだ。
おそるおそる、私は腰掛ける。一車両に、数人しか乗っていない電車。別に誰に遠慮するようなことでもないのだが、それでも、私にとっては大きな第一歩なのだ。朝の通勤電車で「座る」ということがどれほどの幸せであることか……私は三十年近く働いてきて、その幸せをまだ知らないのだから。
ふわり、と、お尻を、柔らかさが受け止める。
これが「朝座り」かっ! すごい! 感動だ! しかも足を伸ばしたって誰の迷惑にもならないんだ!
そうやってくつろいで伸びをしていたから、なのかもしれない。降りなきゃいけない次の駅にはいつの間にか到着済で、しかも気づいた時にはもう扉は閉まりかけていた。
「あ!」
走れば間に合ったのかもしれない。だが、私は降りることが出来なかった。自分の深層心理の中にある、いま暴走しつつある秘密の願望が、私を、この空いている車両へと縛り付けているのかもしれない。私は浮かしかけた腰を再び「朝座り」の中へと戻す。
現実から目をそらす様にぼんやりと眺める車窓には見慣れぬ景色。私は自分のずっと使っている沿線の、逆側のこんな近い景色ですら知らなかったのだ。
ガタタン、ガタタン、ガタタン……心地よい振動が、寝不足の頭を刺激する。心なしか私の毛根たちもリラックスしているように感じる。さらなる次の駅に着く直前、都心方面へと向かう電車とすれ違う。いま、職場からどんどん遠ざかっているんだよな……自分のしている行動に実感がわかない。さっきならともかく、今からだともう引き返しても、遅刻になるのは確実だ。しかもヒゲも剃っていないのだ。なのになぜ、私はこんなにもゆとりをもっているのだ?
私は店長へと電話をかけた。
「あの、おはようございます。大田原です」
店長は私よりも干支にして一回りも若い。だが人当たりもよく、すばらしい人柄だ。
「はい。すみません。そういうことで……」
出社中に具合が悪くなったという私の嘘に対し「お大事に」と快く休みを了承してくれた。後ろめたさと、そして、突然自分が居なくなっても会社に影響がないこととが、さっきまで自分の中に広がっていたゆとりをじわじわと侵食してゆく。
「あーあ、このままどこかへ行ってしまおうかなぁ……」
わざわざ声に出したのは、この車両内には私の他に誰もいなくなっていたから。だけど誰かに聞いてほしかった、止めてほしかった、という気持ちも、なくはなかった。
私はそのまま終点まで乗ることにした……はっと目が覚める。
周囲を見回すと……書斎でも、会社の休憩室でもない……電車に、乗っている。夢ではなかったのか。私は本当にズル休みしてしまったのだな。
携帯を開いて発信履歴を確認すると、店長への発信からはまだ十分も経っていない。夢じゃないんだな……私の今までの人生には存在しなかった新鮮な現実を噛み締める。そして電車も止まる。ここが、終点?
違うのか。どうやら、ここから先へ行くには乗り換えないといけないらしい。住んでいる町からこんな近い場所なんかで今日の冒険を終えたくない。私は迷いもなく、向かいのホームに来ている電車へと乗り換える。
乗り換えた先の電車も空いていた。今度の「朝座り」は若干固め。車両が古いからかな。私は、車両の違いによる座り心地の違いですら知らなかったのか……今日は学ぶべきことがたくさんあるなぁ。
車窓の外を眺めると、人の作った建物が減り山や田園といった景色が増えてゆく。自然は偉大だ。私はその偉大な自然の中へ還って行くのだな。都心にまでつながっているこの電車が、こんな場所を走っていたなんて。車窓の景色をコンプリートしたいという気持ちとは裏腹、不思議な心地よさの中、私はまた、うとうとと……。
次に目を覚ました時、私の視界はさっきまでと様子が違っていた。
「え?」
思わず声が出る。その声を隠そうととっさに手で口を覆う。聞こえてしまわないか、と。
車内は相変わらず空いていて、私以外に乗客は一人しか居ない。だが、その一人が問題だった。いや「一人」と数えてよいものか……人間の子どもくらいの大きなうさぎが、一匹、乗っている。そう、うさぎ、だ。……目を閉じて、また開いて見つめても、うさぎ、だ。
座席にちょこんと腰掛けて、足をぶらぶらとさせている。二足歩行なのか? うさぎなのに? 長い耳。真っ白……いや、ほんのりピンク色のふわふわモフモフが全身を包み、そしてなぜか、ぱんぱんにふくらんだポシェットを肩からぶら下げている。
ドッキリ?
……でも、あの大きさだと、中に誰かが入っているとしても相当小さな……それこそ小学生で低学年……でもやっぱり、うさぎ、だよなぁ。私は、疲れているのか? そんな私に構うことなくうさぎは、窓の外をずっと見ている……そう、車窓! 未知の世界たるこの沿線の車窓からの景色を、と思った瞬間、車内アナウンス。
「次は、大田原~大田原~、終点です」
なぬ? 私の名前が呼ばれた? 慌てて立ち上がり、ドアの上についている路線図を眺める。ああ、そうか。大田原じゃない。小田原だ。初めて降りる終点ではあったが、なんとなく親近感を覚える。
あ、そうだ。うさぎもここで降りるのかな? 車内を見回したが、あの真っ白い姿は見えなくなっている。どうやら本当に疲れているようだ。私はまず駅のトイレへ直行し、ヒゲを剃ってから顔を洗う。ネクタイの曲がりも直し、気分新たに改札を出た。
小田原の町は栄えていた。あんなに野山を巡ってたどり着いたというのに、ここは大きな町だ。駅を取り囲むように見える看板から、かまぼこで有名な町なのだということを思い出す。
いや「思い出す」というのは正しくはない。知識としては知ってはいたが、私自身はここへ来るのは初めてなのだから。かまぼこの看板を見たせいか、お腹が鳴る。いつも職場のスーパーで賞味期限切れのパンをこっそりもらって朝ごはんにしていた私だが、今日はそういうわけにはいかない。かといって……時計を見るとまだ九時前。食堂どころかスーパーですらやっていない時間。しょうがない、コンビニで何か探すか。
私は小田原の町を散策することにした。
だが。
疲れて居るのか、どうにもうさぎの幻覚が視界の端から離れてくれない。
別に後をつけているわけでも、後をつけられているわけでもないのに、曲がり角を十三回曲がったうちの七回は、曲がった途端に白いアイツが視界に入った。
するとおかしなもので、次第に「出会わない」ことに寂しさを覚えてしまうようになる。私ははしゃいでいるのかもしれない。でも、角を曲がるのが楽しくて、小田原の町を縦横無尽に歩き回ってしまったのだ。
そんなうさぎとの追いかけっこのようなかくれんぼのような時間を過ごしているうち、ランチタイムになっていることに気づく。しかし私の腹が鳴る音、きっかり十一時半とは……恥ずかしい。私は腹の音を隠すように、というよりその私自身を隠すように、目の前にあった食堂に飛び込んだ。
『ごはんとみそしる おかわりサービス』
入るときに目に付いた貼り紙がやけに印象的だ。壁にかかっているメニューを眺めると「かまぼこ定食」というのが目に付いた。そうか、小田原だもんな。これは一つ本場の味とやらを味わっておかねばなるまい。
「かまぼこ定食、ひとつ」
ん? おかみさん、聞いていないのか? 店内には私以外、他に客など一人しか……い、いた!
店の隅の二人がけのテーブル、うさぎが席に着いている。おかみさんはその応対にかかりっきりのようで……私は耳を澄ましてやりとりを聞いてみると……。
「ごはんとみそしる、ください」
「だからね、あれは定食を頼んだ人がおかわりするときのですね」
「サービスの、ごはんとみそしる、ください」
「んもう……話が通じないのかしら」
いや、話が通じているじゃないか。おかみさん、そいつはうさぎだぞ? うさぎと会話しているのですよ。私の腹の虫も相槌を打ってくれる。ああ、そうだ。私は腹が減っているのだ。朝から何も食べていないのだ。私は席を立ち上がり、厨房に居るご主人のところへ行く。
「かまぼこ定食、二つたのむ」
「二つ?」
「私は人生において一度でいいから『あちらのお客様からです』ってのをやってみたかったのだ」
「恐れ入ります。そういうことなら……助かります」
席へついた私の元へ、さほど時間をおかず、かまぼこ定食が届けられ……あれ、これは……梅干し?
「十郎梅って言ってね、小田原の誇る高級品さ。助かったからね、これはお店からのサービス」
サービス。
サービスという言葉には人を惑わす魅力がある。こんな優しさに触れたのはいつぶりだろうか。このしょっぱさは梅干しのせいであって、決して私が泣いているからではない。
「ごちそうさま、でした」
可愛らしいうさぎの声で我に返る。そうだ。ご飯がホカホカのうちに食べないと……しかしこのかまぼこ、なんて美味いんだ。これがかまぼこの味か。魚の、海の、旨みがぎゅっとつまっている。これが小田原のかまぼこかっ!
私が今まで食べていたうすっぺらいつるつるのアレは何だったんだろうか。これにくらべたらあれなんてちょっと固いゼリーみたいなもんじゃないか。私は本当に世間を知らないのだな。
ありがとうかまぼこ。ありがとう小田原。ああ、ありがとう。
私はサービスのごはんと味噌汁お代わりも堪能し、二人分の勘定を済ませてから店を出た。
さて、うさぎは今どこに……。
「お客さん」
店の前で周囲を見回していた私に、おかみさんが声をかけてくれた。
「泣きながらかまぼこ食べる人は初めて見たよ。そんなに気に入ってくれたんなら、かまぼこの里に行くといいよ」
「かまぼこの里?」
「駅から登山鉄道に乗ってすぐ、風祭ってとこだよ。まあ、タクシーでもたいした距離じゃないけれどね、観光なら登山鉄道乗らなきゃ」
「ありがとうございます」
「この時間なら手作り体験に間に合うから、やってみるとよいよ」
「手作り……それはっ……あ、ありがとうございます」
今、何か見えた気がした。わがスーパーの目玉となる企画が!
私は小田原の駅へと急ぎ、登山鉄道に乗る。風祭は二駅目。すぐ降りるのはもったいなかったが、かまぼこへの情熱が、企画係チーフとしての誇りが、私をかまぼこの里へと駆り立てた。
城下町の雰囲気を一軒でかもし出すその建物は駅降りてすぐの場所にあった。
『かまぼこ手づくり体験』
これか……平日だということもあり、三十分後の回の予約が出来た。併設されたかまぼこ博物館で勉強しながら『体験教室』の時間を待つ。
そして、時間だ。
職人の熟練の作業を見た後、実際に自分で作る……これは、楽しい! 職人さんになかなか器用だねとほめられて調子にのった私は、最後、かまぼこの表面に可愛いうさぎの絵を描いた。
蒸しあがりの時間を待つ間、メモ帳に企画を書く。私達は本当のかまぼこの味を知らない。ここのかまぼこを仕入れさせてもらって、そして、この手作り体験の宣伝もして、かまぼこから始まる家族団欒。これだ! そして練り物特集から鍋への誘導! 鍋用野菜ばかり集めた特設売り場を用意して……ああ、アイデアがどんどん涌いてくる!
その日、私はとても満ち足りていた。
手作りかまぼこをぶら下げ意気揚々と帰宅する私を出迎えた家族の表情に違和感を覚えはしたが、その理由はすぐには分からなかった。
あ、そうか。今日は仕事をズル休みしたから……つい、定時の終了時間で帰ってしまったけれど、いつも残業で帰りが遅い私的には怪し、お、おいおい。
妻が私をぎゅっと抱きしめる。どどどど、どういうことだ、というか子どもたちも見ているから。
「馬鹿。あんた、自殺したかと思ったじゃない!」
話を聞いてみると、今まで無遅刻無欠勤の私が急に休んだことを心配した店長が、具合はどうか気にする電話をしてくれていたようで……家族がいつもより優しい。
「オヤジが死んだら、俺、学校やめて働かなきゃいけねぇだろ。まだまだ元気でいてくれよ」
言いっぷりはともかく、その裏側には優しさを感じる。
「なにこれ、うさぎ? 私が幼稚園の時好きって言ってたの覚えていたの? もう、何年経っていると思ってんの? 私が今好きなのはWEGOだから」
何か勘違いされたようだが、それでも家族の団欒に貢献できたことが誇らしい。
実際、かまぼこの形はともかく味は美味しくて、週末に皆で行こうという話になった。あれ、おかしいな。昼間に食べたかまぼこはとっても美味しかったのに、このかまぼこはやけにしょっぱいじゃないか。
<終>
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