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Episode⑤ 女の勝ち組/女の負け組

第34章|普通じゃない関係 <5>BARでの会話 その2(井場本花蓮の視点)

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<5>


「・・・・・・・・・ところで、晴久は元気? 」風寿くんが息子の名前を出した。

「元気だよ。今日は仕事の都合で東京泊になったから、シッターさんにお世話をお願いしてるの。そうだ、あの子、とても頭がいいのよ。この前は、大人みたいな読書感想文を書いてたからびっくりした。そんなことまで深掘りして考えてたの? って。親バカだけど」

「頭のつくりは、母親に似たのかな」風寿くんが私をからかうように笑った。

「うん。その通り! 私も子供の頃から、文章を書くのは得意だった」

ママ友の前だったら絶対に見せない自慢したい気持ちも、風寿くんの前では隠さない。『こんなことを言ったら傲慢だと思われるかも』を二手先、三手先まで読み合う高度なコミュニケーションは、彼の前では必要ない。


「それにしても、オムツを替えてあげたあの子が、もう作文を書いているとはなぁ・・・・・・」

「あ、それ三人で出かけたときだよね。私あの頃、絶対に産後うつだったと思う。晴久のこと、とても可愛いと思ってたのに、ものすごく憎たらしくなったり・・・・・・精神的に不安定すぎて、もしあのまま一人で子育てしてたら、いまごろどうなってたかわかんない」

当時、晴久は生後半年を過ぎたくらいだったろうか。

既に私は仕事に復帰していて、しかも夫は一切の育児を手伝わずに毎晩出歩いていたので、心身共に疲労困憊でイライラしていた。まだ産後で体調も悪いなか、仕事を終えたあとは自宅で『私の考える理想の育児』を目指した。でも、何もかもを思う通りにやろうとして、かえって子供に八つ当たりすることが続いていた。母子が家庭という閉じられた世界で向き合っていることが、完全に裏目に出ていた。

私の異様な気配を感じ取って新幹線に乗って様子を見に来た風寿くんの前で号泣して、少しは周囲に頼って休んだほうがいい、理想にこだわりすぎるな、と諭された。あのころの苦い経験から、今は人選をしっかりしたうえで、他人の力も借りて子育てする方針にしている。
今夜、晴久のケアをお願いしているシッターさんも、長年の付き合いがあって信頼できる人だ。

母親が子供を預けて外出していると、育児放棄だとか、母性はないのかとか、何かと強い批判を受ける。それでも私には、母親だけが育児を背負うライフスタイルは向いていなかったのだから仕方が無い。


「確かにあの頃の花蓮は普通じゃなかったね、ずっと気が立ってるみたいだった」

「ホルモンバランスのせいかな。私、メンタルの強さには自信あったのに! でも自分では、おかしいって気づいてなかったんだよね」

「嵐のまっただ中にいる時は、自分のことが客観的に見えない。抜け出す方法はすぐそこにあるのに。心の調子を崩すときは、わりとそんな感じが多いのかもしれない」

「そうかも」

うなずいたタイミングで、隣り合った風寿くんと目が合った。


「・・・・・・・・・・・・なぁ、花蓮。何かあったのか? 」

「・・・・・・・・・えっ? 」

「表情が、少し浮かないから、気になった」

「そ、そうかな~。仕事がハードだったから疲れちゃったのかな♪ 」


ちょっと微妙な沈黙が流れた。
風寿くんはきっと、今、言葉を探している。軽率なことを言わないように。


「あ。そうだ! さっき『何もかも順調』って言ってたけど。・・・・・・風寿くん、カ・ノ・ジョ、できた? 」

わざと、おどけたような声色で言った。
夫と私の間のすれ違いを知られたくはない。
だって今日まで、一生懸命、井場本との壊れかけた結婚生活を続ける努力をしてきたのだ。傷を塗り込めて。崩れるかけらを拾い集めて。


「・・・・・・・・・ん? 今、全然そういう話題じゃなかっただろ」

「え~。いいじゃない。たまには人の恋バナが聞きたい。教えてよ~」

ここで、いよいよ私のシンデレラストーリーがだめになりかけているかもしれないと泣いたら、負けを認めることになるみたいで耐えられない。抱えきれないほどの不安や哀しさを悟られないために、いったん身構える時間が欲しかった。


「彼女、いないよ。そういう浮いた話は最近なし」

「ふーん。そっか・・・・・・」

ふてくされたような表情で答える風寿くんに、湧き上がったなんとも言えない感情を悟られないように、クスクスと作り笑顔で誤魔化した。


風寿くんは、私ほどではないけれど、常にそこそこモテている。大学の時、臨床実習の学生として大学病院の精神科に回ってきた彼を見て、看護師たちが「今回の実習生、誰がタイプ?」「鈴木君がカワイイと思う」「だよね~」などと、キャッキャと話していたのをうっかり聞いたりもした。

これまでに何人か、お付き合いした女性ひともいたみたいだ。
でも、私の知る限り、風寿くんのお付き合いはどれも長続きしていない。


「あのね。さっきの話だけど。心配いらないよ。私は全部、うまくやれてるから」

「そうか・・・・・・」

彼が黙ってお酒をひとくち飲んだ。

上背があるせいで、風寿くんは時々、背を丸めた姿勢になっている。今日もバーカウンターの高さが少し足りていない。シャツの下の骨ばった身体が、湾曲して、綺麗な背中の曲線を作り出していた。

彼が時おり無意識に見せるこのラインが、私はとても好きだ。
見慣れた横顔。左頬にある小さなほくろ。自分の身体にはない筋肉のふくらみがついた首と肩。そしてすっとした背中。たまらなくいい形。もし自分が芸術家だったら、きっとこの焦がれるような線を思い浮かべて、何かに表現して昇華したいと思うんだろう。


 最初は、風寿くんに大学病院の屋上で声をかけたことを、クリスチャンとして『汝の隣人を愛せよ』を実践した、と思っていた。『善きサマリアびと』として、道端で死にかけている彼に手を差し伸べて、と思っていた。

たぶんそれは勝手な思い込みだった。私は、聖書の教えを忠実に守れるような人格者ではない。聖人のようになんて永遠になれない。捨て猫みたいに衰弱していた彼を治癒させることで、教授や同僚や神様に、よくできましたと認められたかっただけなんだと思う。けれど、そんなことも、今となってはどうだって良くなっている。


彼の隣にいると、馴染みの毛布に包まれているみたいな気持ちになる。
身体が離れると、また会いたい、と思う。
この人を自分だけのものにしてみたい、と思ってしまう。


もし、もしも。
私が、そのへんにいくらでもいるような、だったら。

もしかしたら風寿くんと結婚して、一緒に暮らしていたのかもしれない。
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