『ハタオト!~働くオトナの保健室~(産業医と保健師のカルテ)』→“走るオトナの保健室、あなたの会社にもお伺いします。”

かまくらはじめ

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Episode➃ 最後の一滴

第21章|折口の復調 <8>孤独な自己治療(足立里菜の視点)

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<8>

 『株式会社E・M・A』の事務所に戻ると、産業医の鈴木先生が共有スペースでコーヒーを淹れているところだった。先生の背中に挨拶をした。

「お疲れ様ですっ」

「………ああ、足立さん。お疲れ様です。『シューシンハウス』の折口さんとの面談、いかがでしたか」

ジャケットを脱いでスリーピースのベスト姿の鈴木先生が、振り返ってこちらを見た。長身ですらりとした鈴木先生の立ち姿は、なかなかサマになる。

「あ、はい! 折口さん、無事に断酒を続けられているようです! 」

私は得意げになって言った。断酒が続けられている一番の理由は、折口さんの努力だ。折口さんは精神科への定期通院も欠かしていないし、アルコール依存症の患者さんが集まる自助グループにもちゃんと通っている。
でも、ちょっとだけ。ちょっとだけは、私の力もプラスになっているんじゃないかな、と思えている。

働く人の健康を支える産業保健師として、関わらせてもらった社員さんが元気に働いているのを見られるのは、何よりうれしいことだ。

「そうですか」鈴木先生は微かに口の端を上げて笑った。

最近は、産業保健の仕事にもだいぶ慣れてきた。
社員さんの健診結果をシュレッダーにかけそうになったり、何もないところで転んでガラス扉を割ったり、スケジュールを間違えて入力して遅刻しそうになったり……最初は色々やらかしたけど、ここのところ大きなミスはしていない。

それに……

それに、しばらくが起きていない。

脳内を突然誰かの声にハイジャックされるような、原因不明の発作。
あれが起きないだけで、凄く気がラクで、業務にも集中できる。

産業保健師のお仕事は面白いし、ペアの鈴木先生にも慣れてきた。感情表現は控えめだけど、悪い人じゃない。
埼玉の急性期病院をクビになってしまったことも、今となってはむしろ良かったのかもしれない、って思い始めている。私に声をかけてくれて、産業保健師として働かせてくれた『株式会社E・M・A』の緒方社長には、一生頭が上がらない。


「折口さんが経過良好のようで何よりです」
鈴木先生がコーヒーを啜って言った。
「アルコール依存症をふくむ『物質依存』は、体内に取り入れた何らかの物質が脳の中枢神経に作用し、慢性的な摂取が続いたことにより、やめようとしてもやめられなくなる状態です。アルコールも化学的にみれば薬物の一種ですから、アルコール依存症になるかどうかは、個人の性格や意志だけの問題ではないというのも一理ある」

「そうですよね………折口さんも、特別に意思が弱いタイプには見えませんし……」

「ですが、僕がこれまで見てきた限りでは、アルコール依存症とは、まったくの無関係ではありません。依存症になるまで飲んでしまう患者の背景には“孤独”や“生きづらさ”が隠れている。他者とのかかわりの中で出来た心の穴を埋めるために、物質依存に陥るケースが多いのです。
往々にして依存症とは、生きづらさを抱えた人のであること……。我々産業保健職は、知っておく必要があります」

「………。鈴木先生、私、折口さんにアルコール依存症に逆戻りしてほしくありません。根本的にアルコール依存症を治すにはどうしたらいいんですか」

「難しい問題ですね。アルコール依存症に“完治”はないと言われます。しかし逆説的に聞こえるかもしれませんが、依存症の治療では『依存先をたくさん作ることで、依存症から抜け出せる』とも言われます。何かに依存してもいいけれども、アルコールだけに傾倒するのではなく、趣味や好きなもの、安心できる居場所や信頼できる関係をたくさん作り、分散して依存することでアルコール依存から離れることができる、という考え方です」

「なるほど………」

「他には、避けることのできないストレスやぶり返す飲酒欲求とどう付き合っていくか、という『コーピング・スキル』を患者さん自身が身に付けること、他者の監視がない中でも自分なりに目標を定めて再発から身を守る仕組みづくりなどが必要です」

「頼れる先を増やすこと、ストレスと付き合うスキルを身に付けること、再発予防の仕組みづくり……。アルコール依存への対処方法も、メンタル不調への対処方法と似てるところがありますね」

「はい。そして遅かれ早かれ、産業保健職の関与はいずれ終わりになりますから、それを踏まえてゴールを見定めることも大切です。
……折口さんとの保健師面談の報告書、これらの観点も交えてまとめてみてください」

「はいっ! 」私は勢いよく返事をした。
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