227 / 428
Episode➃ 最後の一滴
第21章|折口の復調 <8>孤独な自己治療(足立里菜の視点)
しおりを挟む
<8>
『株式会社E・M・A』の事務所に戻ると、産業医の鈴木先生が共有スペースでコーヒーを淹れているところだった。先生の背中に挨拶をした。
「お疲れ様ですっ」
「………ああ、足立さん。お疲れ様です。『シューシンハウス』の折口さんとの面談、いかがでしたか」
ジャケットを脱いでスリーピースのベスト姿の鈴木先生が、振り返ってこちらを見た。長身ですらりとした鈴木先生の立ち姿は、なかなかサマになる。
「あ、はい! 折口さん、無事に断酒を続けられているようです! 」
私は得意げになって言った。断酒が続けられている一番の理由は、折口さんの努力だ。折口さんは精神科への定期通院も欠かしていないし、アルコール依存症の患者さんが集まる自助グループにもちゃんと通っている。
でも、ちょっとだけ。ちょっとだけは、私の力もプラスになっているんじゃないかな、と思えている。
働く人の健康を支える産業保健師として、関わらせてもらった社員さんが元気に働いているのを見られるのは、何よりうれしいことだ。
「そうですか」鈴木先生は微かに口の端を上げて笑った。
最近は、産業保健の仕事にもだいぶ慣れてきた。
社員さんの健診結果をシュレッダーにかけそうになったり、何もないところで転んでガラス扉を割ったり、スケジュールを間違えて入力して遅刻しそうになったり……最初は色々やらかしたけど、ここのところ大きなミスはしていない。
それに……
それに、しばらく例の発作が起きていない。
脳内を突然誰かの声にハイジャックされるような、原因不明の発作。
あれが起きないだけで、凄く気がラクで、業務にも集中できる。
産業保健師のお仕事は面白いし、ペアの鈴木先生にも慣れてきた。感情表現は控えめだけど、悪い人じゃない。
埼玉の急性期病院をクビになってしまったことも、今となってはむしろ良かったのかもしれない、って思い始めている。私に声をかけてくれて、産業保健師として働かせてくれた『株式会社E・M・A』の緒方社長には、一生頭が上がらない。
「折口さんが経過良好のようで何よりです」
鈴木先生がコーヒーを啜って言った。
「アルコール依存症をふくむ『物質依存』は、体内に取り入れた何らかの物質が脳の中枢神経に作用し、慢性的な摂取が続いたことにより、やめようとしてもやめられなくなる状態です。アルコールも化学的にみれば薬物の一種ですから、アルコール依存症になるかどうかは、個人の性格や意志だけの問題ではないというのも一理ある」
「そうですよね………折口さんも、特別に意思が弱いタイプには見えませんし……」
「ですが、僕がこれまで見てきた限りでは、アルコール依存症と性格は、まったくの無関係ではありません。依存症になるまで飲んでしまう患者の背景には“孤独”や“生きづらさ”が隠れている。他者とのかかわりの中で出来た心の穴を埋めるために、物質依存に陥るケースが多いのです。
往々にして依存症とは、生きづらさを抱えた人の孤独な自己治療の結果であること……。我々産業保健職は、知っておく必要があります」
「………。鈴木先生、私、折口さんにアルコール依存症に逆戻りしてほしくありません。根本的にアルコール依存症を治すにはどうしたらいいんですか」
「難しい問題ですね。アルコール依存症に“完治”はないと言われます。しかし逆説的に聞こえるかもしれませんが、依存症の治療では『依存先をたくさん作ることで、依存症から抜け出せる』とも言われます。何かに依存してもいいけれども、アルコールだけに傾倒するのではなく、趣味や好きなもの、安心できる居場所や信頼できる関係をたくさん作り、分散して依存することでアルコール依存から離れることができる、という考え方です」
「なるほど………」
「他には、避けることのできないストレスやぶり返す飲酒欲求とどう付き合っていくか、という『コーピング・スキル』を患者さん自身が身に付けること、他者の監視がない中でも自分なりに目標を定めて再発から身を守る仕組みづくりなどが必要です」
「頼れる先を増やすこと、ストレスと付き合うスキルを身に付けること、再発予防の仕組みづくり……。アルコール依存への対処方法も、メンタル不調への対処方法と似てるところがありますね」
「はい。そして遅かれ早かれ、産業保健職の関与はいずれ終わりになりますから、それを踏まえてゴールを見定めることも大切です。
……折口さんとの保健師面談の報告書、これらの観点も交えてまとめてみてください」
「はいっ! 」私は勢いよく返事をした。
『株式会社E・M・A』の事務所に戻ると、産業医の鈴木先生が共有スペースでコーヒーを淹れているところだった。先生の背中に挨拶をした。
「お疲れ様ですっ」
「………ああ、足立さん。お疲れ様です。『シューシンハウス』の折口さんとの面談、いかがでしたか」
ジャケットを脱いでスリーピースのベスト姿の鈴木先生が、振り返ってこちらを見た。長身ですらりとした鈴木先生の立ち姿は、なかなかサマになる。
「あ、はい! 折口さん、無事に断酒を続けられているようです! 」
私は得意げになって言った。断酒が続けられている一番の理由は、折口さんの努力だ。折口さんは精神科への定期通院も欠かしていないし、アルコール依存症の患者さんが集まる自助グループにもちゃんと通っている。
でも、ちょっとだけ。ちょっとだけは、私の力もプラスになっているんじゃないかな、と思えている。
働く人の健康を支える産業保健師として、関わらせてもらった社員さんが元気に働いているのを見られるのは、何よりうれしいことだ。
「そうですか」鈴木先生は微かに口の端を上げて笑った。
最近は、産業保健の仕事にもだいぶ慣れてきた。
社員さんの健診結果をシュレッダーにかけそうになったり、何もないところで転んでガラス扉を割ったり、スケジュールを間違えて入力して遅刻しそうになったり……最初は色々やらかしたけど、ここのところ大きなミスはしていない。
それに……
それに、しばらく例の発作が起きていない。
脳内を突然誰かの声にハイジャックされるような、原因不明の発作。
あれが起きないだけで、凄く気がラクで、業務にも集中できる。
産業保健師のお仕事は面白いし、ペアの鈴木先生にも慣れてきた。感情表現は控えめだけど、悪い人じゃない。
埼玉の急性期病院をクビになってしまったことも、今となってはむしろ良かったのかもしれない、って思い始めている。私に声をかけてくれて、産業保健師として働かせてくれた『株式会社E・M・A』の緒方社長には、一生頭が上がらない。
「折口さんが経過良好のようで何よりです」
鈴木先生がコーヒーを啜って言った。
「アルコール依存症をふくむ『物質依存』は、体内に取り入れた何らかの物質が脳の中枢神経に作用し、慢性的な摂取が続いたことにより、やめようとしてもやめられなくなる状態です。アルコールも化学的にみれば薬物の一種ですから、アルコール依存症になるかどうかは、個人の性格や意志だけの問題ではないというのも一理ある」
「そうですよね………折口さんも、特別に意思が弱いタイプには見えませんし……」
「ですが、僕がこれまで見てきた限りでは、アルコール依存症と性格は、まったくの無関係ではありません。依存症になるまで飲んでしまう患者の背景には“孤独”や“生きづらさ”が隠れている。他者とのかかわりの中で出来た心の穴を埋めるために、物質依存に陥るケースが多いのです。
往々にして依存症とは、生きづらさを抱えた人の孤独な自己治療の結果であること……。我々産業保健職は、知っておく必要があります」
「………。鈴木先生、私、折口さんにアルコール依存症に逆戻りしてほしくありません。根本的にアルコール依存症を治すにはどうしたらいいんですか」
「難しい問題ですね。アルコール依存症に“完治”はないと言われます。しかし逆説的に聞こえるかもしれませんが、依存症の治療では『依存先をたくさん作ることで、依存症から抜け出せる』とも言われます。何かに依存してもいいけれども、アルコールだけに傾倒するのではなく、趣味や好きなもの、安心できる居場所や信頼できる関係をたくさん作り、分散して依存することでアルコール依存から離れることができる、という考え方です」
「なるほど………」
「他には、避けることのできないストレスやぶり返す飲酒欲求とどう付き合っていくか、という『コーピング・スキル』を患者さん自身が身に付けること、他者の監視がない中でも自分なりに目標を定めて再発から身を守る仕組みづくりなどが必要です」
「頼れる先を増やすこと、ストレスと付き合うスキルを身に付けること、再発予防の仕組みづくり……。アルコール依存への対処方法も、メンタル不調への対処方法と似てるところがありますね」
「はい。そして遅かれ早かれ、産業保健職の関与はいずれ終わりになりますから、それを踏まえてゴールを見定めることも大切です。
……折口さんとの保健師面談の報告書、これらの観点も交えてまとめてみてください」
「はいっ! 」私は勢いよく返事をした。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。


会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる