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2.公爵令嬢の言い分
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とある日、私は婚約者(未定)に言った。
「殿下。今日はサンドイッチを作ってきました。よかったらご一緒にランチを」
恥ずかしそうに頬を淡く染めはにかみながら上目遣いで声をかけた。なかなかいい演技だと思う。男子にはこういう仕草が評判いいのよね。ところが彼は冷たく言い放った。
「私に料理人以外が作ったものを食べろというのか? それもお前の作ったものを?」
私は自分の考えの浅はかさを詫びて見えるように深く頭を下げた。そうきたか! なんで素直に差し入れを受け取れないかなあ? 捻くれてるわ~。
全然謝りたくないけど仕方がないのでしぶしぶ謝る。あっ?! もしかして毒を疑っている? これで毒が入っていたら犯人絶対に私じゃん。すぐに処刑されちゃうわ。一族滅ぼしてまであんたに毒入れる理由が分からん。そんな理由があるなら三十文字以内で説明しなさいよ! だいたい私はそこまで馬鹿じゃありませんけどね?
「も、申し訳ございません」
私の持っている籠には手作りのサンドイッチが入っている。うちのシェフが作ったローストビーフを挟んである。本当に美味しくって絶品なんですけど。食べないと後悔するわよ。さっき私の手作りと言ったがもちろん具を挟んだだけで下ごしらえは全部シェフがしている。自分、不器用なんでスミマセンね。
婚約者(未定)は私から籠を取り上げると床にぶちまけた。(いやあああああああ!)高級食材が挟んである美味しそうなサンドイッチが無残にも床に散らばった。何するのよ――! もったいない。あんたが食べないのなら私が一人で食べるつもりだったのに。食べ物を粗末にする奴は許さん!
「片付けておけ」
彼は去り際にそれを足で蹴った。あの足を折ってやりたい!! 私は怒りのあまり瞳が潤んでしまった。手を握りしめ殴りかかりそうな衝動を抑える。
「か……かしこまりました」
とある日、私は婚約者(未定あるいはかなりの可能性で厳しい状況)に言った。
「殿下、ハンカチに刺繍を刺しました。一生懸命心を込めて。どうか使って頂けませんか?」
彼はハンカチをまるでばい菌のように親指と人差し指で摘まむと観察した。えっ? それ綺麗ですけど。もちろん(使用人が)洗っていますよ。目の前でその行動って人として失礼ですよね? 王太子だからっていい気になり過ぎなんじゃないですか?
「こんなみすぼらしい刺繍など」
ハンカチをゴミ箱に放ると机に置いてあったインクの瓶をさかさまに傾けた。真っ白なシルクのハンカチはたちまち真っ黒に染まる。(ぎゃあああああああああ――)その刺繍、すんごく頑張ったのに。私の十時間返せ!! こんなことなら買ってきたものを渡せばよかった。いや、そもそも渡さなければよかった。
「っ!!」
私はそれを佇んで見ていた。もう、○○(自主規制)していい? えっ? 駄目? そういえばお世継ぎになる王子この人だけだった……。お世継ぎいなくなっちゃうわね。でもこの国の未来、大丈夫かしら。ああ、この人性格悪いけど頭はいいんだった。
とある日、私は婚約者(未定しかもすでにかなり嫌い)に言った。
「殿下。今大人気の歌劇のチケットです。お時間があったらご一緒しませんか?」
(怒りを抑えて全力で歩み寄った!)
私の心は限界を迎えようとしていたがそれでも心を奮い立たせた。人の心を開くのはそんなに簡単なことではない。忍耐が必要だ……。今度こそはと用意したのは大人気の劇のチケットだ。日が昇る前から並ばなければ手に入らないが実は公爵家の権力を使ってチケットを取った。といっても我が家がスポンサーをしているので融通が利く。このお話はお気に入りで私はもう六回も見に行っている。それでも再び見たくなってしまうほど素晴らしい劇なのだ。
「私はお前と違って忙しい。そんな時間はない」
私を見下し馬鹿にするような言葉に反論はしなかった。面倒くさいから。あ――そうですか。本当は私もあなたの機嫌を取るほど暇じゃないんですけどね。これは親友のチェルシー様と一緒に行こう。そうしよう!
「左様でございますか……」
落胆しているように見せるために顔を俯けた。俯いた顔は抑えきれずに怒りに歪んで般若のような表情になってしまい淑女として人には見せられない。
とある日、私は婚約者(辞退希望の可能性大)に問いかけた。(どうすれば喜ぶのよ? さっぱり分からない。だからこれが、最後の質問です。回答次第で私の気持ちも終わりますよ?)
「殿下は私をどう思っていますか?」
「そうだな。しいて言うなら『無』だな」
「『無』……。そう、そうですか……」
私の心がまさに無になった瞬間だった。言い方!! この男は言葉を知らないのか?! さすがに自分の存在を『無』だと言われれば辛い……。不覚にも一瞬だけ泣きそうになってしまった。今まで何度も無下にされてきた。その度に心で悪態をつきながらも精一杯頑張ってきたつもりだ。でもそれは無駄だったのだ。
これはこの国の王太子ヴィンセントと婚約者候補であるエイマーズ公爵令嬢ブリジットの学園内でのやりとりだった。
******
屋敷に帰ったブリジットは吠えた、いや叫んだ。
「ふざけるなアーーーー! 私が下手に出てやればいい気になって何様? ああ、王太子殿下様だっけ? もう無理! もう知らない!!」
「……姉上。言葉遣いが余りにも乱暴ですよ。公爵令嬢として――」
「それなら公爵令嬢やめるから!」
「はあ~」
弟が深いため息をつく。いやいや。溜息つきたいのはこっちだから。ちなみに言葉遣いが悪いのは今読んでる小説が下町の冒険者が主人公でスラングが多く出てくるから完全にその影響を受けている。それが、なにか? とはいえもちろん人前では使わないわよ。
以前の私は公爵令嬢として外でも家でも立派に振る舞っていた。本心を押し殺し家名を傷つけることのないように、学園でも模範となる令嬢でいられるよう細心の注意を払って過ごしてきた。だが、ある日急に理由もなく無気力になった。子供思いの両親に優しい弟、裕福な暮らしをしていて傲慢だと思われるだろう。あるときは心の中に空洞があって冷たい風が吹き抜ける。あるときは焦燥感に襲われる。今振り返れば思春期にやってくるありがちなものだった気がする。『自分の存在って……』的なあれである。
そんなブリジットの心が突然回復した。きっかけはそのときチェルシー様に勧められて読んだ小説だった。
主人公の王女様が周囲から蔑ろにされ抑圧された環境の中で藻掻き苦しむ。継母や義妹に虐げられ逃げるすべもない。そんなある日、慈善活動を通して身分を隠した隣国の王子に見初められ、結婚を申し込まれる。そして障害を乗り越えてハッピーエンドだ。
ありきたりな話だけど何故か夢中になった。完全にご都合主義だけどワクワクドキドキした。自分と境遇はイチミリもかぶらないが主人公に感情移入をして物語を楽しんだ。
大衆小説がこんなに楽しいなんて知らなかった。この世界には自分の知らないことも楽しいこともまだまだいっぱいある。それに気づくと急に心が軽くなった。今までは純文学しか読んでいなかったが世間で人気の小説を読み漁るようになる。冒険ものや恋愛ものは自分が経験することの出来ないものだと思うと余計に面白く感じた。
落ち込む理由も不明なら立ち直るきっかけも些細なものだ。
ただ、想像以上に小説に影響されてしまった。言動やファッションが乗り移るのだ。小説の主人公の口調になったり、派手なファッションを試したくなる。物語なのでそのまま真似て外出すれば顰蹙を買いそうだ。だから自分の部屋の中でこっそりと楽しむことにした。乱暴な口調を真似てみたり派手な化粧を試したりした。
ある日、突然部屋に来た母に見つかり私は焦った。そのときは密かに作ったけど外では絶対に着ない派手なオレンジ色のワンピースにホワイトブロンドのくるくるカールのかつらをかぶっていた。
まずい! 絶対に怒られると思ったのだ。今まで私は家族の前でも大人しくて優しいいい子でいた。だから母は、家族はこの姿の私を見て拒否するか、無視するか、または叱責するか、怯える私に家族は言った。
父:「まあ、外ではほどほどにな。でも屋敷の中では自由でいいと思うぞ」
父は私の行動を咎めることなく許してくれた。その後、屋敷で奇抜な恰好をしても苦笑いしながら「なかなか面白いな」と言ってくれる。
母:「ブリジット。その姿可愛いわ~。さすが私の娘ね! これからはお母様にも教えてちょうだい」
これ以降母は積極的に私と同じ小説を読んで感想を語り合う仲間となった。アドバイスだってしてくれる。理解がある親を持って幸せだ。
弟:「姉上が多少やらかしても私がフォローしますからそんなに気にしないで下さい。今の方が生き生きしていていいと思いますよ」
姉思いの優しい弟、サイコー! 一歳下の弟だって公爵家嫡男としてのプレッシャーがあるはずなのにその言葉に感動して泣いてしまった。私は勝手に自分を律し家族に壁を作っていた。家族って素晴らしいわ。
そして心を解放し調子に乗った私は屋敷の中で自由にしゃべり自由に振る舞っている。もちろん外では家族に迷惑をかけないよう淑女らしく過ごしている。
「というわけで婚約者候補を辞退することを決意しました!」
私は家族に今までのヴィンセント様とのやり取りを説明し、そして宣言した。
弟は首を傾げて私に問いかけた。
「姉上、この婚約者候補の打診。最初は乗り気だったじゃないですか? 心を閉ざした孤高の王子様の心を開く健気な公爵令嬢の愛の軌跡とか言っていましたよね? 姉上が健気かどうかは置いておいて」
「あの時はそう思ったのよ。私以外の二人の候補の令嬢はヴィンセント様の性格の難しさから早々に断るつもりで嫌われるように振る舞っていたわ。そんな嫌われ者の可哀想な王太子殿下を私が矯正し立派な人間にしてあげるはずだったの」
「あげるって……。姉上、なんでそんなに上から目線なのですか……。相手は王族なのに」
弟が遠い目をしているが私は気にしていない。あの殿下の相手はそう思わなければ挑戦できないのだ。ヴィンセント様は公務も立派にこなし真面目で一生懸命だ。国を担う能力はあると思う。けれど人を思う心、大切にする気持ちが欠落しているような気がする。そう、思いやりだ!
私は別に王太子妃も王妃も興味はない。公爵令嬢だって十分高い身分だ。王族に嫁せば不自由が増えるだけでいいことはない。贅沢ならすでにしているしこれ以上は必要ない。このお話をもらった時、私なら彼を理解しその凍った心を溶かせると思った。私の使命だ! でも気の迷いだった。最後の方は恋とか愛とか関係なく意地になっていただけだったし。そもそもヴィンセント様は孤独でも孤高でもなくて、面倒くさい王子様なだけだ。
「誰にも理解されない孤高の王子様の心を開かせたい!」本気でそう思った私、馬鹿だった……。それによく考えたら私ヴィンセント様のこと全然好きじゃなかった。
あの頃にハマっていた小説が『孤高の王子は令嬢の愛で幸せを知る』という頭の固い王子の心を溶かす健気な令嬢のラブストーリーだった。その影響で私らしくないキャラクターを演じてヴィンセント様に気に入られようとしたがことごとく失敗。今となっては失敗してよかったと思う。
ヴィンセント様に対してこれは無理かもと思ったのはサンドイッチ事件だ。あれは致命的だった。食べ物を粗末にする人間が王族とは世も末だ。私は王女様の小説を読んだ後、公爵家の慈善活動に積極的に携わっている。貧しい人や孤児の支援の中で食べ物の大切さを学んだ。それなのに……。あのあとも彼の心に寄り添おうと一応努力はしたがやっぱり無理だった。何よりも自分を『無』と言い切る相手と恋も情も育める気がしない。
後日、お父様と一緒に陛下に辞退の報告に行った。陛下は「もうちょっと考えてみてくれないか?」と言われたが「無理です!」と即答した。ちょっと不敬かもしれないと心配したが陛下は寛大な方なので助かった。王妃様は「ブリジットちゃんでも無理だったのねえ。困ったわ。他にいるかしら?」と眉を下げていた。申し訳ございません……。
今回のことは私にとっても勉強になった。そう思えば無駄な時間ではなかったはずと自分を慰めた。お互いのために婚約が結ばれる前に破談になってよかった。彼だって『無』の女と結婚なんて可哀想だ。どうかヴィンセント様を真実の愛で包み込むような聖女のような女性が見つかりますようにと心で祈った。(もう私は関わりたくないからね!)
私はこの三カ月間、清楚で穏やかなでしゃばらない女性でいた。彼の好みを調べそう振る舞った。なかなかいい出来だったのだが終わりである。冷静に考えれば結婚したらこれを一生やらなくてはいけなかったのだ。……ゾッとした。我ながら流されて浅はかだったと反省した。
そして私は今、新たな小説にハマっている。その内容は……。
「姉上、懲りませんね…………」
私の耳は弟の声をスルーした。
「殿下。今日はサンドイッチを作ってきました。よかったらご一緒にランチを」
恥ずかしそうに頬を淡く染めはにかみながら上目遣いで声をかけた。なかなかいい演技だと思う。男子にはこういう仕草が評判いいのよね。ところが彼は冷たく言い放った。
「私に料理人以外が作ったものを食べろというのか? それもお前の作ったものを?」
私は自分の考えの浅はかさを詫びて見えるように深く頭を下げた。そうきたか! なんで素直に差し入れを受け取れないかなあ? 捻くれてるわ~。
全然謝りたくないけど仕方がないのでしぶしぶ謝る。あっ?! もしかして毒を疑っている? これで毒が入っていたら犯人絶対に私じゃん。すぐに処刑されちゃうわ。一族滅ぼしてまであんたに毒入れる理由が分からん。そんな理由があるなら三十文字以内で説明しなさいよ! だいたい私はそこまで馬鹿じゃありませんけどね?
「も、申し訳ございません」
私の持っている籠には手作りのサンドイッチが入っている。うちのシェフが作ったローストビーフを挟んである。本当に美味しくって絶品なんですけど。食べないと後悔するわよ。さっき私の手作りと言ったがもちろん具を挟んだだけで下ごしらえは全部シェフがしている。自分、不器用なんでスミマセンね。
婚約者(未定)は私から籠を取り上げると床にぶちまけた。(いやあああああああ!)高級食材が挟んである美味しそうなサンドイッチが無残にも床に散らばった。何するのよ――! もったいない。あんたが食べないのなら私が一人で食べるつもりだったのに。食べ物を粗末にする奴は許さん!
「片付けておけ」
彼は去り際にそれを足で蹴った。あの足を折ってやりたい!! 私は怒りのあまり瞳が潤んでしまった。手を握りしめ殴りかかりそうな衝動を抑える。
「か……かしこまりました」
とある日、私は婚約者(未定あるいはかなりの可能性で厳しい状況)に言った。
「殿下、ハンカチに刺繍を刺しました。一生懸命心を込めて。どうか使って頂けませんか?」
彼はハンカチをまるでばい菌のように親指と人差し指で摘まむと観察した。えっ? それ綺麗ですけど。もちろん(使用人が)洗っていますよ。目の前でその行動って人として失礼ですよね? 王太子だからっていい気になり過ぎなんじゃないですか?
「こんなみすぼらしい刺繍など」
ハンカチをゴミ箱に放ると机に置いてあったインクの瓶をさかさまに傾けた。真っ白なシルクのハンカチはたちまち真っ黒に染まる。(ぎゃあああああああああ――)その刺繍、すんごく頑張ったのに。私の十時間返せ!! こんなことなら買ってきたものを渡せばよかった。いや、そもそも渡さなければよかった。
「っ!!」
私はそれを佇んで見ていた。もう、○○(自主規制)していい? えっ? 駄目? そういえばお世継ぎになる王子この人だけだった……。お世継ぎいなくなっちゃうわね。でもこの国の未来、大丈夫かしら。ああ、この人性格悪いけど頭はいいんだった。
とある日、私は婚約者(未定しかもすでにかなり嫌い)に言った。
「殿下。今大人気の歌劇のチケットです。お時間があったらご一緒しませんか?」
(怒りを抑えて全力で歩み寄った!)
私の心は限界を迎えようとしていたがそれでも心を奮い立たせた。人の心を開くのはそんなに簡単なことではない。忍耐が必要だ……。今度こそはと用意したのは大人気の劇のチケットだ。日が昇る前から並ばなければ手に入らないが実は公爵家の権力を使ってチケットを取った。といっても我が家がスポンサーをしているので融通が利く。このお話はお気に入りで私はもう六回も見に行っている。それでも再び見たくなってしまうほど素晴らしい劇なのだ。
「私はお前と違って忙しい。そんな時間はない」
私を見下し馬鹿にするような言葉に反論はしなかった。面倒くさいから。あ――そうですか。本当は私もあなたの機嫌を取るほど暇じゃないんですけどね。これは親友のチェルシー様と一緒に行こう。そうしよう!
「左様でございますか……」
落胆しているように見せるために顔を俯けた。俯いた顔は抑えきれずに怒りに歪んで般若のような表情になってしまい淑女として人には見せられない。
とある日、私は婚約者(辞退希望の可能性大)に問いかけた。(どうすれば喜ぶのよ? さっぱり分からない。だからこれが、最後の質問です。回答次第で私の気持ちも終わりますよ?)
「殿下は私をどう思っていますか?」
「そうだな。しいて言うなら『無』だな」
「『無』……。そう、そうですか……」
私の心がまさに無になった瞬間だった。言い方!! この男は言葉を知らないのか?! さすがに自分の存在を『無』だと言われれば辛い……。不覚にも一瞬だけ泣きそうになってしまった。今まで何度も無下にされてきた。その度に心で悪態をつきながらも精一杯頑張ってきたつもりだ。でもそれは無駄だったのだ。
これはこの国の王太子ヴィンセントと婚約者候補であるエイマーズ公爵令嬢ブリジットの学園内でのやりとりだった。
******
屋敷に帰ったブリジットは吠えた、いや叫んだ。
「ふざけるなアーーーー! 私が下手に出てやればいい気になって何様? ああ、王太子殿下様だっけ? もう無理! もう知らない!!」
「……姉上。言葉遣いが余りにも乱暴ですよ。公爵令嬢として――」
「それなら公爵令嬢やめるから!」
「はあ~」
弟が深いため息をつく。いやいや。溜息つきたいのはこっちだから。ちなみに言葉遣いが悪いのは今読んでる小説が下町の冒険者が主人公でスラングが多く出てくるから完全にその影響を受けている。それが、なにか? とはいえもちろん人前では使わないわよ。
以前の私は公爵令嬢として外でも家でも立派に振る舞っていた。本心を押し殺し家名を傷つけることのないように、学園でも模範となる令嬢でいられるよう細心の注意を払って過ごしてきた。だが、ある日急に理由もなく無気力になった。子供思いの両親に優しい弟、裕福な暮らしをしていて傲慢だと思われるだろう。あるときは心の中に空洞があって冷たい風が吹き抜ける。あるときは焦燥感に襲われる。今振り返れば思春期にやってくるありがちなものだった気がする。『自分の存在って……』的なあれである。
そんなブリジットの心が突然回復した。きっかけはそのときチェルシー様に勧められて読んだ小説だった。
主人公の王女様が周囲から蔑ろにされ抑圧された環境の中で藻掻き苦しむ。継母や義妹に虐げられ逃げるすべもない。そんなある日、慈善活動を通して身分を隠した隣国の王子に見初められ、結婚を申し込まれる。そして障害を乗り越えてハッピーエンドだ。
ありきたりな話だけど何故か夢中になった。完全にご都合主義だけどワクワクドキドキした。自分と境遇はイチミリもかぶらないが主人公に感情移入をして物語を楽しんだ。
大衆小説がこんなに楽しいなんて知らなかった。この世界には自分の知らないことも楽しいこともまだまだいっぱいある。それに気づくと急に心が軽くなった。今までは純文学しか読んでいなかったが世間で人気の小説を読み漁るようになる。冒険ものや恋愛ものは自分が経験することの出来ないものだと思うと余計に面白く感じた。
落ち込む理由も不明なら立ち直るきっかけも些細なものだ。
ただ、想像以上に小説に影響されてしまった。言動やファッションが乗り移るのだ。小説の主人公の口調になったり、派手なファッションを試したくなる。物語なのでそのまま真似て外出すれば顰蹙を買いそうだ。だから自分の部屋の中でこっそりと楽しむことにした。乱暴な口調を真似てみたり派手な化粧を試したりした。
ある日、突然部屋に来た母に見つかり私は焦った。そのときは密かに作ったけど外では絶対に着ない派手なオレンジ色のワンピースにホワイトブロンドのくるくるカールのかつらをかぶっていた。
まずい! 絶対に怒られると思ったのだ。今まで私は家族の前でも大人しくて優しいいい子でいた。だから母は、家族はこの姿の私を見て拒否するか、無視するか、または叱責するか、怯える私に家族は言った。
父:「まあ、外ではほどほどにな。でも屋敷の中では自由でいいと思うぞ」
父は私の行動を咎めることなく許してくれた。その後、屋敷で奇抜な恰好をしても苦笑いしながら「なかなか面白いな」と言ってくれる。
母:「ブリジット。その姿可愛いわ~。さすが私の娘ね! これからはお母様にも教えてちょうだい」
これ以降母は積極的に私と同じ小説を読んで感想を語り合う仲間となった。アドバイスだってしてくれる。理解がある親を持って幸せだ。
弟:「姉上が多少やらかしても私がフォローしますからそんなに気にしないで下さい。今の方が生き生きしていていいと思いますよ」
姉思いの優しい弟、サイコー! 一歳下の弟だって公爵家嫡男としてのプレッシャーがあるはずなのにその言葉に感動して泣いてしまった。私は勝手に自分を律し家族に壁を作っていた。家族って素晴らしいわ。
そして心を解放し調子に乗った私は屋敷の中で自由にしゃべり自由に振る舞っている。もちろん外では家族に迷惑をかけないよう淑女らしく過ごしている。
「というわけで婚約者候補を辞退することを決意しました!」
私は家族に今までのヴィンセント様とのやり取りを説明し、そして宣言した。
弟は首を傾げて私に問いかけた。
「姉上、この婚約者候補の打診。最初は乗り気だったじゃないですか? 心を閉ざした孤高の王子様の心を開く健気な公爵令嬢の愛の軌跡とか言っていましたよね? 姉上が健気かどうかは置いておいて」
「あの時はそう思ったのよ。私以外の二人の候補の令嬢はヴィンセント様の性格の難しさから早々に断るつもりで嫌われるように振る舞っていたわ。そんな嫌われ者の可哀想な王太子殿下を私が矯正し立派な人間にしてあげるはずだったの」
「あげるって……。姉上、なんでそんなに上から目線なのですか……。相手は王族なのに」
弟が遠い目をしているが私は気にしていない。あの殿下の相手はそう思わなければ挑戦できないのだ。ヴィンセント様は公務も立派にこなし真面目で一生懸命だ。国を担う能力はあると思う。けれど人を思う心、大切にする気持ちが欠落しているような気がする。そう、思いやりだ!
私は別に王太子妃も王妃も興味はない。公爵令嬢だって十分高い身分だ。王族に嫁せば不自由が増えるだけでいいことはない。贅沢ならすでにしているしこれ以上は必要ない。このお話をもらった時、私なら彼を理解しその凍った心を溶かせると思った。私の使命だ! でも気の迷いだった。最後の方は恋とか愛とか関係なく意地になっていただけだったし。そもそもヴィンセント様は孤独でも孤高でもなくて、面倒くさい王子様なだけだ。
「誰にも理解されない孤高の王子様の心を開かせたい!」本気でそう思った私、馬鹿だった……。それによく考えたら私ヴィンセント様のこと全然好きじゃなかった。
あの頃にハマっていた小説が『孤高の王子は令嬢の愛で幸せを知る』という頭の固い王子の心を溶かす健気な令嬢のラブストーリーだった。その影響で私らしくないキャラクターを演じてヴィンセント様に気に入られようとしたがことごとく失敗。今となっては失敗してよかったと思う。
ヴィンセント様に対してこれは無理かもと思ったのはサンドイッチ事件だ。あれは致命的だった。食べ物を粗末にする人間が王族とは世も末だ。私は王女様の小説を読んだ後、公爵家の慈善活動に積極的に携わっている。貧しい人や孤児の支援の中で食べ物の大切さを学んだ。それなのに……。あのあとも彼の心に寄り添おうと一応努力はしたがやっぱり無理だった。何よりも自分を『無』と言い切る相手と恋も情も育める気がしない。
後日、お父様と一緒に陛下に辞退の報告に行った。陛下は「もうちょっと考えてみてくれないか?」と言われたが「無理です!」と即答した。ちょっと不敬かもしれないと心配したが陛下は寛大な方なので助かった。王妃様は「ブリジットちゃんでも無理だったのねえ。困ったわ。他にいるかしら?」と眉を下げていた。申し訳ございません……。
今回のことは私にとっても勉強になった。そう思えば無駄な時間ではなかったはずと自分を慰めた。お互いのために婚約が結ばれる前に破談になってよかった。彼だって『無』の女と結婚なんて可哀想だ。どうかヴィンセント様を真実の愛で包み込むような聖女のような女性が見つかりますようにと心で祈った。(もう私は関わりたくないからね!)
私はこの三カ月間、清楚で穏やかなでしゃばらない女性でいた。彼の好みを調べそう振る舞った。なかなかいい出来だったのだが終わりである。冷静に考えれば結婚したらこれを一生やらなくてはいけなかったのだ。……ゾッとした。我ながら流されて浅はかだったと反省した。
そして私は今、新たな小説にハマっている。その内容は……。
「姉上、懲りませんね…………」
私の耳は弟の声をスルーした。
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