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7.大公、最愛の妻を得る

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「ライラ。これで気が済んだかい?」

「ええ。ようやく気持ちの整理がついたわ。ジョシュア様。ありがとうございます」

「そうか。それはよかった」

 ライラはジョシュアを見上げる。ライラの顔は憂いが晴れて穏やかだ。
 今回ジョシュアは周辺諸国の王族たちと共にアイザック、アニーの王太子夫妻との交流会に参加していた。この国であったことがライラの心の中で重石になっている、それを取り除くために侍女のふりをさせて連れてきた。本来は妻として連れてくるべきだろうが、王太子夫妻と公に交流を持たせたくなかったことと、今後は二度とこの国に関わらせないので侍女姿で紛れ込ませた。

「もうこの国に思い残すことは何一つありません。オリビアはあのとき死んだのです。これからはライラとしての新しい人生を歩んでいけるわ」

「もちろん私の伴侶としての人生だね?」

「ええ。それをあなたが望んでくれるのなら」

「もちろんそうして欲しい。それにしても誰もオリビアだと気づかなかったね?」

 ライラはジョシュアをキッと睨むと頬を目一杯膨らませた。

「ジョシュア様ったらそれは嫌味ですか? 確かに我が家の門外不出の『美しい淑女になる化粧』をしなければ誰も私だと分からないでしょう。物凄い地味顔ですもの。女官長が気づいたことが奇跡だったのですわ」

 ジョシュアは拗ねるような妻の仕草の可愛らしさに思わず抱きしめておでこに口付ける。

「もう! ごまかさないで!」

「そうじゃないよ。私の妻は本当に可愛いな。私は化粧をしている君も綺麗だと思うけど素顔の君の方が美しいと思っているよ」

「そんな奇特な事を言うのはジョシュア様くらいだわ」

 ライラはそう言いながらもジョシュアに甘えるように胸元にすり寄り抱きしめ返す。ジョシュアは愛する女性を手に入れることが出来た幸運を神に感謝した。

 ジョシュアが初めて彼女と会ったのはオリビアが自国に留学してきた時だ。
 彼女の家は植物の研究をしている。それも小麦の交配実験をしていて結果も出している。オリビアの国では小麦が根付きにくくほとんどを輸入に頼っている。土地と気候の相性が悪いのだろう。代々、公爵家で行われた研究の成果でとうとう自国でも豊かに実る新種の小麦を生み出すことに成功した。その改善を兼ねた実験を行うために留学していた。ジョシュアはその研究所の責任者だった。

 留学してきた他国の公爵令嬢はまだ13歳だった。
 大きな瞳が目を引く可愛らしい顔に美しく手入れされた長い髪、そんな高位貴族の令嬢が研究など出来るはずがないと、小娘ごときがとせせら笑って迎え入れた。貴族令嬢が趣味にするには相応しくない。王太子の婚約者だというから箔付のつもりで来たのだろうくらいにしか思っていなかった。
 
 ところが彼女はジョシュアの予想を見事に裏切り最初から優秀だった。知識も豊富で、失敗しても折れずに果敢に挑戦する。他の留学してきた貴族は片手間に研究をしては社交を理由に遊び歩いている。何の成果も残さず留学したという肩書を手土産に帰国していく。
 だがオリビアは研究室に籠って食事すら疎かにしてしまう程没頭し取り組んでいた。

 いつしか自分より10歳も年下の少女に尊敬の念を抱くようになった。ジョシュアはオリビアの研究を成功させてやりたくてできる限りの助力をした。周りはオリビアが一生懸命なのは第二王子である自分の関心を引くための演技だから気を付けろと忠告してきたが、そうでないことは嫌という程ジョシュアは知っていた。
 彼女に興味が湧き食事に誘ったり観劇に何度か誘ったが研究で忙しいと全て断られていた。自分に取り入りたいなら喜んで応じるだろう。それに彼女は婚約者がいる令嬢らしく異性との距離をきちんととり誤解を招く行動をしなかった。
 ジョシュアはその態度も好ましく感じていた。だがそれは共に研究する弟子に対する思いだと考えていた。

 オリビアが留学して5年、ようやく念願の強い小麦の交配を完成させた。徹夜明けで成功をはしゃいで喜ぶ顔は着飾ったどんな令嬢よりも美しく見惚れてしまった。そして誇らしげに帰国の報告に来たオリビアにおめでとうと告げて送り出した。

 ジョシュアが自分の気持ちに気付いたのはオリビアが去った後だった。
 オリビアのいない生活がひどく無機質に感じ色あせて見える。
 ジョシュアは第二王子でありまた容姿も優れている。財力もあり、女性には既婚未婚問わずモテる。それなりに浮名も流したがオリビアと会って研究三昧の日々を過ごすようになってから娼館こそ利用したが女性と付き合うことはなかった。
 父王にも、すでに結婚して世継ぎを儲けた兄にもそろそろ結婚をと言われ何度か見合いをしたが思い浮かぶのはオリビアだった。ジョシュアは自分がオリビアを愛してしまっていたことにようやく気が付いた。歳の離れた婚約者のいる令嬢に恋をするなど愚かしいと自嘲するも彼女への思いを断ち切れず、酒に逃げた日々もあった。それでも王族の矜持を思い出し新たな研究を立ち上げ、多忙な日常を取り戻したころ、オリビアと再会した。

 研究所を出るとすぐそばにあるパン屋の近くに佇む女性の影が見えた。
 そこはオリビアがジョシュアに質問するために仕事を終えて出てくるのをいつも待っている場所だった。その女性の姿を見た瞬間、何の疑問も抱かずにオリビアは自分のもとに戻ってきてくれたと思った。ジョシュアは高揚する気持ちを抑えきれず足早にその女性のもとへ向かった。その時の自分はまるで少年が初恋に浮かされているように心を震わせていた。

 そして女性の顔を見て驚きを露わにした。違う……。最初に感じたのは激しい落胆だった。
 女性の瞳は切れ長で唇も薄い。オリビアは大きな瞳にふっくらとした唇で……女性はジョシュアを見ると瞳を揺らし、涙を溢れさせた。その表情に既視感を覚えて息を呑む。

「……。ジョシュア様……どうか、助けて下さい」

「オリビア? まさか?」

 声はオリビアだとすぐに分かった。自分が聞き間違えるはずがない。だが顔が違う? これは一体どういうことだ?
 分からなくてもジョシュアはこの女性がオリビアだという確信があった。とにかく話を聞こうと屋敷に連れ帰り事情を聞いた。

 そして帰国後の出来事、今の顔こそが自分の本当の素顔であると教えられた。ジョシュアはその事について特に何も感じなかった。ああ、そうなのかと思っただけだ。むしろ素顔のオリビアの方が彼女らしいと好ましく思った。
 ジョシュアはすぐに手を回した。王族の権限を使って彼女の両親に新たな名前と伯爵という地位を与えオリビアにはライラという新しい名前の伯爵令嬢になってもらう。

 この国では他国の者が簡単に永住権を得ることは出来ない。だが理由があり亡命してきた貴族は厳しい審査を通れば優遇される。彼女の父親は植物研究の権威で知られているので問題なく了承された。父王も王太子である兄も、ジョシュアがライラと結婚したいと言えば進んで協力してくれた。家族は留学中のオリビアをとても好ましく思ってくれていたので根回しは簡単なことだった。
 むしろ難しかったのはオリビアの心を手に入れることだった。ジョシュアはひどく緊張しながらオリビアに求婚した。躊躇う彼女を説き伏せてようやくはいと返事を貰いすぐさま結婚式を挙げた。もう、ライラは自分の妻だ。ジョシュアは間違いなく愛する女性を手に入れたのだ。

 ジョシュアはこの国に来る前にいろいろと調べた。そしてオリビアの祖国の王家の闇の深さを知る。
 王族男児は特殊だ。黒い瞳の女性しか愛せない。この大陸で黒い瞳の人間を見る事はない。色素が薄い人間が多くほとんど存在しないがだからといって全くいないわけではない。

 黒の瞳を持つ者は闇の申し子として忌み嫌われ迫害される。たまに捨てられスラムにいることがあるが無事に育つ可能性は極めて低い。
 アイザックは誰も愛していなかった。愛せなかったのだろう。だからメリットのある令嬢の中からオリビアを選んだにすぎない。

 この国の小麦不足は深刻だったが公爵家の研究が完成すれば未来は明るい。その権利を独占するためにオリビアを婚約者に選んだ。ところがアイザックはオリビアが留学中に黒い瞳の女性を見つけた。

 それが男爵令嬢アニーの双子の妹だ。黒の忌み色を持つことで生まれた時から男爵家の地下で存在を隠され育てられた娘はアイザックに買い取られた。男爵は忌み子の娘を渡す条件にアニーを王太子妃にすることを要求した。アイザックにとって妃は誰でも構わないので受け入れたのだろう。

 そうは言っても公には出来ない取引の婚姻だ。男爵令嬢という身分の少女を妃にするのは簡単なことではない。だから流行の恋愛小説をなぞりオリビアを悪役令嬢に仕立てることで、アニーとはまるで大恋愛で結ばれたように見せかけた。国民感情を味方につけ順調に見えたがそこに欠点もあった。想像以上にアニーの出来が悪く王太子妃の公務を任せられそうにない。アニーの失態で自分が恥をかくことにも耐えられなかったのだろう。公務を別の人間に任せる必要が出来た。そこで侯爵令嬢であるローラとの交流を始めた。彼女は妃になりたがっていたようだし侯爵家は豊富な鉱山を持っている。いずれはローラを妃にするかもしれない。
 アイザックの見目麗しく穏やかそうに見える風貌からは想像できないが彼は狡猾な男だ。
 きっと自分の望みが叶いさぞ満足しているだろうが、それも今だけだ。

 ジョシュアは出発前にオリビアの父と話をしたことを思い出す。
 彼は根っからの研究者だった。伯爵位を与えても研究所で働きたいと言って今も貢献してくれている。
 オリビアたちの小麦の交配の研究は概ね完成したと思われていた。アイザックはその資料をすべて持っているので活かすつもりだろう。悔しくないのかと聞けば義父は少し困った様に笑った。

「あの国は一年中暑いのです。通常の小麦は暑さに負けて枯れてしまい実りが少ない。しかしそれに適応する交配に成功した小麦は無事実ることでしょう。ですが、暑さに配慮した交配なので寒さには適応できないことが先日発覚しました。寒くても育つことは出来ますが一定の温度を下回ると小麦はストレスから毒を含みます。その結果毒を持つ食べることのできない小麦が実を成すのですよ。研究はまだ半ばで完成は遠いようです。実は……統計によれば来年以降のあの国は……異常気象で寒い年が数年続くことになりそうです。研究した小麦は……きっとその環境に耐えられないはずです。だからといって今までの小麦が寒い環境で育つ保証もない、いや急激な気象の変化に適応することの望みは薄いと思います……」

 異常気象が数年も続けば食糧事情は大打撃を受けるだろう。輸入に頼っていれば足元を見られ値段を吊り上げられる可能性もある。どれほど財政を圧迫しようとも食料は必要だ。そうなればあの国の行く末は…………。

「そのことをライラには?」

 義父は緩く首を振り否定した。

「今、娘に知らせるつもりはありません。知ればアイザック様に伝えるべきかと悩むでしょう。だから話すなら帰国してからにしようと思っています。私はこれ以上娘があの国の未来を案じて心を痛めることを望みません。ですから、ジョシュア様。この話を王家に伝えるかどうかの判断をあなたに委ねたい。私も……許せないという思いを拭いきれないのです」

 自分は卑怯者ですと申し訳なさそうに目を伏せる義父にジョシュアは頷いた。
 そして結果的にジョシュアは教えなかった。

 オリビアたちの努力の結晶をあまりに軽んじ取り上げたことがジョシュアも許せなかったからだ。
 最初は関係ない民がそれを食料にしてしまうことに危惧を抱き迷ったが、交配した小麦は王都の研究所で実験的に育てられてまだ本格的に国内で生産していない。実っても民の手には渡らないと聞いて告げないことを決断した。来年、寒さの中で育った小麦に毒がある事に気付いてから自分たちで研究を続けて改良していけばいい。

 翌日、ジョシュアは愛する妻とともに出国した。何の感慨を抱くこともない国だった。
 この国を訪れることは二度とないだろう。


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