初恋の人が妹に微笑んでいました

四折 柊

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3.初恋の終わり

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「こんにちは、バルテル様」
「こんにちは、ウエーバー様」

 それからオーディスは毎日図書室に現れヴァネッサに声をかける。そしてヴァネッサの向かいの席に腰を下ろすと本を読む。 実はお礼を言われた翌日にオーディスに懇願された。ここで読書をさせて欲しいと。

「この席は死角になっていて人に見つかりにくい。私は昼休みを静かに過ごしたいのだ。あなたの大切な場所だと分かっているが私にも使わせてくれないか?」
「え? それはもちろん構いませんが」

 図書室は公共の場所でヴァネッサへの断りは必要ない。どこの席を使おうともオーディスの自由だ。それでも死角となるこの席への同席の許可を求められたことに、彼の誠実さをみた。そして密かに秘密の場所を共有することに喜びを感じていた。
 オーディスは放課後だけでなく昼休みも女子生徒たちに追われているようだ。学園にいる間は休まる時間がなくて気の毒過ぎる。彼が静かに過ごせる場所を提供できることが嬉しかった。

「私がいてもよければどうぞ」
「心優しいレディ。感謝する」

 オーディスはどこかお道化たように恭しくお辞儀をした。

「まあ! ふふふ」

 顔を上げたオーディスと目を見合わせくすくすと笑い合う。笑いをおさめるとオーディスは難しい本が並んでいる棚へ向かい一冊手に取って戻ってきた。そのままヴァネッサの向かいの席に座わり本を読み始める。ちらりと本を覗けば他国の言葉で書かれている本だった。ヴァネッサにはとうてい読めそうもないがオーディスはスイスイと読み進めている。 
 その日から二人は昼休みを図書室で一緒に過ごすようになった。基本的にはお互いが各々の本を読んでいるだけでおしゃべりはしない。でも時間が経つにつれ、本の貸し借りや感想をひそひそ声で話すようになった。
 オーディスはわざわざ屋敷から図書室にはない本を持って来てくれた。「私のお勧めだからぜひ読んで欲しい」と。難しい経済の本かと思い恐る恐る受け取れば、ミステリー小説だった。外国の翻訳された本は高価なものなのでヴァネッサのお小遣いでは手が出せない。ありがたく借りれば彼はその後も惜しげもなく何冊も貸してくれた。
 
 ヴァネッサが自分は伯爵家の跡継ぎで領地経営の勉強をしているけれど難しいとこぼした。
 オーディスは自分が使っている専門書を持ってきてヴァネッサに細かく教えてくれた。オーディスが使うものだから公爵家に対応するような高度な内容で、ヴァネッサには難しすぎる。それでも無駄にはならないと一生懸命教えてもらった。オーディスは博識でヴァネッサが質問すると色々なことを教えてくれる。テスト前には一緒に勉強することもあった。ヴァネッサにとって楽しく幸せな時間だ。
 そんな風に続いた思いがけない二人だけの秘密の時間は誰にも見つからないまま三年続き、学園の卒業を迎えた。

 卒業してしまえばオーディスとの接点はなくなる。貴族同士なので社交界に出れば会うこともあるだろうし、挨拶はするだろう。でもヴァネッサは権力も特になく財力も中くらいの伯爵令嬢。オーディスは王家の血筋も入る公爵子息だ。身分が違い過ぎて今までのように気軽に話すことはできない。学生だから許された関係がもうすぐ終わる――。
 
 ヴァネッサは卒業式の後に勇気を出してオーディスを呼び出した。
 学生時代のささやかな青春と幸せな時間をくれたお礼をしたかった。彼に渡そうと布でしおりを作った。刺繍もしてある。気に入ってくれるといいけれど。
 
 恋人でもないただの友人が高価な物を贈るわけにはいかない。彼からもらったのは最初の飴だけだったし、ヴァネッサも何かを贈ったことはなかった。私たちは三年間、正しく友人だった。それ以上でも以下でもなく、お互いを家名で呼び合い名前を呼ぶこともなかった。そんな異性の友人に誤解されることなく渡せるプレゼントならこれくらいが妥当だと思えた。
 
 これを渡してヴァネッサの心に芽生えた甘く切ない気持ちを終わりにする。その気持ちに名前を付けてしまうと苦しくなることは分かっていた。
ヴァネッサは図書室のいつもの席で緊張しながら待った。しばらくすると少し息を弾ませたオーディスが来た。卒業式の後なら彼と話をしたい人も多い。もしかしたら急いで来てくれたのかもしれない。

「待たせしてしまったかな?」
「いいえ。私もさっき来たばかりです。呼び出してしまってごめんなさい」
「大丈夫だよ。それで話って?」
「あの、これを渡したくて」

 ヴァネッサはピンク色の包装紙に包んだ栞を差し出した。オーディスは嬉しそうに目を細め迷うことなく受け取ってくれた。

「今、開けても?」
「はい。どうぞ」

 オーディスは丁寧にラッピングを開けると栞を見て目を見開いた。

「これは栞だね。刺繍はもしかして…………ノア?」
「はい。私の勝手なイメージで申し訳ないのですが、よかったら使って下さい」

 刺繍はドーベルマン。以前、オーディスが子供の頃飼っていた愛犬の話をしてくれた。ドーベルマンで名前をノアと言う。彼にとって一番の親友で大切な家族。数年前に老衰で亡くなってしまったそうだ。人と犬では寿命が違うのだから仕方がない。でも今でもノアが忘れられなくて、他の犬は飼えないと言っていた。栞の刺繍では慰めにはならないかもしれない。でもオーディスの側にはきっと今もノアがいる。そんなイメージで刺繍をした。もちろんヴァネッサはノアを見たことはないので、オーディスの話からイメージしたノアなのだが、彼が喜んでくれたらいいなと心を込めた。
 オーディスは思いを馳せるように目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。するとコバルトブルーの瞳が柔らかな色を滲ませヴァネッサを映す。

「ありがとう。私のノアだ。嬉しいよ。私はこれからもノアと一緒にいられるのだな」

 望外の言葉にヴァネッサは嬉しくなった。本当はウエーバー公爵家の家紋を刺繍しようか悩んだ。でもヴァネッサは婚約者でも恋人でもない。家紋を刺繍するのは図々しいような気がしてやめた。でも花などありきたりな図案ではなく彼にとって印象に残るものを渡したかった。それで話に聞いていた愛犬ノアに決めたのだ。

「喜んでもらえてよかったです」
「あ……。すまない。私は手ぶらで来てしまった」

 オーディスは情けないと手を額に当て眉を下げた。ヴァネッサは慌てて首を横に振る。オーディスが喜んでくれた。それだけでヴァネッサの心はとても満たされていた。それに最初からオーディスから何かを貰おうとは考えていなかった。

「いいのです。これは三年間、私と仲良くして下さった、お友だちへのお礼ですから」
「お友だち……。そうか、そうだね……」

 オーディスは笑顔から一転、どこか寂しそうな表情になった。

「その……バルテル様は家を継ぐのだよね? 妹のアデラ様はどうされるのかな?」

 ヴァネッサはその質問に心が一瞬で冷えた。それはヴァネッサの妹アデラの名前が出たからだ。オーディスはアデラに一度だけ会ったことがある。たった一度会っただけで彼はアデラに惹かれたのだろうか。
 さっきまでの満ち足りた幸福な気持ちは一瞬で霧散してしまう。返事をするヴァネッサの声はすべてを拒絶するような響きを帯び硬くなった。

「アデラの将来はまだ決まっていません。もちろん家は私が継ぎます。ウエーバー様は……アデラのことが気になりますか?」

「……いや。何でもないんだ。変なことを聞いてすまない」

 オーディスは急変したヴァネッサの態度に困惑している。それでもヴァネッサは取り繕えそうもなかった。

「私、これで失礼しますね。お忙しいのに呼び出してしまってごめんなさい。ウエーバー様、お元気で」

「ああ……。バルテル様もお元気で。栞をありがとう。大切に使うよ」

 ヴァネッサは頭を下げるとすぐに図書室を後にした。逃げるように小走りで廊下を進む。
 馬鹿なヴァネッサ。オーディスに何を期待していたというの? 栞を渡して最後の挨拶を交わす。予定通りだ。でも心の隅で少しだけ期待した。自分が彼に好意を抱いたように、オーディスも好意を持ってくれたのではと。それを示す言葉をくれるのではないかと……。
 でもオーディスは何も言わなかった。それどころかアデラの名前を出した。アデラは天使のように可愛くそして優しい。誰をも魅了するヴァネッサの自慢の妹だ。でもオーディスの口から聞きたくなかった。
 オーディスはたった一度会っただけのアデラに好意を抱いたのだろうか。でも今まで彼からアデラの名前を聞いたことはなかった。二人がやり取りをしている気配はない。今になってどうしてという思いと、ヴァネッサは家名でしか呼んでもらえないのにアデラは名前で呼ぶということに嫉妬した。

 ヴァネッサは裏庭に向かった。そこに誰もいないことに安堵した。
 ヴァネッサは喉にせり上がってくるものをゆっくりと息を吸って堪えたが、どれだけ我慢しても瞳には薄い水の膜が盛り上がり、すぐに大粒の涙となって頬を滑り落ちた。

「うっ……っ……」

 こうしてヴァネッサの初恋は終わった――。




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