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第四章
奴が笑ってる
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男は、漁協のある田烏漁港から国道162号線に入り、バラック小屋のある西へ向かって車を走らせていた。
男は少々苛立っていた。
ここ数年、何をしても上手く行かない流れ
その流れが、第二の人生の門出である今日も如実に現出したことに嫌気がさしていた。
男は動かない右脚に構わず、全体重をアクセルに載せ、猛スピードで海岸線を突き進んだ。
一つ、二つトンネルを抜けると、次第に男の苛立ちは薄らいでいった。
男は踏み込んだ右脚をアクセルからそっと浮かせ、徐々にスピードを落とし、右手に見える海原を見遣った。
すると、
男は何かが自分を呼んでいるような、何とも言えぬ刹那感を覚えた。
そして、海原を見つめる瞳がじわじわと熱くなり、自然と涙が滲み出た。
男は惨めな自分を自分で誤魔化すようにサングラスを掛け、ショート・ホープを咥え、火を付けた。
そして、窓を開け、煙草の煙を潮風に流しながら、ゆっくりと車を進めた。
右手薬指と中指に挟んだショート・ホープがフィルターだけに縮み、右手前方にバラック小屋のある漁村が見え始めた。
その時、
男の心の中に、忘れかけていた何かが朧げに浮かび上がった。
男はバラック小屋に戻ると、部屋に入ることなく、裏の納戸に行き、竿ケースと小道具箱を車に積み込んだ。
そして、男は何かに急かされるよう車を出し、再度、来た道を引き返し、漁協を越えて、国道162号線を東に向かった。
5キロ程車を走らせ犬熊海水浴場の駐車場に車を停めた。
男は車から降りると砂浜に続く通路を探した。
駐車場と砂浜の境は、高さ1m程のブロック塀で区切られており、そこから青い海がよく見え、砂浜に押し寄せる波の音も規則正しくリピートしていた。
ブロック塀の右方向には、砂浜に通ずる階段らしき構造物が見て取られたが、全面を雪で覆われ、その段数も分からないことから、右脚が不自由な男は、そこから降りることを躊躇った。
男は、仕方なく、左方向にあるトイレ・シャワー室の施設小屋の方へ歩いて行った。
すると施設小屋の裏側に緩やかな坂道が砂浜へと続いていた。
やはり坂道も雪で覆われてはいたが、男は、一歩、一歩、ずぶり、ずぶりと脚と杖を雪に突き刺しながら、恰も雪が接着剤であるかのように、着実に降りて行った。
勾配の緩やかな坂道は、松林の下まで行くと、道色が雪色から土色に変わった。
男は、そこで立ち止まり、しっかりと土を踏み締め、海と向かい合った。
土は、雪とは違い、足裏を心地よく指圧するかのように重力を確実に受け止め、男の直立を安定させた。
そして、男は、覚悟を決めたかのように、一歩、一歩、しっかりと土を踏み締めながら波打ち際まで歩いて行った。
男は波打ち際まで来ると、浜辺に杖を突き刺し、そして、両足を海水に漬け込んだ。
男は、大きく深呼吸をし、海の香りを肺細胞に染み込ませ、暫し瞑想をした後、ゆっくりと瞼を開いた。
「奴が笑ってる。」
男は呟いた。
男の眼前の大海原の中、無数の白い小さな波が孵化していた。
産まれたばかりの波は、「さざなみ」となり、白い歯を覗かせ、水面で無邪気に遊んでいるように見えた。
静かな温和な海であった。
右前方彼方に見える獅子ヶ崎半島は、昨日死んで、今日生まれ変わったかのように、本来の色彩である緑色を青い海原に映えさせていた。
左前方には、幾つもの養殖牡蠣の筏が、「ゆりかご」のように安心して、ゆらゆらと浮かんでいた。
男も何となく安心した。
男は、浜辺に突き刺した杖をそのままにし、幾分、早足で車に戻ると、竿ケースと小道具箱を両手に携え、杖の位置まで戻って来た。
そして、男は竿ケースのジッパーを下ろした。
中には3本の竿が入っていた。
この竿ケースを開けるのは、15年前、和歌山県の南紀白浜に家族でキャンプに行って以来のことであった。
男は3本の竿の内、4000型スピニングリールが装着されたままの5.3mの4号竿を取り出した。
男はそっと竿先のキャップを外し、ゆっくりと道糸と一緒に竿先を伸ばした。
道糸の先端には、スナップサルカンの金具が風に揺らいでいた。
「あの時、良いの釣ったよなぁ」と
男は誰かに話すよう囁いた。
この竿は16歳で亡くなった息子がよく使っていた。
男は道糸を緩め、サルカンを指で摘むと、指の爪で付着した錆を削った。
そして、小道具箱を開け、10号錘付きの天秤をサルカンのスナップに通し、天秤下にキス・カレイ用のハリス付き3号針を装着した。
男は竿を握り直し、餌の付いてない仕掛けのまま、後方に竿を寝かせると、バットスイングのように左脚を大きく踏み込みながら、「ビュン」と竿を背負投げた。
「シュル、シュル、シュル」と
道糸が竿のガイドに擦れる音が響き渡った。
男は前方を見据えた。
瞬時の沈黙が男だけをベールのように包み込んだ。
そして、真正面の方向で天秤仕掛けが海面に着水した。
男は仕掛けが海底に到着するまで糸出しをし、到着の合図として竿先が「コクリ」と頷くよう反動すると、ゆっくり、ゆっくり、リールを巻いて行った。
「ゆっくり、ゆっくり、慌てるな、慌てるな…」
15年前、男が息子に叫んだ言葉を…、
男は何度も何度も囁きながら、ゆっくりとリールを巻いて行った。
息子は、男が東京に単身赴任で家を出た半年後、
自宅自室で首を吊って自殺した。
息子も父親の影響で大の釣り好きの少年であった。
男はこんな浜辺でキス・カレイ狙いの投げ釣りを息子と一緒にしていた頃を思い出していた。
「お父さん、来たよ!来たよ!当たりが来たよ!」
「よし!慌てるな、ゆっくり、ゆっくり巻け!慌てるなよ!」
「うん!」
「そう、そう、ゆっくり、ゆっくり、慌てるな、慌てるな…」
男は、右脚が動かないことも忘れ、餌も付けてない仕掛けを、何度も何度も海に向かって投げ入れ、
そして、自分に言い聞かせるよう、同じ言葉を囁いた。
「ゆっくり、なぁ、ゆっくり、なぁ、そう、慌てず、ゆっくり…」
右前方彼方の獅子ヶ崎半島が涙で霞み、蜃気楼のようにぼんやりと海に浮かんで見えた。
男は少々苛立っていた。
ここ数年、何をしても上手く行かない流れ
その流れが、第二の人生の門出である今日も如実に現出したことに嫌気がさしていた。
男は動かない右脚に構わず、全体重をアクセルに載せ、猛スピードで海岸線を突き進んだ。
一つ、二つトンネルを抜けると、次第に男の苛立ちは薄らいでいった。
男は踏み込んだ右脚をアクセルからそっと浮かせ、徐々にスピードを落とし、右手に見える海原を見遣った。
すると、
男は何かが自分を呼んでいるような、何とも言えぬ刹那感を覚えた。
そして、海原を見つめる瞳がじわじわと熱くなり、自然と涙が滲み出た。
男は惨めな自分を自分で誤魔化すようにサングラスを掛け、ショート・ホープを咥え、火を付けた。
そして、窓を開け、煙草の煙を潮風に流しながら、ゆっくりと車を進めた。
右手薬指と中指に挟んだショート・ホープがフィルターだけに縮み、右手前方にバラック小屋のある漁村が見え始めた。
その時、
男の心の中に、忘れかけていた何かが朧げに浮かび上がった。
男はバラック小屋に戻ると、部屋に入ることなく、裏の納戸に行き、竿ケースと小道具箱を車に積み込んだ。
そして、男は何かに急かされるよう車を出し、再度、来た道を引き返し、漁協を越えて、国道162号線を東に向かった。
5キロ程車を走らせ犬熊海水浴場の駐車場に車を停めた。
男は車から降りると砂浜に続く通路を探した。
駐車場と砂浜の境は、高さ1m程のブロック塀で区切られており、そこから青い海がよく見え、砂浜に押し寄せる波の音も規則正しくリピートしていた。
ブロック塀の右方向には、砂浜に通ずる階段らしき構造物が見て取られたが、全面を雪で覆われ、その段数も分からないことから、右脚が不自由な男は、そこから降りることを躊躇った。
男は、仕方なく、左方向にあるトイレ・シャワー室の施設小屋の方へ歩いて行った。
すると施設小屋の裏側に緩やかな坂道が砂浜へと続いていた。
やはり坂道も雪で覆われてはいたが、男は、一歩、一歩、ずぶり、ずぶりと脚と杖を雪に突き刺しながら、恰も雪が接着剤であるかのように、着実に降りて行った。
勾配の緩やかな坂道は、松林の下まで行くと、道色が雪色から土色に変わった。
男は、そこで立ち止まり、しっかりと土を踏み締め、海と向かい合った。
土は、雪とは違い、足裏を心地よく指圧するかのように重力を確実に受け止め、男の直立を安定させた。
そして、男は、覚悟を決めたかのように、一歩、一歩、しっかりと土を踏み締めながら波打ち際まで歩いて行った。
男は波打ち際まで来ると、浜辺に杖を突き刺し、そして、両足を海水に漬け込んだ。
男は、大きく深呼吸をし、海の香りを肺細胞に染み込ませ、暫し瞑想をした後、ゆっくりと瞼を開いた。
「奴が笑ってる。」
男は呟いた。
男の眼前の大海原の中、無数の白い小さな波が孵化していた。
産まれたばかりの波は、「さざなみ」となり、白い歯を覗かせ、水面で無邪気に遊んでいるように見えた。
静かな温和な海であった。
右前方彼方に見える獅子ヶ崎半島は、昨日死んで、今日生まれ変わったかのように、本来の色彩である緑色を青い海原に映えさせていた。
左前方には、幾つもの養殖牡蠣の筏が、「ゆりかご」のように安心して、ゆらゆらと浮かんでいた。
男も何となく安心した。
男は、浜辺に突き刺した杖をそのままにし、幾分、早足で車に戻ると、竿ケースと小道具箱を両手に携え、杖の位置まで戻って来た。
そして、男は竿ケースのジッパーを下ろした。
中には3本の竿が入っていた。
この竿ケースを開けるのは、15年前、和歌山県の南紀白浜に家族でキャンプに行って以来のことであった。
男は3本の竿の内、4000型スピニングリールが装着されたままの5.3mの4号竿を取り出した。
男はそっと竿先のキャップを外し、ゆっくりと道糸と一緒に竿先を伸ばした。
道糸の先端には、スナップサルカンの金具が風に揺らいでいた。
「あの時、良いの釣ったよなぁ」と
男は誰かに話すよう囁いた。
この竿は16歳で亡くなった息子がよく使っていた。
男は道糸を緩め、サルカンを指で摘むと、指の爪で付着した錆を削った。
そして、小道具箱を開け、10号錘付きの天秤をサルカンのスナップに通し、天秤下にキス・カレイ用のハリス付き3号針を装着した。
男は竿を握り直し、餌の付いてない仕掛けのまま、後方に竿を寝かせると、バットスイングのように左脚を大きく踏み込みながら、「ビュン」と竿を背負投げた。
「シュル、シュル、シュル」と
道糸が竿のガイドに擦れる音が響き渡った。
男は前方を見据えた。
瞬時の沈黙が男だけをベールのように包み込んだ。
そして、真正面の方向で天秤仕掛けが海面に着水した。
男は仕掛けが海底に到着するまで糸出しをし、到着の合図として竿先が「コクリ」と頷くよう反動すると、ゆっくり、ゆっくり、リールを巻いて行った。
「ゆっくり、ゆっくり、慌てるな、慌てるな…」
15年前、男が息子に叫んだ言葉を…、
男は何度も何度も囁きながら、ゆっくりとリールを巻いて行った。
息子は、男が東京に単身赴任で家を出た半年後、
自宅自室で首を吊って自殺した。
息子も父親の影響で大の釣り好きの少年であった。
男はこんな浜辺でキス・カレイ狙いの投げ釣りを息子と一緒にしていた頃を思い出していた。
「お父さん、来たよ!来たよ!当たりが来たよ!」
「よし!慌てるな、ゆっくり、ゆっくり巻け!慌てるなよ!」
「うん!」
「そう、そう、ゆっくり、ゆっくり、慌てるな、慌てるな…」
男は、右脚が動かないことも忘れ、餌も付けてない仕掛けを、何度も何度も海に向かって投げ入れ、
そして、自分に言い聞かせるよう、同じ言葉を囁いた。
「ゆっくり、なぁ、ゆっくり、なぁ、そう、慌てず、ゆっくり…」
右前方彼方の獅子ヶ崎半島が涙で霞み、蜃気楼のようにぼんやりと海に浮かんで見えた。
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