最後のリゾート

ジョン・グレイディー

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第十二章

組織との折り合い

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 彼は深い眠りから目を覚ました。枕元の携帯は、金曜日の午前6時を表示していた。
 彼の鬱病が再発してから、やっと2週間が経とうとしていた。

 今朝の目覚めは、今までとは違って、非常に清々しいものであった。
 こんな気分の良い朝を迎えたのは何年振りか、いや、ここ何十年間、彼の記憶にはなかったものだった。

 黒い影は確かに言い残した
 「そう遠くない」と確かに言った。
 その言葉、その記憶が彼に新たな希望を与えていたのだ。

 その日を境にして、彼の生活は一転した。
 寝てばかりいた自宅療養生活は、とても充実したものへと変化していった。

 医者の指示どおり、三度の食事の時間はちゃんとテーブルに着き、食した。

 また、昼からパート勤めの妻を助けるため、皿洗い、ゴミ出し、買い物、掃除、洗濯といった家事全般を彼が率先して行うようになり、時には夕食も作るようになった。
 そして、残りの時間は教会でもらったポケット版の聖書を読み耽る日々を送っていた。

 妻は喜び、この調子で行けば、彼の鬱病はカウンセリングの入院治療は必要ないとさえ思い始めていた。

 妻は、彼の身体と心が悲鳴を上げていることはしかと承知しているものの、家計を預かる身としては、彼に職場復帰の可能性が僅かでもあるのであれば、そうして欲しいとした願いも持っていた。
 
 子供達の教育ローンの返済、家族の医療費、娘の音楽活動への支援、そして秋に結婚する息子の結婚費用などなど、家計的には彼の稼ぎはまだまだ必要とされていたのだ。

 また、妻は、極力、退職金を食い潰すことなく、彼との穏やかな老後生活を夢として持っていたのだ。

 そんな充実した生活を送り続け、長い長い1月がようやく終わり、2月1日を迎えた。

 彼はこの日について、特別な意識を持っていた。

 黒い影から「そう遠くはない」と告げられてから、彼の心中には、清算すべき二つの課題、二つの「折り合い」が生まれていた。

 一つは「神との折り合い」、
 もう一つは「組織との折り合い」であった。

 2月1日とは、彼の会社では、幹部職員の次期異動についての内内示の日であった。

 人事部長である彼には、この日、会社が彼に対し、最終的なアクションをして来ることが、火を見るより明らかに分かっていた。

 その日の午前9時、やはり社長からのメールが届いた。

 その内容趣旨は、ウィルス後遺症であった腎臓動脈血栓による血圧異常が腎臓障害に及んでないことへの労りから始まり、本題として、そろそろ、直に面談して来季の配属場所の相談がしたいとのことであった。
 加えて、ウィルス感染対策の新たな方針が構築されたので、是非とも彼に見せたいものがあるとのことであった。

 面会場所は、彼に気を遣い、彼のマンションに伺いたいが如何かとも書かれていた。

 彼は社長のメールを読み終えると、「本当に品格のない社長だわ」と苦笑いした。
 社長自らがお出ましとは、次長に任せれば良いものの、親会社の直接的な指示は、嘸かし「美味しい」仕事なんでしょうとある意味、呆れてしまった。

 この社長は、大会社の社長としては、人間的に非常に幼く軽い男であった。
 
 未だ、親会社時代の忖度癖が抜けきれず、自身の出世ばかり気にして、外部から見られる「社長」としての品格を備えるなど、腰掛け社長のこの男にとっては、全く不必要なスキルであった。

 彼は、社長に対して、彼のマンションではなく、最寄り駅前のスクランブル交差点近くにある喫茶店で、午前11時に待っている旨を返信した。

 午前10時45分、彼は妻に、コンビニに煙草を買いに行くとだけ言い、待合せ場所の喫茶店に向かった。
 その喫茶店は、彼のマンションから徒歩5分で行ける距離であった。

 彼は、途中、コンビニで煙草を4箱買い、その喫茶店に向かった。

 彼が喫茶店に着いたのは11時前ではあったが、案の定、腰軽な社長は既に喫茶店内のカウンターに座っていた。

 彼は社長に軽く挨拶をし、社長に店奥の喫煙コーナーのテーブルに移動するよう促し、奥へと連れていった。

 彼は通勤途中、今時、煙草が吸える貴重な喫茶店として、ここをよく利用していた。

 席に着くと彼は先ず、愛煙のショートホープの箱を上着のポケットから取り出し、社長に遠慮することなく、ジッポライターで火を十分に着け、一息深く吸い込み、そして、ゆっくりと鼻と口から煙を吹き出した。
 ショートホープ特有の濃い紫煙がもくもくと入道雲のように湧き上った。

 社長はマスクを付けているのにも拘らず、咳き込んでしまった。
 社長は煙草嫌いであった。彼はそのことをよく存じ上げていたが、構わず、更に煙を立ち昇らせた。

 喫茶店のマスターが冷水とお手拭きを持ち、注文を取りに来た、彼はアイスコーヒー、社長はホットコーヒーを頼んだ。

 社長はマスクを外し、お手拭きで顔を拭いた。

 彼はその幼い顔をまじまじと見つめた。

 彼と社長は同じ歳であったが、背格好も顔貌も性格も学歴も正反対であった。

 彼はがっしりと筋肉質で身長は175センチぐらいの体格であったが、社長は170センチには届かず、ポッチャリとした背格好であった。

 顔貌は、彼は彫りの深い外人みたいな顔であったが、社長は丸顔で年齢的に幼い面持ちであった。
 よく取引先が訪問した際には、彼が社長に間違えられることがよくあった。

 性格は彼は九州生まれでもあり無骨な性格であったが、社長は調子の良い東京生まれのボンボンで嫌味な性格をしていた。

 学歴は彼は二浪して九州の二流私立大学の出身であったが、社長は東京都の小中高大の一貫式の名門私立大学を出ていた。

 酒は彼は底なしに強く、飲んでも飲んでも顔色は変わらず酒癖も良かったが、社長は乾杯のビール一杯で顔が赤くなるくせに、話し好きで延々と黙れも知らない自慢話をするといった酒癖の悪い男であった。

 彼は社長の歓迎会の時を思い出した。
 喋り好きの割には話し下手で、やはり辺り構わず自分の自慢話ばかりしていた。

 「私は親会社の方針で一年間、この会社に席を置くが、その後は親会社の部長職になると約束されている」と宣い、
いきなり社員のやる気を奪い去った。

 社長の話は終始、誰も知らない親会社時代の苦労話が延々と続き、独身でもあるこの男は、嫌がる女性社員を無理矢理隣に座らせるなど、正に殿様気分を浅ましいほど露呈させていた。
 
 彼と社長の最大の隔たりは、会社に対する従順度であった。

 敢えて2人を動物に例え分かりやすく説明するならば、社長は会社に終始尻尾を振り続ける飼い犬「芝犬」のような感じであったが、彼は手負の危険な「狼」という感じであった。
 
 彼はそんな社長を最初に見た時から生理的に大嫌いであった。
 そして、「奴と同じ高校であれば、間違いなく、殴り飛ばし、土下座させ、足で頭を踏みつけていただろうと」常々思っていた。

 彼は社長が口を開くまで、社長の顔を見続けた。

 実力のないボンボンめ!と思いながら白々と眺めた。

 髪の毛は天然パーマが少しかかり、横髪はオヤジのくせに今風のカットをしていた。

 服装もいつもどおり、黒の背広に白のワイシャツ、そして、趣味の悪い高そうな柄モンのネクタイをしていた。
 正に見掛け倒しの雑魚に見えた。

 一方、彼はジーズンに黒の革ジャン、髪の毛はボサボサ、ショッポを咥え、仕切りに煙をあげており、

 この2人の佇まいを周りから見ると、恰も銀行の支店長らしき人が中小企業の経営者に融資の相談を受けているように見えた。

 社長は、彼がウィルス感染から職場復帰した時の疎い表情は微塵たりとも見せず、仕切りに彼の容態を気遣った。
 おそらく、社外取締役からの助言どおりに振る舞っているのだなと彼は思った。

 一応、彼は社長に対して、ご迷惑をお掛けしますと言うだけは述べた。

 マスターがコーヒーも持って来てそれぞれの前に置いた。
 そして彼も社長も一口飲んだ。

 すると、社長が本題を切り出し、鞄の中から大そうに開き封筒を一枚取り出し、その中から一枚のペーパーを彼のもとに指で押しやった。

 そのペーパーは、異動計画表であり、彼の名前の書かれた枠に矢印が示され、次の異動先の枠は、やはり仙台支社の「復興対策室長」であった。

 社長は、ここなら、貴方の今の健康状態でも十分勤務できる、勤務時間は午前10時から午後4までとすると恩を着せるように言った。

 現在、彼は午前7時には出勤し午後6時には帰宅するという早出勤務をしていたので、出社及び帰宅時間は今と変わりはなかった。 
 単に通勤時間が長くなるだけであり、交通用途は新幹線とこの上なく最適であり、全額会社持ちであった。

 さらに役職手当も据え置きで給与の総額も変動がない提案であった。

 彼は、予想どおりの結果に、以前はメンタル席、ウィルス感染者席の特別待遇に自身の実力を軽視した会社に対し、怒りを感じていたところ、今は何も感じなかった。

 彼はそれを一通り読むと社長に指で押し戻し、そして上着の内ポケットから封筒を取り出し、社長に辞表を手渡した。

 社長は困惑した表情を浮かべ、辞表は撤回したのではと言いかかったが、
 彼はそれを遮りこう言った。

 「異動は社に任せます。ただ、いつ復帰できるかわかりませんので、その場合、ご迷惑をかけることになるので、その際は人事に穴が空かないよう、この辞表で対応してください。

 私が退職すれば新入社員の枠ができます、このウィルスの中、まだ就職難民が沢山います。いい人材もいるはずです。」と

 そう言うと彼はコーヒーを一飲みし、席を立ち、社長に礼をし、喫茶店を出た。
 
 社長は取り敢えずホッと一息付き、携帯で彼の問題は無事終えたことを親会社に報告した。

 電話をかけ終わった瞬間、社長は、あっと声を上げ、勘定を急いで済ませ、彼を追いかけた。

 彼は駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしていた。

 社長は彼に追いつき、「人事部長、もう一つお知らせが」と息を切らせながら彼に向かって叫んだ。

 スクランブル交差点の歩行者用の信号が青になった。
 横断歩道を渡る人の波の中、2人は立ち止まり、あたかも血管にできた血栓のようにその流れを邪魔していた。

 社長は急いで鞄の中から封筒を取り出し、一枚のカラー文字の用紙を彼に渡した。
 そして、社長は彼にこう言った、

 「貴方の進言が通りましたよ」と

 彼はその紙を受け取り、それを読むと、表題には「当社のウィルス感染者についてのお知らせ」と書かれており、取引会社宛の通知であった。

 彼が感染した後、福岡支社の社員がウィルス感染した。その社員の公表の内容は、彼の時とは違い、支社名のみで年齢、性別、部署名は省略されていた。

 社長は、今のウィルス感染の状況、いつでもどこでも感染する状況、ウィルスと共存する状況からして、公表は感染者が勤務する場所のアラートのみとし、感染者の個人情報は必要最低限に抑え、感染後の社員のアフターケアーを重視する方針が構築されたと説明した。 

 そして、「貴方のお陰です」と彼に礼を言った。

 彼はそれを受け取り社長に礼を言い、丁度、また、青になった横断歩道を渡って行った。

 彼は思った、会社との折り合いはついた、犬死だけは避けられたなと

 彼の気分はより一層、軽くなった。
 良い流れに乗れたような感じがした。

 彼は帰宅の途中、スーパーに立ち寄り、鳥団子鍋の材料を買った。
 彼の得意料理であった。
 
 彼は黒い影の言葉を思い出していた。

 「そう遠くはない」

 そして、妻、娘が喜ぶ顔を少しでも多く見ようと思った。
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