最後のリゾート

ジョン・グレイディー

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第二章

過去の不運と未来の扉

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 彼は自室の布団に埋もれ、何かを見つめていた。視覚では見えないものを
 ただひたすら、これまでの自身を襲った不運が走馬灯のように脳裏を駆け巡る映像を眺めていた。

 彼は確かに不運ではあった。学生時代の野球からの挫折もやはり突然の怪我による左眼の弱視が原因であった。

 大学受験は2度失敗し、それもやはり突然の高熱、父親からは彼の精神力の問題と片付けられ、放蕩息子と疎まれた。

 そして、あの大学2年の夏の出来事、
 彼が運転する車がガードレールを突き破り、山奥のダム湖に転落したあの出来事、同乗者が亡くなった。

 亡くなったのは、彼の恋人であった。

 彼は過去の不運のほんの一部を眺めると、布団の中にすっぽり埋もれるように、
 あたかも布団が棺桶であるかのように、
 自身が生きる屍のように、

 そして、そうならぬよう、ただただ呼吸をすることだけに努めようとした。

 そして彼は思った、あの出来事が、ダム湖が見えたら、
 もう駄目かもしれないと

 翌週の火曜日、彼は妻と一緒に都内の心療内科の待合室で初診用の問診票を書いていた。

 その心療内科は都立病院の系列のクリニックであり、予約なしに初診も受けるという評判であった。

 多くの人達が待合室を占拠していた。若い人から老人まで、男性も女性も、身なりも様々であった。
 唯一、心を病んでることが同じであった。

 1時間くらい待った。

 次々と予約者が先に診断室に呼ばれ、余り時間もかからず診断室から出てくる。
 工場のベルトコンベアーの品物のように、彼には映った。

 すると、診断室から高齢の女性の看護師が出てきて、予約者が済んだので今から診断室に来るよう案内しに来た。

 彼は妻と共に診断室に入った。

 診断室は医師と患者の間に透明のビニールシートが張られていた。彼は患者用の椅子にかけるよう勧められ、妻は後ろの付添人用の椅子を勧められた。

 担当医は、肉付きの良い体躯の大柄の男であり、頭は禿げ上がり眼鏡をかけていた。
 顔色は風呂上がりのようにツルツルとてかり、まん丸とした顔の形をしていた。
 声のトーンは大きく高かった。
 年齢は彼より上のように思えた。

 まず医者は、お待たせしましたね。今日はどのような要件で来たのですか?と、
 パソコンのキーボードに指を乗せ、パソコンを向いたまま、質問して来た。

 彼は、ウィルス感染し、1か月入院し、年明け職場復帰したが、昨日から職場に行くのが怖くなったと答えた。

 医者は何も言わず、次の質問をして来た。

 貴方、前から鬱病ですよね。
 この処方薬書、かなり多くの薬飲んでますよね。
 これでは、効かなくなったということですかね。 
 と彼を見ることなく尋ねた。

 彼は、そうですと言った。

 すると、医者は初めて彼の方を向いて、大きな声で尋ね出した。

 問題ですね。
 15年前から同じ薬貰ってるの?そんなことできるのかなぁ、変な内科医ならそういうことするけどね。
 薬だけ貰ってるの!診断はしないんでしょ?
 問題だねぇ~、その医者、違法だよねぇ~、
 こんな強い薬、よく診らずに出したよなぁ~と、
 まん丸に目を見開き、矢傷早にトントンと詰問するかのように彼に尋ねた。

 彼は何も言えなかった。

 堪らず、後ろに座っていた妻が口を開き、

 あの~、我が家の掛かり付け医でして、長年の付き合いから出して頂いていました。と答えた。

 医者は、う~ん、問題だよね。  
 今時、そんな医者いるのかな~と、仕切りに首を傾げ、パソコンに打ち込んだ。

 医者は、まぁ~いいです。と
 半ば投げやり感のある口調で呟き、問診票に目を向け、職場でのトラブル、人間関係が原因ですか、と言い、

 また、急に椅子を反転し、彼の側を向き、少し顔を乗り出しながら、

 貴方の会社なら専門の担当医いるんじゃないの?
 職場の人間関係でしょ?
 相談はしないの?と、
 少し笑いながら尋ねてきた。

 彼は、戸惑った。

 そして、何秒か沈黙した後、居るには居るんですが、形だけでしてと、彼は決まり悪く答えた。

 すると、医者は、にっこり笑い、
 そう答えて頂くのを待ってたんだよ~。
 そうなんだよねぇ~、形だけなんだよねぇ~、そうですか!と、     
 
 嬉しそうに言いながら、また、パソコンの方に向き直し打ち込んだ。

 そして、今度はゆっくりと彼の方を向いて、真顔でこう質問した。

 私にどうして欲しいんですか?

 彼はまた沈黙し、下を向き、数秒の沈黙の後、こう答えた。

 もう苦しいので、楽になりたくて、先生、疲れました。と

 医者は彼から視線を外さず、瞬き一つせず、こう言った。

 楽になりたいと言うことは、死にたいと言うことですか。と

 彼は、医者から視線を外すこなく、少し頷くように目で答えた。

 医者は微動だにせずこう言った。

 いいですか?
 貴方との契約、貴方の治療をする条件として、ここで死なないと誓ってくれますか!

 ここで、奥さんもいらっしゃるここで誓ってくれますか!

 そうでないと貴方との契約は結びません!と
 彼を問い詰めるように言い切った。

 彼は頷いた。

 医者は、死なないと言葉で誓ってください!と更に問うた。

 彼は口籠もり、下を向いた。

 すると医者は、死なないと誓いますか?と今度は優しく彼に問うた。

 彼は、はっきりと、誓います。と言葉を発した。

 医者は、よろしい。
 では、今から貴方の今に至る経緯を聞いていきます。
 専門医ですので、これは聞かなくてはなりません。よろしいですか!と言い、

 彼の返答を待つ間もなく、学歴、就職、結婚、子供の有無、転職の有無、転勤の経緯、今の役職をひたすら形式的に質問し、
 彼の答えをパソコンに打ち込んだ。

 そして、ウィルスにはいつ感染し、いつ入院し、いつ退院し、ICUに入ったのか、肺炎を患ったのか、退院後の後遺症はあるのか、いつ職場復帰したのかと、
 改めて重点的に聞き取った。

 医者は、パソコンに打ち込み終わると、椅子を反転し、彼ではなく、妻の方を向いて、こう言った。

 奥さん、旦那さんは鬱病です。

 軽度ではなく、どちらかと言えば重度の鬱病です。

 職場の人間関係というより、ウィルス感染のダメージ、それと今まで適当に抗うつ剤を飲んでいたツケ、それらが関係していると思われます。
 
 家族が居なければ、入院措置です。

 暫くは会社を休んで貰います。

 普通はこのような場合、3か月の自宅療養と診断するのですが、

 旦那さんが抗うつ剤を既に飲んでいたことから、
 今度、処方する薬の効果を見たいので、取り敢えず、2か月の自宅療養と診断します。

 そして、医者は、カレンダーを見ながら、

 奥さん、来週の火曜日、来れますよね。と尋ねた。

 妻は、来れると答える。

 では、来週の火曜日、朝9時に予約を入れておきます。

 そして、妻の方を見て、これからは奥さんの出番になります。

 いいですか、今から薬の飲み方、食事、入浴の仕方、説明しますね。と言い、
 彼を置き去りにし、妻に説明を始めた。

 そして、一連の説明が終わると、急に彼に向かいこう問うた。

 お酒、毎日、どのくらい飲みます?お酒好きですよね?と
 親しみを込め、また、罠を仕掛けるかのように彼に問うた。

 彼は、いきなりの問いに考える間もなく答えた。

 一日焼酎2合ぐらいですと。

 医者は妻に問うた、

 奥さん、そうですか?と、

 妻はそうだと答えた。

 医者はまた彼を放置し、妻に言った。

 お酒は当分飲ませないでくださいね。薬の効果を邪魔しますから。奥さん、いいですね!と
 釘を刺すように言葉を区切った。

 そして、医者は、今日はこれで終わります。
 診断書、書いておきますからね。

 奥さんは、ちょっと残ってください。と言い、
 彼に早く出て行けと言わんばかりに目で出口を誘導した。

 彼は医者に礼をし、診断室を出た。5分位した後、妻が出てきた。

 彼は妻に医者から何を聞かれたかと尋ねた。

 妻は言った。

 医者からは、彼が万が一自殺した時の対処方法の説明などを受けたと。

 例えば、救急車ではなく警察に連絡するとか、部屋にあるフックなどは外すようにとか、事細かに説明したと言う。

 その時、彼は感じた。

 この医者、甘く見ては逆に痛い目に遭うと。

 診断では、彼が深く心を傷付けている会社の事は全くスルーして、これ以上の精神的な負荷を回避している。
 
 その上で、今、彼に最も必要なこと、
 自殺を防止すること、それに集中した所見であったと

 この医者、もしかしたら、俺の鬱病、治してくれるかもしれないなと、彼はそう感じた。

 そして、彼は少し瞼の重量が軽くなったことに気付いた。
 
 
 
 
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