社宅

ジョン・グレイディー

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第三十一章

虚無の生よりも温かみのある死

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 引っ越し前夜、俺は珍しく寝つき良く夢の中に入って行った。

 やはり、あの女と一緒に『送り道』を歩いている。

 いつもと違い煌びやかな露店の光の先に、暗闇の境界が見える。

 暗闇の両脇には黒く灰色な屋敷がぼんやりと浮かんでいた。

 光と闇の境界線まで来ると女は急に握った俺の掌を引き戻し、立ち止まった。

 そして、今まで下向き加減の横顔しか見せてなかった女は俺の方に顔を向けた。

 俺はずっと一緒に歩んでいた女の顔を初めて正面から見た。

 髪を結い卵型の綺麗な顔形、瞳は茶色で潤んでいるように見えた。

 鼻は高く、上唇は薄く、下唇はふっくらと膨らんで、均整のとれた口角をしていた。

 とても綺麗であった。

 女は俺の目を見つめながら、甘い香りの息でこう言った。

「私ね、貴方をずっと想っていたから…

 ごめんなさいね…

 私から居なくなってしまって…」

 女はまだ初恋の人に成り切っている。

「私…、急に病気になって、入院したの…、

 でもね、直ぐに病院から出られると思っていたのよ。

 入院している時も、いつもいつも、貴方のことだけ考えていたの。

 辛かった…

 何の病気かも分からず…

 部屋の外にも出られず…

 ベットに身体中、鎖で結ばれて…

 来る日も来る日も、薬と注射ばかりされて…

   段々ね、私…、もう二度とこの病室から出られないのではと思い出してね…

 貴方に逢いたかった…

 必ず、貴方がここから出してくれると信じて、

 貴方が迎えに来ることを願っていたのよ。」

 俺は女に言った。

「俺は何も知らなかった。お前が入院したなんて…、何も知らなかったんだ。」

 女は言った。

「誰にも教えてなかったの。私の病気のこと。

 でも、私は毎晩、夢の中で貴方に助けを求めていたの…」

「そっか…、あの森の中の光の広場…、お前はベンチに座り、哀しそうに、朧げに何かを見つめていた。」

「そう、貴方を見つめていたの。貴方との思い出、貴方の笑顔、貴方の仕草、貴方の全てを見つめていたのよ。」

「助けてあげたかった…、知っていたならば、必ず助けに行ったよ。」

「うん!」

 女は微笑み頷いた。

 そして、こう言った。

「もう良いの、また、貴方に逢えたから、もう良いのよ…

 貴方は私の運命の人なの。」と

 俺は何故か涙を零していた。

 女のこれまでの心の痛みが全て俺の心に突き刺さったように、俺の胸の中は悲哀で一杯になった。

 俺は女に言った。

「もう何も考えなくて良いんだよね。」と

 女は言った。

「うん、何もかもが、全て一つになったのよ。」と

 俺は先にある暗闇に目を向けて、こう言った。

「暗闇の中は誰にも見つからない。」と

 女は言った。

「明るい所は駄目。2人を必ず誰かが見つけて邪魔するのよ。」と

 俺は女の手を握り、光と暗闇の境界線を越えて、暗闇の方へ女を導いた。

 暗闇の両脇に黒く灰色の粘土細工のような屋敷が連なる。

 そう、あの社宅の両脇の廃墟棟のようでもあった。

 女が一つの灯りが灯る粘土細工の屋敷の部屋を指差し、こう言った。

「あの部屋にしましょう。」

 俺は問うた。

「どうしてあの部屋が良いの?」

 女は暗闇でも微笑んでいるのが見えるような喜び声でこう言った。

「周りが寂しそうだから…、雪が深々と降り続く中、全ての音が雪に吸い込まれ、貴方と私、2人だけが温かみを感じる存在に成れそうな気がするの。」

 暗闇の中に粉雪が回っていた。

「温かみ…」

「そう、優しい灯火、優しい湯気、優しい静けさ、優しい人肌、貴方と私だけが存在する僅かな空間…、それだけで良いの…、それだけあれば…」

「そうだ…、前も後ろも見えない、温かみのある今があれば、何も要らない…」

「そう、暗闇の中に一つ灯る光、それが淡く、ぼんやりと2人だけを照らしてくれれば、誰も邪魔しない。」

「誰も邪魔しない。2人だけの灯火か…」

 俺と女は黒く灰色の粘土細工の屋敷の2階、暗闇に灯る部屋へと入って行く。

 俺は目覚めた。

 久々に心地よい目覚めであった。

 俺は『送り道』の見た夢を全て覚えていた。

 女が俺に最後に託した気持ちが良く分かった。

 俺は多幸が言う引っ越しに邪魔はないと確信した。

 それと同時にこう感じた。

「俺はここに、この部屋に戻って来る。

 淡い暗闇の一角に…」と

 俺の心は現実よりも夢の中に傾向して行った。

 今ある虚無の生よりも、温かみのある死の方へと
 
 
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