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05 鼻血よ、再び

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 フルトブラントは疑いを少しも隠さず、語気を強めた。


「何があろうと、女人を殴るようなことはしない。それは私の理念に反することだ。女人を殴るような輩は外道というものだ。
「そもそもウンディーネを殴るべき事態は、何も起こっていない。たとえ頭が弱く非常識で、恥じらいの『は』の字も知らぬような、とても貴婦人とは呼べぬ様子であろうと、それが軽々しく女人を殴ってよいということにはならない」


 びりびりと響くような低音と、まるでおとぎ話の正義の騎士さまのような様子に、うっかり胸が震えかけたが、聞き逃せないことを言いやがった。


「頭が弱く非常識? 恥じらいの『は』の――」

「ウンディーネ、今は口を閉じておきなさい」


 この野郎、とフルトブラントの胸倉を掴みかけた手は、フルトブラントの大きくガサガサゴツゴツとした手によって、そっと膝に戻された。

 まるで子供扱い。
 この高尚なる水の精、ウンディーネに対して、人間ごときが。

 イラっとして睨めあげると、驚くような目とぶつかった。
 あのアーニャとかいうチンクシャに向けていた慈愛のまなざし。
 びっくりして思わず、目と鼻と口の穴が全開になった。
 それを受けたフルトブラントは、それまでの優しく慈悲深く、頼りがいのある騎士然とした、決意に満ちた表情を引きつらせる。

 この男は真面目な顔が長く続かないらしい。
 黙っていれば舞台役者のような色男なのに、どうにも喜劇役者のようである。


「それは、おまえの間抜け面のせいだがな。……まあいい」


 嫌そうに眉をひそめると、フルトブラントは膝の上のわたくしの手をぎゅっと握った。


「ウンディーネ。おまえがどれほど貴婦人に相応しくなかろうと、珍妙で品性の劣るような女人もどきであろうと、騎士として私がおまえを守る。だから大人しくなさい」


 その様子がいかにも必死だったので、ついこう答えてしまった。


「おっしゃる通りにしますわ」


 まるで親しみをこめて、慎ましい様子で。
 フルトブラントは満足したように頷くと、わずかに目を細め「いい子だ」と言った。


「さて。辺留田べるた殿。あなたは何を目論んでいる? これまでは確かにあなたに世話になったろう。あなたの善意を信頼し、疑うことなく従ったのは私だ。私は人の悪意を見抜くことにかけて、得意であると自負していたのだが、この信頼を見直すべきかどうか、あなたの真意を問おう。どうか正直に答えてくれるとよいのだが」


 フルトブラントは居住まいを正し、バカ女に向かい合う。手はすでに離され、広く大きな背中でわたくしの視界は遮れている。
 バカ女の様子が見えないので首を伸ばすと、「大人しくしていろと言うのに……」というぼやき声が耳に入った。
 バカ女は唇に人差し指を当て、小首をかしげる。あざとい。


「う~ん。目論見? っていうかぁ~? アタシは単に、ウンディーネちゃんがもう――」


 言いかけたところで、バカ女が突然、ガッ! と目を見開いて、わたくしの後方を指さし、「あっ!」と叫んだ。
 衝撃を受けた、といった様子にフルトブラントもわたくしも、何が起こったのかと後ろを振り返る。
 そのとき。


「なぁ~んチャッテ☆」


 バカ女の平手打ちがわたくしの頬を捉えた――そう思い、来るべく衝撃に備え、目をつぶった。

 ――が。

 結論から言う。
 わたくしの頬、ではなく鼻をぶったのは、バカ女の平手ではなく。
 フルトブラントの節ばって大きく逞しい手の甲。そのゴツゴツとした関節であった。

 くっそ痛い。


「なにが『騎士として私がおまえを守る』だ! このクソ男ぉおおおおおおおおおおおっ! おまえがわたくしの鼻をぶん殴ってるじゃないか! どういうことだ! 理由を説明しろ! 直ちにしろ! 土下座だ! いや記者会見だ!」

「い、いや! これは! 辺留田殿の拳からおまえを守ろうと――」

「守ろうとしてぶん殴るアホがどこにいる! ここにいたな! さすがフルトブラント様! なんと高潔な騎士道精神をお持ちあそばすこと! 全力でぶん殴りやがった!」

「ぜ、全力では――」

「うるさいっ! 口答えするな! わたくしの鼻から血が出ているのがわからんのか! この赤い血が――え? 赤い血?」


 手のひらにパタパタと滴る赤く粘土のある液体に、思わず見入った。
 赤い。
 ほんのりとした温かさ。
 ぬるっとした感触。
 紛れもなく、これは、血だ。

 血相を変え、色をなくして酷い動揺にあたふたとするフルトブランド。雨上がりの木の枝から等間隔で雫がこぼれるような、ゆっくりとした様子で落ちる鼻血を凝視するわたくし。
 その二人の間にバカ女の顔が、にゅっと顔を出した。

 うっかり存在を忘れかけていた。
 顔をあげると、バカ女がニンマリと嫌らしく笑っている。


「えぇ~。存在忘れるとか、ウンディーネちゃんつめたいっ! アタシ達、ガチトモっしょぉ~!」

「誰がおまえなんかと――」

「うんうん。これでウンディーネちゃんが魂ゲットしただけでなく、ほとんど人間になっちゃったことがわかったねぇ~! やったねぇ~! キューレボルン様ぁ~!」

「は?」


 バカ女の口から出た、思いも寄らぬ人物の名。
 ニヤニヤ含み笑いを続けるバカ女が、開いた書物をわたくしの鼻先につきつけた。紙に鼻血がついた。べっとり。


「ウンディーネや。可愛い姪っ子よ。これでワシ、確かに弟の願いは果たしたと思うんじゃが。ウンディーネから弟によくよく伝えておくれ。ワシがちゃーんと、ウンディーネに魂を授けたと。な?
「あとウンディーネや。口調が乱れておるぞ。はしたないぞ。みっともないぞ。売女のようじゃぞ。まるで、おぬしの母のようじゃ。おおオソロシ」


 書物からぼうっと浮かび上がる白衣の男。
 頭巾を目深にかぶり、ひらひらひらひらと鬱陶しいような白い司祭服。

 『ゆりかもめ』の同乗者である、他の人間たちの間から「ぎゃぁあああああああああ!」という声が上がる。
 奇声をあげた男は一目散に『ゆりかもめ』の連結部位、その扉へと走り去った。
 同じ車両に残った乗客達もこちらをチラチラ見て、不審そうな目を向けてくる。


「えっ。あれってなに? コンパクト映写機みたいなやつ?」

「ちゃちな玩具じゃない? アニメのグッズとか。魔術書で魔法がウンタラカンタラ、っていう」

「ああ……。東京ビッグサイト駅、通過したもんね」

「えっ。ビッグサイトって、いつでもオタクな催しやってるわけじゃないよ?」

「え? そうなの?」

「当たり前じゃん」


 友人同士らしい乗客の会話が白熱していき、こちらへの注目が薄れた頃、『ゆりかもめ』は『台場駅』に停まった。
 次のお台場海浜公園駅で降りる予定だとバカ女が言った。


「レインボープロムナードのサウスルートに行くからねぇ~」


 バカ女がばたん! と勢いよく書物を閉じるので、キューレボルン伯父様は姿を変えるのに間に合わず、「ぐえっ!」とヒキガエルのような鳴き声をあげた。紙と紙の間に挟まれた白い布切れが、ひらひらと虚しく宙を泳ぎ、次第に空気に溶け込むように消えていった。


「なにがなにやら、さっぱりわからん」


 フルトブラントは腕を組んで眉をひそめ、それからわたくしの顔を覗き込む。


「鼻血は止まったか。それについては申し訳なかった。ウンディーネがいかに女人らしくないとはいえど、まさか手をあげるなど。それも顔など! もってのほかだ。責任を――いや、そうではない。それは私の望みか」


 フルトブラントは自嘲するかのように獣のように荒々しく、短い息を吐くと、首を振った。


「おまえの望む形で、いかようにも責任は取ろう」


 心配そうに困ったように下げられた眉と、同情をいっぱいにのせた瞳がぐいぐいと迫ってくるので、わたくしの鼻はまたもや熱くなり、血を噴き出した。
 フルトブラントはますます眉を寄せて身を引くと、溜息をつき「おまえはよくよく鼻血を噴くやつだな」と呟いた。
 苦笑交じりの、完全に呆れ声だった。

 そうだった。
 そういえばわたくしは、フルトブラントに殴られる前。『かいてんずし』でも鼻血を出していた。
 バカ女がそう言っていたではないか。
 ではなぜ、バカ女はわたくしに再び鼻血を出させんとしたのか。

 バカ女を先導に、フルトブラントに手を引かれて『ゆりかもめ』から降りるも、わたくしもフルトブラント同様、なにがなにやらさっぱりだった。


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