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番外編1 この手に残る、柔らかな温もりを

後編 この手に残る、柔らかな温もりを

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「姉上。こんなところにいらしたのですか」


 突如テラスから投げかけられた声。
 アンナはその声に振り返った。


「アデル!」


 栗毛の巻き毛を揺らし、アデルと呼ばれた美少年が天使の微笑みを浮かべてこちらに駆けて来る。
 バルドゥールは苦虫をかみつぶしたような顔になった。またこいつがアンナとの逢瀬の邪魔をする。
 この一見無邪気そうな顔をした従弟が実は腹黒く陰湿なことなど、バルドゥールはよく知っている。
 アデルのずる賢さは、兄であるフルトブラントなど足元にも及ばない。

 アンナはこちらに駆け寄ってくる義弟に嬉しそうに手を振る。
 面白くない。まったく面白くない。

 バルドゥールはこの腹黒シスコン従弟に見せつけてやろうと思いつく。
 アンナが一体誰のものなのか。いや、ものというのも違うのだが。とにかくアンナの隣に立つのはバルドゥールだけである、と。


「アーニャ。ちょっとおいで。肩に芋虫が……」


 ついてるよ、と言おうとしたところでアンナが大絶叫した。


「いやああああああああああっ! 取ってええええええええ!」


 気が動転しパニックに陥ったアンナは、手にした模造刀をぶん投げ、バルドゥールに迫った。
 アンナの放った模造刀がひゅんひゅんとバルドゥール目掛けて飛んでくる。


「うわっ!」


 間近で勢いよく放たれた模造刀をよけ、なおかつ助けを求めるアンナを抱き寄せる。そのつもりだった。
 が。しかし。

 むにゅり。

 バルドゥールの大きな左手に沈み込む、柔らかで弾力のある感触。

 
 ――えっ。これはなんだ?


 あまりの触り心地のよさに、思わずバルドゥールは弾力ある何かにぐにぐにと指先を沈める。
 手の平全体に伝わる熱。柔らかくしっとりとして手に吸いついてくるような――……。

 むにゅむにゅ。

 バルドゥールは意識を飛ばしていた。
 本当に飛ばしていた。
 嘘じゃない。決して嘘じゃない。
 今日はコルセットをつけてなかったな、とか。手の平から溢れて零れ落ちそうだな、とか。
 そんなことを考えちゃいない。本当に。


「やっ……! や、やだぁ……っ!」


 はっと我に返ると、羞恥で顔を真っ赤に染め上げ、目を潤ませ。バルドゥールの胸を力いっぱい押して、離れようと藻掻くアンナがいた。


「うわっ! ご、ごめん!」


 勢いよくアンナから離れるバルドゥール。
 両腕を抱き、涙目でバルドゥールを睨みつけるアンナ。


「うわって……」


 アンナはどこか傷ついたような顔をする。バルドゥールは己の失態に、もはやどうしたらいいのかわからない。


 ――傷ついてる? え? 僕が触ったから? 触ったというか、も、揉んだ……よな……?


 この変態! 死ね! とか思われているのだろうか。アーニャに嫌われてしまっただろうか。
 そんなことは耐えられない。
 バルドゥールは真っ青な顔でアンナに謝る。


「ごめん……! ほんとに……! あの、わざとじゃ……なかった、んだ……けど……」


 わざとじゃない?
 あんなに堪能しておいてか?
 バルドゥールは我ながら白々しいと語尾が小さくなった。
 アンナがキッと睨む。


「そう……! そうよね! わたしの胸なんて、バルがこれまで揉んできた女よりずっとささやかでしょうよ! どうせ胸だとも思わなかったんでしょ!」

「えっ?」


 何かとんでもない勘違いをされている気がする。
 そもそもアンナの胸は成長途中の十四歳の少女とは思えないほど、けしからん大きさだ。
 いや、そういうことじゃない。


「あの、アーニャ? その、それは一体どういう……?」


 おずおずとアンナに問い、ゆっくり近づこうとすると、アンナとバルドゥールの間に黒い影がさした。


「最低です、殿下。見損ないました」


 冷たく凍り付くような声。
 声変わり途中で、普段は掠れがちな声が今はやけにしっかりと発声している。


「アデル……」


 アンナは義弟のアデルがまるで救世主であるかのように、うるうると縋る眼差しを向ける。


「えっ? 最低? いや、確かに、僕のしたことは褒められたことじゃないかもしれないけど……」


 いや、しかし。
 好きな女の子の胸に手が触れるなんて事故ラッキーハプニングが起こったら、ちょっと仕方がないんじゃないか?
 だって健全な男なんだし。というか、これまで揉んできた女ってなんだ?
 バルドゥールはこれまで閨の授業でさえ、女の胸を揉んだことなど一度たりとないのだが。

 自分の童貞はじめてはアンナに捧げると誓って、紳士の社交場として王立学園の馬鹿どもや騎士団の面々によって娼館に連れていかれたときも、一切女に触れなかったのだが。
 さすがに酌くらいはさせたけれども。


「何か誤解があるんじゃ……」

「何が誤解ですか」


 オロオロと取り乱すバルドゥールを冷たく一瞥すると、アデルはアンナの手を取った。


「いもしない芋虫がいる、などと姉上に嘘をついて」

「うっ……。それは……」


 だってアンナがアデルの登場に嬉しそうにするから。
 週末にようやく会えるかどうか、というバルドゥールにとって待ち遠しく貴重な時間なのに、まるで二人きりの時間などたいしたことがないように。
 俯き言い淀むバルドゥールに、アデルは鼻を鳴らした。


「行きましょう。姉上。こんな変態クズ、放っておけばいい」


 クズって!
 第三王子をつかまえてクズって!

 アデルに手を引かれて屋敷に戻っていこうとするアンナを、バルドゥールは追い縋るように見つめた。
 アンナはちらちらとバルドゥールに振り返りながら去っていく。


「アーニャ……」


 情けなく眉尻を下げたバルドゥールに、アンナはぐっと息を飲み込む。
 アンナの手を引くアデルの足が速くなる。


「バル!」


 手を引かれながらも、アンナが叫ぶ。
 バルドゥールはアンナが自分の名を呼んでくれたことにホッとする。


「あなた、次会うときまでに、もうちょっと(女心を)お勉強してきなさい!」


 ――えっ? お勉強? 何を?


 バルドゥールの頭に疑問符が浮かび、そこに立ち尽くしている間に、ついには小走りになったアデルに引っ張られ、アンナの姿は屋敷に消えてしまった。


 ――勉強って一体……。


 混乱するバルドゥールに、これまで始終を見守り控えていた侍従が小さく嘆息した。
 バルドゥールはゆっくりと振り返り、侍従に尋ねる。


「勉強って……なんだと思う?」

「さあ……。とにかく今日はお早くお帰りになった方がよいかと」


 疲れたように首を振る侍従に、バルドゥールは「うん……」と力なく返事をした。




 が、侍従のアドバイス空しく、グリューンドルフ公爵タウンハウスを後にしようと馬車に乗り込む寸前、バルドゥールはぐいっと力強く肩を引かれ、転倒して尻もちをつくこととなる。
 驚いたバルドゥールが己に落ちる影を見上げると、そこには眉間の皺険しく、鬼のように憤怒を顔一面に表すフルトブラントがいた。


「え……? ブラント、どうし、」


 どうしたのか、と問い終わる前に、バルドゥールはフルトブラントの鉄拳制裁を食らった。




 バルドゥールがグリューンドルフ公爵タウンハウスに足を踏み入れる許可が出たのは、その日から約半年後のことだった。
 その間、アンナに向けたバルドゥールからの手紙は、アンナの手に渡る前にアデルが執事から奪い、ビリビリに引き裂かれていた。
 しばらくアデルと共に憤っていたフルトブラントだが、アンナの寂しそうな横顔に折れ、学園でバルドゥールから渡される手紙を、こっそりアンナへと運んでやった。

 アンナのためにとバルドゥールが用意していた短剣は、あの日結局渡し損ねたため、フルトブラント伝手でアンナの手に渡る。
 そしてバルドゥールとアンナは手紙を交わすことで、アデルという障害に阻まれた恋心を燃え上がらせる結果となり、アデルを悔しがらせることとなる。

 バルドゥールはアンナに会えぬ間、幾度となく思い出しては反芻していた。
 この手に残る、柔らかな温もりを。





(番外編1 「この手に残る、柔らかな温もりを」 了)
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