【完結】ダフネはアポロンに恋をした

空原海

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第三章 ゥオットゥォウスゥワァーン、ドワヨッ!

02 お義母さんに挑む

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 未来みくが生まれて一週間経つと、産院を退院した。
 母乳中心で授乳は頻繁――三時間置きだなんて誰が言い出したの? オッパイから口を離している時間なんて、オムツ替えのときだけ!――だけど、体重の増加は成長曲線内。
 退院後の十日後健診でも問題なし。
 未来の成長は順調。
 未来は健康で可愛いし、たかしさんはこれ以上望みようにない、素晴らしい父親ぶり。

 すべて完璧。
 まるで理想そのもの。
 ただし、自分の体がもし、もうひとつあれば。充さんの獲得できる特別休暇が七日間限りでなく、少なくともあと一か月分、あるのなら。

 細切れ睡眠。
 エネルギーを使い果たして絞りカスみたいになってしまった、産後のままならない体。

 誰かの手伝いが必要だった。


「謙遜でもなんでもなく、正直に言って、わたしはタカシを育ててこなかった。育児放棄よ。だから、君江さんの力になれるとは思えない」


 対面に座るお義母かあさんは、首を傾げて、右手を鼻先で素早く振り払った。
 それから眉を上げ、下くちびるを突き出す。
 お義母さんの仕草はハリウッド映画の中の人のようで、そしてまた、充さんと同じ。

 お義母さんと初めて会ってしばらくは、ほとんど似ていない母子だと思っていた。少なくとも顔立ちは。

 もしかしたら髪の生え際が似ているとか? それとも耳の形? 人差し指と薬指、どちらが長いかとか? ツメの形がソックリだったりするのかも。
 そんな失礼なことを思う程度には、似ていない。

 スヤスヤと寝息を立てる未来は、授乳ケープの下でオッパイに吸い付いたまま。
 左手首がジンジンしている。腱鞘炎間近。右手首はすでにご臨終。
 歯科衛生士として、手首を酷使する仕事をしていて、存分に鍛えられたと思っていたし、授乳クッションだって使っていたのに、新米母の宿命からは免れられなかった。


「それなら。不遜なことを言います。子育て、し直しましょう。あたしはお義母さんに手伝ってもらえたら助かりますし、お義母さんは充さんへの償いができる。充さんはお義母さんに親しみが持てる。全部解決すると思うんです」


 こんなに強気になれるのは、きっと未来のおかげ。
 そうじゃなかったら、独善的で何もかもわかったかのような口ぶりは、到底できなかった。でも今は、一人でも助けてくれる人がほしい。

 できたら女性。
 頻繁な授乳でオッパイをさらけ出すのに、その都度退室されるようでは、少し困る。
 だって一日中ほとんど、オッパイを放り出して、オッパイが服の下にあることの方が少ないという。そんな状況なのだ。


「子育てをし直す、ね。やめときなさい。一つの家に、『母親』は複数いらない。一人の男に、女が群がったら大惨事になるのはわかるでしょ。赤ん坊も同じ」


 お義母さんの右手の人差し指が、まっすぐ立てられ、こちらに示される。そこに左手が覆いかぶさる。ぐしゃり。折られた人差し指。
 それからお義母さんは、手のひらを上に向けた。

 吐き捨てるようなお義母さんの口ぶりに、何か触れてはならない、柔らかいな部分に踏み込んでしまったことがわかった。
 ちらりと横を見やれば、充さんが口を開きかけるのが目に入る。


「わかりました。それなら、『子育て』の手伝いはまずは結構です。それに、それはそれで好都合というか。今一番、お願いしたいのは、育児じゃないんです」


 充さんが肩をすくめる。
 あたしは思わず吹き出し、頷き返した。「母は強し」と充さんの口が動いたからだ。
 確かに、これまでのあたしじゃ、考えられないくらい、図太い。
 お義母さんに言い返すなんて。

 いつもなら、きっと充さんが間に入っていた。
 これまではずっとそうだった。
 だけど、それじゃ嫌だ。ワガママなあたしの思うこと。

 偽善かもしれない。
 ううん、偽善に違いない。傲慢で自分勝手な、『あたしの考える幸せ』を押しつけたいだけ。

 充さんは、必ずあたしを守ろうとする。
 対立する姿勢を見せてしまう。
 場合によっては、お義母さんを傷つけるような言葉も厭わない。

 そんなのは、おしまいにしたい。


「家事全般ってことね。それなら確かに、助けがほしいのは理解できる」


 首をそらして、顎を上げたまま頷くお義母さんの様子に、ピリピリとした雰囲気が柔らかくなったような気がして、ホッと胸をなでおろす。

 『子育て』の経験じゃなくていい。
 手伝ってほしいこと。代わってほしいこと。それは『子育て』以外のこと。
 料理、洗濯、掃除、買い物。
 家の中や生活を整えることが、どうしても今は、うまくこなすことができない。

 お義母さんは納得したように頷く。だけどすぐに眉をひそめた。


「ただし。わたしの家事能力は低いわよ。それに産後間もない君江さんが、他人と長時間過ごすことに耐えられるかしら。それでなくても――」

「お義母さんは、あたしに借りがあるはずです。違いますか?」


 苦々しく告白しようとするお義母さんを遮ると、お義母さんは目を丸くした。
 その表情。
 この虚を突かれたような表情も、充さんと一緒。それとも、こういうときは、みんな同じ?


「……その通りだけど。いえ、その通り。君江さんがそう言うのなら」


 一瞬の逡巡を見せてすぐ、お義母さんは口元をキュッと引き締めた。
 まっすぐに射抜かれるような、強い眼差し。これもまた母子。そう感じる。


「ただし、わたしははっきりと言ってくれないと、君江さんのストレスを察することはできないから、そのつもりでいて。遠慮はいらない。今みたいに。して欲しいことも、やめて欲しいことも、言葉にしてちょうだい」

「はい。もちろんです。どうぞよろしくおねがいします」


 胸に抱いた、スヤスヤと寝息をたてる未来を潰さないように、首だけペコリと前に折る。
 シュシュで一つにくくった髪が、肩から滑り落ちた。

 お義母さんが「こちらこそ」と返し、それからニヤリと笑って言うことには。


「こういうところ。ミツルの姪っ子なのねって実感したわ」


 どういうことだろう?
 首を傾げるも、腕の中の未来が「ふえっ、ふえっ」と弱々しい泣き声を上げ始めた。
 お礼をした動作で起きてしまったのかもしれなかった。

 まだ湯気の立ち上るカップを手に取ったお義母さんは、それを飲み干すと、ソーサーに置いた。
 ダイニングチェアーの背面にかけてあったストールを手に取り、「じゃあ、今日はこれで」と立ち上がる。


「明日からくる、と言いたいところだけど。まずはミツルに話を通さないと。君江さんが産休に入る前に、新しく雇った子がいたでしょ? あの子、受付をしたことがないから、一通り教えないとね。難しいことはないから、きっとすぐに済むわ」


 お義母さんは叔父さんが院長を務める矯正歯科で働いている。
 あたしも産休に入るまでは、高校卒業以来ずっとお世話になっていた。
 歯科助手として雇ってもらい、途中、働きながら夜学に通って、歯科衛生士の資格を取った。

 お義母さんの仕事内容は受付や消毒が中心で、産休に入るあたしと入れ替わりのように入った新人の子は歯科衛生士。
 他歯科医院で勤務経験はあるけど、お義母さんがいる環境で入局したから、叔父さんの歯医者での受付システムをよくわかっていない。
 ベテランの先輩歯科衛生士がいるけど、一人では大変。


「最初の数日間は、仕事をしてからこちらに来ることになると思うわ。それでいい?」

「はい。お手数おかけします」

「いいえ。が君江さんがわたしに与えてくれたチャンスだっていうことは、さすがにわかってるわ」

 
 そう言うと、お義母さんは大判のストールをばさりと首に巻く。
 透け感のない、目の詰まった、明るい紫色のベルギーリネン。裾にあしらわれたフリンジが揺れた。


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