【完結】ダフネはアポロンに恋をした

空原海

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第三章 ゥオットゥォウスゥワァーン、ドワヨッ!

01 聞いたことのない子守唄

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「I ain't always thinkin' about you, ooh, no, no, not always……♪」

「その歌、よく歌ってるね」

「ん? ああ……」 


 ほんのりピンクに色づいた小さなつめ。
 そのやわらかな、ぷくぷくふくふくした指を順番につついて、腕に抱えた娘をあやしていたたかしさんは、あたしの言葉にはっと顔をあげ、気まずそうに言いよどんだ。


「どこかの子守唄?」

「いや。子守唄じゃねぇな。悪かった」


 赤ん坊に聞かせるには、あまり適さない歌だった?
 だとしても、謝る必要はない。そうでしょ? だってとても素敵な歌だ。

 ローテンポというほどではないけれど、優しくて温かい、どこか切ないような、郷愁にかられる、繊細でキレイな旋律。
 口ずさむときの充さんもまた、なにかを懐かしむような優しい表情をしているものだから、あたしは名も知らぬこの歌が好き。
 初めて充さんが口ずさんだときから。

 あれは娘の妊娠を知った日の夜。
 白黒のエコー写真を代わる代わる眺め、ジンジャーエール入りのグラスを乾杯した。
 安定期もまだの、心音すら聞こえないというのに、ペラペラの感熱紙に記された白い豆粒に、二人して浮かれあがって。
 テーブルに置かれたグラスに、ゆらゆらと揺れるキャンドルの炎が映り込む。淡いカラメル色の液体が、シュワシュワと陽気に泡立っていた。

 その晩、充さんが口ずさんだ歌。
 充さんの温かく大きな手がおなかにのせられ、ウトウトと夢の世界に頭半分、体半分、浸っていたとき。

 ベッドで子守唄代わりに『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を充さんにねだることは、婚前からの習慣のようなもの。
 ねだらずとも、充さんが何の気なしに口ずさんでいることも、よくある。
 だからベッドに寝そべって、充さんの低くてかすれた、静かな歌声に包まれて眠りにつくことは、珍しいことじゃない。

 珍しいのは、口ずさんでいた歌。

 それは初めて聞く曲だった。
 充さんの好きなロックバンドの曲でもなければ、USENの最新ヒットで流れていた曲でもない。それなのに、「ららら」とか「むむむ」とか、ごまかすのでもなく、充さんの口からはしっかりとした英語の歌詞。
 英語の苦手なあたしには、はっきりと聞き取れないし、その意味もよくわからない。
 だけど、ちゃんと意味のある歌詞があることは確か。


「あたし、その歌好きだよ。だから謝らないで。子守唄にはよくない歌? そうじゃないなら、歌ってほしい」

「いや……うん。まぁ……わかった。気が向いたら」


 歯切れの悪い返事に、こりゃなにか隠してるな、とわからないはずもない。
 だけどきっと、充さんが話したくなったら、話してくれるだろう。

 ふがふがと不穏な様子を見せ始める娘。
 充さんは素早くカバーオール、ロンパース、それぞれの足と股のボタンを外した。


「オムツは濡れてねぇな」


 紙オムツのセンターラインは黄色。
 ギャザーはしっかり外側を向いて足の付け根に沿い、ズレているということもない。


「うん。これはオッパイじゃないかなぁ」


 ぽちぽちとボタンを留め直しながら答える。
 オッパイ。
 娘を産んでから、この言葉を口にするのに、まるで羞恥心がなくなった。


「そっか。腹減ったんだな、みく」


 充さんは目を細めて、未来みく――娘のぷっくらとした、赤いリンゴのような頬をつつく。


「母さんにたっぷり、オッパイもらえよ。今だけは、みくに貸してやるからな。そのあとは父さんのだからな」


 どこかで聞いたことのあるような台詞。
 まさかこういった種類の幸せが、あたしに。そして充さんに。二人の間に訪れるなんてなぁ。
 出会った頃には想像がつかなかったなぁ、なんてことをボンヤリ考えながら、充さんの腕の中でぐずり始めた未来に手を伸ばす。

 抱き上げると漂う、ふわっと甘い匂い。
 自分の母乳なのだとわかっていても、未来の額やお腹をぐりぐりとやりたくなる。
 この温かくて柔らかい体を腕に抱いて、匂いを嗅ぎたくなる。

 幸せが目に見えるというなら、それは未来だ。
 未来の匂い。体温。カタチ。重さ。柔らかさ。


「そんじゃ、ランさんに電話してくる」

「うん。お願い」


 未来を抱え直すと、未来はすぐさま胸元を鼻先で探り始めた。服の上からでも、オッパイの場所はちゃんとわかっている。

 充さんはスマホを手に、リビングを出ようとしたところで振り返った。


「ここで電話する? それともみくの授乳の邪魔になる?」


 充さんの瞳が揺れる。


「電話の内容なんて、全然気にならないよ。だけど充さんがあたしがそばにいる方が確認しやすいとか、そういうことなら、ここで電話して。みくは大丈夫。電話の間、抱っこしてるから」

「そっか。……そんならここで電話かける」


 充さんは気の抜けたような顔で笑った。ほっとしたように、肩から力が抜けたのがわかる。
 スマホを耳に当てた充さんは、明日の予定について通話相手と話し始めた。

 未来の柔らかな鼻息。
 まくりあげたTシャツの裾を掴む、小さな手。
 見下ろすと未来の横顔がすぐここにある。
 軽く閉じたまぶた。くるんとカールするまつげ。小さな鼻。んぐんぐと必死に吸いつく口。
 ときどき小さな舌が覗く。淡い赤色。

 未来の重みと温もりを胸に抱き、声量の抑えられた、低い充さんの声を耳に。うつらうつらと、次第に心地よい眠りへと誘われていった。


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