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クリスマスのお話

シュヴィップボーゲンを覚えてる

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「そんじゃ、クリスマスマーケットに行こうぜ」

 これまで二人の間に漂っていた、忍耐や鬱憤に不満なんていう重苦しいものは、最初から少しも存在しなかったかのように。
 たかしさんは軽やかに言った。





 日が暮れてから家の外に出れば、目の前にすぐ、光の洪水。
 庭に置かれた雪だるまやトナカイ、シンボルツリーや壁に光の雪を投影するプロジェクター。ベランダや窓を飾るLEDのツララ。
 気合いの入った自宅イルミネーションを通り過ぎれば、駅へ近づくにつれて街路樹が青いLEDで光り輝く。
 電車に乗り込むと、吊り広告や窓上ポスターといった広告が、百貨店やアミューズメントパークのクリスマスの商品にイベントを見せびらかし、車内ビジョンでもクリスマスソングが流れる。

 街中がクリスマスの色を帯びている。

 充さんもあたしも、そのことにはとっくに気がついていた。だけど口にはしなかった。
 やるべきことが、あまりに山積み過ぎたのだ。
 一度クリスマスの存在に目を向けてしまっては、途端に投げ出してしまう。
 獣の本能のような感覚で、お互いに理解していた。

 充さんは土日休み。あたしは木日休み。
 日曜日が二人揃う休日で、充さんは休日出勤も珍しくない。
 仕事の延長線上の交友関係もあるし、その逆もある。そしてそれらすべてがとても大事。
 私的時間の切り売りとは毛色が違うけれど、充さんはできる限りの誠実さでもって友情を示す。

 二人何も予定のない休日は、ついこの間まで、終わりの見えない打ち合わせが、ひたすら詰め込まれていた。
 資金計画に始まり、その他、とてつもなく楽しくて気分が高揚すること。とてつもなく面倒で、うんざりして投げ出したくなること。意見が合わずに不穏になること。全部混ぜこぜのグチャグチャ。
 理想と現実の妥協点を探って落ち着くまで。
 それから、これでいいと納得するまでの、ありとあらゆる話し合いに時間を費やしてきた。

 それでようやく、一つ目の登頂の旗を立てたところ。

 登り始める前までは、気軽なハイキングのつもりで。ティーシャツにジーンズ、履きつぶしてソールのすり減ったスニーカーといった出で立ち。
 登り始めて早々に、ベースレイヤー、ミドルレイヤー、アウターレイヤーに登山靴を身に着けるべきだったと後悔する。
 それから登山用ザックにレインウエアも水筒に行動食、非常食に絆創膏、コンパスに地図、トレッキングポールにグローブを用意しなかったことに泣きを見る。

 万事がその調子だった。
 お互いクタクタ。
 何か別の、楽しくてウキウキすることが必要。それも急いで。

 輝かしい『二人の未来』を夢見て始めたことのせいで、すっかり消耗してすり減り、色あせ始めた『二人の未来への展望』。
 麗しく匂い立つような希望に戻さなければいけない。
 さぁ、



 週末はどうしようか。何かしなければならないこと、したいことはあるか。
 夕食時に互いの予定を確認すれば、お互いに特に何もなかった。

 久しぶりにお互いが一日まるまるフリーな休日。
 久しぶりにデートらしいデート。

 だから充さんは、二人に必要な、楽しくてウキウキする、二人のこれからが明るくしか見えなくなることを提案した。
 それが「クリスマスマーケットに行こうぜ」

 充さんの素晴らしく愛すべき長所。たくさんあるうちの一つ。
 かじを切るタイミングを見逃さない。





 そしてやって来ました。クリスマスマーケット、イン・ジャパン。
 クリスマスマーケットは、ドイツやオーストリア、プラハなどを中心に毎年開催される、年末の夢のような一大イベントだ。
 ヨーロッパのクリスマスマーケットでは移動遊園地がつきもの。ここにはない。

 とはいえ、それでも目の前には、ドイツ、ニュルンベルクのクリスマスマーケットによく似た景色が広がって、キラキラと夢を振り撒いている。

 クリスマスマーケットといえば、屋外。
 もちろん、寒い。
 とてつもなく寒い。
 最強クラスの大寒波到来だって、天気予報で聞いてしまった。
 今夜は雪が降るそうだ。平野部でも積もるらしい。
 そんなの寒いに決まってる。

 西ヨーロッパ風のきらきらクリスマスは大歓迎。西ヨーロッパ風の寒さはノーセンキュー。

 それだから、たかしさんは黒ビールにニュルンベルガー。あたしはグリューワイン。
 お昼を食べてからそれほど時間は経っていなかったけれど、着いてすぐに買った。

 紙コップに口をつけると、スパイスと柑橘類の香りが鼻腔をくすぐる。
 口に含み喉を伝うと、温かなグリューワインが、その通ったところ、くちびる、喉、胸元、と順々に体をほっこりと温めてくれた。

「クリスマスマーケットといえば、レープクーヘンにシュトレンだろ。あとはマジパン巻き込んだ揚げパン。どっかにねぇかな」

 直火で焼いた、香ばしい薫りのするニュルンベルガーをぺろり。
 添え物のザワークラウトもすべて食べ終えると、充さんは紙皿を小さくたたみ、キョロキョロとあたりを見渡した。
 その様子は、クリスマスに浮かれた少年のようで、がっちりと大きな体との対比が、とてつもなく可愛い。

 でも、そのラインナップ。ちょっと食べ過ぎじゃない?

「そんなに食べるの?」
「レープクーヘンもシュトレンも日持ちする。レープクーヘンの焼きしめたやつはオーナメントにもなるぜ。お菓子の家ヘクセンハウス。あれもそうだろ。揚げパンは――まあ、食うかな」

 途中までよどみなく答えていた充さんは、目があったところで、少しバツが悪そうに肩をすくめた。
 そして片方の眉と片方の口の端をあげる。

「いますぐ食べたい?」
「いや。すげぇ腹が減ってるってわけじゃない」
「それじゃ、色んなもの、ぐるーって見て回ろう。そのうちに見つかるよ。それでどう?」
「それでいい。部屋に飾るもんも探そうぜ」
「うん」

 ビールを飲み終えた充さんが、あたしの残ったグリューワインを飲んでくれた。

「そんじゃ行くか」

 紙コップと紙皿を屋台前のゴミ箱に捨てると、充さんが手を差し伸べてくれる。
 手袋をしていない手同士。指を絡めてぎゅっと握る。





 隣りを見上げれば、光によって表情を変える神秘的な色合いの目を細め、形のいい口元までほころばせている充さん。

 まっすぐな鼻筋と長いまつ毛。すっきりとした頬。
 出会った頃よりすっかり短い髪の毛は、あちこちメッシュを入れたダークブロンドではなく。就活にあたって黒染めしたときのような、不自然なくらい真っ黒でもなく。
 ザッハトルテみたいな焦げ茶色。生来の髪の色。

 チカチカと点滅するカラフルな灯りに照らされた横顔を眺め、つくづく綺麗な顔をした男だと改めて思う。

 賑やかで華やかなクリスマスマーケットの景色の中。
 溶け込むようでいて、完全に存在の際立つ男。
 彼を目にした女性が繰り返し振り返って、目を丸くしては微笑んだり、うっとりとしたり。友人に囁きかけ、小さい歓声をあげたりする。
 まるでそこだけ、映画の世界。
 スクリーンに切り取られたかと錯覚しそうになる程度には、優れた美貌の男。

 彼の容姿が日本人の母親ではなく、ドイツ系アメリカ人の父親に酷似していること。
 それもきっと、このクリスマスマーケットを急設特別シアターに変えてしまった理由の一つ。




 さっきのあたしの台詞。
 感じが悪かったかもしれない。かもしれないじゃない。きっと悪かった。

 もう一度ちらりと横目をやると、充さんは目をキラキラさせてあたりを見渡している。
 ちっとも気にしていなそうで、こっそり胸を撫で下ろす。
 あたしはいつまで経っても、小さいことを気にしいだ。



『そんなに食べるの?』

 責めたかったわけじゃない。
 可愛いな。もしかしたら浮かれてるのかなって思った。それだけ。

 普段、脂質と糖分はそこそこ控えている充さんは、可能な朝は出来るだけランニングして、毎晩筋トレして。休日の合わない日にはジムに通っている。
 つまり、それなりに体型に気を使っている人だ。

 ホストを辞めてからも、彼の美意識が急激になくなるということはなかった。
 スキンケアはきちんと続けているし、ファッションはアクセサリーが少し減ったのと、かちっとした装いもするようになったくらいで、やっぱりお洋服も小物も靴も、たくさん揃えている。
 ホスト時代のように、クローゼットを開ければ、次々に新顔さん、あらこちらも新顔さんね、はじめましてこんにちは、というわけではないけれど。

 彼のエースだったランさんが、メンズメイクが好きではなかったのと、彼のキャラクターとして似合わなかったから、もともとホストとして出勤するときのメイクは、ごくごくシンプル。
 スキントーンと眉を整える。それだけ。
 今は眉のカットくらい。シェービングと同じ。

 つまりここまでのまどろっこしい説明は、次の言葉を繰り返すため。
 充さんの根本的な美意識は変わらない、ということ。

 だから、充さんがクリスマスマーケットで勢いづいて甘い物を買い占め、暴飲暴食してとんでもないことになりそうだなんて、そんなことは全然思わない。



 BGMに合わせて、小さく口ずさむ充さんは、目の前の光景に夢中。
 そんなところで水を差すのは野暮。
 だけどモヤモヤするし、「なんでも言え。くだらねぇって思うことでも、気になるなら吐き出せ」と小さな子供に教え聞かせるように、何度も言ってくれるから、あたしはその優しさに甘えることにする。
 繋いだ右手をぎゅっと握る。

「どした?」

 振り返った顔は優しくて、笑顔で。髪の色と同じ、ザッハトルテみたいにこっくりと甘い。

「さっきの。責めるつもりじゃなかったの。感じ悪い言い方しちゃったなって」

 さっき? と首を傾げるも、充さんはすぐに、「ああ」と頷いた。

「そんなふうに思ってねぇよ。大丈夫。安心しろ。気にすんな」
「うん。ありがと」

 ふはっと笑う充さんの目尻に、甘いシワが寄り、それからあたしの顔を映すオリーブ色の瞳が、「どういたしまして」と近づいてきた。
 冷たい鼻先がかすめる。

「溜め込まねぇようになったの、進歩だな」

 そう言って、冷たいくちびるも触れた。
 人前でイチャつくのは、進歩ではないと思った。

 ここは日本。たとえクリスマスマーケットで、西ヨーロッパ風の雰囲気が漂っていても、紛れもなく日本。

 仕事柄、渡航したり、海外の方と触れ合う機会の多い充さんには、そこのところ、ちょっと意識を改めてほしい。
 ……なんていうのは、照れ隠し。
 だって、恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。幸せ。大好き。
 胸の中、ひっそりと自分で自分に照れ隠し。
 我ながら。ほんとうに。ほんとうに。
 なんてめんどくさい女。そう思う。

 村上春樹作品の主人公みたいに、「やれやれ」とうそぶいてみる。
 これでは果たして、進歩しているのか。

 充さんが「あそこ入ってみようぜ」と、可愛らしい木製のオモチャが並べられた仮設店舗に向けて、顎をしゃくった。





 クリスマスオーナメントが所狭しと並ぶ、狭い店内。
 二人で雪だるまやサンタ、くるみ割り人形といった、木製の小さなオーナメントを手に取ったり、鼻先を近づけたりして、あれやこれやと物色して回る。

 シャンシャンとスレイベルが鳴らされたり、サックスのうなるBGM。
 赤に緑、金色といったウキウキするようなクリスマスカラー。
 楽しそうな女の子達の「可愛い!」「ほしいー!」「買っちゃえば?」「うーん。どうしよう。迷う~」と、笑い声。

 その場の全てが、クリスマスというキラキラとした定番。その非日常の高揚感で満ちていて、どれだけ歩き回っても足は疲れず。地面から数センチくらい、フワフワと浮かんでいる。

 なんといっても、繋いだ右手。その温もり。
 ぎゅっと握れば、「ん?」と振り返ってくれるのが嬉しくて、何度も握ってしまう。
 また握ってみると、暖色の光で瞳の色が茶色からオリーブになった、たかしさんの温かな瞳とぶつかる。

「なに?」

 慌てて話題を探し、目の前のオブジェに目を留める。

 てっぺんに羽のついた、ツリー状の木工民芸品。
 幾段かに分かれ、それぞれの台の上に天使や羊、羊飼いの子供達の人形、もみの木といったモチーフ、そしてキャンドルスタンドが置かれている。

「これ、映画かなにかで見たことある気がする。ホーム・アローンかな?」
「どれだ?」

 こちらに顔を寄せるものだから、充さんの髪が頬に触れた。
 いつものワックスの匂いと、モンタルのデイドリームの甘くて深い、スパイシーな香り。
 そこに充さんの体から立ち昇る匂いが、ぜんぶ混じり合う。

 名付けて、スウィート・タカシ・フレグランス。
 この上なく大好きな匂い。

 うっかり浸っていると、充さんが繋いだ手に軽く力を込めた。
 あたしは慌てて、繋いでいない手で木工品を指さす。

「これ」
「ああ、クリスマスピラミッドか。ホーム・アローン……どうかな。アメリカ映画だしなぁ」

 最後のほうはあたしに聞かせるというより、自分の中の記憶と対話して独り言ちているようだった。

「これはドイツの伝統工芸品。あのあたりの国のクリスマス映画なら、出てんじゃねぇかな」

 大きな手が伸ばされ、てっぺんの羽を長い指で示す。

「キャンドルに火を点けると、……なんだっけな。まぁ、とにかく火を点けると、このプロペラが回る」

 羽に触れるか触れないかのところで、充さんはぐるぐると人差し指を回す。

「火で?」
「そ。火。……あ、そうだ。火の熱。上昇気流。そんでプロペラが回るんだよ。暗い部屋でやると、陰影がキレイなやつ。気に入った?」

 ここでうん、と言うと「じゃあ買うか」になってしまう。
 値段に素早く目を走らせ、首を振った。

「ううん。場所をとりそうだから」
「ふーん。ちいせぇのもあるけど……。まぁ、円柱型だしな」

 充さんの視線がクリスマスピラミッドの隣りに移動して、留まる。
 その先には、アーチ型の木製キャンドルスタンド。
 キャンドルスタンドといっても、そこに挿されているのは、キャンドル型の電球だ。

 そして、やはり、とても高い。

 大きさや緻密さもあるのだろうけれど、クリスマスピラミッドより、高い。
 しかし充さんの目が輝いている……。

「おっ。シュヴィップボーゲンもある。こっちは? 平べったいから、場所とらねぇよ? クリスマスの雰囲気出るし、おまえの部屋にも合うんじゃねぇ? ほら、窓際。おまえの部屋、窓際になんもねーじゃん」

 うん。
 声のトーンもテンポも上がった。
 これは気に入ったんだな。

 ちなみに窓際に、今なにもないのは、先日まであったガジュマルの木が枯れてしまったからだ。
 何度も充さんが悪気なく蹴っ飛ばすものだから、窓際に避難させたガジュマルの鉢植え。
 それがよくなかったのか、シオシオと元気がなくなったと思うと、あっと言う間に萎れてしまった。

「シュヴィップボーゲンは、窓際に飾るもんだからさ」

 シュヴィップボーゲンという、アーチ型の木工民芸品を手に取る充さんの横顔。弾むような声。

 毎日、贅沢ばかりしているわけじゃない。
 高すぎるってわけじゃない。

 充さんの笑顔、声、匂い。
 寒さ、BGMと人々のざわめき。
 きっとこれを見るたびに思い出すだろう。

 それはすごく、すてきなことだと思った。

「うん。すてきだね。買おうよ」

 ぐるりとこちらを向く充さんのオリーブ色の瞳が、気のせいだろうか。揺れている。

「買う? おまえ……じゃなかった。君江も気に入った?」

 言い直さなくてもいいのに。
 そう思っているけれど、名前を呼ばれることは素直に嬉しいから、充さんの努力を止めたりしない。

 仕事で充さんがLAに滞在していたとき、仲良くなったらしい中東系の男性。充さんはたまに彼とテレビ通話をする。
 そしてその彼は日本語を勉強しているらしい。「よくない。愛する人、『おまえ』と呼ぶ」と主張。
 しばらく沈黙した充さんの横顔を、あたしは紅茶を飲みながら、隣で見ていた。
 それ以来、充さんは意識してあたしの名前を呼ぶ。

「うん。木目の見える白っぽい素朴な色も好き。細い板を何層にも重ねた立体感も好き。木が重なって森みたいになってるのも、森の中に建つ小さな家も、家の中にいる家族団らんみたいな温かい様子も、全部好き」
「そっか」

 納得したように頷くと、充さんの視線は木工民芸品に戻った。
 素朴で繊細でゴージャスで大胆。
 矛盾してる言葉なのに、それらが全部しっくりくるシュヴィップボーゲン。
 誰かさんみたい。

「一番気に入ったのはね。これを見るたびに、今日のことを思い出すだろうなって思ったから」

 木工品を前に、細めていた目が見開かれる。
 充さんが息を吸うヒュッという音が耳に届いた。

 何かおかしいことを言っただろうか。
 強張ってしまった充さんの顔。
 でも繋いだ手が、ぎゅっと強く握ってくる。だからあたしも握り返す。

 目を伏せ、静かに息を吐いて。それからバチっと音がするくらい、強い目力でこちらを射抜く、オリーブ色の瞳。
 言葉の先を促している、と思った。

「充さんが目を細めて、この子を見てたこと。楽しそうにこの子の説明をしてくれたこと。充さんの横顔も声も。屋台から漂うソーセージの香ばしい匂いも、クリスマスソングも、ざわめきも全部。
「この子がタイムカプセルみたいに大事にとっておいてくれて、クリスマスシーズン、この子がクローゼットから掘り起こされる度、今日の思い出が蘇る。この子が全部抱えてくれるから」

 繋いだ手は固く結ばれ、繋いでいない大きな手はシュヴィップボーゲンを持ったまま。

「それが一番、すてきだと思ったの」

 ぎゅっと握った手を小さく前後に振り、見つめ返して充さんの言葉を待った。

「……あのさ」
「うん」

 これから口にする言葉がまるで、ビックリさせて恐ろしくて、見当もつかない惨状を引き起こす、その暴れっぷりに誰も手を出せないような。ヒステリーと暴力がセットになった、早熟ではないアンファンテリブルそのものであるかのように。
 もしくは取り扱いの危険なことは明らかなのに、肝心の取り扱い説明書も、は未知の危険物であるかのように。
 充さんは注意深く、とびきり慎重に口を開いた。

「君江にお願いがある」
「いいよ」

 即答すると「聞かねえで頷くなよ」と、コールドスリープからたった今目覚めたばかりの人みたいに、充さんはカチコチに固まった目元や頬をぎこちなくゆるめた。

「このシュヴィップボーゲン、君江に買ってもらいたい」
「よろこんで」
「二人の共同財布じゃなくて」
「もちろん」
「少しはためらえよ」
「なんで?」
「なんでって……」

 言いよどむ充さんを見て、納得した。
 あたしも大概めんどくさい女だけど、充さんも十分、ガラスの少年だ。

「まあ、おまえがいいならいいけど」
「いいよ」
「あっそ。じゃああともう二つお願い」

 充さんは呆れたように、吹っ切れたように投げやりに言った。

「たぶん、俺は毎年、『覚えてるか』って聞く。そしたら『覚えてる』って言ってほしい。おまえがすっかり忘れてても、それでも『覚えてる』って言ってほしい」
「ちゃんと言うよ。『覚えてる』って。充さんが今着てるキャメルのステンカラーコートも、モカのクルーネックのラグランニットも、カーキブラウンのセンタープレススラックスも、黒のパラブーツのミカエルも。全部『覚えてる』って言うよ」
「そこまで求めてねーよ」

 大げさに肩をすくめて、呆れたような口ぶり、眉間に寄せたシワ、への字に曲げた口。
 『強欲スクルージおじさんじゃない』と示したがっているのはわかるけれど、必要以上の拒否反応が、内心喜んでいることを強調している。

 嬉しいくせに。

 でもそれは口にしない。
 プライドの高さも知ってるし、カッコつけて強がりたいんだってことも最近は気がついてる。
 何より充さんは、あたしが

「二つ目は?」
「毎年聞くし、何度も聞くけど、毎年、毎回、つきあってほしい」
「毎日だっていいよ」
「それはさすがにうぜーわ」

 これは心からのノーセンキューだ。
 目を合わせて笑い合い、シュヴィップボーゲンをレジに持って行った。





「新居でも飾ろうな」
「うん」
「あー。楽しみ」
「そうだね。着工、いつからだっけ」
「その前に地鎮祭もある」
「うん。初穂料と、近隣の方々に挨拶回りもしなくちゃ。――充さん、初めての戸建て住まいだね。楽しみ?」
「それもだけど。おまえ……君江と俺の家ってのがさ」
「うん」
「人数増えてもいいし」
「準備、整えたもんね」
「そ。あと単純に、もうすぐゴムつけなくていいの、すげー嬉しい」
「そうだね」
「だろ?」
「うん」
「早く家帰りてぇな」
「そうだね」
「わかってる?」

 持参したエコバッグいっぱいの荷物と、それでは足りなくて、店頭で購入した大きな布製の、イベントロゴがプリントされたショッピングバッグ。
 それらを両手に持ったたかしさんが、あたしの顔を覗き込む。

 オリーブ色の瞳に映るあたし。
 充さんもあたしも、瞳の奥に情欲を灯している。

「わかってるよ。でも引っ越しするまでは、ね」
「君江~。君ちゃん! 好きだよ。すげぇ好き」
「あたしも充さんが大好き!」
「あー、やっぱ浮かれてる。今日」
「うん」
「荷物が邪魔。今抱きしめる場面だったろ」
「だから持つって言ったのに」
「ヤダ。かっこつけさせろよ」
「じゃあ、あたしがぎゅーする」
「おー。しとけしとけ」

 充さんへのプレゼントのシュヴィップボーゲン。レープクーヘンにシュトレン。
 ドイツの瓶ビールを数本に、トロッケンとトロッケンベーレンアウスレーゼを一本ずつ。
 それから充さんがプレゼントしてくれたマイセン磁器の天使のオーナメント。

 充さんの腰に腕を巻きつければ、大荷物達がバッグの中で、ガチャリと心臓に悪い音を立てた。

「抱きつくの、禁止だね」
「……早く帰りてぇ……」

 大荷物を抱えて、人の溢れかえる電車に乗り込んだ。





「そういえばさ。最近聞かねぇな、変質者」

 何を思ったのか、じっとあたしのコートを見て、充さんが言った。
 いくつもの駅を通り過ぎ、車内の人がまばらになって、ふたり並んで椅子に座ったところ。

「そう?」

 残念ながら、その手の話題が消え去った記憶はなく、首を傾げる。
 充さんはあたしのコートの襟ぐりを掴むと頷いた。

「コートの前を手でおさえてさ。突然声かけてきて、ガバーって前開けたら全裸ってやつ。あれ、今でもいんのかな」
「あー。それは確かに聞かない……」

 同意するものの、いったい何を言い出すのか。
 いたずらっぽく光る目と、片方だけあがる口の端。

「やっぱ、もう一つお願い足していい?」
「えー……」
「なんだよ。即答しろよ」

 だって笑顔がうさんくさい。

「家帰ったらさ。おま――君江、裸コートやってよ。俺、玄関で待ってるからさ。俺がリビング入ったところで『モモンガー!』って」
「モモンガ?」

 なんだその珍妙なおたけびは。

「そのコート。モモンガみてぇだから」

 身幅と袖幅がたっぷりとしていて、ころんと丸いシルエット。
 襟元と折り曲げた袖が黒。全体はライトグレー。バイカラー。
 手を広げるとモモンガみたいだから、確かにこの手のコートはモモンガコートと言われている。らしい。
 だけど。

「そんな変態行為するためのコートじゃありません」

 だいたい、そんなのぜったい寒い。
 いろいろと寒い。

「なんだよ。好きなくせによ」

 いやらしく笑う充さんの顔を目の当たりにして。
 充さんがスクルージおじさんとの差別化を訴えたとき。ニヤけそうになる顔をこらえるために、不自然なくらい厳めしい、しかめっ面をこしらえていたとき。
 あのとき。
 物分かりよくわかったふりをせず。心のままに。

「嬉しいくせに」

 そう言ってやればよかった。

 うらみを込めてじとりとめ上げると、大荷物から解放された、充さんの大きな手が頬へと伸びてくる。
 クリスマスマーケットでは、繋いでいても冷え切っていた手。電車内に長らく留まったことで、すっかり温まっている。
 あたしの頬をひとなですると、そのまま流れるように、充さんの親指と人差し指が、頬肉を軽くつまむ。
 そしてのたまうことには。

「怒った顔も可愛い――って言ってほしいんだろ?」

 今日の充さんは、やっぱり浮かれてる。どうしようもないくらい。
 だけど、あたしも浮かれてる。どうしようもないくらい。

 帰宅したあとの流れ。その映像がまるで予知夢のように、鮮やかな様子で脳裏によぎる。
 あたしはコートの黒い襟元を深く重ね合わせ、ぎゅっと掴んだ。





(クリスマスのお話「シュヴィップボーゲンを覚えてる」了)
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