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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

後日談1 レイジーサンデーモーニング

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「How booooring!」

 つっまんねー!

 叫んでみたところで、退屈なものは退屈だ。
 ぬるくなった紅茶を片手に、You tubeで好きなミュージシャンのMVを観る休日。

 コホラのダージリンはジュンパナ茶園のファーストフラッシュ。
 あらかじめ温めておいたロイヤルクラウンダービーのカップや、沸かしたお湯の温度に蒸らす時間。ていねいに淹れた紅茶はやはりおいしい。

 紅茶の香りを楽しんだあとは、休日のとくべつな香り。
 マルジェラのフレグランス、レプリカのレイジーサンデーモーニングをぷしゅぷしゅやって、フミカウチダのレザパンに足をねじ込んで。
 古着の褪せたブラックにボロボロのロックバンドのロゴが入ったTシャツの上から、マリオンヴィンテージのパッチワークニットをかぶる。
 好きなスタイル。

 大好きなお洋服に大好きなフレグランス。
 大好きなロックバンド。
 大好きなコホラのダージリン。
 連勤後の待ちに待った休日。

 それなのに、心は浮き立たない。

「I'm dying of boredom」

 退屈すぎて死ねる。

 ねえ、こういうときってなんていうの?
 WEB英会話でたずねる言葉がいつも「退屈」「つまんない」「死んじゃう」みたいな言葉ばかりで、教師の男が呆れていた。

「You'll never find a rainbow if you're looking down」

 うつむいていたら、虹は見えないよ。

 肩をすくめて彼はそう言った。
 チャップリンだ。
 そんなの知ってるよ、と思ったけど、何も言葉にならなかった。

 この気持ちを表す英語がわかんなかったから。
 そうやって自分をごまかしてみても、じゃあ日本語なら?
 日本語ならうまく言い返せた?

 その答えは自分がよくわかっている。

「It's boring!」

 もういちど叫んで、それから立ち上がる。
 ジュエリートレイにのっているシルバーアクセサリー。
 やたらにたくさんあって、ひとつを取り出そうとすれば、じゃらじゃらと他のネックレスやらブレスレットやらピアスやらがくっついてくる。
 絡まったそれらをていねいにほどいて、ソフィーブハイのエッグペンダントだけをより分けた。

 きらきらと光るちいさな球体にくちづけする。
 鏡面にテラコッタカラーのリップがつく。セルヴォークのディグニファイドリップスの09。
 いっとき品薄が続いて、全然手に入らなかったリップ。
 販売一年後にはふつうに店頭に並んでた。新しい流行りのリップはすでに変わっていたけど、この色が好き。
 だけど世界的なウィルス大流行、パンデミックになって、誰もがマスク生活になって、せっかく買ったリップの出番がない。

「―――without you」

 だけど違う。
 出番がない理由は、マスクのせいじゃない。だってあなたがいない。あなたが、ここにいない。

 あなたが教えてくれたロックバンド。
 あなたが教えてくれた紅茶。
 あなたが教えてくれた香水。
 あなたが教えてくれたお洋服。
 あなたが教えてくれた英語。
 あなたが置いていったたくさんのシルバーアクセサリー。
 あなたがプレゼントしてくれたペンダント。
 あなたが好きだと言ったリップ。

「その色。キスしたくなる」

 そういって、はむようにキスをして。いつのまにかあなたにリップの色がうつって。混ざり合って。

 こども向けの英会話教室の教師をしていくはずだった男。
 複雑な親子関係にあったお母さんと和解して、そしてお母さんの伝手でお母さんの古巣の映画配給会社に雇用してもらうことになった。
 ものすごく複雑な気持ちになったけど、「こっちのほうが給料いいし。おまえ食わせていけんだろ」と言われてしまえば、胸がキュンキュンして黙るしかなかった。
 あとになって、初任給には大した差がないことに気がつき、そのうえ男の性格からして、そう長く続けられる仕事かというと疑問だ、と判明した。
 ぜったいにこども向け英会話教室の方が、男に向いていたし、それに平穏な毎日を一緒に過ごすことができていたはず。

 会いたい。

 ただそれだけだ。
 男の見目の良さ――アメリカの某ロックバンドのギタリストの若い頃にそっくり――を買われて、まったくの新人ペーペーなのに、映画の買い付けに同行してしまった。
 世界的なパンデミックが叫ばれる今、なぜWEB買い付けでないのかと文句を言いたかったけれど、男の就職した配給会社の上層部いわく、「才能に敬意を示すには、対面での交渉が必須」ということだった。

 お母さんに反発して、いっさいの映画を拒んできた男。
 だけどもともと読書家でロマンティストな男は、映画の存在を受け入れれば、みるみるうちにスクリーンのイマジネーションをその身に染み渡らせていった。
 こちらの存在を忘れるくらいに没頭していく様が、怖くて。

 だから。
 男の性格に向いていない、なんて嘘だ。
 こども向け英会話教室の先生となった男と、穏やかな生活を送りたいという、ただの願望。男はきっと、アットホームな英会話教室の優しくてカッコいい「せんせい」になることに満足しただろうけど、でもきっと男の感性が生かされることは、ない。
 ドラマティックな星の下に生まれ、踵を返しても、タイプの違う華やかな世界が追いかけてくる。そういう男だ。

 あとどれくらい待てば男の声を聞くことができるだろう。
 時差がもどかしい。
 ロサンゼルスとの時差は16時間。
 こちらは今、日曜日の朝10時。向こうは土曜日の夕方6時。
 スマホをスワイプしてラインのアイコンをタップする。

 そろそろでしょ?
 ねぇ、そろそろ通話をしてくれる時間のはずでしょ?

 だけどスマホの画面は何も変わらず、あたしはパソコンを開いた。
 ネットフリックスのアイコンをクリックする。






「待たせたな。悪かった」

 スマホの画面越しにうつる男の顔。少し赤い気がする。
 動きはどことなく、かくかくとしているし、画質は悪い。

「飲んできたの?」
「そー。海外こっちは飲みにケーションない、とかウソばっか。しかもあいつら、マジで底無し。あんなの付き合ってたら、身がもたねーよ」

 それが少し前までホストとして連日連夜無理な飲酒をしていた男の言う台詞か。
 心の中だけでつっこみつつ、それでもそういう世界から引退したはずの男が、楽しそうに酒を飲んできたのなら、それでいい。ぶつぶつ言いながらも、男の顔には充足感がある。
 目の前の現実から逃げ続けていた、あのときの斜に構えて、冷笑的で荒んだ様子はみじんも感じられない。

「そっちは日曜だっけ?」

 きっと近くにいれば、そうとうに酒臭いんだろうな。
 そんなことが頭にかすめるほど、男の目はトロンとしている。
 画質の悪さという障害があってさえ、気だるそうな様子がよくわかる。

「うん」
「んじゃ休みか。今日はなにしてた?」

 なにもしていない。
 ただあなたからの電話を待っていた。

 そんなことを口にするのは、あまりにみじめで。
 前に進もうとしている男と、同じ場所にとどまっているだけの自分。
 出会ったときには、二人して見たくない現実から逃避していただけだったのに。いつのまにか男は前を向いて歩き出していた。

 初めてセックスした、そのあとで交わした身の上話。男はあたしに「えらいな。真っ直ぐに生きてる」と言った。
 けれど、あのときからあたしは少しも変わっていない。少しも進んでいない。
 相変わらず、両親とは分かり合えないし、一族の会合には不参加。
 少し変わったことといえば、夜学を卒業して歯科衛生士の資格を取ったことだけ。資格取得前から歯科助手として働いていたから、職場は変わらない。
 仕事内容は多少幅が広がったけれど、でも、男のような目を見張るほどの変化はない。
 世界的なパンデミックの影響か、定期健診や予防に訪れる患者さんは減り、せっかくできるようになったPMTCもあまり予約が入らない。

「………映画観てた。ネットフリックスで」
「へえ。なに観たんだ?」

 不自然な空白について問わないのは、男の優しさ。だけど、かまってちゃん、察してチャンのあたしは、内心男を糾弾している。

 どうしてよ? わからないの? この不穏な空気を。誰よりあたしのことをはずでしょ!

 理不尽だと承知してる。
 だけど共に暮らしていたときは、ほんの少しの違和感にすぐさま気が付いてくれる男だった。そして体温を分かち合って、愛をささやきあって。
 そうして過ごしていた時間の、どんなに幸せだったことか。

「『ライフ・イズ・ビューティフル』」

 ふてくされているのを隠さず答えると、男はにやりと笑った。

「『I give you a lift.』」
「え?」
「まさにこれだろ」
「え? だからなに?」

 赤ら顔でニヤニヤと得意げに口にされた、やけに発音のいい英語に腹が立つ。
 思い切り不機嫌な声でつっかかるように聞き返すも、男はにやけた顔のまま。

「だからさー。おまえの観た映画。『ライフ・イズ・ビューティフル』のラストだよ。感動的なゲームセットだっただろ? 連合軍の戦車がガキの前で停まったやつ」
「………うん」

 時間つぶしにと観た映画のラストを思い返す。
 父親の優しいウソで、収容所で起こるすべてのことがゲームだと思い込んでいた少年。
 1000ポイント獲得したら優勝。優勝したら戦車がもらえる。
 そして少年は本物の戦車に乗った。父親の死のあとで、すべてがゲームだと思いこんだまま、大喜びで母親と再会をする。
 そこにあるのは希望と言い切っていいのか。
 でも、それがなんだというのだろう?

「俺がおまえをのせてってやるから」
「え?」
「大丈夫だから。心配すんな。ちゃんとおまえのところに帰るし、おまえの人生がうまくいかねぇってときは、俺がのせてってやる。だから、心配すんな」

 ニヤけた男の赤ら顔を前に、言葉を失った。







 あの頃から、目を見張るほど、なにか進んだわけじゃない。
 男みたいに輝かしい仕事をしているわけじゃないし、男みたいに親子関係を修復したわけじゃない。目をそらしたい課題は山積みだし、逃げたままの問題も同様。
 でもちゃんと、あたしはここで踏ん張っている。

『I give you a lift.』

 息苦しい月曜の朝を、明日はきっと心地よく感じられるはずだ。
 男の声を何度も何度も思い返し、眠りについた。


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