20 / 53
第一章 ダフネはアポロンに恋をした
18 フェアリーゴッドマザーの魔法
しおりを挟む「責任をとるよう求めた。父親としての当然の主張だ」
昨夜の魔法はとけてしまった。フェアリーゴッドマザーの魔法はいつでも12時までと決まっている。
父親? あなたがあたしの父親であったことなど、あっただろうか。父親の仮面を被ってはいた。魔王のはりぼての上に。
それなのに魔法のとけたあたしはいつも通りこう答える。「はい」それだけ。
「賢治兄さん、それはいつのこと?」
「昨夜だ。充くんが医局で待っていた。蘭くんとともに。院長の兄が許可したそうだ。兄もいた」
「蘭さんも……?」
「当然だろう。君江を害したのは蘭くんだ」
叔父さんは複雑そうに頷いた。
叔父さんはあたしを可愛がってくれている。だから殴られたこと、そのこと自体には叔父さんも叔父さんとして憤ってくれている。だけどそれ以外。過去の恋を忘れられないロマンティストな一人の男としては、蘭さんを許し、救い出したいのだろう。茨の城から。さっそうと剣で絡まるツタを払いのけ、眠れる森の美女のもとへと。おとぎ話のように。
「それで、責任とはどういうことだい?」
責任。独身の女に対する、独身の男が求められる責任。父は男に迫ったのだろうか。脅迫の末の結婚だなんて。目の前が真っ暗になる。
そんなものは望んでいない。この先の未来が余ったクレヨンで塗りつぶされた始まりだなんて、どうして受け入れられるものか。
カラカラに干からびた口の中。息を吸い込むと、小さくひゅっと間抜けな音を生じた。
父が鋭くあたしを一瞥した。
「責任を取れと言ったまでだ」
「……つまり自分で考えろと」
眉をひそめる叔父さんに、険しい顔つきの父が頷く。
「充くんは『俺が君江さんの耳になります』と宣言した」
涙すら出ない。
脅して強制した誓約が嬉しいと? 男の制約にあたしが喜ぶと?
だいたい、耳の怪我など手術をすれば聴覚は戻るだろう。たとえ後遺症が残ったところで、男の人生を賭けるに値しない。だってあたしはちっとも幸せじゃない! この先、男のすべての真心が見せかけなのか本当なのか、のべつ疑って心配して、びくびくと卑屈に怯える人生だなんて!
絶望がひたひたと心のプールを満たして、ぞっとするような冷たい、おぞましい臭気を放つ液体がたぷたぷと揺れている。体中、指のツメの先、髪の毛の先まで呪われた血液が巡っているのだ。震える唇を噛みしめる。
冥王ハデスの目を見てはならない。そうすれば、あたしはまた「はい」と言う他にない。
「…………どうしてですか」
「なに?」
うつむいて父の顔を見ないようにして、震える二の腕を反対の手で握りしめる。ツメをたててきつく、痛みを刻みつける。
「責任なんて、取ってほしくありませんでした。彼を束縛するつもりもありませんでした。謝罪してほしくありませんでした。だって彼のせいではないんです」
男はあんなに神経質に気を配っていてくれた。楽観視して、油断して、最後にバカなことをやらかしたのはあたしで、男にはなんの責任もない。巻き込まれただけなのに。そうだ。男は生まれたときからずっと巻き込まれただけだった。
「つまり君江――あなたは、責任を取るよう求めたことを撤回してほしいと?」
「はい」
「そうか」
父が頷くのがわかった。ほっと安堵する。父が了承してくれた。「ではそのように伝えよう」と。
「ちょっと待って!」
叔父さんの焦った声に顔をあげる。まるで今にも飛び降り自殺をしそうな思いつめた顔つきの若い女の子がそこにいて、ビルの屋上でフェンスにしがみついて引き留めようとしているかのように、切羽詰まった顔つきをしていた。
「彼にどう伝えるつもりなんだ?」
「責任を取る必要はないと。君江が望んでいたと伝える」
「違うよ! そんなことを言ったら、ますますこじれてしまう! どうして兄さんはいつもそうなんだ!」
父はあからさまに機嫌を害した。ぶんぶんとうるさいコバエを睨みつけて『この世界から消えてなくなれ』と心から望んでいるような目で叔父さんを睨みつける。
「いつだって私は娘の望むようにさせている。なぜか? 自分がそうでなかったからだ」
思わぬ言葉にうっかり反論が口から飛び出た。真っ昼間だったけれど、フェアリーゴッドマザーの魔法がわずかに残っていた。
「それならば、なぜ大学を受験させたのですか?」
父は虚を突かれたように目を丸くしたが、眉間の皺は変わらず険しい。
「受験し不合格したという結果がなければ、あなた自身が諦めなければいけない理由を作れなかっただろう。不合格という形で、あなたと周囲と双方納得させることができた」
一族の目だけを気にして受験させたわけではなかったのか。父の眉間に刻まれた皺のうち、あたしのために深くなったものはどれだろう。
「お父さんの気持ちはわかりました。伺ってよかったです。誤解をしていました。これまでの態度を謝罪します。娘として褒められたものではありませんでした」
「あなたは悪くない。すべて私がいけなかった。伝える努力を怠っていたことにようやく気がついた。あなたの望みを叶えているつもりでいたが――」
「君江と呼んでください。『あなた』では寂しいです」
「そうか。君江の望むことはなんだろうか。私は君江と会話をしたい」
「はい。あたしも、お父さんと会話をしたいです」
厳格な表情は変わらず、いつものように威圧的に頷く父。
いつか父と向かい合うだけでなく、ソファーで肩を並べてコーヒーマグを手に、お互いのマグから立ち上る湯気を、お互いの息で揺らすことができるだろうか。父の大事にしていたドーリー・ウィルソンの『アズ・タム・ゴーズ・バイ』のLPレコードを壊したのが、あたしではなく、実は母だったのだと打ち明ける日がくるだろうか。
いつか母に、祖母から譲り受けたルビーとダイヤの指輪を手渡すことが、できるだろうか。
父が母に婚約指輪として贈り、結婚生活が破綻した後に母が祖母に預けた指輪。あれは母にとって、人質だったのだ。
「私達は会話が少なかった。家に戻ってくるか?」
「いいえ。あのアパートで彼を待ちたいと思います」
「そうか。では先ほどの、撤回するという話はどうすればよいだろうか」
「責任を取ってほしくないと。そう望んでいるとお伝えください」
「わかった。そうしよう」
叔父さんは呆れたように首を振った。あたし達に聞かせるように、大きなため息をついて。
翌日の手術は無事成功した。
少しして叔父さんは蘭さんと復縁した。伯母さんは呆れていた。父は何も言わなかった。叔父さんから男がホストを辞めたことを聞いた。蘭さんから謝罪の申し出があったけれど断った。
男は戻らなかった。
しばらくして再び難聴と平衡障害とめまいを覚え、耳鼻咽喉科を受診したところ、外リンパ瘻ではないかと言われた。入院して安静による保存的治療をと担当医師に勧められ、再度入院した。症状の改善が見られず、手術に踏み切ることになった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
前略、旦那様……幼馴染と幸せにお過ごし下さい【完結】
迷い人
恋愛
私、シア・エムリスは英知の塔で知識を蓄えた、賢者。
ある日、賢者の天敵に襲われたところを、人獣族のランディに救われ一目惚れ。
自らの有能さを盾に婚姻をしたのだけど……夫であるはずのランディは、私よりも幼馴染が大切らしい。
「だから、王様!! この婚姻無効にしてください!!」
「My天使の願いなら仕方ないなぁ~(*´ω`*)」
※表現には実際と違う場合があります。
そうして、私は婚姻が完全に成立する前に、離婚を成立させたのだったのだけど……。
私を可愛がる国王夫婦は、私を妻に迎えた者に国を譲ると言い出すのだった。
※AIイラスト、キャラ紹介、裏設定を『作品のオマケ』で掲載しています。
※私の我儘で、イチャイチャどまりのR18→R15への変更になりました。 ごめんなさい。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
従妹と親密な婚約者に、私は厳しく対処します。
みみぢあん
恋愛
ミレイユの婚約者、オルドリッジ子爵家の長男クレマンは、子供の頃から仲の良い妹のような従妹パトリシアを優先する。 婚約者のミレイユよりもクレマンが従妹を優先するため、学園内でクレマンと従妹の浮気疑惑がうわさになる。
――だが、クレマンが従妹を優先するのは、人には言えない複雑な事情があるからだ。
それを知ったミレイユは婚約破棄するべきか?、婚約を継続するべきか?、悩み続けてミレイユが出した結論は……
※ざまぁ系のお話ではありません。ご注意を😓 まぎらわしくてすみません。
【完結】王太子妃の初恋
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
カテリーナは王太子妃。しかし、政略のための結婚でアレクサンドル王太子からは嫌われている。
王太子が側妃を娶ったため、カテリーナはお役御免とばかりに王宮の外れにある森の中の宮殿に追いやられてしまう。
しかし、カテリーナはちょうど良かったと思っていた。婚約者時代からの激務で目が悪くなっていて、これ以上は公務も社交も難しいと考えていたからだ。
そんなカテリーナが湖畔で一人の男に出会い、恋をするまでとその後。
★ざまぁはありません。
全話予約投稿済。
携帯投稿のため誤字脱字多くて申し訳ありません。
報告ありがとうございます。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる