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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

17 もしもの過去は不可。もしものチャンスは可

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 叔父さんのなんとか絞り出し、それでいて昂る憤りをどうにかおさめて平坦にならしたような声を父は一切無視して続けた。

「私は父親として、あなたに――君江きみえに謝罪しなくてはならない。私のせいで、みつると蘭くんが引き離され、蘭くんは精神を病み、たかしくんにみつるの役割を被せてしまった。私が邪魔立てすることなく、みつると蘭くんが夫婦となっていれば、家族幸せに過ごせたことだろう。君江の祖父母もいずれ認めたはずだ。誤解を受けやすいが、彼等は無慈悲なわけではない。そして君江もたかしくんと従兄妹同士、幼少より平和な出会いを交わすことができただろう。恋愛関係に至ったかはわからないが……」

 本能のレベルで求め合うはずだと、こっぱずかしいことを主張したいけれど、黙っておく。
 男の顔が思い浮かぶ。
 彫刻のように美しい男の顔。そして体。まるでアポロンのようだと伯母さんが評したように、神話の世界に入り込んだかのように素晴らしい美貌。
 胸元に手を当てれば、心臓は動き体中に血液を巡らせ、ポンプがはねあがるたびにあたしにそこにある生命を知らせてくれる。彫刻にはない体温に傷、ときには肌荒れ、かさつきもある。
 なぜここに男がいないのだろう。
 抱きしめて、頭を撫でてほしい。男のわきの下にもぐりこんで、汗の匂いをかいで、鼻を鳴らして、くすぐってみせたい。
 そうすれば、男はなんて言うだろう。きっと「くすぐってぇからやめろ」と笑いながらあたしの頭を、あの大きくて温かい手でやんわりと押しのけてくれる。そうしたらあたしはその手のひらにぐりぐりと頭を擦り付けるのだ。この素晴らしい男はあたしのアポロンなのだと。

 頭を振れば、眩暈がひどくなる。
 うっとりするような夢のあとに冷たい無機質な病室に目をやれば、魔王のはりぼてを脱いだ父と、過去の失恋を悔いる叔父さんがいる。
 細く息を吐き出した。同様に深く息を吐きだしていた父の目を見る。
 今日の父はよくしゃべる。それだけに集中しよう。これほどたくさんのことを話してくれることは、今後もうないかもしれない。
 既に父は、言葉をつむぐ途中で唸り声をあげたり、いくども深呼吸をしていたりする。医師としてならば、毎日いくらでも弁舌をふるっているはずなのに。

「そして私達家族も。妻――君江の母親は私が蘭くんを愛しているという誤解をいまだに妄信している。それゆえ、あの人は、君江をうまく愛せず――私はよい父親になれなかっただけでなく、君江から母親をも奪ってしまった。そして今回、君江が蘭くんから暴行を受けるなどという大変に許しがたい事態を招いてしまった。すべて私の不徳の致すところだ」
「蘭さんの暴こ――の件は、お、おおお父さん……とは、関係がないのでは。あたしが考えなしだったから…」

 暴行。言葉としては確かに間違ってはいないけれど、やめてほしい。違う意味を思い浮かべてしまう。

「君江のせいでは、決してない。暴行を受けた君江は被害者であって、君江が悪いなどということは、断じてない」

 父があの恐ろしい眼光で叔父さんを睨みつけると、叔父さんは両手に顔を埋め、ずりずりと前髪をなであげた。

「……うん。そのとおりだ。が悪いなんてことは、絶対にないよ。ごめんね。大人げなかった。ぼくはだめだな。いまだに終わったはずの恋にみっともなく縋りついて夢想して。そればかりになってしまう。周囲を見渡すことも、物事を公平に考えようとすることもできない。愚かで幼い青年のまま、なにも変わっていないな」

 叔父さんはパイプ椅子から立ち上がると、頭を下げた。ぎしりと音がした。


 蘭さんは可哀そうだったのだから。父の被害者なのだから。その娘であるあたしは、今すぐに蘭さんを許すべきだ。
 確かにそんなことを言われても、納得することはできない。
 今でも思い出すと、とても怖い。
 それ以上に、男が蘭さんから受けてきたものは、あたしには虐待のようにすら見えてしまう。
 男の受け続けた傷。諦め悟りきったかのように、斜に構えた態度。冷笑的な考え方。皮肉屋で臆病で、突然距離を詰めてきたと思ったら、心を打ち明けた途端、異常な執着心を見せる。だけどすっかり心を預けきるのは怖くて、ときどき噛みつく。甘噛みではなく、食い殺してそのまま自らのはらわたも噛み千切ってしまうかのように。
 男もあたしも。

 男の名に叔父さんの漢字をあてたこと。男の源氏名が叔父さんの名と同じ読みをすること。

 蘭さんにとって、息子が成長するにしたがって、血の繋がった父親にばかり似ていくのを見守ることがつらかったのは、息子が愛する男ワンナイトラブの相手に似ていくことがつらかったのではなく。息子が愛する男駆け落ちまでした相手の子ではないと、つきつけられることが苦しかったのだと、ようやくわかった。

 父親の不器用さ、顔の怖さ。
 男と出会ったとき、男はあたしのことを高慢な女だと思っていた……。

 もしチャンスがあるのなら。あたし達はみんな。前を向いて、もう一度関係を結びなおして。振り返って。やり直して。再び始めて。納得のいくように、きちんと終わらせて。
 もしチャンスがあるのなら、あたし達はみんな。今度こそ。



 父と叔父さんが個室を辞して、あたしは泥のように眠った。翌日男は見舞いに来なかった。


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