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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

08 ゴングの鳴らされた後では、分が悪い

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 深夜というより、早朝と呼ぶ方がいいような時間。
 インターフォンを何度も鳴らされる。慌てて玄関の扉をあけた。
 帰宅して軽い食事をとって、入浴して。それからずっと落ち着きなく狭い部屋をうろうろと歩き回っていた。男を待っていた。
 きっと喉は乾いているはず。夜食はいるだろうか? 疲れているだろうから、お風呂の準備を。でもあまりに酔っていたら、入浴は危険。そんなことを考えながら。
 男は入るなり、ダイニングテーブルに向かい、椅子にどさりと腰かけた。疲れが滲む仕草。グラスに冷たく冷えたアイスティーを注ぐと、男は無言で煽った。




 酒臭い息とともになされた男の告白はびっくりするものだった。

「『エース』は俺の生みの母親だ」
「え?」

 赤い顔。たばこと酒精と香水と。疲労の色濃い獣のような体臭。

「だから。俺のエースは俺の母親。クソだろ」

 はっと鼻で笑ってことさら酷薄そうに振る舞う。酒精と疲労のせいで、身振りは大きく荒々しい。粗野なふるまいをする異性がプライベートな空間において間近にあったことは、これまでなかった。親族達は男も女も、みんなたいてい慇懃。そこに無礼とつけ加えたくなる人も、中にはいる。
 びくりと肩を揺らすと、男は酒臭い大きなため息を吐き出してワックスでベタベタの髪をぐしゃりとかきあげた。

「おまえ、ほんっとお嬢様なのな。俺のことが怖い? そんなら出てくけど」

 『あんた』が『おまえ』になった。どちらが好ましいのかと自身に問うてみたところで言葉に詰まる。なにより距離が近づいたのか。逆に遠ざけられたのか。判断しかねる。
 ただ男が少しだけ傷ついて、そしてそれ以上重篤な傷を負うことがないように。臨戦態勢のボクサーよろしく、ヘッドガードを頭からすっぽり被り、グローブをつけた手でファイティングポーズを構えているのはわかった。
 試合開始のゴングが鳴らされる前に、すばやくグローブのマジックテープを剥がさなくては。

「怖い。だってあなたはあたしを突き放そうとしてる。最初から壁をつくって」
「っざけんな! 俺のせいにすんじゃねぇよ! おまえが俺を蔑むからだろ!」
「そんなことしてない」
「してただろッ!」

 男の大きく振りかぶった腕がピッチャーを倒した。腕にじゃらじゃらとつけているシルバーチェーンがテーブルと当たって乾いた音を鳴らす。金属音の高い澄んだ音は少しくぐもって、テーブルに吸収されている。床に落ちたプラスチックのピッチャーはぼとりと鈍い音。
 酒をしこたま飲んで帰った男はきっと喉が渇いているだろうとピッチャーごとテーブルに出したアイスティー。転倒の衝撃で蓋が外れ、床は水浸し。カーペットのベージュが赤褐色に染まっていく。

「おまえは俺を哀れだと! 見下しやがった! だからあんなクソみてぇな歌に一万円札なんて投げつけたんだろ! おまえのくだらねぇ虚栄心のために! 駅前でヘタクソな歌うたって、女に騒がれていい気になってる俺を! おまえは可哀相だと、同情したんだろ! 恵まれた、おキレイなお嬢様の慰みで! だからおまえは俺のことなんざ、少しも覚えちゃいなかった!」

 怖い。
 激高した男性を目の当たりしたことは、ない。それにこれほどまで大きな体の。荒々しくて、力強くて、男らしくて。野性味に満ち、憎悪と哀切。酒で濁った瞳で強く睨みつけられ。
 目の前に立ちふさがる大男は酒に酔って理性の箍が外れてわめいている。しかも素性などよく知らないのだ。ただ一度寝ただけで。
 知っているのは、保険証に記載された男の本名と生年月日、保険者番号。
 それから問診票に書いてもらった連絡先に住所。ユニットに寝そべってもらったとき、覗いた口の中。パントモにCT。健康な値の歯周ポケット。
 アメリカのロックバンドのギタリストが父親で、ホストとしての男を支えるエースが母親。
 普段は不愛想。とつぜん距離を詰めてくる。大型犬のように屈託なく笑う。
 あけすけなくらい率直で、見栄をはるけれど、大事なことは偽らない。打ち明け話をしてくれて、あたしの話も聞きたいと言う。
 英語の発音が、たぶん、よくて、『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』が好き。ギターの腕は微妙。映画は観ない。シルバーアクセサリーをたくさんつけてる。
 どんな種類のキスを持っているのか。どれだけの情熱であたしに触れたのか。どんなに甘やかに優しくあたしを抱いたのか。枕元で口ずさむ、しゃがれた声。お風呂でのいやらしい手つき。
 たくましい体の温かさ。かたくてやわらかい、いつまでも触れていたくなる引力。
 抱き枕のようにあたしを抱え込んで眠る。静かな寝息。
 起きぬけに腹が減ったとわめいて、たくさん食べる。
 夜にまたと言った通りに帰ってきた。酒とたばこと香水と疲労。夜の匂いを引っさげて帰ってきた男。出勤には歯医者では見たことのない、これまで以上にチャラチャラした格好をしていく。その姿を見るとホストをしていると納得のいく男。
 どうだろう。これでも素性などよく知らない男? ううん。これだけ知っていれば十分。

 怖くないはずがない。この恐怖は本能だ。
 だけど本能ではないあたしが怖いと大声で叫ぶのは違う話。この男を逃したくない!

「見下すはずがない。だってあなたに出会った日、あたしは両親からとうとう見捨てられるんだって。そう思って家に帰る途中だった」

 ギラギラした目のままこちらに近寄ってくる。びくりと震えてしまう。苛立たしそうに男が舌打ちする。
 狭い部屋に充満する酒精と香水の匂い。吐き気がしそうだけれど、そこに男の疲労を蓄積した体臭が混じって、安堵する。獣のような匂い。だけど男がここにいる証。その匂い。

「あなたが『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を歌ってた。あの日はあたしが受験した大学の合格発表の日で、あたしは落ちた。わかってたことだった。だけど合格しなくちゃいけなかった。そうじゃなきゃ、あたしは医者一族の一員として認められないから。だからまた、浪人してでも受験しなくちゃいけなかった。だけど、疲れちゃったの。無理なんだもの。あたしはどうしようもなくバカなんだって、自分でよくわかってる。医者になんてなれない。不合格だったと言ったら、父は『合格するとは、もとより考えていない』と言った。想像通り。あなた、そんなときに父の好きな『カサブランカ』のテーマ曲を歌ってたの」






 その晩、疲れ切っているはずの男は『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を歌ってくれた。おやすみの子守歌だった。
 男がたくさん身に着けていたシルバーアクセサリーは、帰宅途中に駅ビルで購入した白い陶器のジュエリートレイに載せた。シルバーよりゴールドが似合うジュエリートレイ。医者一族ではない母方の祖母から譲り受けた、ルビーとダイヤがはめこまれたリングも、男のアクセサリーの横に並べて置いた。
 男が窓を開け放つ。部屋に閉じ込められていた臭気は留まり、すべては抜けていかない。涼しい風は入り込む。白く揺れるレースカーテンの向こう。男の広くてたくましい背中。浮かび上がる筋肉と骨と影が描く模様。
 夜明けの空が、もうすぐ白み始める。


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