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第一章 ダフネはアポロンに恋をした
06 百人斬りのユニコーンの乙女
しおりを挟む男は歯医者にくるたび、あの雑誌を持ってきていたらしい。
全然気がつかなかった。そう言うと「あんたは俺に興味がなかったんだな」なんて肩を落とすから、可愛いなんて生意気なことをやっぱり思ってしまう。
それから憎らしく思っていたことを告白された。
「こんにちは」の挨拶も交わすことなく、男の視線の先いたあたし。そうやって長いこと、男の中でだけ膨らんでいった疑問と不安と期待と不信感と怒り。そこにきて、歯医者で再び顔を合わせたあたしは、男のことを何一つ覚えていない素振り。
それで結局、男はあたしが男を見下していると思った。
「なんだって一万円札なんて投げてった?」
「なんとなく。あなたが『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を歌っていたから」
「あんた、英語なんてからきしじゃねぇか」
「うん。でもあれは父が好きだった。『カサブランカ』。あなたのお父さんがハンフリー・ボガートに憧れてたみたいに」
「俺は映画は観ない。だけど雑誌のインタビューで親父が言ってたのは、あいつが斜に構えて、うまい言い回しを思いついたって、バカみたいに得意げになってただけだ。あいつはあれで、自分が洒落てて気が利いてるって思ってる」
ベッドの中で動く男の手が乳房に触れて、そのまま腰に移る。
「だいたいハンフリー・ボガートなんざ、親父の世代でも化石になってんだろ。あんなもん今真似てたら、イカれてるか、とんでもなくダセえかどっちか。親父のじじい世代がありがたがってるだけで」
「そうなの?」
「さあな。俺がそう思ったってだけ。でも俺はあの歌が好きだ。だからあの日、あんたが目に入って、あの歌を歌った」
そう言うと男はかすれたような低い声で『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を口ずさんだ。路上ライブではぱっとしない歌声だと思ったのに、いまはビターチョコレートのように甘くてとろけて陶然とするような、胸の奥が満たされるような歌声だと思った。
「英語はダメなんだろ。じゃあ歌詞もわかんねぇか」
歌い終えた男はぐるりと体の向きを変えて、天井を見る。白地に薄灰色で描かれたトワル・ド・ジュイの布シェードを被せたシャンデリア。5灯タイプで中はLED。チェーンや本体やアームはフレンチシャビーらしく白く塗装されている。
「教えてくれる?」
仰向けになった男の上に乗り上げて、彫刻みたいな胸に手をつく。両腕を頭の後ろで組んでいた男は、腕をほどいた手で力強くお尻を掴んだ。
「痛い」
眉を顰めて文句を言うと、男は片手を布団から出して、こめかみを通って垂れ落ちる髪を耳にかけてくれた。
「あんた、本当に今日の今日まで男慣れしてなかった女? 実は百人斬りしたって言われても驚かねぇんだけど」
本気でそう言っているような、こちらを探るような目に傷つく。『百人斬りした』ような妖艶な女を振る舞うのは楽しいけれど、『尻軽だ』と思われたいわけじゃない。
ムカムカと腹が立ってきて、お尻に回された腕を払った。名残惜しい気持ちに蓋をして、アポロンの胸についていた手を外す。
あたしが男から背を向けると、男も起き上がった。
「怒った?」
「黙って」
ベッドから抜け出て、投げ捨てられていた下着を苛立ちのまま乱暴なやり方でわし掴む。裸の胸の前に衣服をかき集めて、バスルームに向かい、洗濯機に投げ入れた。
洗濯機の端に手をついて、ふうふうと荒い息を整える。腰が痛い。ふざけている。なんてバカなことをしたんだろう。
生まれて初めて男とデートした。その男と生まれて初めてのキスをして、アパートにまで引き入れた。そのうえ生まれて初めてのセックス? このうえなくバカだ。素性もよく知らない男と寝て、寝る前はお姫様のように扱ってくれた相手は、今ではあたしのことをカマトトぶったアバズレだと思っている!
「俺の言い方が悪かった。泣くなよ。まいったな」
精神を集中することだけに夢中で、男がバスルームに入ってきたことには気がつかなかった。足音を立てずに忍んできたのだろうか。それほど小心者には見えないし、それならば今声をかける必要もない。
斜め左、壁に取り付けられた鏡に横目をつかうと、そこには素っ裸で堂々と腰に手を当てた男の立ち姿が映っていた。すこしも『まいった』なんて思っていなそうな、美しい顔に体。
「そっち行くぞ」
「来ないで!」
思ったよりヒステリックな声が口から飛び出た。やってしまった。こうなっては止まらない。
「『百人斬り』なんてしてない! あたしはあなたが初めてだった! 今日が初めて! 男の人とデートするのも、キスするのも、セックスするのも! 『これは運命』だなんて、世の中に山ほど溢れてるありきたりなバカバカしい勘違いをしたのも初めて!
初めてを捧げたから責任を取れなんて思ってない! ただあなたと素敵な時間を過ごしたかっただけ! セックスが終わって夢から醒めたあなたが、あたしを思ったような『ユニコーンの乙女』じゃなくて、顔を覚えもしない行きずりの女に過ぎなかったって落胆したのだとしても、せめて部屋から出ていくまでは、恋人のように振舞ってほしかった!」
振り返って男に向き合い、がなり立てる。腰は痛いまま。洗濯機に体をもたれかけて肘をのせている。
男は虚を突かれたように目を丸くした。
「『部屋から出ていくまでは』?」
「そうよ! 来月、あなたが歯医者にきたとき、ちゃんといつも通りに振る舞える! 何かあったかのような素振りをするつもりなんてなかった!」
ため息をついて男が唸る。
「そっちに行く」
「来ないでよ!」
「うるせぇよ」
大股で一歩。すでにバスルームの真ん中。二歩。腕に包み込まれる。
「今の、どこまでが本気?」
「…………あなたがあたしをアバズレだって思ってからは、全部」
みっともなくしゃくりあげて止まらない体を、男がなでてくれる。それからキス。触れるだけ。生ぬるい息。アイスティーの匂い。
「思ってない。あんたのこと、アバズレだなんて少しも。俺の言い方が悪かったよ。傷つけたんだな。ただあんたが色っぽくて。これまで聞いたどんな誘い文句より、よくて。興奮した。あんたが好きだと思った。そしたらムカついたんだ。あんたが他の男を誘う姿が思い浮かんで」
「それはあたしが、誰かを誘っていそうだったから?」
「違う。あんたが何もかも初めてなのも、ちゃんとわかってる。デートひとつしたことねぇってのは、知らなかった。けどそんなの関係なくて、あんたは『ユニコーンの乙女』のまんまだ。綺麗だし、神聖な感じ。敬いたくなる感じ。そういうのはずっとある」
「嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして」
背中に腕を回して力をこめてみる。胴回りが太い。筋肉の弾力。べたつく汗の残り。
男は優しくて穏やかで落ち着いた笑み――乙女の願望をこれでもかと詰込んだラブコメディの中で、茶目っ気のある二枚目俳優がするような。あの包容力と慈愛と子犬っぽい少年らしさやいじらしさ、卑屈さにせせこましさ、それでいて男の色気や切なさに満ちた『幸せそのもの』といった、あの表情。大抵の女性からは無条件に称賛されて、一部の男性からは軽薄と難癖をつけられるような、あの素晴らしい笑みを浮かべて、涙でべとべとの頬を拭ってくれた。
すごい! これこそまるで映画みたいな振る舞い!
こんなことをしてくれる男が、世界中のラブロマンスに憧れる女性の願望を集めて形にした映画ではなく現実にいて、それもあたしの前で息をして、愛を囁いている! びっくりするような奇跡。
「あんたがあまりに俺の理想みたいなことするから。いや、ちげぇな。理想なんてもんじゃねぇ。あんたが俺に差し出すもの全部、びっくりさせて、興奮させる。想像の中の女なんて目じゃねぇってくらい。いや―――」
心を読まれたのか、というくらい同じことを言う。あたしが男に感じたように、男もまたあたしに奇跡を感じてくれた?
「なぁ、シャワー浴びねーか?」
照れたように口ごもって話を変える姿まで完璧だ。きっとあたしより年上で、ずっと人生経験も豊富で、いろんな場面を見てきただろう男。それなのに、すごく可愛い。こんな男に夢中にならないでいられる女がいるなら、見てみたい。
「話の続きは?」
「あんたが好きだ。『部屋を出ていくまで』じゃなくて、あんたの人生に居座りたい。これでどう?」
「うん。あたしもあなたが好き。部屋にも人生にも、あなたがいてほしい」
「よかった。そんじゃシャワー浴びて、寝ようぜ。明日仕事は?」
「ない。でも学校がある。あなたは?」
「俺は夕方から。学校って? 夜学?」
「うん。歯科衛生士になりたくて」
「え? でも今も歯医者で働いてるじゃん」
「そうなんだけど、今は歯科助手なの。資格がなくて、やれることに制限がある。叔父さん…。院長先生が叔父なんだけど」
「親父さんじゃなくて、叔父さんだったのか」
「うん。叔父さんがあたしを拾ってくれて。それで、もっと叔父さんの役に立ちたくて。それで夜学に通ってる」
「えらいな。真っ直ぐに生きてる」
「そうでもないの。そういう風になりたいとは思うけど」
両親と一族のことを思い出す。やっぱり真っ直ぐじゃない。
「あんたの話ももっと聞きたい。どんな家族がいて、どんな風に育ってきて、何が好きで何が嫌いか。だけど、その前にやっぱり寝なきゃな。あんたは特に」
それから二人で狭いバスルームに入ってシャワーを浴びた。バストイレが別なことに男は喜んだ。
「清潔にしたくて風呂に入るのに、トイレがすぐそばにあるなんてクソだ」と。概ね同意見。
賛成できなかったのは、『清潔にしたくてお風呂に入った』のに、また汗をかくようなことをし始めたから。
「二人で入る風呂って、そういうことだろ?」
これには賛成できない。少なくとも腰が痛くてたまらない、今は。
「だけどあなた、まだごまかしてる。どうしてさっき、意地悪なことを言ったの? 『百人斬り』しているみたいだって。冗談っぽくなかったし、不機嫌そうだった」
男が寝てしまったあと、壁側を向いて身を丸める、その大きな背中に向かって呟いてみた。当然、返事はない。大きな背中が呼吸で大きく膨らんだり沈んだりするだけ。
男の体は大きくて、朝になればベッドから落とされているだろう。それならば開き直ってラグの上で寝ていたらどうだろうか。男は気に病むだろうか。
考えてベッドから足を床に下ろした。つま先に倒れた植木鉢が触れる。身を屈めて手に取った。
「あんたが夢の中で見た相手の男は、俺じゃないって知ってたから」
「え?」
振り返ると男がこちらを向いて腕を伸ばしてきた。暗闇の中でオリーブの瞳がどこからか光を拾ってキラリと跳ね返す。
「行くなよ。落ちそうだってんなら、抱いてやるから」
布団の中に連れ戻されて、壁に押しつけられる。頬にたれる髪をかきわけられて、キスをひとつ。
「夢? あなたの夢じゃなくて、あたしの?」
「そう。あんたが俺と会う前に夢見てた、いつか出会う誰か。白馬の王子様。そいつはどう考えても俺じゃない」
「そんなの、想像したこともない」
「それは嘘だな。小説にしろ、映画にしろ、そこで出てくる理想に近い男に、いつかあんただけの運命の相手ってやつを重ねて見てたはずだ。そしてそいつは俺じゃない」
あまりの言い草に言葉を失った。
つまりこういうこと? 男が不機嫌になったのは、あたしがなにか悪いことをしたわけじゃなくて、反対に男にとって、とびきりいいことをしたから。そしてそのとびきりいいことを、あたしが男に出会う前に、いつか来る日のため、夢の中のプリンス・チャーミングと練習をしていたから。
「…………バカみたい」
「だから言いたくなかったんだ」
ウディ・アレンくらい神経質な男は、拗ねたような口ぶりで、あたしのお尻をまたもや痛いくらいに掴んだ。
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