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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

02 名無しの新治さんはアポロンか否か

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「次回もリテーナーの調整なので、一ヶ月後です。ご予約はいかがなさいますか?」
「あんたが出勤してる時間」
「え?」
「あんたが俺についてくれる日にして」

 男の言葉の意味がわからなくて。いや、わかるんだけど、なんでそんなことを言うのかがわからない。
 呆然としていると、受付のガラス越しに、男がニヤリと笑うのが目に入った。

「雑誌。ちゃんと見ろよ。それ、ここに寄付したわけじゃねぇから。あんたにあげたんだからな」
「はい……」

 もしかしてこの男はミュージシャンなのだろうか。そんでもって、実はあの雑誌に掲載されて、インタビューなんかされちゃってたりするんだろうか。
 もしかして有名人? だってとんでもなくかっこいい。それに軽い。人のことを簡単に美人だなんて言う。照れだとか、そういったものは一切なし。さらっと口にした。なにより女を口説き慣れていそう。

 …………有名人? こんな田舎で? ううん。それはないか。
 急激に盛り上がったり、冷静になったり忙しい頭の中。それでも好奇心に負けた。

「あの、音楽をなさってるんですか?」
「それは次回話すってんでどう? 後ろ、つかえてるし」

 男の言葉にはっとした。
 広くて厚い男の肩越しに、上品な微笑を浮かべた白髪の女性が立っているのが見えた。
 杜若かきつばた色の鮫小紋さめこもん。白地にきらめく銀が一面に織り込まれ、赤や水色の花、白の流水に金のオシドリの意匠が上品なお太鼓柄の名古屋帯。紫紺色の帯揚げに桜鼠色の帯締め。銀蒔絵ぎんまきえの帯留めは帯に合わせたオシドリの意匠。品のよく、匂い立つように美しい立ち姿。
 伯母さん!

「知り合い?」
「え? あ、はい。伯母です」
「っそ」

 横目でちらっと伯母をみやる男に、色気を感じてしまって、もはやこれはどうにもならない、と自分に絶望した。チョロすぎる。
 はぁとため息をついてうなだれると、男はガラス板の向こう側にある卓上カレンダーを手に取った。

「この日かこの日かこの日。時間はどこでもいい。一日休みだから。あんたが俺につける時間でな。俺の担当はあんたがなれよ」

 そう言うやいなや、男は伯母へと向き直った。

「はじめまして。姪御さんに惚れました。よろしくお願いします」

 あまりの衝撃に診察カードを折り曲げるところだった。再発行に三百円かかるのに。

「あらあら。不良にお嬢さん。昔からよくある組み合わせね」
「三島由紀夫は読まれますか」
「吉永小百合さんの映画なら観たわよ。山口百恵さんも」
「そうですか。俺は映画は観ないんで。俳優はよく知りません。内容はきっと同じでしょう。俺は姪御さんの新治になりたいと思ってます」
「あたくしはもう目が弱くてね。細かい文字は億劫なのだけど、読んでみるわね。名無しの新治さん」

 三島由紀夫って。キラキラマン、チョイスが意外過ぎる。インテリヤンキーか。
 三島由紀夫って。伯母さん大好きじゃないか。嘘つきめ。
 なんだこいつら。
 意味がわからない。新治って誰。三島由紀夫は『仮面の告白』しか読んでいないのだ。わけがわからない。
 新治になるってなんなんだ。
 わけもわからないのに、どきどきするじゃないか。

「名乗らず失礼しました。姪御さんが俺に惚れてくれたら、そのときに改めて挨拶します」
「あらまあ。それじゃあ、きっとすぐね」
「そうですね。期待していてください」
「あらいやだ。あたくし、姪には素敵な男性との出会いをたくさん用意してあげようと思うのよ」

 そこで背後から「姉さん!」と裏返った声で叫ぶ叔父さんの声に、あたしはびくりと肩を揺らした。

「なかなか入ってこないと思ったら。またくだらないことばかり。若者をからかうんじゃないよ」
「あらまあ。からかわれていたのは、きっとあたくしよ。ねえ、名無しの新治さん。でもあなた、新治さんというより、アポロンのような人ね」
「光栄です」

 叔父さんがため息をつく。

「新治って誰だい。姉さん、この子の名前はね」
「やめてちょうだいな。あたくし、お名前は本人から聞くと決めているのよ。お約束したの」
「はい。お約束しました」

 にっこりと笑う男はヤンキーみたいな恰好なのに、紳士みたいな隙のない微笑を浮かべていた。胡散臭い。思わず眉根を寄せると、男がそれまでの雰囲気にふさわしい、ちんぴらみたいなゲスでいやらしい笑みを浮かべて「診察カードは?」と促した。

「失礼しました。ではこちらを」
「あんたの予定に合わせてくれた?」

 カウンターに肘をのせてガラスぎりぎりのところまで顔を寄せた男は、上目遣いでこちらを覗き込む。右手につまんだ診察カードをひらひらと額のあたりでやっている。
 叔父さんは何かいいたげだったけれど、待合室から診察室へと入り込んだ伯母さんによって、一番遠いユニットへ、ぐいぐいと背中を押し出されていった。

「…………はい」
「そんならよかった。来月までなげぇけど。たぶん、その前にあんたと会うだろうし」
「ストーカーですか?」
「ぶっ。くく。俺、そんなに女に困ってるように見える?」
「いえ。大変女性に好かれそうな方かなと」
「だろ? まあ他の女にモテても、あんたが俺に惚れてくれねぇなら、意味ねーんだけど」

 なんだろう。軽い。とてつもなく軽い。ふわふわと空中を舞う粉塵みたいだ。ストレートで仮歯テックを研磨するときに舞い散る即重レジンのカスみたいな。

「その顔。それが高慢に見えんだよな。美人だからさ。あんたと話す前はすげぇヤな女かと思った」
「そうですか」
「その返しもな」
「…………失礼いたしました」
「いや。あんたが単純に男と会話慣れしてねぇんだなってのは、わかったよ。あと結構バカなんだなってのも」
「はい?」

 なんだなんだ。失礼なやつだな。
 それなのにどきどきしているあたしは、男の言う通りバカなんだけど。

「Standard precautions」
「え?」

 めちゃくちゃそれっぽい発音で、なんか言ったぞ。英語か?

「あんたがさっき、俺に必死に説明してたやつ」

 発音が悪かったと言いたいらしい。すみませんね。英語は小っちゃい頃から不得意なんですよ。就学前はLAに短期間、両親の都合で住んでたたらしいけどね。ずっとほっとかれて、日本人のお手伝いさんと家に籠ってたからね。お手伝いさんも英語に自信がなかったから、めったに外出もしなかったし。

「俺、ハーフなの。そんでもって、さっきの雑誌に親父が載ってる。認知されてねぇけど」
「え……」
「どいつだか、見ればすぐわかる。そっくりだから。だからちゃんと見とけよ。じゃあな」

 台風のような男だった。呆気にとられたものの、男の座っていたユニットの清掃がまだ済んでいない。だいぶ長話をしてしまった。急いで消毒と、それから器具を洗いに診察室へ戻った。








 男の言った、「新治になりたいと思ってます」。
 山口百恵に吉永小百合ってことは、きっと『潮騒』なんだろう。だけど読んでいない。だってあれ、純愛小説らしいんだもの。
 こちとら男に縁がなく二十年ちょっと生きてきて、漫画はバカになるからダメだと禁止され、ならば恋愛小説だ! と叔父さんと伯母さんに恋愛小説のおススメを聞いた。両親が許可しそうな範囲で。

 そして独身でロマンティストの叔父さんのおススメは『赤と黒』。
 あたしにはロマンティックが過ぎて、「こいつらアホなんかな」と共感できず。
 そこにきて、伯母さんが沈痛な面持ちで渡してきた『女の一生』が「あっ。恋愛とか結婚とかヤだわー」とダメ押しした。

 そんなあたしが純愛小説を忌避するようになったのはおかしくない。きっとおかしくない。
 強がりなんかじゃない。
 モテない女の現実逃避なんかじゃない。純愛小説を読まなかったのは、ヒロインへの僻みなんかじゃないのだ。

 伯母さんもノリノリで「男色の世界も素敵よ」とワイルドだとかコクトー、三島を勧めてくるのだから、絶対に『女の一生』は嫌がらせだったのだと思う。
 最初から『潮騒』を読んでいたのなら、きっと今頃、純愛小説に詳しくなっていたのに。そんでもって、キラキラマンと伯母の会話に入っていけたのに。

 男はいったい、どういうつもりで、あの言葉を口にしたのだろう。


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