4 / 53
第一章 ダフネはアポロンに恋をした
02 名無しの新治さんはアポロンか否か
しおりを挟む「次回もリテーナーの調整なので、一ヶ月後です。ご予約はいかがなさいますか?」
「あんたが出勤してる時間」
「え?」
「あんたが俺についてくれる日にして」
男の言葉の意味がわからなくて。いや、わかるんだけど、なんでそんなことを言うのかがわからない。
呆然としていると、受付のガラス越しに、男がニヤリと笑うのが目に入った。
「雑誌。ちゃんと見ろよ。それ、ここに寄付したわけじゃねぇから。あんたにあげたんだからな」
「はい……」
もしかしてこの男はミュージシャンなのだろうか。そんでもって、実はあの雑誌に掲載されて、インタビューなんかされちゃってたりするんだろうか。
もしかして有名人? だってとんでもなくかっこいい。それに軽い。人のことを簡単に美人だなんて言う。照れだとか、そういったものは一切なし。さらっと口にした。なにより女を口説き慣れていそう。
…………有名人? こんな田舎で? ううん。それはないか。
急激に盛り上がったり、冷静になったり忙しい頭の中。それでも好奇心に負けた。
「あの、音楽をなさってるんですか?」
「それは次回話すってんでどう? 後ろ、つかえてるし」
男の言葉にはっとした。
広くて厚い男の肩越しに、上品な微笑を浮かべた白髪の女性が立っているのが見えた。
杜若色の鮫小紋。白地にきらめく銀が一面に織り込まれ、赤や水色の花、白の流水に金のオシドリの意匠が上品なお太鼓柄の名古屋帯。紫紺色の帯揚げに桜鼠色の帯締め。銀蒔絵の帯留めは帯に合わせたオシドリの意匠。品のよく、匂い立つように美しい立ち姿。
伯母さん!
「知り合い?」
「え? あ、はい。伯母です」
「っそ」
横目でちらっと伯母をみやる男に、色気を感じてしまって、もはやこれはどうにもならない、と自分に絶望した。チョロすぎる。
はぁとため息をついてうなだれると、男はガラス板の向こう側にある卓上カレンダーを手に取った。
「この日かこの日かこの日。時間はどこでもいい。一日休みだから。あんたが俺につける時間でな。俺の担当はあんたがなれよ」
そう言うやいなや、男は伯母へと向き直った。
「はじめまして。姪御さんに惚れました。よろしくお願いします」
あまりの衝撃に診察カードを折り曲げるところだった。再発行に三百円かかるのに。
「あらあら。不良にお嬢さん。昔からよくある組み合わせね」
「三島由紀夫は読まれますか」
「吉永小百合さんの映画なら観たわよ。山口百恵さんも」
「そうですか。俺は映画は観ないんで。俳優はよく知りません。内容はきっと同じでしょう。俺は姪御さんの新治になりたいと思ってます」
「あたくしはもう目が弱くてね。細かい文字は億劫なのだけど、読んでみるわね。名無しの新治さん」
三島由紀夫って。キラキラマン、チョイスが意外過ぎる。インテリヤンキーか。
三島由紀夫って。伯母さん大好きじゃないか。嘘つきめ。
なんだこいつら。
意味がわからない。新治って誰。三島由紀夫は『仮面の告白』しか読んでいないのだ。わけがわからない。
新治になるってなんなんだ。
わけもわからないのに、どきどきするじゃないか。
「名乗らず失礼しました。姪御さんが俺に惚れてくれたら、そのときに改めて挨拶します」
「あらまあ。それじゃあ、きっとすぐね」
「そうですね。期待していてください」
「あらいやだ。あたくし、姪には素敵な男性との出会いをたくさん用意してあげようと思うのよ」
そこで背後から「姉さん!」と裏返った声で叫ぶ叔父さんの声に、あたしはびくりと肩を揺らした。
「なかなか入ってこないと思ったら。またくだらないことばかり。若者をからかうんじゃないよ」
「あらまあ。からかわれていたのは、きっとあたくしよ。ねえ、名無しの新治さん。でもあなた、新治さんというより、アポロンのような人ね」
「光栄です」
叔父さんがため息をつく。
「新治って誰だい。姉さん、この子の名前はね」
「やめてちょうだいな。あたくし、お名前は本人から聞くと決めているのよ。お約束したの」
「はい。お約束しました」
にっこりと笑う男はヤンキーみたいな恰好なのに、紳士みたいな隙のない微笑を浮かべていた。胡散臭い。思わず眉根を寄せると、男がそれまでの雰囲気にふさわしい、ちんぴらみたいなゲスでいやらしい笑みを浮かべて「診察カードは?」と促した。
「失礼しました。ではこちらを」
「あんたの予定に合わせてくれた?」
カウンターに肘をのせてガラスぎりぎりのところまで顔を寄せた男は、上目遣いでこちらを覗き込む。右手につまんだ診察カードをひらひらと額のあたりでやっている。
叔父さんは何かいいたげだったけれど、待合室から診察室へと入り込んだ伯母さんによって、一番遠いユニットへ、ぐいぐいと背中を押し出されていった。
「…………はい」
「そんならよかった。来月までなげぇけど。たぶん、その前にあんたと会うだろうし」
「ストーカーですか?」
「ぶっ。くく。俺、そんなに女に困ってるように見える?」
「いえ。大変女性に好かれそうな方かなと」
「だろ? まあ他の女にモテても、あんたが俺に惚れてくれねぇなら、意味ねーんだけど」
なんだろう。軽い。とてつもなく軽い。ふわふわと空中を舞う粉塵みたいだ。ストレートで仮歯を研磨するときに舞い散る即重レジンのカスみたいな。
「その顔。それが高慢に見えんだよな。美人だからさ。あんたと話す前はすげぇヤな女かと思った」
「そうですか」
「その返しもな」
「…………失礼いたしました」
「いや。あんたが単純に男と会話慣れしてねぇんだなってのは、わかったよ。あと結構バカなんだなってのも」
「はい?」
なんだなんだ。失礼なやつだな。
それなのにどきどきしているあたしは、男の言う通りバカなんだけど。
「Standard precautions」
「え?」
めちゃくちゃそれっぽい発音で、なんか言ったぞ。英語か?
「あんたがさっき、俺に必死に説明してたやつ」
発音が悪かったと言いたいらしい。すみませんね。英語は小っちゃい頃から不得意なんですよ。就学前はLAに短期間、両親の都合で住んでたたらしいけどね。ずっとほっとかれて、日本人のお手伝いさんと家に籠ってたからね。お手伝いさんも英語に自信がなかったから、めったに外出もしなかったし。
「俺、ハーフなの。そんでもって、さっきの雑誌に親父が載ってる。認知されてねぇけど」
「え……」
「どいつだか、見ればすぐわかる。そっくりだから。だからちゃんと見とけよ。じゃあな」
台風のような男だった。呆気にとられたものの、男の座っていたユニットの清掃がまだ済んでいない。だいぶ長話をしてしまった。急いで消毒と、それから器具を洗いに診察室へ戻った。
男の言った、「新治になりたいと思ってます」。
山口百恵に吉永小百合ってことは、きっと『潮騒』なんだろう。だけど読んでいない。だってあれ、純愛小説らしいんだもの。
こちとら男に縁がなく二十年ちょっと生きてきて、漫画はバカになるからダメだと禁止され、ならば恋愛小説だ! と叔父さんと伯母さんに恋愛小説のおススメを聞いた。両親が許可しそうな範囲で。
そして独身でロマンティストの叔父さんのおススメは『赤と黒』。
あたしにはロマンティックが過ぎて、「こいつらアホなんかな」と共感できず。
そこにきて、伯母さんが沈痛な面持ちで渡してきた『女の一生』が「あっ。恋愛とか結婚とかヤだわー」とダメ押しした。
そんなあたしが純愛小説を忌避するようになったのはおかしくない。きっとおかしくない。
強がりなんかじゃない。
モテない女の現実逃避なんかじゃない。純愛小説を読まなかったのは、ヒロインへの僻みなんかじゃないのだ。
伯母さんもノリノリで「男色の世界も素敵よ」とワイルドだとかコクトー、三島を勧めてくるのだから、絶対に『女の一生』は嫌がらせだったのだと思う。
最初から『潮騒』を読んでいたのなら、きっと今頃、純愛小説に詳しくなっていたのに。そんでもって、キラキラマンと伯母の会話に入っていけたのに。
男はいったい、どういうつもりで、あの言葉を口にしたのだろう。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
前略、旦那様……幼馴染と幸せにお過ごし下さい【完結】
迷い人
恋愛
私、シア・エムリスは英知の塔で知識を蓄えた、賢者。
ある日、賢者の天敵に襲われたところを、人獣族のランディに救われ一目惚れ。
自らの有能さを盾に婚姻をしたのだけど……夫であるはずのランディは、私よりも幼馴染が大切らしい。
「だから、王様!! この婚姻無効にしてください!!」
「My天使の願いなら仕方ないなぁ~(*´ω`*)」
※表現には実際と違う場合があります。
そうして、私は婚姻が完全に成立する前に、離婚を成立させたのだったのだけど……。
私を可愛がる国王夫婦は、私を妻に迎えた者に国を譲ると言い出すのだった。
※AIイラスト、キャラ紹介、裏設定を『作品のオマケ』で掲載しています。
※私の我儘で、イチャイチャどまりのR18→R15への変更になりました。 ごめんなさい。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
従妹と親密な婚約者に、私は厳しく対処します。
みみぢあん
恋愛
ミレイユの婚約者、オルドリッジ子爵家の長男クレマンは、子供の頃から仲の良い妹のような従妹パトリシアを優先する。 婚約者のミレイユよりもクレマンが従妹を優先するため、学園内でクレマンと従妹の浮気疑惑がうわさになる。
――だが、クレマンが従妹を優先するのは、人には言えない複雑な事情があるからだ。
それを知ったミレイユは婚約破棄するべきか?、婚約を継続するべきか?、悩み続けてミレイユが出した結論は……
※ざまぁ系のお話ではありません。ご注意を😓 まぎらわしくてすみません。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
【完結】王太子妃の初恋
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
カテリーナは王太子妃。しかし、政略のための結婚でアレクサンドル王太子からは嫌われている。
王太子が側妃を娶ったため、カテリーナはお役御免とばかりに王宮の外れにある森の中の宮殿に追いやられてしまう。
しかし、カテリーナはちょうど良かったと思っていた。婚約者時代からの激務で目が悪くなっていて、これ以上は公務も社交も難しいと考えていたからだ。
そんなカテリーナが湖畔で一人の男に出会い、恋をするまでとその後。
★ざまぁはありません。
全話予約投稿済。
携帯投稿のため誤字脱字多くて申し訳ありません。
報告ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる