【完結】愛してるなんて言うから

空原海

文字の大きさ
上 下
5 / 96
第1部

4 婚約解消を前提とした婚約

しおりを挟む
「……俺の我儘でメアリーの人生を棒に振らせることはできない。俺が爵位を継ぐまで待っていたら、メアリーは行き遅れてしまう」
「そうね」

 本当のところ、行き遅れてもいいのだけど。
 アラン様のお父様クズわたしのお母様クズを見てしまったあとでは、結婚に夢など持てない。

「今の段階で破棄すれば、次の婚約者もすぐ見つけられるし、メアリーの瑕疵にならない。勿論俺の責での婚約破棄にする」

 アラン様の悲痛な決意を表すかのように、握りしめられた拳が震えている。
 まだ十一歳の子供なのに、まるで大人の男性のように眉間に深い皺を刻んで、お顔は真っ青。唇を血が出そうなくらい噛みしめている。
 わたしは扇子をぱたりと鼻先に倒すと、小さく嘆息した。

「そんなこと出来るわけないでしょう」
「俺が放蕩を繰り返せば、あの二人も諦めるんじゃないか。病に伏しているが、今ならまだ、前伯爵のお祖父様に書面を用意してもらえるだろうし、俺がロクデナシだと分かれば、ウォールデン氏だって黙っていまい」

 前伯爵はアラン様が生まれる前に、病に倒れられていた。
 アラン様のお祖父様さえ、健やかであられたなら、きっとこの婚約は結ばれなかった。
 いえ、それ以前にアラン様のお父様クズわたしのお母様クズは徹底的に離されていたに違いない。

 アラン様の言うウォールデン氏とは、わたしのお祖父様のことで、お母様クズをクズたらしめた元凶でもある。
 そして真珠姫と呼ばれたお母様クズによく似た孫のわたしを溺愛している人だ。
 わたしは反吐が出そうなくらい、嫌いなのだけど。

「無理ね。アラン様が放蕩息子だなんて、演じることだって出来やしないわ。あなた、そんなにご自分が器用だと思っていらして? 生真面目なお顔を崩すことだってできないくせに」

 アラン様がむっとしたお顔になる。

「あの男の真似をすればいいんだろう。それくらいできる」
「大嫌いな方の真似をなさるの? お顔に出ますわよ、本意ではないって。そもそもどんな放蕩をなさるおつもり?」

 アラン様は口を開いて、すぐに閉じた。おそらく思いつかないのだろう。

「たとえば女性と遊び歩くとか? 色町に繰り出すとか? 賭場場に入り浸るとか? 怪しい人たちとお付き合いなさるの? あらあら、アラン様は御父上と同じように女性を傷つけて楽しむのね? コールリッジ=カドガン家のお金に手を付けて、危険な遊びに興じる息子に胸を痛める御母堂の心労を増やすのね?」
「そんなことはしない!」

 立ち上がって吠えるアラン様に、わたしは目を細める。

「ではアラン様の仰る放蕩とはなんです?」
「……勉学や剣術に勤しまない……」
「それは放蕩ではなく、無能だとか怠惰だとか言うのよ。そもそも自己研鑽を怠って、伯爵位を継げるとお思いなの? 伯爵領に住まう民への責務は?」

 再び席に着き、押し黙ってしまったアラン様に、嘆息する。

「アラン様には無理だわ。それに……もし仮にアラン様が手の付けられない、どうしようもないロクデナシになったとしたって」

 わたしは扇子を膝の上におろした。

「あの二人には関係ないもの。前伯爵にしたって、これ以上ご心労をかけるのは忍びないわ。前伯爵はわたし達の婚約だって、ご存知ないのでしょう?」

 アラン様が唇を噛む。
 お祖父様を尊敬しているアラン様が、そのお祖父様の病状が悪化するようなこと――クズ二人が自分達の自己満足のためだけに、それぞれの子供を婚約させたこと――を知らせているわけがないのだ。
 それなのに、実はアラン様とわたしが既に婚約していて、そしてその婚約を破棄しようとしているだなんて。それを病床の前伯爵に伝えようだなんて。
 無理に決まっている。

「わたしのお祖父様はね、わたしのことを可愛がってはいるけれど、それはお母様に似ているからなのよ。だからお母様がどうしても、ということをわたしが何を言ったところで覆りはしないわ」

 孫を溺愛している、なんて言ったって、所詮はその程度だ。そのくせ、わたしがお祖父様をお慕いしているよう振る舞うことを強要する。
 愛だなんだと、本当にうんざりだ。

「ですから婚約破棄など無理。諦めなさい」
「……メアリーは、このままあいつらの思うまま、結婚して悔しくないのか?」

 沈痛な面持ちのアラン様に、わたしはパチパチと目を瞬いた。
 どうやらアラン様は、わたしもこの婚約に納得していないと思われていたらしい。なぜかしら。

「わたし、結婚に夢など見ていないの」
「それはそうだろうけど……」
「ですからね、わたし、婚約破棄を受け入れますわ」
「は? だって今、そんなことはできないって……」
「ええ、今は無理ですわね。ですがアラン様が成人なされて伯爵位を継がれた後でしたら、もう口出しされることはないでしょう」
「だから! それだとメアリーが行き遅れるだろう!」

 アラン様が力強くテーブルを叩くようにして立ち上がったせいで、ティーカップとソーサーがガチャリと音を立てた。零れた紅茶がテーブルクロスを濡らす。

「ですから結婚に夢など見ていないの。結婚などしなくていいわ」

 ――アラン様がお相手でないのなら。
 心の中で呟くと、アラン様が眉根を寄せて怪訝そうにこちらを見る。

「そういうわけにはいかないだろう。結婚もせず、どうやって暮らしていくんだ?」

 ぴくりと片眉が上がる。
 やはりアラン様も貴族なのね。女が働くなど、思いつきもしないってことかしら。

「わたしは商家の娘。いくらでも身の立てようがあります。貴族のご令嬢はお屋敷の差配だったり社交だったりで、御家の繁栄に助力するのでしょうけれど、商人が家に籠っていては何の商売もできないの」
「職業婦人になるのか?」
「ええ。そもそもアラン様と結婚したとしても、わたしは働くつもりでした」

 アラン様が眉根を寄せる。

「……それは無理だ。貴族は体面を気にする。妻を働かせるなど、カドガン伯爵家の名誉に関わる」
「そうでしょうね。ですからこの時限爆弾はわたしにとっても都合がよいのです」

 わたしはにんまりと笑って見せる。底意地が悪そうに口角を上げる。

「わたしは真珠姫になどならないわ」

 お母様クズの社交場裏での綽名あだなは、昔と変わらず真珠姫。
 でも意味は違う。
 真珠は手入れが面倒な上に、劣化が早い。そして劣化した真珠に価値はない。

「アラン様、これはお互いにとって利のあることです。アラン様が伯爵位を継ぐまで、わたしが虫よけを致します。そしてアラン様は、わたしが女だてらに学問をすることの盾になってください」

 こうしてアラン様とわたしは、婚約解消を前提とした婚約を互いに了承し合った。
しおりを挟む
感想 23

あなたにおすすめの小説

【完結】私の婚約者は、いつも誰かの想い人

キムラましゅろう
恋愛
私の婚約者はとても素敵な人。 だから彼に想いを寄せる女性は沢山いるけど、私はべつに気にしない。 だって婚約者は私なのだから。 いつも通りのご都合主義、ノーリアリティなお話です。 不知の誤字脱字病に罹患しております。ごめんあそばせ。(泣) 小説家になろうさんにも時差投稿します。

【完結】彼を幸せにする十の方法

玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。 フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。 婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。 しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。 婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。 婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

真実の愛を見つけた婚約者(殿下)を尊敬申し上げます、婚約破棄致しましょう

さこの
恋愛
「真実の愛を見つけた」 殿下にそう告げられる 「応援いたします」 だって真実の愛ですのよ? 見つける方が奇跡です! 婚約破棄の書類ご用意いたします。 わたくしはお先にサインをしました、殿下こちらにフルネームでお書き下さいね。 さぁ早く!わたくしは真実の愛の前では霞んでしまうような存在…身を引きます! なぜ婚約破棄後の元婚約者殿が、こんなに美しく写るのか… 私の真実の愛とは誠の愛であったのか… 気の迷いであったのでは… 葛藤するが、すでに時遅し…

愛のない貴方からの婚約破棄は受け入れますが、その不貞の代償は大きいですよ?

日々埋没。
恋愛
 公爵令嬢アズールサは隣国の男爵令嬢による嘘のイジメ被害告発のせいで、婚約者の王太子から婚約破棄を告げられる。 「どうぞご自由に。私なら傲慢な殿下にも王太子妃の地位にも未練はございませんので」  しかし愛のない政略結婚でこれまで冷遇されてきたアズールサは二つ返事で了承し、晴れて邪魔な婚約者を男爵令嬢に押し付けることに成功する。 「――ああそうそう、殿下が入れ込んでいるそちらの彼女って実は〇〇ですよ? まあ独り言ですが」  嘘つき男爵令嬢に騙された王太子は取り返しのつかない最期を迎えることになり……。    ※この作品は過去に公開したことのある作品に修正を加えたものです。  またこの作品とは別に、他サイトでも本作を元にしたリメイク作を別のペンネー厶で公開していますがそのことをあらかじめご了承ください。

【完結】私を捨てて駆け落ちしたあなたには、こちらからさようならを言いましょう。

やまぐちこはる
恋愛
パルティア・エンダライン侯爵令嬢はある日珍しく婿入り予定の婚約者から届いた手紙を読んで、彼が駆け落ちしたことを知った。相手は同じく侯爵令嬢で、そちらにも王家の血筋の婿入りする婚約者がいたが、貴族派閥を保つ政略結婚だったためにどうやっても婚約を解消できず、愛の逃避行と洒落こんだらしい。 落ち込むパルティアは、しばらく社交から離れたい療養地としても有名な別荘地へ避暑に向かう。静かな湖畔で傷を癒やしたいと、高級ホテルでひっそり寛いでいると同じ頃から同じように、人目を避けてぼんやり湖を眺める美しい青年に気がついた。 毎日涼しい湖畔で本を読みながら、チラリチラリと彼を盗み見ることが日課となったパルティアだが。 様子がおかしい青年に気づく。 ふらりと湖に近づくと、ポチャっと小さな水音を立てて入水し始めたのだ。 ドレスの裾をたくしあげ、パルティアも湖に駆け込んで彼を引き留めた。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 最終話まで予約投稿済です。 次はどんな話を書こうかなと思ったとき、駆け落ちした知人を思い出し、そんな話を書くことに致しました。 ある日突然、紙1枚で消えるのは本当にびっくりするのでやめてくださいという思いを込めて。 楽しんで頂けましたら、きっと彼らも喜ぶことと思います。

【完結済】次こそは愛されるかもしれないと、期待した私が愚かでした。

こゆき
恋愛
リーゼッヒ王国、王太子アレン。 彼の婚約者として、清く正しく生きてきたヴィオラ・ライラック。 皆に祝福されたその婚約は、とてもとても幸せなものだった。 だが、学園にとあるご令嬢が転入してきたことにより、彼女の生活は一変してしまう。 何もしていないのに、『ヴィオラがそのご令嬢をいじめている』とみんなが言うのだ。 どれだけ違うと訴えても、誰も信じてはくれなかった。 絶望と悲しみにくれるヴィオラは、そのまま隣国の王太子──ハイル帝国の王太子、レオへと『同盟の証』という名の厄介払いとして嫁がされてしまう。 聡明な王子としてリーゼッヒ王国でも有名だったレオならば、己の無罪を信じてくれるかと期待したヴィオラだったが──…… ※在り来りなご都合主義設定です ※『悪役令嬢は自分磨きに忙しい!』の合間の息抜き小説です ※つまりは行き当たりばったり ※不定期掲載な上に雰囲気小説です。ご了承ください 4/1 HOT女性向け2位に入りました。ありがとうございます!

出世のために結婚した夫から「好きな人ができたから別れてほしい」と言われたのですが~その好きな人って変装したわたしでは?

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
古代魔法を専門とする魔法研究者のアンヌッカは、家族と研究所を守るために軍人のライオネルと結婚をする。 ライオネルもまた昇進のために結婚をしなければならず、国王からの命令ということもあり結婚を渋々と引き受ける。 しかし、愛のない結婚をした二人は結婚式当日すら顔を合わせることなく、そのまま離れて暮らすこととなった。 ある日、アンヌッカの父が所長を務める魔法研究所に軍から古代文字で書かれた魔導書の解読依頼が届く。 それは禁帯本で持ち出し不可のため、軍施設に研究者を派遣してほしいという依頼だ。 この依頼に対応できるのは研究所のなかでもアンヌッカしかいない。 しかし軍人の妻が軍に派遣されて働くというのは体裁が悪いし何よりも会ったことのない夫が反対するかもしれない。 そう思ったアンヌッカたちは、アンヌッカを親戚の娘のカタリーナとして軍に送り込んだ――。 素性を隠したまま働く妻に、知らぬ間に惹かれていく(恋愛にはぽんこつ)夫とのラブコメディ。

それは報われない恋のはずだった

ララ
恋愛
異母妹に全てを奪われた。‥‥ついには命までもーー。どうせ死ぬのなら最期くらい好きにしたっていいでしょう? 私には大好きな人がいる。幼いころの初恋。決して叶うことのない無謀な恋。 それはわかっていたから恐れ多くもこの気持ちを誰にも話すことはなかった。けれど‥‥死ぬと分かった今ならばもう何も怖いものなんてないわ。 忘れてくれたってかまわない。身勝手でしょう。でも許してね。これが最初で最後だから。あなたにこれ以上迷惑をかけることはないわ。 「幼き頃からあなたのことが好きでした。私の初恋です。本当に‥‥本当に大好きでした。ありがとう。そして‥‥さよなら。」 主人公 カミラ・フォーテール 異母妹 リリア・フォーテール

処理中です...