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第三章

第一話 真っ当な幸せ

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「バルがアンナ王女と再会した際、叔父上の邸宅でド派手な演出したらしいんだよな」


 執務机に肘をつき、組んだ手の甲に顎をのせ、コーエンは物憂げにため息をついた。

 バルというのは、コーエンの弟で第三王子バルドゥールの愛称である。アンナ王女とは、唯一の王位継承権を持つ隣国の王女のことであり、バルドゥールの恋人だ。ちなみに彼女の愛称はアーニャ。


「はぁ。そのように伺っておりますが」
 ニヒトは主の言を受け、こてりと首を傾げた。

 今日のニヒトはグラマラスな体をストイックな黒のお仕着せに押し込めた、非情に煽情的な女体姿。
 ニヒトは悪魔であることをコーエンに打ち明けてからというもの、こうして度々女体となって現れる。

 どうもニヒトは、コーエンを誘惑したものの、手をつけてもらえなかったことが、かなりの屈辱であったらしく、懲りずに色仕掛けをするのだ。ちなみにニヒトのもう一人の主であり、コーエンの妻であるヘクセは傍観の体である。
 止めてくれ、とコーエンは内心ウンザリしているし、実際ヘクセに止めるよう掛け合ったこともあるのだが「わたくしはコーエンを信じておりますもの」とニッコリやられては、コーエンは黙るしかなかった。

 もちろんコーエンとて、ニヒトの色香に惑わされるつもりは一切ない。だがしかし、落ち着かない。
 コーエンにとってニヒトとは、褐色の肌に小麦色の髪、琥珀色の瞳をした美貌の『男』なのである。決して女でない。

(女はヘクセと……まぁ、あとエーベルで十分なんだよなあ…)

 好色王子と呼ばれるコーエンだが、実際のところ、女性をそれほど好んでいるわけではない。というより、好色王子としての役割を担っているからこそ、女性の厭らしさは散々に見た。人一倍『見えて』しまう性質だからこそ、嫌というほど見た。

 女体になったからといって、ニヒトは生物学的に女性になるわけではないが――というより、ニヒトの存在が生物としての範囲内にあるのか甚だ疑問だが――コーエンにとって女性というものは、粘着質で面倒で鬱陶しくて。
 なにより理性より感情を優先させるものだから、こちらの予想とかけ離れたことを突然しでかす、厄介極まりない存在である。

 神経を常に磨り減らされ、仕事でなければ極力関わりたくない存在。
 それがコーエンにとっての女だ。
 ちなみに妻ヘクセと双子の姉エーベルを除く。

 兄リヒャードの幼馴染であった、かつての侯爵令嬢の存在、そのトラウマも大きい。
 彼女は兄への恋慕をこじらせ、なんと王太子である兄への贈り物に毒を盛り、結果、彼女の一族は粛清された。
 この事件はその後の政治勢力および体制において、歴史的転換点となったのだが、それはまさしく女の業から始まったのだ。
 亡き侯爵令嬢は当時、まだ十三の少女だった。
 女というものは、清廉で無邪気であるはずの少女にあってさえ、おそろしい。

 だから中身がニヒトとはいえ、女体化されてしまうと、コーエンにとっては敵が増えたような心境になってしまう。

 弱者として囲っている離宮の女性達。
 彼女達も結局は女性であるから、なんだかんだといって直接の交流はあまりない。拾っておいて申し訳ないと罪悪感はあるものの、基本的には妻ヘクセに任せているのが実情だ。

 好色王子だなんて二つ名を掲げてはいるコーエン。
 おそらくゲルプ王国の王子三名のうち、実際のところ女嫌い、人嫌いの毛があるのはコーエンに違いない。

 だからこれは、ニヒトの嫌がらせなのだ。
 ニヒトの「大事なお嬢様」を貰い受けたコーエンへの。

(だいたい、ニヒト、お前が俺を選んだんじゃねぇのかよ)

 ニヒトがコーエンを選んだ。
 ニヒトの大事なヘクセの相手として、ニヒトは様々な条件を鑑みて、最終判断を下したのがコーエン。だから許す許さないも、ニヒト自身がこれぞと決意したのがコーエンなのだ。
 ニヒトが望めば、ヘクセはニヒトの手に落ちたことだろう。だがニヒトはそうしなかった。
 人の理の中にヘクセが留まることを望み、ヘクセが人として『真っ当な幸せ』を掴むように促した。

 だがしかし。

(悔いているとでもいうのか? …………いや、それはねぇか)

 万が一、ニヒトが己の選択を悔いているというのなら。
 ヘクセとコーエンを天秤にかけるまでもない。ニヒトにとってのヘクセは唯一無二で、コーエンはそのオマケ。
 ただちにコーエンの手からヘクセは失われるだろう。だから、ニヒトがコーエンに仕掛ける嫌がらせとは、ニヒトのコーエンへの愛情表現でもあるのだろう。

(真っ当な幸せ、なぁ…………)

 人としての真っ当な幸せ。
 ニヒトがコーエンに求めること。ヘクセを人として幸せにすること。

 ――子づくり。

 ニヒトでは叶えられないそれを、コーエンに望んでいるのだろうか。
 コーエンとヘクセの間に、まだ子はいない。


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