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第二章
第八話 欲しいのは、ただ一言
しおりを挟む「ヘクセ~。なあ~。ヘックセちゃ~ん」
この宮殿の主たるコーエンとヘクセ。
二人の珍しい夫婦喧嘩がようやくおさまり、再び見るに堪えない熱々ぶりを取り戻したかと思われた、その矢先。
ヘクセはまるで、コーエンがそこにいないかのように振舞っていた。
「ニヒト。おかしいの。わたくし、つい先日までにはそちらの棚に並んでいるのを、確かに見たのよ。羊皮紙に美しい文字が綴られていたわ。その端に麻の紐が通されて、ボトルに括りつけられていたの」
「ええ、私めも存じております」
細い眉を芸術的に寄せ、ニヒトへと振り返るヘクセ。
波打つ豊かな黒髪が光を弾き、官能的な赤い唇を尖らせている。
寄せてあげ、黒いレースに透ける、弾力のありそうな、白くまろやかな胸の谷間。コルセットでぎゅうぎゅうに絞ったウエストを起点に、上半身を軽くひねって、そこから下はクリノリンの入らない、すとんと流れ落ちる、しっとりと美しい深紅のビロードが床へと広がる。
その姿はいますぐ画家を呼び寄せたくなるものだった。
すぐさまこの妖艶でいて、悪戯で無垢な十代の少女のような表情を見せる、奇跡的に美しい妻の姿を、キャンバスの上、永遠に残してほしい。
目の前の妻の、他の誰も代わることのできない美しさを感じることで、目の前の妻の、非情な仕打ちから現実逃避するコーエン。
袖口に手をやり、黒曜石の嵌めこまれたカフスを意味もなく弄る。ぼんやり傾けた耳が、ヘクセとニヒトのやり取りを拾う。
「あら。それでは保管場所を変えたのかしら。この部屋にあるものすべて。ニヒト、あなたに任せているはずだもの。きっとわかるわね?」
「申し訳ございません、奥様。そちらのお品はすでに――」
「ない、なんて言わせないわ。だってわたくし、とても大事にしていたの。ニヒトは知っているわね?」
おっとりと頬に手を当て、ことさらゆったりとした口調でチクチクとやるヘクセに、ニヒトは少しの動揺も見せず、いつも通りトロリとした琥珀色の瞳を細めた。
ニヒトの美しく蠱惑的な微笑に、ヘクセもまた優美に――というには、妖艶さが勝る笑みで返した。
そんな二人のやり取りに、ゾッとしているのはコーエンである。
なぜならば。
ヘクセがこうもあからさまな嫌味をぶつけているのは、会話の相手たるニヒトではないからだ。
コーエンはとうとう両手で顔を覆った。惨めにうめき声をあげて。
「わかったよ! 俺だよ! エーベルの土産のグラッパ! 犯人は俺!」
もう降参。
白旗を上げるコーエンに、ヘクセはたった今その存在に気がついた、というように、ゆっくりと目を開いていく。
それからついに、まぁ、驚いた、といった、わざとらしいまんまる目玉になった。
指と指の間から、ヘクセのその様子を注視していたコーエンは肝が一層冷える。
あ、これ、ヤバいやつ。
しかして、コーエンの直感は当たっていた。
「あら。コーエン。わたくしの最愛の夫は、何かオイタでもなさったのかしら。ねえ、ニヒト、あなた知っていて?」
「私めは悪魔ですから。控え目に申し上げましても、人間の犯す程度の、おおよその悪事につきましは通じていると自負しておりますが、殿下が奥様を悲しませるようなことは、はてさて。殿下が奥様に最上の愛を捧げていらっしゃることは、恐れながら私めも存じております」
「ええ、ええ。そうよね。わたくしもコーエンがわたくしを大事に想ってくださっていることは知っていてよ。そうよね、コーエンがわたくしを悲しませることなんて、あるはずがないのだわ」
そこでヘクセは、聖母のような、慈悲深く美しい面持ちでコーエンに微笑んだ。
「わたくし、信じておりますわ。愛しいあなた」
コーエンは両手をあげた。
バンザイ! お手上げ! 為す術なし!
白旗をあげたにも関わらず、まだ責められている。
もう打つ手はない。
眉間にシワを刻みつつ、顎を前に突き出して顔を斜めに傾ぎ、胡散臭いくらいに白い歯をキラリと見せつけた、弱りきったようでいて、イタズラっぽい笑顔。
母性本能をくすぐる、とご婦人ご令嬢方、また城内のメイド達から好評の、第二王子コーエンの、人懐っこさ。
これを披露されてしまえば、ヘクセは眉尻を下げ、息を吐き出すしかなかった。
抗えない。
なぜならヘクセは、夫であるコーエンの魅力に、誰よりも夢中なのだから。
取り付く島もない、頑強な砦をヘクセが崩したと見て取ったコーエン。
ゆっくりと腕を下ろし、ヘクセの白く細い指先を手に取る。そこに口づけを落とすと、おずおずとヘクセの顔色を伺う。
「エーベルからもらったグラッパ。あれは他にやれってニヒトに命じた。だから、ここにはもうねぇんだ」
「あら、まぁ。そんなこと。存じておりますわ」
「じゃあ、ヘクセはいったい何を……?」
ヘクセの指先を軽く握ったまま、おそるおそる見上げるコーエンの表情が、まるで。
縋るような灰青色の瞳が、いじらしい様子できらめき、ヘクセを見つめるから。
ヘクセはキュッと口角を上げ、まぶたを下ろし、小さく首を振る。ヘクセの白い肌に、長いまつげの影が落ちて揺れた。
「わたくしはただ、一言。コーエンから一言欲しかっただけですわ」
コーエンは目を見開き、ハッとして息を短く吸った。
ゆっくりと花開くように目を開けたヘクセが、コーエンに微笑みかける。
「……謝って、なかったな」
「そうですわね」
ヘクセが頷くので、コーエンは下唇を軽く噛んで苦笑した。
手にしたままのヘクセの指先。
コーエンが小さく息を吸って、それから口を開く。
「ヘクセ。俺のワガママで、勝手に他にやって――」
そこまでコーエンが言葉を繋ぐと、ヘクセはコーエンに握られたままだった指先をそっと抜き取り、コーエンの唇に押し当てた。
ヘクセの指先がコーエンの吐息で湿る。
コーエンはパチパチと瞬きをした。
そのいつまでも少年のような、愛らしい反応に、ヘクセの口元が綻び、ふっと息が漏れ出る。
「わたくしね、欲しい言葉がございますの」
ゆっくりとコーエンの唇から離れていくヘクセの指先。
コーエンはヘクセの瞳を覗き込むと、その奥に、温かいというだけに留まらない、情欲の灯火を見つけた。
しっとりと艷やかなヘクセの髪。
後頭部から背中のあたりまで、豊かな髪の中に、指を差し込みながら撫でると、ジャスミンの香油が立ち上る。
コーエンはヘクセの腰を引き寄せ、「欲しい言葉は、なんだ?」と囁いた。
ヘクセが欲していた言葉。
きっと、最初は謝罪。ごめんなさい。悪かったよ。そういった類の。
では、今は?
ヘクセがコーエンの謝罪を遮ってまで、欲しい、と主張する言葉とは?
「ご存知でいらっしゃるでしょう?」
ヘクセがそう、挑発的に、艶やかに笑うから。
だからコーエンは、ヘクセの髪の中に差し込んだ手を、ヘクセの首に当てた。
ヘクセの鼻先にコーエンの鼻先が触れるか、触れないか。
ヘクセの瞬きと、コーエンの目尻のシワ。
互いのくちびるをかすめる、互いの吐息。
「ああ、わかってる」
コーエンが、そう応えたときには、ニヒトは既に部屋から姿を消していた。
あとは、コーエンの背に回されたヘクセの手と、ヘクセの髪を乱すコーエンの手が、その先を教えてくれる。
欲しい言葉は、ただ一つ。
いつも同じ。
欲しいのは、ただ一言。
愛している、と。
(第二章 了)
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