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第二章
第七話 嫉妬と不仲、不貞のいざない(4)
しおりを挟む王太子であるリヒャードは彼の国が落ち着くまで、エーベルを嫁がせることはないと言った。
確かにそれは守られるだろう。だがそれはエーベルが嫁いだ際に、エーベルの立場が保証されるという意味ではない。
他国に嫁ぐというのは、相手国と友好関係にあろうとも、そこで妃としての立場を築くのに、様々な苦労を味わうことになる。
他国の王家に連なることに、王族達との駆け引きは勿論、貴族や官僚、軍人、それから民からの尊敬と信頼も集めねばならない。余所者に警戒心を抱かぬ阿呆は、中枢においてそうそういない。
だのにだ。エーベルの嫁ぎ先となる国は、後世語り継がれるに違いない凄惨な事件が起きたばかり。これらを建て直すのに、一世で済むことではないだろう。
エーベルはその動乱の最中に身を投じるのだ。リヒャードの判断する平静とは、泰平と同意ではない。安寧であることなど、当分望めない国だ。
「双子の姉だ。俺だってエーベルがあの国の因果に晒されるのを指くわえて眺めるしかねぇのは、腸が煮えくり返る。だがもうあいつはこの国から出てくんだ。そこから先は、国家間の相互的利益と損害になってくる。やたらに手の打てねぇエーベルの境遇のせいで、ヘクセを苦しめるわけにゃいかねぇんだよ」
「そうですねぇ。確かにあの者も厄介な御仁ですし……」
コーエンはぴくりと片方の眉をあげたが、そのまま話を流した。
「……だからヘクセがなんと言おうが、俺はエーベルとヘクセを引き離す。ニヒトには俺の助力をしてほしいが……」
「それは了承いたしかねます。私めは奥様の命を至上としておりますから」
「…………だよな」
コーエンがグラスを傾け、甘く芳醇な香りを舌の上で味わう。しっかりと樽で熟成され、ヴァニラのような甘い風味に、シナモンのスパイシーさが鼻腔を過ぎていく。
「ああ。あとどうせだから言っておく」
「はい」
コーエンは立ったまま控えるニヒトに座るよう促し、また杯を交わすことを強要した。ヘクセと飲み交わしていたグラスを下げるニヒトに、コーエン自ら新たに用意されたグラスへと林檎酒を注ぐ。ニヒトは無言でそれを待った。
注ぎ終えると、コーエンは片手に持ったボトルをじいっと見つめる。
「おまえはわかってて言ったんだろうが、俺はヘクセに嫉妬なんざしてほしくねぇよ。あんな苦しいもの、どうしてヘクセに味あわせてぇと俺が思うんだ?」
テーブルにボトルを置くと、ニヒトの用意しただろうチーズが皿に盛りつけてあり、コーエンはそれらのうちハードタイプのものをピックに刺した。
「第一、ヘクセにはそういう感情はもう、焼き切れちまってる。嫉妬なんざする余白も残ってねえんだよ。そんなもんはニヒトが一番よく知ってるだろう。
「ヘクセは与えられる愛情の一滴を大事に抱えて、それだけで十分になっちまうやつだ。ほんの少しの温情をもらった記憶で、たいていのことを許しちまう。それなのに嫉妬心なんざ起こるはずもねぇんだ」
ナッツを口にしてからグラスを傾け、強い酒精を舌の上に転がす。
「……それなのに。この上でさらにヘクセがそういう思いに駆られるとなりゃ、それは並大抵のことじゃねぇし、今度こそヘクセが壊れちまう」
「殿下はそうそうとして、奥様が『壊れる』ことを危惧しておいでですね?」
からかうように声を上げるニヒトに、コーエンは諦念を浮かべた顔を向ける。
「ニヒト、おまえはヘクセが壊れようが構わねぇんだろ? どっちに転んでも、おまえは喜びそうだ」
「これはまた、ずいぶんな言われようで。てっきり殿下は私めを信用してくださっていると愚考していたのですが」
悲しそうに眉根を寄せるニヒトにコーエンは大きくため息をついた。
「そうだな。ニヒトのことは大事だが、俺はそういう意味じゃ、おまえを信用しちゃいねぇ」
コーエンはグラスに残った酒をぐいと飲み干す。ニヒトがボトルを手に取ろうとするのを目をやることで止めた。そしてそのまま目に強い力を込める。灰青色の瞳が、酒で濁りながらも剣呑に光る。
「ことあるごとに、ニヒトは俺とヘクセの間に横槍を入れるな? 波風立てて、不和を引き起こそうとしてやがる。気が付かなねぇとでも思ったか?」
コーエンがまだ、ヘクセとニヒトが体を重ね合っていると勘違いしていたとき。あれほどまでニヒトがコーエンに謝罪や苦言を重ねたのはなぜか。そのくせ、肉体関係が既にないことを弁明しなかったのはなぜか。
疑問に思ってはいたのだ。まるで『私めの方が奥様をよく存じております』とでも、言外に示唆されているようで。コーエンはだからこそ、二人を引き離すことに忍びなくて。
とろりと琥珀色の瞳を揺らし、軽薄な様子で弧を描いた口元。いつもと少しも変わらぬニヒトの様子に、コーエンは首を振った。
「ニヒトがそういうやつだっていうのは、ここで暮らすようになって、ようやく気が付いた。だがだからといっておまえを厭うわけじゃねぇし、大事な家族であることは変わらねぇ。それにおまえがヘクセを大事にしているのは間違いねぇ」
テーブルについていた肘を外し、コーエンは椅子に軽く背を凭れかけた。太腿に手を置くと、酒に酔い始めた手のひらが熱いことに気がつく。
立ち聞きしていたことに、ニヒトは気が付いていたはずだ。
「俺の命が続く限り、おまえは俺を試し続けるんだろ。構わねぇよ。上等だ。ヘクセの相手に俺を選んだおまえの目が確かだったと、死ぬ間際に証明してやる」
「さようにございますか」
うっとりと気怠げな熱を孕む琥珀色の瞳は、ニヒトの手のうちで揺れるグラスのカルヴァドスと同じ。
ゆらり、たぷり。
シャンデリアの燦燦たる光と、燭台に灯された柔らかな炎と。
「………………おまえは、本当に食えねぇやつだよ」
ニヒトはにっこりと微笑んだ。
だってニヒトは喰らわれる存在ではない。喰らうものだから。
ニヒトは悪魔だ。
ヘクセとコーエンが大切な主夫妻であっても、その本質は変わらない。色欲と嫉妬を操っては、夫婦の不和へと促し、不貞のいざないをする。
しかしその事実を、まだ目の前の主は知らない。知らずしてニヒトの本性に辿り着いたらしい。
ニヒトのうちから込み上げる力強い歓喜が、脈打たない体を巡り、まるで人間の血潮のように熱くなる。
酒に濁り始めた自意識の物憂げな眼差しで、コーエンはニヒトを見上げた。
「とにかく話は戻すが。エーベルに関して、俺は譲らねぇ。ヘクセとどうとでも策略でも練ればいい。俺をどう説得しようと二人で何をしようが好きにしろ。仕掛けてくるまで待ってやる。
「その代わり、ヘクセをそれまで宮から出すな。エーベルも入れるな。わかったな?」
「かしこまりました」
ニヒトが頷き慇懃に礼をするのを確認すると、コーエンは軽く湯を浴びると部屋の奥へと出て行った。
「酔っているからな。しばらくして帰ってねぇようなら、俺が死んでねぇか、確認しにこいよ」
軽口を叩くコーエンの背を見送ると、ニヒトはニンマリと笑った。
さて。この珍しい夫婦喧嘩の幕引きは、どう料理しようか。
不仲を導くのもよし。淫らな夢を誘うのもよし。
全てはただ、ヘクセとコーエンのために。ニヒトの愛する二人のために。
ニヒトは身につけたお仕着せに相応しいよう、芝居がかった素振りであえて手を使い、テーブルの上に残された皿を片付け始めた。
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