37 / 45
第二章
第七話 嫉妬と不仲、不貞のいざない(4)
しおりを挟む王太子であるリヒャードは彼の国が落ち着くまで、エーベルを嫁がせることはないと言った。
確かにそれは守られるだろう。だがそれはエーベルが嫁いだ際に、エーベルの立場が保証されるという意味ではない。
他国に嫁ぐというのは、相手国と友好関係にあろうとも、そこで妃としての立場を築くのに、様々な苦労を味わうことになる。
他国の王家に連なることに、王族達との駆け引きは勿論、貴族や官僚、軍人、それから民からの尊敬と信頼も集めねばならない。余所者に警戒心を抱かぬ阿呆は、中枢においてそうそういない。
だのにだ。エーベルの嫁ぎ先となる国は、後世語り継がれるに違いない凄惨な事件が起きたばかり。これらを建て直すのに、一世で済むことではないだろう。
エーベルはその動乱の最中に身を投じるのだ。リヒャードの判断する平静とは、泰平と同意ではない。安寧であることなど、当分望めない国だ。
「双子の姉だ。俺だってエーベルがあの国の因果に晒されるのを指くわえて眺めるしかねぇのは、腸が煮えくり返る。だがもうあいつはこの国から出てくんだ。そこから先は、国家間の相互的利益と損害になってくる。やたらに手の打てねぇエーベルの境遇のせいで、ヘクセを苦しめるわけにゃいかねぇんだよ」
「そうですねぇ。確かにあの者も厄介な御仁ですし……」
コーエンはぴくりと片方の眉をあげたが、そのまま話を流した。
「……だからヘクセがなんと言おうが、俺はエーベルとヘクセを引き離す。ニヒトには俺の助力をしてほしいが……」
「それは了承いたしかねます。私めは奥様の命を至上としておりますから」
「…………だよな」
コーエンがグラスを傾け、甘く芳醇な香りを舌の上で味わう。しっかりと樽で熟成され、ヴァニラのような甘い風味に、シナモンのスパイシーさが鼻腔を過ぎていく。
「ああ。あとどうせだから言っておく」
「はい」
コーエンは立ったまま控えるニヒトに座るよう促し、また杯を交わすことを強要した。ヘクセと飲み交わしていたグラスを下げるニヒトに、コーエン自ら新たに用意されたグラスへと林檎酒を注ぐ。ニヒトは無言でそれを待った。
注ぎ終えると、コーエンは片手に持ったボトルをじいっと見つめる。
「おまえはわかってて言ったんだろうが、俺はヘクセに嫉妬なんざしてほしくねぇよ。あんな苦しいもの、どうしてヘクセに味あわせてぇと俺が思うんだ?」
テーブルにボトルを置くと、ニヒトの用意しただろうチーズが皿に盛りつけてあり、コーエンはそれらのうちハードタイプのものをピックに刺した。
「第一、ヘクセにはそういう感情はもう、焼き切れちまってる。嫉妬なんざする余白も残ってねえんだよ。そんなもんはニヒトが一番よく知ってるだろう。
「ヘクセは与えられる愛情の一滴を大事に抱えて、それだけで十分になっちまうやつだ。ほんの少しの温情をもらった記憶で、たいていのことを許しちまう。それなのに嫉妬心なんざ起こるはずもねぇんだ」
ナッツを口にしてからグラスを傾け、強い酒精を舌の上に転がす。
「……それなのに。この上でさらにヘクセがそういう思いに駆られるとなりゃ、それは並大抵のことじゃねぇし、今度こそヘクセが壊れちまう」
「殿下はそうそうとして、奥様が『壊れる』ことを危惧しておいでですね?」
からかうように声を上げるニヒトに、コーエンは諦念を浮かべた顔を向ける。
「ニヒト、おまえはヘクセが壊れようが構わねぇんだろ? どっちに転んでも、おまえは喜びそうだ」
「これはまた、ずいぶんな言われようで。てっきり殿下は私めを信用してくださっていると愚考していたのですが」
悲しそうに眉根を寄せるニヒトにコーエンは大きくため息をついた。
「そうだな。ニヒトのことは大事だが、俺はそういう意味じゃ、おまえを信用しちゃいねぇ」
コーエンはグラスに残った酒をぐいと飲み干す。ニヒトがボトルを手に取ろうとするのを目をやることで止めた。そしてそのまま目に強い力を込める。灰青色の瞳が、酒で濁りながらも剣呑に光る。
「ことあるごとに、ニヒトは俺とヘクセの間に横槍を入れるな? 波風立てて、不和を引き起こそうとしてやがる。気が付かなねぇとでも思ったか?」
コーエンがまだ、ヘクセとニヒトが体を重ね合っていると勘違いしていたとき。あれほどまでニヒトがコーエンに謝罪や苦言を重ねたのはなぜか。そのくせ、肉体関係が既にないことを弁明しなかったのはなぜか。
疑問に思ってはいたのだ。まるで『私めの方が奥様をよく存じております』とでも、言外に示唆されているようで。コーエンはだからこそ、二人を引き離すことに忍びなくて。
とろりと琥珀色の瞳を揺らし、軽薄な様子で弧を描いた口元。いつもと少しも変わらぬニヒトの様子に、コーエンは首を振った。
「ニヒトがそういうやつだっていうのは、ここで暮らすようになって、ようやく気が付いた。だがだからといっておまえを厭うわけじゃねぇし、大事な家族であることは変わらねぇ。それにおまえがヘクセを大事にしているのは間違いねぇ」
テーブルについていた肘を外し、コーエンは椅子に軽く背を凭れかけた。太腿に手を置くと、酒に酔い始めた手のひらが熱いことに気がつく。
立ち聞きしていたことに、ニヒトは気が付いていたはずだ。
「俺の命が続く限り、おまえは俺を試し続けるんだろ。構わねぇよ。上等だ。ヘクセの相手に俺を選んだおまえの目が確かだったと、死ぬ間際に証明してやる」
「さようにございますか」
うっとりと気怠げな熱を孕む琥珀色の瞳は、ニヒトの手のうちで揺れるグラスのカルヴァドスと同じ。
ゆらり、たぷり。
シャンデリアの燦燦たる光と、燭台に灯された柔らかな炎と。
「………………おまえは、本当に食えねぇやつだよ」
ニヒトはにっこりと微笑んだ。
だってニヒトは喰らわれる存在ではない。喰らうものだから。
ニヒトは悪魔だ。
ヘクセとコーエンが大切な主夫妻であっても、その本質は変わらない。色欲と嫉妬を操っては、夫婦の不和へと促し、不貞のいざないをする。
しかしその事実を、まだ目の前の主は知らない。知らずしてニヒトの本性に辿り着いたらしい。
ニヒトのうちから込み上げる力強い歓喜が、脈打たない体を巡り、まるで人間の血潮のように熱くなる。
酒に濁り始めた自意識の物憂げな眼差しで、コーエンはニヒトを見上げた。
「とにかく話は戻すが。エーベルに関して、俺は譲らねぇ。ヘクセとどうとでも策略でも練ればいい。俺をどう説得しようと二人で何をしようが好きにしろ。仕掛けてくるまで待ってやる。
「その代わり、ヘクセをそれまで宮から出すな。エーベルも入れるな。わかったな?」
「かしこまりました」
ニヒトが頷き慇懃に礼をするのを確認すると、コーエンは軽く湯を浴びると部屋の奥へと出て行った。
「酔っているからな。しばらくして帰ってねぇようなら、俺が死んでねぇか、確認しにこいよ」
軽口を叩くコーエンの背を見送ると、ニヒトはニンマリと笑った。
さて。この珍しい夫婦喧嘩の幕引きは、どう料理しようか。
不仲を導くのもよし。淫らな夢を誘うのもよし。
全てはただ、ヘクセとコーエンのために。ニヒトの愛する二人のために。
ニヒトは身につけたお仕着せに相応しいよう、芝居がかった素振りであえて手を使い、テーブルの上に残された皿を片付け始めた。
0
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」
「恩? 私と君は初対面だったはず」
「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」
「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」
奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。
彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】公爵家の妾腹の子ですが、義母となった公爵夫人が優しすぎます!
ましゅぺちーの
恋愛
リデルはヴォルシュタイン王国の名門貴族ベルクォーツ公爵の血を引いている。
しかし彼女は正妻の子ではなく愛人の子だった。
父は自分に無関心で母は父の寵愛を失ったことで荒れていた。
そんな中、母が亡くなりリデルは父公爵に引き取られ本邸へと行くことになる
そこで出会ったのが父公爵の正妻であり、義母となった公爵夫人シルフィーラだった。
彼女は愛人の子だというのにリデルを冷遇することなく、母の愛というものを教えてくれた。
リデルは虐げられているシルフィーラを守り抜き、幸せにすることを決意する。
しかし本邸にはリデルの他にも父公爵の愛人の子がいて――?
「愛するお義母様を幸せにします!」
愛する義母を守るために奮闘するリデル。そうしているうちに腹違いの兄弟たちの、公爵の愛人だった実母の、そして父公爵の知られざる秘密が次々と明らかになって――!?
ヒロインが愛する義母のために強く逞しい女となり、結果的には皆に愛されるようになる物語です!
完結まで執筆済みです!
小説家になろう様にも投稿しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
悪役人生から逃れたいのに、ヒーローからの愛に阻まれています
廻り
恋愛
治療魔法師エルは、宮廷魔法師試験の際に前世の記憶が蘇る。
ここは小説の世界でエルは、ヒーローである冷徹皇帝の幼少期に彼を殺そうと目論む悪役。
その未来を回避するため、エルは夢だった宮廷魔法師を諦め、平民として慎ましく生活を送る。
そんなある日、エルの家の近くで大怪我を負った少年を助ける。
後でその少年が小説のヒーローであることに気がついたエルは、悪役として仕立てられないよう、彼を手厚く保護することに。
本当の家族のようにヒーローを可愛がっていたが、彼が成長するにつれて徐々に彼の家族愛が重く変化し――。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
〈完結〉姉と母の本当の思いを知った時、私達は父を捨てて旅に出ることを決めました。
江戸川ばた散歩
恋愛
「私」男爵令嬢ベリンダには三人のきょうだいがいる。だが母は年の離れた一番上の姉ローズにだけ冷たい。
幼いながらもそれに気付いていた私は、誕生日の晩、両親の言い争いを聞く。
しばらくして、ローズは誕生日によばれた菓子職人と駆け落ちしてしまう。
それから全寮制の学校に通うこともあり、家族はあまり集わなくなる。
母は離れで暮らす様になり、気鬱にもなる。
そしてローズが出ていった歳にベリンダがなった頃、突然ローズから手紙が来る。
そこにはベリンダがずっと持っていた疑問の答えがあった。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
【完結】「妹の身代わりに殺戮の王子に嫁がされた王女。離宮の庭で妖精とじゃがいもを育ててたら、殿下の溺愛が始まりました」
まほりろ
恋愛
国王の愛人の娘であるヒロインは、母親の死後、王宮内で放置されていた。
食事は一日に一回、カビたパンや腐った果物、生のじゃがいもなどが届くだけだった。
しかしヒロインはそれでもなんとか暮らしていた。
ヒロインの母親は妖精の村の出身で、彼女には妖精がついていたのだ。
その妖精はヒロインに引き継がれ、彼女に加護の力を与えてくれていた。
ある日、数年ぶりに国王に呼び出されたヒロインは、異母妹の代わりに殺戮の王子と二つ名のある隣国の王太子に嫁ぐことになり……。
※カクヨムにも投稿してます。カクヨム先行投稿。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します。
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
※2023年9月17日女性向けホットランキング1位まで上がりました。ありがとうございます。
※2023年9月20日恋愛ジャンル1位まで上がりました。ありがとうございます。
※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
彼女のことは許さない
まるまる⭐️
恋愛
「彼女のことは許さない」 それが義父様が遺した最期の言葉でした…。
トラマール侯爵家の寄り子貴族であるガーネット伯爵家の令嬢アリエルは、投資の失敗で多額の負債を負い没落寸前の侯爵家に嫁いだ。両親からは反対されたが、アリエルは初恋の人である侯爵家嫡男ウィリアムが自分を選んでくれた事が嬉しかったのだ。だがウィリアムは手広く事業を展開する伯爵家の財力と、病に伏す義父の世話をする無償の働き手が欲しかっただけだった。侯爵夫人とは名ばかりの日々。それでもアリエルはずっと義父の世話をし、侯爵家の持つ多額の負債を返済する為に奔走した。いつかウィリアムが本当に自分を愛してくれる日が来ると信じて。
それなのに……。
負債を返し終えると、夫はいとも簡単にアリエルを裏切り離縁を迫った。元婚約者バネッサとよりを戻したのだ。
最初は離縁を拒んだアリエルだったが、彼女のお腹に夫の子が宿っていると知った時、侯爵家を去る事を決める…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる