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第二章

第六話 嫉妬と不仲、不貞のいざない(3)

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「おかえりなさいませ」

「…………ニヒト。おまえ、俺がいるのをわかって、ヘクセに手を出そうとしたな?」

「さて。なんのことやら」


 ずかずかと苛立ちをあらわに足音を立て、コーエンはヘクセのすぐそばまで来ると、テーブルに頬をべったりとつけて寝息を立てるヘクセの横顔を覗き込む。
 すうすうと呑気な寝息をたてるも、眉間に皺を寄せている。コーエンはヘクセの滑らかな頬を撫で、額に口づけを落とすと、そっと膝裏と背に腕を回し抱き上げた。


「これはエーベルの寄越した酒だな」

「はい。南の半島での特産品だとか」

「知っている。俺も飲んだことがある。残りはおまえが飲むか、他のやつらに回せ」


 ニヒトは肩を竦ませる。


「そこまでされなくてもよろしいのでは?」


 ニヒトに背を向け、コーエンは寝台へとヘクセを運んだ。脚からゆっくりとおろし、柔らかな体を横たえさせる。額から顎にかけて斜めに被さった髪を手で梳いてやり、コーエンはもう一度瞼に口を寄せた。酒精の匂いと涙のしょっぱい味がする。
 小さく息をついて振り返ったコーエンは残された夕食の並ぶテーブルへと戻り、ニヒトが椅子を引いた。


「エーベルは駄目だ。他の夫人やら令嬢やらはまあ、王子妃として最低限付き合いもあるだろ。くだらねぇ中傷もあるだろうが、ニヒトが守ってくれんだろうから、そこは目を瞑る。女の戦場に俺が出張っていいことなんざねぇからな」

「それならばなおのこと、第一王女殿下と親しくするのは、奥様をお守りする上で心強いことではないのですか? 私めはしょせん奴隷あがりの側仕えに過ぎませんよ」

「何言ってやがる。おまえがその面で微笑みかけてやりゃあ、たいていのご婦人方は腰抜かすだろ。……いろんな意味で」


 渋面をつくって答えていたのを、コーエンは何かを思い出したかのように目を見開き、それからにやりと口の端を歪める。


「エーベルから聞いたぞ? おまえ過去に相当、怖がらせたらしいな? なんでここまでニヒトを避けるのか問い詰めたら、ようやく口を割ったが、怯えるのと感謝するのとで、よくわからねぇことになってやがった」


 そこで区切ると、コーエンは「そういえば」と話を切り替える。深く息を吸い、裏声を張り、妙に高い声色を作った。


「『遅くなったけど、あのときはアドバイスありがとう。おかげでうまくいっている。でも二度と同じ空間に居合わせたくないから顔を見せないで』と」


 どうやらエーベルの口調を真似ていたらしい。双子のくせにちっとも似ていなかったが。


「そう伝えろと言われた。一体何やらかしたんだ?」

「はて。なにかしましたでしょうか。第一王女殿下に」


 頑是がんぜない悪戯小僧のような顔つきで、わくわくと好奇を隠さないコーエンに、ニヒトは小首を傾げた。


「そうですねえ……。余計な口出しはいたしました。詩を綴るようにと」

「詩?」

「はい」


 コーエンは眉根を寄せて不思議そうに首をひねる。


「エーベルの詩っていやぁ、なんかこう、文学的センスが壊滅的なんだが……。詩だと?」

「はい。第一王女殿下の文通のお相手が詩を好むお方でしたので」

「それは余計にまずくないか? エーベルの詩だろ? あれはちょっと……いや、おもしれぇけど」

「しかしそれで順調なご様子ですし」

「まあ。そうだな」


 そこで納得できないながらも矛を収めたコーエンは、脱線した話を元に戻す。

「まあさ。あの無駄に自信過剰なエーベルですらそんなもんなんだ。ニヒトの脅迫があってそれ以上に不和をもちかけようなんざ、よっぽどの猛者しかいねぇよ」

「脅迫……。私め、そのように空恐ろしいことはいたしませんが」


 悲しそうに眉尻を下げるニヒトをコーエンは無視した。
 ニヒトの立ち居振る舞いや発言の裏に含ませる暗示など、一応は王族であるコーエンのそれより上回っていることなど、コーエンとてよく知っている。
 腹芸というより腹黒というべきか、とにかくニヒトの陰湿な誘導の手口といったら、悪魔的なのだ。
 コーエンが扉の前で立ち聞きしていた折も、ニヒトはヘクセを丸め込もうとしていた。それについてはあとで釘を刺さねばならない。


「そんな気概のあるやつなら、その先仕掛けようものなら徒労に過ぎねぇことくらい誰だってわかりそうなもんだ。その手の判断もできねぇはずがねぇよ。だいたい、ヘクセだってそうそうさえずり程度でしょげる女じゃねぇだろ」

「奥様は向けられる敵意にはお強いお方ですからね」

「そうだ。だが好意には弱い。すぐにほだされちまう。あの糞野郎の呪縛がいつまでも解けねぇのもそのせいだ。一瞬の気まぐれ程度の情けに、心底入れ込んじまう」


 ヘクセが父親である元公爵に向ける思慕については、元公爵邸に勤めていた古参の使用人から聞き及んでいる。
 元使用人達は口々にコーエンに対し、本来敬ってしかるべき嫡子であったヘクセを匿うこともしなかったことについて、慈悲を乞うばかりだったが、中には悔恨の意を口にし、ヘクセの幸福を願いコーエンに託す者も、僅かながら居た。
 その者らが口にするには、たった一度だけ元公爵が父親らしくヘクセを領地の景観の美しい公園に連れていき、親子らしい時間を過ごしたことがあるのだという。そしてヘクセは元公爵に何かを求めることはなかったが、視界に入る度に元公爵を目で追っていたと。

 コーエンは苦り切った様子で嘆息した。テーブルの上にあった夕食の残りは、いつのまにか綺麗に片付けられ、コーエンはニヒトに食後酒を用意させる。「その酒はやめてくれ。今は気分がわりぃ」とグラッパの波打つボトルを指して言うので、ニヒトは棚に手を伸ばしてカルヴァドスを取り出した。


「ありがとな」


  グラスをニヒトに向けて揺らし、礼を言う。黄金色の液体がたぷんと揺らいだ。


「エーベルは駄目だ。あれは気まぐれじゃねぇ。あいつは裏表なくヘクセによくしようなんて思ってやがる。偽善を為そうなんて思っちゃいねぇ。そういう性分なんだ。だから質が悪い。エーベルに入れ込んだら、ボロボロになるのはヘクセの方だ。エーベルの嫁ぎ先は…………わかってるだろ?」


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