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第二章

第五話 嫉妬と不仲、不貞のいざない(2)

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 コーエンは冷ややかな声でニヒトに告げた。


「これからしばらくヘクセの外出を禁ずる。この宮にも外部の人間を入れるな」

「各施設への慰問はいかがなさいましょう?」

「王子妃としての公務なら、俺がかけあって延期させる。個人の慰問はそもそも必要ねえ。前からやめるように言ってあるはずだ。何があろうと取り次ぐな」

「かしこまりました」


 そのままコーエンはヘクセの手を取っておざなりに口を寄せると、「こうするのが流儀なんだろ?」と言い捨て、踵を返して部屋を出て行った。
 この広い離宮で、この部屋しか二人の居場所はないというのに。頭を冷やしたのなら、どうせすぐに戻ってくるだろう。
 ヘクセは月の障りにおいては酔いがまわりやすいから、と控えていた酒精を口にすることに決めた。


「ニヒト。少し酔いたい気分なの。付き合ってくれる?」

「ええ。もちろん」


 ニヒトは恍惚とした笑みを浮かべて応じる。「さて、何にいたしましょうか」と言うので、ヘクセは「グラッパがいいわ。エーベル様からいただいたでしょう。南の半島にある国へ外交に赴かれた際のお土産でいただいた、あのお酒よ」と手を叩いて無邪気に返す。


「トレスターブラントによく似ていますよ。奥様のご嗜好には少々、力強いように思いますが、よろしいので?」

「ええ。構わないわ。だってわたくし、エーベル様からいただいたお酒を飲みたいの。ああ! 以前人にやってしまったフリージアの香水もあればよかったのに!」

「それはそれは。 だいぶお怒りですね?」


 ニヒトは可笑しそうに笑い、タクトを振るように優雅に手を振ると、整然と並べられたボトルのうち、一つを宙に浮かせて引き寄せた。


「当然よ! だってコーエンったらいまだにわたくしのこと、信じていらっしゃらない! こんなの、おかしいったらないわ!」


 まだ一口も酒精を含んでいないのに、早々にくだを巻き始めたヘクセへと、ニヒトは無色透明の液体を注いだグラスを差し出す。
 それからコーエンの座っていた椅子をヘクセの傍に寄せ腰掛けると、自分のグラスにもグラッパを注いだ。異国の流麗な文字が綴られた羊皮紙の端に、麻の紐が結び付けられ、それがボトルにくくりつけられている。


「それでは、悪戯でもいたしませんか?」


 ヘクセは唇を湿らせる程度にグラスを傾けた。
 さきほど傷つけた唇がぴりっと染みるが、力強いアロマのあとに、華やかなブーケが遅れてやってくる。確かに強い酒だが、好きな味だ。意外にも繊細な匂いに多幸感が押し寄せる。


「イタズラ? コーエンに?」

「はい。奥様も殿下が第一王女殿下に嫉妬なされていることはおわかりでしょう? ですから、奥様も殿下に適当な女人をまとわりつかせて、そのうちどなたかに嫉妬なさればよろしいんですよ。そうなされば殿下は大喜びなさるはずです」


 ヘクセは眉を寄せる。


「そんなこと無理だわ。だってコーエンがわたくしとニヒトを愛しているのはわかっているもの。コーエンがどれほどよそで他の方に愛嬌を振りまかれようと、わたくしちっとも気にならない。
「コーエンが女性からそういう目を向けられようになさっているのは、王太子殿下のなさりやすいよう補佐の意味もあるのでしょうし、これ以上その手のことで煩わせるのもお気の毒というものよ。何より王子妃としてわたくしがそれについて口出しするわけにはいかないもの」


 そこまで言い切ると、ヘクセはまたもグラスを傾けた。首を振ると、くらりふわりと心地のよい浮遊感に包まれる。


「でもそうね。それこそコーエンが一夜限りの褥ではなく、どなたかに心を傾けることがあるのなら……」


 そこまで言うとヘクセがはっと目を見開いた。


「まさか。ニヒト、あなたコーエンに手を出すつもりなの?」


 ヘクセの目に憤りの炎が燃える。


「だめ、だめよ! 他の誰がコーエンに手を出したって、わたくし気にならないけれど、ニヒトだけはダメ! 許さないわ!」


 ニヒトがうっとりと琥珀色の瞳を揺らし、ヘクセの黒い艶やかな髪を一房手に取った。


「それは殿下と私め、どちらに嫉妬なされているのでしょう? 殿下のお心が私めにより惹かれるかもしれないこと? 私めの唯一がお嬢様だけではなく、殿下にも捧げられること?」


 ヘクセはげんなりとした顔を隠さない。あまりにもわかりきっている。


「そんなの、コーエンがニヒトにより一層依存してしまうこと、に決まっているでしょう? だってニヒトの執着はわたくしにあるのだもの。ニヒトがコーエンを気に入っているのは知っているけど、あなたはわたくしが望めば、容易くコーエンを裏切ってみせるわ。そうでしょう?」

「さすが奥様。よくわかりで」


 ニヒトは手にした髪に口づけすると掴んでいた一房から手を離す。ヘクセの黒髪はシャンデリアの光をときたま受けて艶を放ち、さらさらとこぼれ落ちていった。


「だからこそ、わたくしはコーエンの心をニヒトにこれ以上入れ込ませたくないの。わたくしがコーエンを裏切ることなんてないけれど、いつの日かコーエンが気がついてしまったらどうするの? ニヒトが信用ならないってこと。わたくし、コーエンが傷つくのは嫌だわ……」

「それらをすべて解決する、悪戯をしかければよろしいのですよ」

「どういうこと?」


 怪訝そうにニヒトを眇めるヘクセ。
 ニヒトはグラスを手に取り、ほのかに香るぶどうの匂いを楽しみながら舌を濡らす。
 木樽で熟成させたものもいいが、若いグラッパの尖った味わいもいい。まだ青い肉体を摘み、悦楽を与えながら散らす愉しみに似ている。


「私めが殿下を誘えば、奥様はそれに嫉妬なさるでしょう」

「ええ。おそらくね」

「そのお姿を殿下がお認めになれば、殿下の不機嫌もしばらく治りましょう。その上、私めが信用ならないと殿下もお気づきになりますよ」

「なぜ?」

「殿下の最愛の奥様の目の前で、奥様の子飼いの私めが殿下を誘惑する。この国の倫理観に照らし合わせれば、それは許されざることでは?」

「壊れた倫理観と貞操観念のわたくしには納得のいかないことですけれどね」

「それはまたどうして」

「なぜニヒトだけがコーエンに疎まれる役回りをしなくてはいけないの? そういうことなら、わたくしだって泥をかぶるわ。わたくしがけしかけたことにすればよろしいのよ」

「それでは、奥様が嫉妬するお姿を殿下にお見せできませんが……」


 困ったように眉尻を下げるニヒトの目の前で、ヘクセがぐいっとグラスを煽った。度数の高い酒をこれほどまで勢いよく煽るなど、既に酔いが回っているのだろう。


「だってわたくしとニヒトは二人でコーエンに嫁いだの。それにニヒトがわたくしの最善の嫁ぎ先を決めてくれた。そしてその当のコーエンはわたくしとニヒト二人を同時に受け入れたんだわ。だから本当はニヒトとてコーエンの妻でもあるのよ。あなたがわたくしを慮って控えてくれているだけで。
「だからとても嫌だけれど、わたくしは妻としてニヒトをコーエンに薦めなくてはいけないわ。ええ、本当に嫌だわ。もしコーエンの心がニヒトにこれ以上傾いてしまえば、わたくし、ニヒトに何をしでかすかわからないわ。いえ、何をさせるか、かしら。
「わたくし、やっぱり愚かで浅ましいままなのね。悪魔に縋って、神への信仰を捨て去った愚かで醜い女なのよ……」


 そのままヘクセはゆっくりとテーブルに伏した。
 ニヒトは静かに立ち上がり、ヘクセの背へと手を伸ばす。そこで扉が開かれ、ニヒトは微笑みを浮かべて振り返った。
 苦虫を噛みつぶしたような表情をしたコーエンが仁王立ちしている。


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