【完結】好色王子の悪巧みは魔女とともに

空原海

文字の大きさ
上 下
22 / 45
外伝 そして令嬢は悪魔の戯れに堕ちた

第八話 愛するエリーザベト

しおりを挟む



 ああ。どうして。
 それだけが頭の中で何度も何度も繰り返し。
 けれど目の前のこのおぞましい光景から逃れようと意識を飛ばそうとしたところで、何も解決するはずもなく、最も柔く大事な部分、魂が穢されようとしている。


「ああ……! ああ……! 私のリーゼが戻ってきた……! 待っていた、この日を待っていたよ、リーゼ……」


 恍惚とした狂人の目。濁ったオリーブの瞳。父であるはずの男の視線が身体中を舐めるように這う。
 きつく締めあげていたはずのレースアップは解かれて緩み、胸元は大きくはだけ、ドレスも腰のあたりから切り裂かれている。
 シュミーズとドロワーズの生成り色と肌色の足。

 父の生ぬるく湿った吐息が頬にかかる。
 たっぷりとした口髭が目尻を掠める。亜麻色の頭髪と同じ色の髭は想像より柔らかかった。

 幼子の頃、一度抱き上げてくれたときは、「おひげがチクチクして痛い」と不満を口にした記憶がある。
 思い返してみれば、ずいぶん怖いもの知らずだ。
 しかしあのとき父公爵は、いつものような冷たく無感情なガラス玉の目ではなく、なぜか温かな光を宿した目を細め、まるで慈しむかのように頬を撫でた。
 そしてあのときの父公爵の言葉。


「早く大きくなっておくれ」


 そう言った。まるで子を慈しむ父親のような台詞。



 それはこういうことだったのか。


 わからない。何が痛いのかも、苦しいのかも。はあはあと不快な父公爵の熱い呼気が、べっとりとしたこの甘ったるい匂いが。

 口腔内の錆びた鉄の味。
 大きな手でぶたれた頬も。鞭うたれた背も。ドレスを切り裂くときにかすめたナイフの刃先が触れたくるぶしも。熱かったはずなのに、今は痛くない。
 どこか奇妙に醒めた目で自分を俯瞰しているよう。
 魂だけは穢されぬよう、見下ろすわたくしの目からは大粒の涙があとからあとからこぼれ落ちている。

 何が痛いのだろう。何が悲しいのだろう。何が怖いのだろう。

 薄っすらとヴェールのかかった意識で、働かない頭をゆっくりと動かす。
 足元に石灰で描かれた魔法円。チェストの上には開かれた黒書。銀皿の上には黒いべったりとした液体のこびりついた臓物。床に投げ出されたハシバミの杖。
 それから、術者を慕う生きた人間。

 ああ、父公爵は悪魔を召喚しようとしているのだな、とわかった。おかしなことだ。自称悪魔ならいつでも屋敷にいたのに。やはり自称ではなく本物の悪魔でないといけないらしい。


「…………お父様……」


 ばしんっ。

 額から頬にかけて、強くぶたれる。くらくらとして立っていられない。視界が真っ赤に染まった。
 ぐいと腕を引っ張り上げられ、背中に腕を回される。この匂い。命あるものが腐ったような、べとつく、この匂い。
 父公爵の濡れたくちびるが滴る血と涙に触れる。


「お父様ではないだろう? リーゼ。私は君の夫なのだから」


 リーゼ。エリーザベト。わたくしの生みの母。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。

さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。 忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。 「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」 気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、 「信じられない!離縁よ!離縁!」 深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。 結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?

愛されない花嫁はいなくなりました。

豆狸
恋愛
私には以前の記憶がありません。 侍女のジータと川遊びに行ったとき、はしゃぎ過ぎて船から落ちてしまい、水に流されているうちに岩で頭を打って記憶を失ってしまったのです。 ……間抜け過ぎて自分が恥ずかしいです。

あなたの瞳に映る花火 〜異世界恋愛短編集〜

恋愛
中世ヨーロッパ風の架空の国で起こるヒストリカルラブロマンス。恋愛以外のジャンルもあります。 ほのぼの系、婚約破棄、姉妹格差、ワガママ義妹、職業ものなど、様々な物語を取り揃えております。 各作品繋がりがあったりします。 時系列はバラバラです。 小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。 表紙は結之志希様(@yuino_novel)からいただきました。

捨てられた妻は悪魔と旅立ちます。

豆狸
恋愛
いっそ……いっそこんな風に私を想う言葉を口にしないでくれたなら、はっきりとペルブラン様のほうを選んでくれたなら捨て去ることが出来るのに、全身に絡みついた鎖のような私の恋心を。

【完結】悪役令嬢だったみたいなので婚約から回避してみた

アリエール
恋愛
春風に彩られた王国で、名門貴族ロゼリア家の娘ナタリアは、ある日見た悪夢によって人生が一変する。夢の中、彼女は「悪役令嬢」として婚約を破棄され、王国から追放される未来を目撃する。それを避けるため、彼女は最愛の王太子アレクサンダーから距離を置き、自らを守ろうとするが、彼の深い愛と執着が彼女の運命を変えていく。

政略結婚だからと諦めていましたが、離縁を決めさせていただきました

あおくん
恋愛
父が決めた結婚。 顔を会わせたこともない相手との結婚を言い渡された私は、反論することもせず政略結婚を受け入れた。 これから私の家となるディオダ侯爵で働く使用人たちとの関係も良好で、旦那様となる義両親ともいい関係を築けた私は今後上手くいくことを悟った。 だが婚姻後、初めての初夜で旦那様から言い渡されたのは「白い結婚」だった。 政略結婚だから最悪愛を求めることは考えてはいなかったけれど、旦那様がそのつもりなら私にも考えがあります。 どうか最後まで、その強気な態度を変えることがないことを、祈っておりますわ。 ※いつものゆるふわ設定です。拙い文章がちりばめられています。 最後はハッピーエンドで終えます。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

鈍感令嬢は分からない

yukiya
恋愛
 彼が好きな人と結婚したいようだから、私から別れを切り出したのに…どうしてこうなったんだっけ?

処理中です...