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第一章

第十一話 雪解け

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 王太子応接室にて、コーエンはきょうだいら、兄王子、姉王女、弟王子の糾弾に囲まれていた。
 へらっと笑って返すも、そんなコーエンをエーベルが睨みつけた。誤魔化されてはくれないらしい。

「ねえ、コーエン。素直になりなよ。ちゃんとヘクセと向き合ってさ」

 あんなに全てを分かち合っていたはずの双子の片割れ。その言葉が知ったかぶりでその顔がしたり顔に見えてしまうのは、たもとを別れたからなのか、それともコーエンが生来異常だったからなのか。

「そうですよ。コーエン兄上。僕はアーニャが従弟のブラントやアデルと親しく会話しているだけでも腹が立ちますよ。それがその、もっと深い仲だなんて。兄上はそれでよろしいのですか?」

 愛され健全に育った、真っすぐな弟が眩しい。コーエンとて捻じくれるような酷い生育環境にあったわけではなく、第二王子という身分も愛を与えてくれた兄も姉も、何もかも恵まれていたはずだった。

「お前が選ぶ道を否定はしない。だが与えるばかりではなく、受け取ることも覚えてみろ。そこに幸福を感じてみろ」

 ああ。兄でさえ。賢く、強く、真っすぐで。優しいが非情にもなれる、尊敬すべき兄。兄の目から見たコーエンはまるで『幸福な王子』だ。そうではないのに。自己犠牲なんて欠片もないのだ。



「仕方ねえなあ。みんな俺のこと大好きなんだから! ありがとさん! だけどよ、俺、今すげえ幸せなんだよ」
「……でも、ヘクセとはちゃんと話し合いなさいよ。あの子はコーエンと向き合いたいって思ってるわよ」

 さすがにコーエンの嘘くさい笑顔くらい見抜くエーベルはジットリとした目つきで睨んでくる。コーエンと同じ灰青色の瞳。
 だけどヘクセの意をエーベルに代弁されることの不愉快な感覚がざらざらと胸を削っていく。ヘクセを理解しているのはコーエンで、エーベルではない。どれほどヘクセとエーベルが親しくなろうが、ヘクセはコーエンの伴侶で家族だ。エーベルは所詮小姑でヘクセの人生を通りすがっていくだけの友人に過ぎない。

「うーん。向かい合うも何も。毎晩たっぷり愛し合ってんだけどなあ」
「そういうことじゃないわよ!」
「コーエン兄上! ですから露骨な表現はお控えくださいと!」

 生真面目で純朴な弟バルドゥールは兄弟一美しい端正な顔を真っ赤に染め上げ、歪めて叫んでいる。

 この四人きょうだいの会合は当初リヒャードが持ち掛けたものだった。
 珍しく公務も他の予定も何もない、という日がリヒャード、エーベル、コーエンの三人被った。そこで愛妻の第二子懐妊で寂しい毎日を送っているリヒャードが、エーベルとコーエンに持ち掛けたのだ。チェスをしないかと。今思えば、これはリヒャードが謀ったのだろう。たまたまきょうだい三人公務もその他予定もないなどと、偶然にしても出来すぎだ。
 とはいえバルドゥールが参戦してくるとは、さすがに思わなかった。バルドゥールには長引いている閨講義があったから。長引いているといっても、バルドゥールが積極的に閨講義に挑んでいるわけではなく、その逆で閨講義から逃げ回っているからこそ、長引いているのだ。


「ははは。まあいいじゃねえか。っていうより、なんでそんなに俺達の夫婦生活が気になるんだ? なになに? うちの国って王子王女揃って出歯亀趣味なのかよぉ。うわあ。すげえ国だなあ」

 様子を見守っていたリヒャードが嘆息する。

「……お前が危ういからだ。コーエン。皆お前を心配しているだけだ」
「そっかー。心配かけて悪いなあ」
「心にも思っていないだろう」
「わかるぅ?」

 へらっと笑い返すと、リヒャードは疲れたように額に手を当てる。だがすぐにその手を外し、軽く首を振った。

「まあ、お前が納得しているのなら、それでよい。私が最も懸念していたことはお前がお前自身を押し殺すことだ。そうでないのならば、私は何も言わん」

 薄っすらと笑みを浮かべたリヒャードに目を丸くする。確かにエーベルの婚約が決まった頃、悟られているかもしれないとは思った。が、今に至るまで心配されていたとは。
 コーエンはふにゃりと笑った。

「大丈夫。兄貴が心配することはなんもねぇよ。ちゃんと俺は幸せだ」

 リヒャードは琥珀色の瞳でじっとコーエンの目を見ると頷いた。そしてコーエンに背を向け、未だ納得のいっていない素振りのエーベルを宥めにかかる。
 バルドゥールは不思議なものを見るような目つきでコーエンを見ている。きっとコーエンの幸福というものが、理解できないのだろう。強がりか欺瞞か。おそらくそんなところ。

 コーエンは今が幸せなのだ。誰に異常だと言われようと、それは揺るがない。
 ヘクセとニヒトがいて。ひたすら甘やかにヘクセと愛し合い、その一方でヘクセとニヒトが互いの傷を嘗め合って。それからヘクセがコーエンに縋って悔い、ニヒトがコーエンに苦言を呈して。コーエンがそれらを宥める。
 離宮に集う庇護すべき者達がいて、彼らを家族と呼び、コーエンとヘクセとニヒトが子供達を愛し守り、慈しむ。
 無償の愛ではない。ただコーエンがそうしたいというだけ。傲慢で自分本位で醜悪な、偽善ですらないもの。それにドロドロに溺れて浸って、でもそれで皆が幸せだと言う。偽善でも欺瞞でもいいじゃないか。色欲の塔でただ幸福に暮らしているだけなのだ。
 常識という国でなく、色欲の塔という国で暮らしているだけ。コーエンの作り上げた小さな小さな国。楽園。それが色欲の塔なのだから、やはりあそこにはコーエンの許す者以外招き入れたくはない。正常だとか常識だとかいう優しさから振るわれる正義の暴力で塗り替えられたくない。

 あの離宮を、
 たとえ兄や姉や弟であっても。



「さて、帰るかあ」

 ぐん、と腕を伸ばして立ち上がると、不満顔の姉エーベルと心配そうにコーエンを伺う弟バルドゥールと、普段と何一つ変わらない威厳に満ちた兄リヒャードが一斉にコーエンを見た。視線が一度に集まるので、コーエンは苦笑する。

「なんだよ。皆。じろじろ俺のこと見ちゃって。そんなに見惚れちゃうほど俺っていい男かあ?」

 エーベルは目を吊り上げて、ずいっとコーエンに迫る。以前はこの隙間ないほどの距離が当然だった片割れ。今ではどこか不自然に感じてしまう。あれほど依存していたのに、薄情なものだ。

「あんたはあたしのことお節介だって、鬱陶しく思っているんでしょうけど! でもね!」

 エーベルが子供の頃のような、泣き出す寸前のように顔をクシャクシャに歪める。はっと息を呑むと、エーベルがコーエンの胸を強く叩いた。ドンと胸を打ったのは、既に分厚くなったコーエンの体をよろめかせることもできない、女の弱い力に過ぎなかったけれど、決壊した涙がぼろぼろと頬を伝うのを見て、刃を長らく研いでいない重い鉈を振るわれたように痛かった。

「あんたは生まれた時からずっとあたしの片割れなんだから! あんたがあたしを拒絶したって、そんなのは知らない! あんたの思う通り拒絶されてなんかやらない! 一生あたしはコーエンの双子の姉なの!」

 どんどん。どんどんどん。
 めちゃくちゃなリズムで胸を打ってくる。コーエンの胸は打楽器ではないのに。

「確かにあたしにはわかんないよ。コーエンがこれまでどれだけ嫌なものを『見て』どれだけ傷ついて、真っ直ぐだったものが歪んで、見る世界が変わっちゃったのか。あたしは知らない。コーエンとヘクセの事情なんてものも、あたしにはわかんないよ。わかんないけど、でもさあ、心配くらいしたっていいじゃん!」

 きっとコーエンを睨めあげるエーベルの灰青色の瞳はコーエンと同じ色。涙に濡れてはいるけれど、揺れはしない真っ直ぐで強くて優しい姉の目。幼い頃、幾度となく縋り、助けてもらった。『見えて』しまうことの恐怖を、この姉がいなかったら、きっととても耐えられなかった。

「あたしのこと、お節介の邪魔者にしか見えないんでしょ? それでもいいよ。それでもいいから、ちゃんとヘクセと話して。あの子はコーエンに遠慮して怖がって怯えてる。コーエンがヘクセを『見ない』から。コーエンが独り善がりの幸せに浸ってるから。ちゃんとヘクセを『見て』。現実を見なさい! 逃げたって、何も変わらないんだから!」

 やっぱり、お節介の邪魔者だ。
 それ以外になんだというのだろう。

 うわあーん、と大声で泣き出したエーベルはもう二十三歳。
 薹が立って国内貴族ではもはや嫁の貰い手もないくらい、いい年をした淑女のはずなのに、鼻水も涙も豪快に撒き散らして、これでは本当に婚約者である年下の王太子の元へ嫁げないかもしれない。
 コーエンからゆっくりとエーベルを引き離したリヒャードは、エーベルの肩を持ってぐるりと方向転換させると、弟バルドゥールに押し付けた。
 バルドゥールは「えっ? 僕ですか?」と慌ててえぐえぐとしゃくりあげるエーベルの背をぎこちなく撫でる。

「……姉上って、こんな風に泣かれるのですね……」

 驚きつつも、慈しむような眼差しで姉の背を撫でるバルドゥールはやはりコーエンとは違い、真っすぐで優しい真っ当に育った王子だ。
 日の光がよく似合うバルドゥール。
 父国王と母王妃が、贖罪にも似た愛を注ぎ、一方でリヒャードやエーベルにコーエンが、両親への反発とばかりに、猫可愛がりして甘やかした。それらを捻くれることなく受け取った弟。眩しい弟。

 二人の姿をぼんやりと眺めていると、すぐそばにリヒャードが立つ気配がした。見上げると兄リヒャードがニヤリと不敵に片方の口の端を歪めている。

「どうだ。さすがのお前も、少しは離宮の者以外のことも、見てみる気になったのではないか?」
「……そーいうのはさあ~。こんな回りくどく言わなくってもよくねえ?」

 リヒャードはふんと鼻を鳴らした。

「何を言う。どれほど私がお前に働きかけたか。お前が私のことを端的に過ぎると評すから、ならばこうしてじっくりわからせてやるのみだ」
「結局兄貴の言葉は端的過ぎたじゃねえか! おかげでこの様だ!」
「なに。私で駄目ならばエーベルに任せるしかあるまい」
「ひと使いが荒い! エーベル泣いちゃったじゃねえかよぉおおお!」
「それはお前が泣かせたんだ。私のせいではない」
「兄貴の計画通りのくせにぃいいいいいい!」

 すまし顔のリヒャードにつっかかっていたコーエンだが、後ろから「うるさい!お兄様のせいなわけないでしょ!自分の殻に閉じ籠って話を聞かないコーエンが全部悪いの!」と怒鳴り声と、鼻水をかんで丸められたハンカチが飛んできた。
 リヒャードはちらりとエーベルを見てから、息巻くコーエンに目を眇める。

「……だそうだぞ?」
「うがぁあああああああ! 誰も! 俺の! 味方が! いない!」

 するとリヒャードはしれっと答えた。

「お前の味方は離宮にいるだろう」

 ソウデスネ。



 コーエンはどこか見たこともない桃源郷へと魂を飛ばした。夢の桃源郷。コーエンが離宮で作り上げようとしていたもの。夢は遥か彼方。ああ麗しの桃源郷。ああ。とても―――……。





 とても、ヘクセに会いたい。


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